seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

大江健三郎と演劇

2023-04-11 | 演劇
前回書いた大江健三郎と同時代の演劇人との関係については無知をさらけ出してしまったけれど、もう一人、井上ひさしのことを書き洩らしていた。
井上ひさしは大江と同学年生まれであり、同じく九条の会発起人でもある。大江は井上ひさしのことを劇作家、小説家、そして何より同時代の知識人として尊敬していたと聞くが、その新作舞台の劇場には必ず足を運んでいたようだ。
井上ひさしの演劇作品が大江文学に影響を及ぼすことがあったのかどうかは分からないのだが、大きな励ましや癒しになっていたのではないかと勝手ながら推測する。

今月の文芸誌各誌には大江に対する追悼文が多く掲載されているが、その中で、野田秀樹や岡田利規といった自分より若い世代の人たちの舞台にもまめに足を運び、交流のあったことを私ははじめて知った。

また、文學界5月号では作家の長嶋有が次のようなエピソードを書いていて実に面白い。

……ある日、ある人の芝居をみて劇場の外に出たら、旧知の編集者と並んで大江さんが出てきた。同じ回をみていたのか。近づいて挨拶したら開口一番「つまらなかったねえ!」と異様に張りのある声で劇評を吐き出して、愉快そうに笑って立ち去っていった。……

こうした話を読むと、その人柄とともに彼の生活のなかで演劇が身近なものだったことが伺い知れて何だかうれしくなる。
一方、あるインタビューの中では、映画館の暗がりに2時間拘束されることがつらいので映画はめったにみないという話をしていた。やはり、演劇やクラシックのコンサートは特別のものということだったのだろうか。

そういえば大江が大学在学中にはじめて書いた小説「奇妙な仕事」で注目されるさらに前、彼は「獣たちの声」という戯曲を書いているし、芥川賞受賞作「飼育」を書く少し前には「動物倉庫」という戯曲を書いている。
小説家・大江健三郎の仕事のバックボーンの一つとして演劇があったのかも知れないと考えることはあながち的外れなことでもないように思えるのである。




同時代

2023-04-01 | 演劇
先日、ある友人から今度会った時の茶飲み話のネタにということで関容子著「名優が語る演技と人生」(文春新書)という本をいただいた。「超豪華キャスト8組16人が語らうとっておきの舞台裏ばなし」といううたい文句の本で、関容子氏が聞き役となった名優たちの対談が収められているのだが、とびきりの発見があるという内容ではないのだけれどとても懐かしい話がてんこ盛りの楽しい本である。(以下、敬称を略します)

その中の柄本明と白石加代子の対談で、柄本明が1975年に白石加代子の出演していた早稲田小劇場の舞台「アトリエ№3 夜と時計」(鈴木忠志演出)を岩松了と二人で観に行き、その時、岩松了が、芝居観て初めて面白いと思ったと言ったというエピソードを紹介しているのだが、私も同じ舞台を観ていたので何だか懐かしくなってしまった。

それをきっかけに色々なことを思い出していたのだが、その時の舞台を確か作家の大江健三郎が観に来ていたのだった。もう随分昔のことで記憶はいささかぼんやりしているのだが、その翌年に早稲田小劇場は富山県利賀村に本拠地を移してしまうので間違いはないと思うのだ。
芝居が終わり、退場する観客の中、私のすぐ前を大江氏が歩いていて、そのまま楽屋口に入って行き、そこにいた演出家の鈴木忠志と挨拶を交わしていたのを目にしたのだが、大江健三郎と演劇のつながりがその時は意外な気がしたものだった。

しかし、同時代に生きる異なる分野の芸術家が交流し、刺激し合うということは当時も今も変わらないはずだと思えば何の不思議もないのかも知れない。

昭和63年に刊行された「最後の小説」というエッセイ・評論に加え、戯曲・シナリオの草稿が収載された本の中で、大江は演出家・鈴木忠志のことを、その時期に観た舞台の感想を含め次のように書いている。

「チェホフの『三人姉妹』を、あまり会うことはないが、独自の綜合的な才能として敬意をいだいている友、鈴木忠志が、かれの方法の、ある完成度を示しながら演出した舞台を、時を置いて二度見た。そのたびごと僕がしだいに深く説得された鈴木の演出は、チェホフの戯曲を念入りに解きほぐして、抽象化し、その方向づけでリアリティーの今日的な強化をなしとげたものだ」
「……僕のなかで、鈴木忠志演出がいまや動かしがたいのだ」
「……グロテスク・リアリズムのイメージ・システムとして現実化した舞台を見ながら、僕はほかならぬ祈りの声を聴きつづけるようだったのだ。それもいかにも今日的な……」

大江健三郎文学を同時代の演劇との関連で分析した批評や研究があるのかどうか、不勉強の私には分からないのだけれど、興味深い視点ではないだろうか。
三島由紀夫が暗黒舞踏の土方巽や大野一雄を評価し、土方に私淑した唐十郎が澁澤龍彦をはじめとする同時代の文学者や文化人と交流しながら、その世界を拡大していったような影響関係が大江健三郎の周辺にもあるとしたら、とても面白いと思うのだ。

大江健三郎と同じ1935年生まれと言えば小澤征爾の名がすぐに浮かぶが、そのほか寺山修司、蜷川幸雄、美輪明宏といった人々も同年生まれの演劇関係者である。
美輪明宏が三島、寺山の舞台で花開き、ミューズとなって両者を結び付けたことはよく知られている。
また、寺山が1977年にパルコ劇場のために台本を書き下ろし、演出した舞台「中国の不思議な役人」には大江の義兄である伊丹十三が出演しているし、それ以前には1962年に大江の小説「孤独な青年の休暇」を原作に寺山がシナリオを書いたテレビドラマが放映されている。
こうした交流関係は探そうと思えばそれこそ枚挙にいとまがないのに違いない。

