この度の芥川賞受賞作が何かと話題になっているのは、不機嫌眼鏡こと田中慎弥氏と都知事の場外バトル(もちろんこれは話題を煽ったマスコミの過剰演出)が功を奏したためもあるけれど、もう一人の地味で知的な円城塔氏の作品の分からなさがあるインパクトを持っているためだろう。
その「道化師の蝶」に関連して文芸批評家・市川真人氏が2月8日付け毎日新聞夕刊に寄稿している。
いわく、「一般に信じられている『小説』のイメージとは少なからず違い、わかりやすく要約すること自体を拒絶する同作は、『読むことのできないものについて考える』『理解できないことについて思考する』という、“体験”そのものであるような小説である」とのことだ。
さらに市川氏は「芥川・直木賞が社会的影響を持つのは、「興味はあるが普段は読む機会や時間のない」ひとたちが、限られた余暇のなかで年に2回、小説に触れる契機として両賞を信じてくれているからである。そこに『読めない小説』を届けることは、彼らに『自分たちはもう“現代”の文学などわからぬ』と感じさせてしまう危険を伴わずにはいまい」と言う。
この文章を読みながら、私は思わず演劇や舞台芸術におけるフェスティバルの役割など、さまざまなことを連想してしまった・・・・・・。
あるフェスティバルは海外の作品も含め、極めて先鋭的な、既成概念を覆すような作品作りによって新たな認識の世界を観客に提示し、体験させることを目的としている。
しかしながら、既成概念を超えているということは、既成の価値観や演劇観でしか舞台を観ることのできない、あるいは観ようとしない人々にとって、それらの作品は自分たちの概念を否定する極めて不愉快な、あるいは解らない、観るに値しないものとしか映らないだろう。
さらに言えば、初めて演劇なるものを観るために「劇場」に足を運んだウブな観客にとっては、それこそ「自分たちにはもう“演劇”などわからない」と感じさせてしまうことにもなりかねないのである。
もちろんそんなことを本気で心配しているわけではない。私たちは観客の目というものを信頼する必要があるのだろう。
たとえ1000人の人がそっぽを向いたとしても、1人の観客がその作品の力を体験し、深く感得したとすれば、それはやがて世界を変える力を持つかも知れないからだ。
何より、真摯に作品に向き合おうとするほどの観客、読者であるならば、たとえ表面的な理解は及ばなくとも、心の深いところでその美しさや意味を感じ取っているはずなのである。
ただ、それを言葉にする方法を見つけられないだけなのだ。
フェスティバルがある種の批評やキュレーションを伴わずには成立しないものである以上、そうした観客の漠とした想いや体験に言葉という輪郭を与えることをも役割としてフェスティバルは担うものなのではないか。
それは単なる普及や啓蒙などではない。もっともっと多様で面白く雑多な批評というものの試みが、さまざまなレベルでさらに活発化されることを望みたい。
その「道化師の蝶」に関連して文芸批評家・市川真人氏が2月8日付け毎日新聞夕刊に寄稿している。
いわく、「一般に信じられている『小説』のイメージとは少なからず違い、わかりやすく要約すること自体を拒絶する同作は、『読むことのできないものについて考える』『理解できないことについて思考する』という、“体験”そのものであるような小説である」とのことだ。
さらに市川氏は「芥川・直木賞が社会的影響を持つのは、「興味はあるが普段は読む機会や時間のない」ひとたちが、限られた余暇のなかで年に2回、小説に触れる契機として両賞を信じてくれているからである。そこに『読めない小説』を届けることは、彼らに『自分たちはもう“現代”の文学などわからぬ』と感じさせてしまう危険を伴わずにはいまい」と言う。
この文章を読みながら、私は思わず演劇や舞台芸術におけるフェスティバルの役割など、さまざまなことを連想してしまった・・・・・・。
あるフェスティバルは海外の作品も含め、極めて先鋭的な、既成概念を覆すような作品作りによって新たな認識の世界を観客に提示し、体験させることを目的としている。
しかしながら、既成概念を超えているということは、既成の価値観や演劇観でしか舞台を観ることのできない、あるいは観ようとしない人々にとって、それらの作品は自分たちの概念を否定する極めて不愉快な、あるいは解らない、観るに値しないものとしか映らないだろう。
さらに言えば、初めて演劇なるものを観るために「劇場」に足を運んだウブな観客にとっては、それこそ「自分たちにはもう“演劇”などわからない」と感じさせてしまうことにもなりかねないのである。
もちろんそんなことを本気で心配しているわけではない。私たちは観客の目というものを信頼する必要があるのだろう。
たとえ1000人の人がそっぽを向いたとしても、1人の観客がその作品の力を体験し、深く感得したとすれば、それはやがて世界を変える力を持つかも知れないからだ。
何より、真摯に作品に向き合おうとするほどの観客、読者であるならば、たとえ表面的な理解は及ばなくとも、心の深いところでその美しさや意味を感じ取っているはずなのである。
ただ、それを言葉にする方法を見つけられないだけなのだ。
フェスティバルがある種の批評やキュレーションを伴わずには成立しないものである以上、そうした観客の漠とした想いや体験に言葉という輪郭を与えることをも役割としてフェスティバルは担うものなのではないか。
それは単なる普及や啓蒙などではない。もっともっと多様で面白く雑多な批評というものの試みが、さまざまなレベルでさらに活発化されることを望みたい。