seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

読めない小説/解らない演劇

2012-02-13 | 読書
 この度の芥川賞受賞作が何かと話題になっているのは、不機嫌眼鏡こと田中慎弥氏と都知事の場外バトル(もちろんこれは話題を煽ったマスコミの過剰演出)が功を奏したためもあるけれど、もう一人の地味で知的な円城塔氏の作品の分からなさがあるインパクトを持っているためだろう。
 その「道化師の蝶」に関連して文芸批評家・市川真人氏が2月8日付け毎日新聞夕刊に寄稿している。
 いわく、「一般に信じられている『小説』のイメージとは少なからず違い、わかりやすく要約すること自体を拒絶する同作は、『読むことのできないものについて考える』『理解できないことについて思考する』という、“体験”そのものであるような小説である」とのことだ。
 さらに市川氏は「芥川・直木賞が社会的影響を持つのは、「興味はあるが普段は読む機会や時間のない」ひとたちが、限られた余暇のなかで年に2回、小説に触れる契機として両賞を信じてくれているからである。そこに『読めない小説』を届けることは、彼らに『自分たちはもう“現代”の文学などわからぬ』と感じさせてしまう危険を伴わずにはいまい」と言う。

 この文章を読みながら、私は思わず演劇や舞台芸術におけるフェスティバルの役割など、さまざまなことを連想してしまった・・・・・・。
 あるフェスティバルは海外の作品も含め、極めて先鋭的な、既成概念を覆すような作品作りによって新たな認識の世界を観客に提示し、体験させることを目的としている。
 しかしながら、既成概念を超えているということは、既成の価値観や演劇観でしか舞台を観ることのできない、あるいは観ようとしない人々にとって、それらの作品は自分たちの概念を否定する極めて不愉快な、あるいは解らない、観るに値しないものとしか映らないだろう。
 さらに言えば、初めて演劇なるものを観るために「劇場」に足を運んだウブな観客にとっては、それこそ「自分たちにはもう“演劇”などわからない」と感じさせてしまうことにもなりかねないのである。

 もちろんそんなことを本気で心配しているわけではない。私たちは観客の目というものを信頼する必要があるのだろう。
 たとえ1000人の人がそっぽを向いたとしても、1人の観客がその作品の力を体験し、深く感得したとすれば、それはやがて世界を変える力を持つかも知れないからだ。
 何より、真摯に作品に向き合おうとするほどの観客、読者であるならば、たとえ表面的な理解は及ばなくとも、心の深いところでその美しさや意味を感じ取っているはずなのである。
 ただ、それを言葉にする方法を見つけられないだけなのだ。
 フェスティバルがある種の批評やキュレーションを伴わずには成立しないものである以上、そうした観客の漠とした想いや体験に言葉という輪郭を与えることをも役割としてフェスティバルは担うものなのではないか。
 それは単なる普及や啓蒙などではない。もっともっと多様で面白く雑多な批評というものの試みが、さまざまなレベルでさらに活発化されることを望みたい。


人口論

2012-02-07 | 雑感
 昨年末から今年にかけて、人口問題に関する報道を見聞きする機会が多い。
 例えば、「世界人口が2011年10月31日に70億人に達するのを記念し、国連人口基金(UNFPA)東京事務所は31日に国内で誕生する赤ちゃん全員を「70億人目の赤ちゃんたち」の一人として祝福し、希望者に認定証を贈ることを決めた」ことが記事になっている。
 70億人という数字は驚きだが、顧みれば、今世紀を迎えた頃の人口は61億人だったのだからさらに驚きである。
 ちなみに60億人を超えたのは1999年で、当時は国連が60億人目の赤ちゃんを特定、ボスニア・ヘルツェゴビナの男児をアナン事務総長が直接祝ったことが報道されていたのを覚えている。

 20世紀は人口爆発の世紀だったとも言われるが、20世紀の半ば、1950年の世界人口はわずかに25億人だったし、さらに遡って20世紀に突入する1900年は16億人だった。
 マルサスの人口論を持ち出すまでもなく、まさに人口は幾何級数的に増大するのである。
 いま、世界の人口は1日に20万人、1年に7千万人ずつ増えているのだそうで、国連推計では2050年に93億人に達するとのことだ。

 これらのことをどう捉えればよいのだろう。
 当然ながら、食料もエネルギーも人口の増大に見合った形では増やすことができない。世界は宿命的に飢餓と貧困問題を抱え込まざるを得ないのだろうか。

 「いま、この世界では、貧しい国が豊かな国との差を縮める『世界のフラット化』とそれぞれの『社会の不平等化』が同時進行している」といわれる。
 中国はいまや最も多くの人口を抱え、世界中の5人に1人は中国人と言われるほどだが、その中国では、グローバル化の恩恵により、輸出主導の高成長のおかげで2005年までの15年間に4億7千5百万人が、世界銀行の貧困ライン(1日1.25ドル未満の生活)を乗り越えたという。
 一方、インド、アフリカを中心とした国々では、未だ14億人もの人々が貧困ライン以下での生活を余儀なくされている。