そういえば、1967年に刊行された大江健三郎の代表作「万延元年のフットボール」の中に登場する「日本一の大女ジン」の奇矯なイメージは、同じく1967年に寺山主宰の演劇実験室◉天井桟敷が上演した「大山デブ子の犯罪」に登場する大女と共通するものだ。

このように大江文学を演劇的想像力から読み解くことは実に興味深いと思うのだがどうだろう。

高校演劇

2022-08-03 | 演劇
今年の夏、全国高校総合文化祭演劇部門(全国高等学校演劇大会)に出場した東京都立千早高校演劇部の「7月29日午前9時集合」がヤングケアラーをテーマにした作品ということで話題を呼んでいた。
7月26日付毎日新聞の小国綾子氏のコラムで紹介されていたが、その他の新聞や演劇専門家の間でも話題になっていた。以下、一部引用させていただく。

舞台は夏休みの教室で、9月の文化祭に向け、高校生男女3人が不登校気味の仲間を案じつつ、演劇の脚本選びをしているという設定。
その合間の会話の中に、テーマであるヤングケアラーに関する話題が織り込まれる。遠いところにある問題のようでいて日常的でもあるその問題は、他人ごとのようでありながら、ごく身近にいる仲間の問題でもある。

その中で発せられる男子生徒の独白が印象的である。

「……新聞を見ても自分のことのような気がしない。ニュースを見ても自分と結びつかない。大変なことがあったとしてもぼくたちは相談しようとも思わない。解決するとも思っていない。(略)相談するって選択肢も持てない。本当はつらいとか苦しいとか言えばいいのかもしれないけど、それすら思い浮かばない……」

実にリアルである。ことさらに訴えかける身振りや作劇はなく、現状をただ提示することによって、ヤングケアラーの状態にある子どもたちの抱える問題の根深さがより浮き彫りになるようだ。
こうした脚本は、演劇部員たちが日ごろの学校生活のなかで会話を見聞きし、集めた言葉が下敷きになっているという。

あらためて演劇の持つ働きや役割について考えさせられる記事である。
演劇は、日常の中に潜む問題の芽を浮き彫りにし、再構築するなかで客観的な視座を提示する。
それを受け止めるのは観客なのだが、たとえ劇場に行くことが出来ず、こうした記事を読んでこの舞台のことを知った私のような読者にも何らかの力を及ぼすだろう。
最近よく耳にする言葉でいえば、「バタフライ・エフェクト」のような変化を社会に及ぼすかも知れない。

新聞の片隅の記事やSNSでの発信などにより、思いもよらない形での影響をもたらすことも含めて、そのすべてが《演劇》の持つ力なのだろうと思う。

新聞記事から

2021-10-13 | 演劇
 最近の新聞記事で気になったものを二本、メモしておきたい。

 一本は10月1日(金)付の毎日新聞朝刊で、「芸術界のジェンダー不均衡」と題した3人の論客の意見が載っている。
 その中の1人、劇作家・演出家の谷賢一氏の寄稿を興味深く読んだ。
 最近、谷氏は、「丘の上、ねむのき産婦人科」という、身近だが遠い他者で異性の、しかも妊娠という最も性差が顕著になる瞬間を選んで芝居を書き、上演したばかりなのだ。
 氏らは、大半の俳優たちが妊娠経験のないなか、役を演じるためにひたすら想像する。さらに、異性を想像するため、女性が男性を演じ、男性が女性を演じるという男女逆転上演にもチャレンジしている。その過程で、自身の視点からだけでは気づけない、さまざまなことを発見するのだ。
 すなわち、性差だけではなく、社会的・経済的な差がその人の振る舞い=演技を決定している、ということだ。それは俳優が演じるうえでのことだけではなく、女性もこの困難な社会を生き延びるために女性という役を演じている、あるいは、演じさせられている、という気づきである。

 演劇的アプローチが社会の抱える矛盾や病理を炙り出しにする好例であると思う。

 次の一本は、10月11日(月)付の毎日新聞夕刊で、トピックスとして「日本女性2人が率いる『世界演劇祭』」というタイトルの記事が載っている。
 これは、欧州における重要な国際演劇祭の一つ、ドイツの「世界演劇祭2023」のキュレーションを、日本の2人の女性が担うことになった、というもの。その2人とはNPO法人「芸術公社」の相馬千秋、岩城京子両氏のことである。
 相馬千秋さんは、私も関わりのあったNPO法人「アート・ネットワーク・ジャパン」のメンバーでもあった人で、「フェスティバル/トーキョー」の初代のプログラム・ディレクターとして数多くの記憶に残る舞台、パフォーマンス等を企画実施している。

 今回、40年の歴史ある世界演劇祭の歴史で初めてディレクターが公募され、30カ国から70を超える応募があったそうで、アジア人女性チームがディレクションを担うのも初めてとのこと。
 以下、記事から引用すると、「コロナ禍によって、多くの人々の心と体がさいなまれている中、2人は『悲劇的事象のトラウマはつねに遅れてやってくる』と警鐘を鳴らした上で、『協同するアーティストとともに、あらゆる存在がケアを享受し、キュア(治療)を施されるような、新しくやわらかな世界を描きたい』と意気込んでいる」という。

 ウイルスに対する決定的な特効薬がない中、コロナ禍は社会的にも個人レベルでも多くの分断と差別を助長し、得体の知れない不安と怒りが世界全体を覆ってしまった。こうした事態を解きほぐすための演劇的アプローチとして、《ケアとキュア》に光を当てたというのは卓越した提案であると思う。
 得たいの知れなさや先の見えない不安はさまざまな隠喩をまとい、神話や物語となって、ともすれば人々をさらに惑わせてしまう。
 そうではなく、いつの間にか纏ってしまった意味=隠喩をていねいに剥ぎ取り、事実と情報を整理し直しながら、進むべき方向を提示することが、キュア(治療)のための第一歩なのだ。
 そのケアとキュアのためのアプローチとして2人が示したのが、領域横断性と多様性に焦点を当て、複雑で多岐にわたるコミュニティとの芸術的対話を目指す多面的な提案ということだ。

 そう言えば、キュアとキュレーションは語源として同一の根っこを持った考え方なのだと改めて感じる。この世界演劇祭をキュレーションする2人のチャレンジが、世界をキュアするための取り組みになればと願う。
 期待したい。


マスク越しの愛

2021-09-01 | 演劇
 演劇のエチュード(練習のための即興劇)にこんなのがあったのを思い出した。
 二人の俳優が、与えられた一語の台詞、つまり、「こんにちは」であったり、「おはよう」という言葉であったりを使って即興でシーンを作り上げるというものである。
 二人の俳優が舞台上に登場する。台詞はたった一言「こんにちは」あるいは「おはよう」というその場で指示された言葉に限定され、お互いにそれ以外の言葉を発してはいけないのだが、その条件のほかは泣こうが喚こうがまったくの自由である。その制約のもと、二人が芝居の上でコミュニケートしながら、どれだけの世界を作り上げられるか、というのがこのエチュードの眼目である。
 
 そんなエチュードを行う場面が漫画の「ガラスの仮面」にあったような気もするのだが、ま、それは不確かな記憶である。でも、その限られた条件のもと、たった一語の言葉を使って想像を超えた世界を繰り広げる北島マヤと姫川亜弓……というのは、いかにも興味深いと思うのだが、どうだろう。
 このエチュードの効能は、ともすれば勝手で独りよがりな芝居に陥りがちな俳優の矯正、という点にある。
 相手がどのようなシチュエーションを仕掛けてくるのか、あらかじめ分かっていないため、双方の俳優はお互いに全神経を研ぎすませながら、相手の言葉の息遣いや感情、表情をくみ取り、そのうえで相手の考える世界観や芝居の展開を想像し、反応するしかないのだ。その過程を通して二人は、相手の呼吸を受け止めたうえで演じるということを学ぶのだ。

 思うのだが、このエチュードをマスクをしたり、相手の表情が分からないといった状況で演じたらどうなるのだろう……? まったく支障はないのか、あるいは従来とは異なった反応や展開が見られるのか。
 コロナ禍のもと、芝居の稽古やリハーサル中もマスクをして演じることを余儀なくされていると聞く。それで演技は成立するものなのだろうか。
俳優によっては、本番になって初めてマスクを外した相手役の顔を見ると新鮮な気持ちで演技できる、といった声もあるようだが、本当にそうなのだろうか……。

 8月31日付毎日新聞に映画監督山田洋次氏へのインタビューが載っていて、映画製作における新型コロナの影響は? と問われた山田監督は次のように語っている。
 ……撮影中はスタッフはもちろん、俳優もマスクを着けているので表情が分からない。そんなのリハーサルと言えません。監督がスタッフや俳優に自分の思いを伝えるというのは言葉だけではなく、身ぶり手ぶり、目の色から察する、ということなんです。パソコンやデータで伝えられるものではない。……

 ところで、子どもの生育、とりわけ赤ん坊の成長にとって、言葉の分からないうちから、親や周囲の人間に見つめられ、微笑みかけられたり、しかめ面をされたり、怒った顔や泣いた顔など様々な表情を通じてコミュニケートする意味合いは実に大きいと言われている。
 現在、コロナ禍のもと、保育園でも学校でも、場合によっては家庭でさえも、マスク越しの育児やパソコンの画面越しの教育が否応ないものとして行われている。
 しかし、表情の半分以上が布に覆い隠されたり、スキンシップが制約された状態で読み取り得る感情にはやはり限界があるだろう。このことが常態化した日常で子どもの生育や教育に及ぼす影響は想像以上に大きいと思うのだが、これを何とかして補完する手立てはないものだろうか。
 そこで演劇の様々な技法や訓練方法を活用するという手はあるだろう。そこに一つのヒントがあるのではないかと考えるのだが……、どうだろうか。


『サラエボでゴドーを待ちながら』を読んで

2021-08-30 | 演劇
 スーザン・ソンタグが書いたエッセイ「サラエボでゴドーを待ちながら」(冨山太佳夫訳)を読んだ。これは、ソンタグが1993年8月、戦火の広がるサラエボで地元の俳優たちとともにベケットの「ゴドーを待ちながら」を上演した時のことについて書かれたものである。
 役者にしても観客にしても、劇場への行き帰りの途中で狙撃兵の銃弾や迫撃砲の砲弾のために殺されたり、負傷したりしかねない状況のもと、彼らはその舞台上演に取り組んだ、その経緯には深く心を動かされる。演劇関係者のみならず、文化芸術に関心を持つ者にとって切実な問題意識がそこにあるように思えるのだ。
 1993年といえば、阪神淡路大震災の2年前であり、東日本大震災はその18年後ということになるが、戦時あるいは災害時における芸術の持つ意味について考えさせられる。