 さて、わが国であるが、つい先日、国立社会保障・人口問題研究所が、日本の人口は2048年には1億人を割り込み、およそ50年後の2060年には8674万人になるとの将来推計人口を発表し話題になった。
 現在の社会は、現役世代3人が高齢者1人を支える構図だが、半世紀後にはこれが1対1となってしまうのである。

 およそひと月前、成人式が行われた頃の報道。
 今年、東京都内の新成人はおよそ11万4850人(東京都推計)だったが、これはピーク時の1968年と比べると3分の1以下の数値なのである。日本全体でみても、今年はピークだった1970年の半数を初めて下回った年なのだそうだ。
 まさに少子化の減少が顕著に表れていると言えるのだが、膨張する世界人口、縮小する日本、という構図の中で私たちはこれからの生き方を構想しなければならないのである。

 さて、ここから先が本論なのであるが、もちろん正解があるわけではなく、私に論じる力があるわけでもない。成熟社会といわれて久しいこの社会において、まさにこれからの一人ひとりの生き方が問われているのは間違いがないのだけれど・・・・・・。
 「1969」という、由紀さおりがピンク・マルティーニと組んで発表したアルバムが世界中でヒットしているというが、1969年は、まさに団塊の世代が成人を迎え、その数がピークだった時代である。
 その時代の歌謡曲が売れるというのは実に不思議ではあるのだが、案外、そんなところに大きなヒントがあるのかも知れない。


舞台版トンマッコルへようこそ

2012-02-03 | 演劇
 今年になってすでに12分の1が過ぎてしまった、と思うのか、まだ11か月もある、と思うのかは人それぞれだろうが、私自身はいささか焦り気味の毎日である。
 こうしてノートを書くことすらままならない忙しさ、なんてことはない筈なのに、いつの間にか時間ばかりが過ぎていく。こうした思いは誰しも共通のものではないだろうか。
 これまでいくつも映画も舞台も観ているのに、ちゃんとした感想を書いていない。ちゃんとした感想など書こうとするからいけないので、私は評論家でも何でもない。とにかく記録だけでもメモしておこう。
 
 先月27日(金)に観たのが、東池袋「あうるすぽっと」で開催されていた日韓演劇フェスティバルの演目の一つ、「トンマッコルへようこそ」である。
 作:チャン・ジン、翻訳:洪明花、演出・美術:東憲司(劇団桟敷童子)、主催:日本演出者協会、韓国演劇演出者協会、ソウル演劇協会ほか。

 以前、評判になっていた映画版の「トンマッコルへようこそ」を観ていて、舞台版の本作は見逃せないと思っていたのだ。急遽空いた時間を使って、当日券を買い求めた。

 本作はもともと舞台劇であり、それがパク・クァンヒョン監督の長編第一作として映画化されたのだ。韓国では国民の6人に一人が観たといわれるほどの大ヒット映画で800万人を動員、2005年の最多観客動員数を記録したというのはご存じのとおりである。

 舞台は朝鮮戦争が激しさを増していた1950年11月。太白山脈の奥地にトンマッコルという小さい村があった。トンマッコルとは「子供のように純粋な村」という意味。村人たちは戦争が起きていることなど露知らず平穏に暮らしていた……。
 そんなある日、何ものかに引き寄せられるようにして村に3組の男たちが現れる。空から飛行機と共に落ちてきたアメリカ軍兵士、ヘルメットを被った韓国軍兵士たち、そして韓国と対立している人民軍兵士たちである。
 最初は敵対していた韓国軍兵士と人民軍兵士だったが、村人たちと暮らし、村の生活に親しんでいくうちにいつしか互いの敵対心が消えていくようになる。しかし戦争の脅威はいつしかこの村の背後にも忍び寄っていた……。

 ひと言でいって素晴らしい舞台だった。
 憎しみ合い、隙あらば相手を殺戮せんと対立する2組の兵士たち、その間で村人たちは我関せずとばかり平和な日常のなかにいる。その構図がまず明瞭にくっきりと描かれる。
 ブリューゲルの絵「イカロスの失墜」を私は思い出したが、神をも恐れず慢心して太陽に近づき過ぎたがために海に墜落してミジメに足をばたつかせるイカロスを顧みもせず、農耕にいそしむ農民たち……。そんな絵柄が思い浮かんだ。
 もちろんその彼らの中にも戦争の悲劇はあるのであり、家族たちはその悲しみを穏やかな顔のうちに隠し持っている、その姿が次第に明らかになっていく。

 東憲司の美術と演出によって観客はいきなり劇の世界に引きずり込まれるようだ。
 その手際が実にあざやかである。私はいきなり涙ぐんでしまった。舞台には語り手として「作家」が登場し、進行役となる。突然、芝居が中断され、その作家と役者たちが劇の進行をめぐって言い争ったりと、時にはメタ演劇の様相も呈しながら、情緒に流れがちな舞台を客観化する役割も担っているようだ。
 原作の舞台は3時間ほどの上演時間だそうで、それを今回は2時間にダイジェストしていると聞いたが、メジャー映画とアングラ演劇の幸福な融合との評もあるように、見応えのある実に良い舞台だった。