 当然のごとく、ソンタグもメディア関係者から次のようなことを質問されたのだ。以下、一部ソンタグの文章を引用。
 ……それにしても、この戯曲は悲観的すぎはしないだろうか。私はそう訊かれた。サラエボの観客にとっては気が滅入りすぎはしないか、(中略)人々が現に絶望しているときに絶望を見せるというのは余計なことではないのか、(中略)この見下ろし目線の、俗物的な問いは、それを口にする人々が、今サラエボがどうなっているのかを少しも分かっていないし、本当は文学にも演劇にも関心がないのだということを、改めて私に実感させてくれる。誰もが望むのは、自分自身の現実からの逃避を提供してくれるエンターテインメントだというのは正しくない。他のどんなところとも同じで、サラエボにも、自分たちの現実感を芸術によって肯定され、変形されることによって力づけられ、慰められる人々が少なからずいるのだ。……

 ソンタグの感じた印象では、サラエボでは、バレエ、オペラ、音楽生活は日常的なものであり、とりわけ映画と演劇だけは別格であったので、包囲下でもそれが続いているというのは驚くようなことではない、とのことだ。
 それだけの文化芸術に対するリテラシーの深さ、裾野の広さに驚嘆するしかないのだが、これをわが国の現状に照らしてどう考えればよいのだろう。

 改めて、コロナ禍により非日常が日常と化したこの社会における文化芸術のあり方について深く考えるべきなのだろう。
 さらに、アフガニスタン、ミャンマー、香港をはじめ、困難を抱えた人々の間で、演劇、映画をはじめとする芸術がどのように機能しているのか、あるいは無化されてしまっているのか、その現状について思いを寄せたいと思うのだ。

観客と世論

2020-05-12 | 演劇
少し前のことになるが、5月8日付の毎日新聞で同新聞と社会調査研究センターが6日に実施した全国世論調査で、新型コロナウイルス問題への対応で「最も評価している政治家」を1人挙げてもらった結果が報道されている。
トップはダントツで大阪府の吉村知事、2位が小池東京都知事、3位が安倍晋三首相だったとのこと。
この結果は意外でもあり、一方でそんなものだろうなと頷く部分もある。世論、あるいは世間とはこうしたものなのだ。
これはメディアへの露出の度合いや発信力の有無、それが多くの人々にどう伝わり、どう受け止められたかということによる、その表れなのだ。この事実は冷徹に受容し、分析しなければならない。

いま、話題になっている「♯検察庁法改正案に抗議します」とのTwitter上での意見表明が、著名な文化人や芸能人の間にも広まり、その数が240万を超えたという。(報道により差異あり)
相当な数だと思うけれど、これが世論の大勢かといえば、残念ながら否と言わざるを得ないだろう。
時の政権はもっとしたたかだし、世間というものは岩盤のように強固な頑迷さを持っている。これに抗するにはさらに大きな声が必要であり、その声を拡大するのはなかなか容易なことではない。世間の大半は無関心という鎧をまといつつ、自分の見たいものしか見ないものだ。安倍さんはなかなかよくやってるよね、という見方は上記の全国世論調査の結果を見るまでもなく思いのほか根強いのだと思う。

さて、演劇界隈の話であるが、最近、平田オリザ氏のコロナ禍に関連した発言が炎上して、それが演劇そのものへの心ないバッシングや否定的意見を生み出しているようで何とも胸塞がる思いである。
演劇を身近に感じる立場の私から見れば平田氏はまっとうな意見を言っていると思えるのだが、その中で引き合いに出された産業分野:製造業の譬えが思いもよらないリアクションを引き起こしている。
それに対して、真意はそうではないのだといくら言おうと、聞く耳を持とうとしない人々に声は届かない。これでは議論にもならないのだ。
それにしても思い知らされるのは、演劇という業態の産業としての宿命的な非効率さであり、基盤の脆弱さである。そもそも観客数は劇場のキャパシティに限界があり、公演数も限られている。それは動員客数の少なさにも起因することで、あらゆる芸術分野の中でもその鑑賞者は稀少でしかない。支え手たる観客の総数が圧倒的に少ないのが現状だ。
さらに一口に演劇といっても、歌舞伎や宝塚歌劇、商業的なミュージカルと小劇場系の演劇はセグメントされていて、それらの観客の声が一つのうねりになることはないだろう。世論を形成するにはまだまだ遙かな懸隔があると感じざるを得ない。
社会における演劇の持つ有効性をどのように訴えていけばよいのか、課題は多いと言わざるを得ないのだ。

しかし、それでもなお、声を発し続ける必要はある。平田氏に対しての心ない意見や、おまえらのお芸術など勝手に滅びてしまえと言わんばかりの声には抗していかなければならない。
この文化を、芸術を何としても残そう、次代につなげようという明確な意思のないところには、存続も発展もあり得ないからである。

そんな時、先週末に、平成の初めから30年を超えて続いてきた「池袋演劇祭」が今年はコロナの影響から中止となったとの発表があった。
残念である。
ご存じのとおり、「池袋演劇祭」は、毎年9月の一か月間、池袋周辺の劇場で公演を行う劇団やユニットすべてが参加できる地域密着型の演劇祭であり、受賞作品を公募で選ばれた一般区民100人が審査員となって選定するという、いわば市民に開かれた演劇フェスティバルなのだ。
最近私は、この演劇祭が、演劇関係者とその愛好者という狭いコミュニティにこもりがちな舞台芸術をより広く、世論を形成するようなより多くの人々にも開かれたものとする、そんな役割を担いうるのではないかと期待していたのだ。
それは、ふだん演劇などほとんど見ないにも関わらず、演劇をあまりこころよく思っていない層の人々にも有効に働きかけるきっかけになり得るものなのではなかろうかと。

このたびのコロナ禍による中止は誠に無念としか言いようがないが、収束後には是非ともさらにパワーアップした姿を見せてほしいと願ってやまない。

無観客演劇

2020-05-01 | 演劇
無人の森で朽ちた樹が倒れるとき音はするか、という哲学上の問いがある。
存在は認知があってはじめて成り立つ。誰も聞くものがいなければ音はしない、というのが答えらしいのだが、これを援用して、観客のいない劇場で果たして演劇は成立するだろうか、ということを仲間と議論したことがある。
たった一人だけでも観客がいれば演劇は成立する、というのがその時の結論だったが、実際にはどうなのだろう。

大昔の話で恐縮だが、JRが国鉄だった頃、全面ストライキに突入し、首都圏の交通網がストップする中、無謀にも公演を強行したことがある。
改築前の池袋・シアターグリーンでの公演だったが、20人ほどの出演者に対し、来場してくれた観客はわずか5人いたかどうか。
そうした時に冷静でいられないのが役者というもので、白々とした客席を何とか熱くしようとした演技は空回りし、その日の芝居は荒れに荒れた。
理論も技術も未熟だったがゆえの失敗談なのだが、返す返すも演劇は観客との双方向のコミュニケーションによって成り立つものだということを痛感した。

現在、新型コロナウィルスの影響であらゆる活動が自粛を余儀なくされるなか、多くの表現者=演劇人、音楽家、アーティストによってオンライン発信をはじめ、様々な媒体を駆使した表現が工夫され、模索されている。
その試みのすべてを私は肯定したいと思うが、自粛期間が長期化し、表現のあり方が多様化した結果、表現の発信者と受け手の間にあった前提条件そのものがいつの間にか変異してしまうのではないかとの危惧を抱くのは私だけだろうか。
さらに、劇場や映画館、ライブハウスなどに抱く人々の意識の変化によって、それら施設のあり方そのものがどのように変容してしまうのか、今は想像することも出来ない。

「演劇の街」をつくった男

2018-12-11 | 演劇
 『「演劇の街」をつくった男~本多一夫と下北沢』(徳永京子著)を面白く読んだ。そういえばそうだったなあ、と思い出すことが沢山あったのだ。
 1981年3月にオープンした「ザ・スズナリ」は、当初、本多一夫氏が俳優養成を目的として1980年に開いたスタジオの稽古場兼発表の場だった。それを是非とも劇場にすべきだと直談判したのが転位・21の作・演出家:山崎哲氏だったという。
 「ザ・スズナリ」が開館してすぐ転位21は「うお傳説~立教大助教授教え子殺人事件」を上演したのだが、あれはもう37年も昔のことなのだ。流山児祥さん主宰の「演劇団」で私と同期だった女優が出演していたので観に行ったのだったが、ちょうどその頃近所に住んでいた先輩の俳優・龍昇さんに感想を聞かれて「いまいちですかね」と言ったら「ばか、あれはとてつもない傑作だぞ」と一喝されたのを懐かしく思い出す。翌年、同作で山崎哲氏は岸田戯曲賞を受賞したのだから、当時から私には見る目がなかったということなのだ。

 本多一夫氏の≪私的≫活動である民間劇場運営が、多くの若手劇団を育て、それぞれの時代を代表する演劇の一大潮流を生み出すという≪公的≫な成果を成し遂げている、それは実に素晴らしいことなのだ。それは税金を投じて運営される「公共劇場」に決して引けを取らない、むしろそれらを凌駕してあまりあるという事実は実に賞賛に値する。

 本多劇場グループの劇場を使った劇団の多くが口にするのがそのホスピタリティの高さである。こうした信頼と評判はそう簡単に築けるものではない。芝居の創り手の気持ちに寄り添い、良い舞台を一緒になって作り上げるための環境づくりに徹する心構えがスタッフの意気込みとして浸透していることが何よりも大きい。それこそが本多氏の演劇を愛する姿勢のあらわれであるだろう。

私のニナガワ

2016-06-19 | 演劇
 演出家の蜷川幸雄氏が亡くなってひと月以上が過ぎた。すでに多くの新聞、テレビ、雑誌等で様々な人が追悼文やまとまった所感を寄せているが、有名無名に関わらず、彼の舞台を観た数多の人々それぞれの胸にその記憶は深く刻まれている。

 私自身は、蜷川劇団と称されるそのカンパニーとは縁もゆかりもない三流役者に過ぎないし、ニナガワ演劇の良い観客でもなかったが、それでも折々に劇場に足を運んで観たその舞台は鮮烈な記憶として心の奥底に残っている。作品のみならず、彼の存在そのものを含め、私の人生に大きな影響を与えてくれたといって過言ではない。
 蜷川幸雄といえば、例の灰皿投げに象徴されるような過激な演出ぶりがイメージされ、常に何かに怒りながら挑みかかっているような印象があるが、実際の蜷川氏は実ははにかみ屋で人によく気を使う繊細さを兼ね備えた人柄だったのではないかと思う。

 私が直に話を聞く機会を持ったのは2006年秋頃のことで、オープン間もない「にしすがも創造舎」の体育館で氏の演出する「ロミオとジュリエット」の舞台稽古が行われていた時のことだ。
 普通なら広報することはもとより、一般公開などとんでもない筈の稽古場の様子をオープンにすることを蜷川氏は許してくれた。
 そのことは、廃校施設をアートセンターに転用するというプロジェクトを始めたばかりの「にしすがも創造舎」の活動を広く知らしめ、大きく後押ししてくれるものとなった。
 そのお礼も兼ねて表敬訪問した豊島区長に随行する形で陪席したのだったが、私たちが到着した時、蜷川さんは若いスタッフたちと一緒に、その数日前から降り続いた雨で水溜まりとなった校庭に砂利石を埋めるという作業に嬉々としながら勤しんでいた。
 その時、どういう話の成り行きだったか、豊島区が開催している文化フォーラムで建築家の安藤忠雄氏に講演してもらったという話題になった。それに蜷川さんはすぐさま反応し、
「私も安藤さんと同じように学歴がないなかで戦ってきたので、アカデミズムに抗して頑張っている彼にはとてもシンパシーを感じているんですよ。(豊島区の文化のために)私にできることは何でもやりますよ」と言ったのだった。
 その直截な物言いは率直で、とても好感の持てるものだった。

 その後、蜷川氏は井上ひさし作の「天保十二年のシェイクスピア」の稽古の際にも地域住民のための一般公開に応じてくれた。
 稽古という、作品の生成過程では、俳優も演出家も普段は見せられない姿を晒すことになる。そのためにはそれぞれの俳優さんのプロダクションに了解を得なければならず、その根回しには相当な労力を割かなければならない。そうした手間をかけてまで一般公開に応じてくれたのは、地域に愛されてきた中学校を廃校となったのちにアートの拠点として転用した「にしすがも創造舎」という場所の大切さを誰よりも理解してくれていたからに相違ない。
 「にしすがも創造舎」では蜷川作品の公演も様々行われたが、最後となったのは、2014年にフェスティバル/トーキョーの一環として上演された「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」だった。さいたまゴールド・シアターの平均年齢70歳を超えた俳優たちを中心とした舞台は、1971年に初演された作品の再演だったが、40年という時の経過をドキュメントとして反映した秀逸なもので、上演されるとともに消えるしかない演劇作品における「再演」というもののあり方の一つを提示して感銘深いものだった。

 私にとって蜷川幸雄という存在は何だったのか、ということは考えても詮無いことだが、あくまで私はすれ違うだけの一観客であり、その活動を遠くから仰ぎ見る立場でしかなかったが、戦いに挑み続けるその姿勢は常に私を鼓舞し続けてくれたのだ。

 私の初めてのニナガワ体験は、1973年に続けて観たアートシアター新宿文化での唐十郎作「盲導犬」と、清水邦夫作「泣かないのか?泣かないのか1973年のために?」だった。
 当時の蜷川氏の活動拠点だった櫻社は前年に結成され、翌74年には、氏が商業演劇に進出したことを契機として解散となるから、その中間年にあたるその年に観た二作品に私は良くも悪くも決定的な影響を受けた。
 それは幸せなことだった。もっとも、それ故にこそ私は三流役者にとどまったとも言えるのだけれど。そのあたりの事情は書けば長くなるが、改めて書くほど意味のあることではないだろう。

 1980年12月、私は当時千石にあった三百人劇場にニキータ・ミハルコフ監督の映画「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」を観に行った。
 その頃、私は生活上の都合で役者であることを断念し、無聊のままに時を過ごす日々だったのだが、その日観た映画に私は静かな感動を覚えていた。
 その帰り、地下鉄のホームで私は蜷川氏と一緒になった。当時の氏は商業演劇に転じて数年が経ち、その年には代表作となる「NINAGAWAマクベス」「元禄港歌」を上演し、成功を収めていた。
 ああ、蜷川さんも映画を観に来たのだ、と思ったものだが、辺りに人の気配はなく一瞬二人きりの時間が流れた。声を掛けようかどうしようかと逡巡したその時、一人の若者が氏に挨拶をした。知り合いの俳優だったらしく、しばらく親しそうに歓談してから蜷川さんは電車に乗り込んでいった。
 ただ、それだけのことでしかないのだが、今でも時折思い出すことのある瞬間の光景だ。

 その数年後、蜷川さんは演劇の実験工房である「ニナガワ・スタジオ」を立ち上げ、再び若者たちと芝居づくりを始めたのだが、ちょうど同じその頃、私もまた、小さな陽のあたらない場所でささやかな芝居をつくろうと思い始めていたのだった。

青ひげ公の城

2014-12-02 | 演劇
 11月30日(日)に豊島公会堂で千秋楽を迎えたミュージカル「青ひげ公の城」は、流山児★事務所が豊島区及び公益財団法人としま未来文化財団とスクラムを組み、2012年から3年間にわたって寺山修司の作品を上演するというプロジェクトの集大成となる作品である。
 昨年の寺山修司没後30年という節目の年をはさみ、テラヤマ市街劇「地球☆空洞説」、テラヤマ歌舞伎「無頼漢」に続いての3作目、ついにとてつもない傑作が生まれた、そんな感慨に捉われる。

 河原崎國太郎、毬谷友子、美加里、蘭妖子をはじめ、流山児★事務所の手練れの俳優たちが繰り広げる本作は、まさにこの豊島公会堂という空間でこそ相応しい「劇」のための劇であり、「劇場」のための劇であった。
 豊島公会堂は昭和27年10月に開館したが、その年の4月28日まで、わが国は進駐軍の占領下にあったのだし、今のサンシャインシティが立地する場所は、当時、巣鴨拘置所として多くの戦犯を収容していた。手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」が雑誌「少年」で連載開始されたのも、NHKラジオでドラマ「君の名は」の放送が始まったのもこの年だった。
 手塚治虫が豊島区内に新築された伝説のアパート「トキワ荘」に入居するのはその翌年のことである。
 今年で62年という時を刻み、いよいよ1年半後には取り壊される老朽化した劇場がそのまま劇の背景として昏い輝きを放ち、劇の構造と拮抗しながら観る者を引きずり込んでいく…。

 公会堂前の中池袋公園で始められる公開オーディションがそのまま劇の導入となって、青ひげ公の7番目の妻の配役に選ばれたという少女が舞台に現れる。少女はそこで出会った舞台監督に誘われるように、不思議の国のアリスよろしくいくつもの扉を経巡りながら、青ひげ公の何人もの妻たちと邂逅し、翻弄されながらもいまや迷宮と化した劇場の奥へ奥へと入っていく。それはかつてその劇場で照明係として働きながら行方不明となった役者志望の兄を探す旅でもある。
 そこで次々に登場する妻を演じる女優たちが実に妖しく魅力的である。歌舞伎、宝塚、ミュージカル、新劇等々、それぞれに出身は異なりながら、不思議なほど寺山ワールドに完全に溶け込んでいる。
 中でも第5の妻を演じた毬谷友子の崩れた女優ぶり、第2の妻の河原崎國太郎の妖艶さは特筆もので、宝塚や歌舞伎とアングラ劇との近似性を改めて感じさせられる。
 そういえば、この舞台で繰り広げられる台詞の数々が三島由紀夫の作劇におけるレトリックを想起させて興味深い。三島は寺山修司の芝居を面白いと認めていたが、この二人もまた根深いところで通底していたのかも知れない。

 本作は、シェイクスピアやチェーホフ、テネシー・ウィリアムズなど、先行する劇や文学作品を様々に引用し、韜晦しながら、聖と俗、貴と賤、支配するものと支配されるものが混淆し、価値観の転倒した世界を描き出す。
 まさに現代社会において紛い物が持つ真実を観客に突きつけるのだ。そこでは観客だからと安穏と観客席に座すことは許されない。
 劇場全体が舞台となったこの劇では、観客もまた登場人物の一人だからである。

棚からハムレット

2014-11-21 | 演劇
 いつもながらの感想ではあるのだが、芝居というものは形として残らない。写真、映像、上演台本、パンフレット等、その断片は残るけれど、当然ながらそれらは芝居そのものではなく、薄れゆく記憶を補完する材料でしかない。
 ということで、幾日も前に観た舞台のことを思い出すようにメモしておくことはそれなりに意味のあることかも知れないと改めて思う。
 この2か月ほどの間にかなりの芝居を観ているはずなのに、日々は残酷にも足早に過ぎてゆき、記憶は次々と更新されてしまうからだ。

 ということで、今思い出しているのが、今月7日に中野ザ・ポケットで観たCAPTAIN CHIMPANZEEの公演「棚からハムレット」だ。
 この劇団とは知り合ってかれこれ10数年が経つのだが、今回私がこの公演に足を運んだ大きな理由の一つは、私の好きな俳優、上素矢輝十郎さんが客演していたからだ。
 輝十郎氏とは、彼が、「ごとうてるひこ」と名乗っていた頃、それこそ17、8年前に「うるとら2B団」の舞台に出ていたのを拝見して知己を得た。
 立ち姿が美しくカッコいいのはもちろんだが、情のこもったいい芝居をする俳優で、私にないものを感じさせてくれる得難い存在なのである。
 今回の芝居は、シェイクスピアの「ハムレット」を下敷きに、登場人物たちの現実の生活と、劇中で演じられる「ハムレット」の劇が幾重にも重なったメタ演劇コメディなのだが、輝十郎さんは、主人公・公子の死んで亡霊となった父親と、その劇団を乗っ取った叔父の二役を演じていた。
 生活に疲れ、父親を憎む娘と、距離を測りかねつつ励まそうとする父、叔父役それぞれの役作りがコミカルながら説得力があり、涙を誘う。

 この芝居を観ながら私はケネス・ブラナーが監督した映画「世にも憂鬱なハムレットたち」を思い出していた。
 ケネス・ブラナーはこの映画について、「危機状態にある俳優たちの行動ぶりを自嘲的に眺めたもので、自分という存在について自身が描いている失望をコミカルに捉えた作品」であり、「俳優という存在そのものが、誰もが感じている自己妄想を強調した実例であるということ、それがどんなに面白いかをこの映画は描いている」のだと言っているが、確かにオーバーラップする部分がある。
 「棚からハムレット」もまた、それぞれに問題を抱え、絶望状態にある無名の三流役者たちが、ハムレットを上演する過程で立ち直ろうとする芝居なのである。

 この芝居そのものが、CAPTAIN CHIMPANZEEという劇団や多くの小劇場演劇を担う「無名」の劇団、役者たちの抱える様々な問題そのものをテーマに描いているとも言える。
 そうした諸々のことを考えさせてくれる、その意味でもこの舞台は私にとって忘れがたいものとなった。

彼の地/北九州芸術劇場プロデュース

2014-03-16 | 演劇
 すでに一週間前のことになるが、3月9日に観た北九州芸術劇場プロデュース公演「彼の地」が素晴らしい舞台だった。
 作・演出は、自ら主宰する劇団KAKUTAにおける作品で岸田戯曲賞にノミネートされ、「ピーターパン」など商業演劇の演出や他劇団への出演などで注目を集める桑原裕子。会場:東池袋・あうるすぽっと。
 北九州芸術劇場がプロデュースするこのシリーズのコンセプトは、第一線で活躍する演劇人が、北九州に約1か月半滞在し、地元の俳優やスタッフと作品を創るということだ。どこか北九州をイメージさせる内容の作品という条件が付与されていて、本作もソーントン・ワイルダー作で知られる「わが町」の北九州版といってよい作品になっている。
 大小さまざまなエピソードやドラマが絡まりあい、入り組みながら全体を通して観た時に、この土地や町そのものが、登場人物たちの記憶や願望、愛着や憎しみといった感情を通して浮かび上がってくる……。

 母の死が心の傷となり、居場所を失くして、町のあちらこちらを寝泊まりしながら彷徨い続ける少年。
 彼に思いを寄せながらも素直に打ち明けられない少女。
 東京から結婚のためにこの町にやって来ながら思い惑う花嫁と、わざと気づかぬふりを続けながら傷つく婚約者。
 花嫁の友人でその婚約者に密かな恋心を抱えた女性。
 アルコール中毒で精神に異常をきたしつつある兄と、その面倒を見るチンピラの弟と母。
 弟の兄貴分で、行方知れずになった野良猫に執着して探し続けるヤクザ。その同じ猫を可愛がっていた赴任間もないサラリーマン。
 結婚生活に堪え切れず東京からこの町に逃げ帰ってきたストリッパー。その妻にストーカーのように付きまとう男。
 東京の大学を出て、この町の工場に就職し40年を過ごして定年を迎えた男とその娘。
 ベトナムから出稼ぎに来て何故か居続けている男……、などなど。

 こうした19人に及ぶ登場人物たちの物語が巧みに組み合わされ、積み重なって、全体を通して観た時に、舞台となった北九州小倉という町が、彼らの人生を丸ごと包み込む掛け替えのない場所として描き出されるのだ。
 それも単にいま現在そこにある場所というだけではない、様々な視点によって切り取られた場面、感情、距離感の複雑なコラージュと、40年という時間が舞台に奥行きを与えて、実に陰影に富んだ世界が浮かび上がる。
 それを可能にしたのが桑原裕子の素晴らしい演出力なのだが、その具体化にあたって大きく寄与したに違いない田中敏恵の舞台美術は特筆に値する。

 舞台を活気づけていたのが、行方知れずとなった猫を探し回るヤクザとサラリーマンの奇妙な友情なのだが、その笑いを誘うほどに必死な姿は、母を失い、父親とも折り合いのつかないまま町を彷徨うナカヤマという少年の姿や、居場所を見つけようとあがく登場人物たちの姿と次第にオーバーラップしてくる。やがて観客は粛然とした思いに捉われつつも彼らを愛おしく思うだろう。
 「彼の地」とは、遠く離れながら心に迫りくる故郷であり、何とか自分のものにしたいと願うあこがれの場所であり、忘れたいと思う憎悪の対象であり、かつて愛した死者たちの住む「彼岸」でもあるのだ。

 この舞台が東京で上演されたのはわずか3日間だけで、若い才能たちの表現に立ち会えた幸福を喜ぶしかないのだけれど、終わってしまえば人々の記憶の中にとどめるしかない演劇という芸術の儚さを改めて感じてしまう。
 得がたい思いの残る素晴らしい舞台だった。

ピーター・ブルック「ザ・スーツ」

2014-01-15 | 演劇
 すでに2か月も前に観た舞台なのだが、その感動を忘れられずにいる「ピーター・ブルック『ザ・スーツ』」(11月14日:パルコ劇場40周年記念公演)について書いておきたい。
 最近の私はまったく気力を失ってしまい、書くことにも観ることにも読むことにも出歩くことにも興味を失くしてしまっているのだが、この芝居はそんな私をもそっと迎え入れてくれるような大きな包容力に満ちていた。
 私がこの舞台について書きつけることに何ほどの意味もないだろうが、それでものちほど引用するピーター・ブルックの言葉は少なくとも記憶しておく価値のあるものだ。その言葉に導かれて私もまた小さな一歩を踏み出せそうな気持になる。

 本作は、キャン・センバの短編小説「ザ・スーツ」に題材を採った芝居:キャン・センバ、モトビ・マトローツ、バーニー・サイモン作「ザ・スーツ」に基づく舞台である。
 演出・翻案・音楽は、ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ、フランク・クラウクチェック。はじめはフランス語での上演により各国で大きな反響を得たが、さまざまな文化的背景を持ったより多くの観客に向けた作品を創るべきとの考えから、国際的な言語である英語での上演にシフトしたとのこと。

 舞台は1950年代のアパルトヘイト下の南アフリカ・ヨハネスブルグ西のソフィアタウンという黒人居住区における一組の夫婦とその愛人の間に起こった悲劇を描く。
 いわばアパルトヘイト版「人形の家」とでもいうべき物語である。
 最悪の生活環境にありながら、白人弁護士の有能な秘書として働くフィレモンは美しい妻マチルダを得て満ち足りた生活を送っていた。フィレモンから女王のように扱われるマチルダ。しかし、彼女はその代償として何よりも好きだった聴衆の前で歌うことと、本当に愛する人と生きることを諦めざるを得なかった。
 そうした抑圧の中、マチルダは愛人との逢瀬を重ねていたが、友人からの告げ口によって疑いを持ったフィレモンにその現場を見られてしまう。
 フィレモンの急な帰宅に驚いた愛人は着ていたスーツもそのままに逃げ去ってしまう。
 フィレモンは、スーツのかかった椅子を引き寄せ、彼女に向ってそのスーツを大切な客人としてもてなすことを命じるのだった。
 表向きは何事もないような生活を送りながら、陰湿で執拗な罰を夫は妻に与え、彼女の自尊心を傷つけ続ける。
 マチルダは町の文化的な活動に参加し、善行を積むことで良心の呵責から逃れようとする。その活動に中で次第に喜びを見出し、自尊心を取り戻しかけた彼女にフィレモンはさらなる罰を課し、やがてそれは取り返しのつかない結末を呼び寄せる……。
 
 この悲劇を、4人の俳優、3人のミュージシャンによって演じられるこの舞台は、どこまでも軽やかに、客席をも巻き込んだ祝祭感と音楽性に満ちたものとして描き出す。
 上演時、新聞各紙の劇評には「洗練の極み」といった見出しが躍っていたが、この物語をこれほどシンプルに、心躍る楽しさとともに観客の心に届ける力は一体どこから来るのだろうか。素晴らしいとしか言いようがない。
 声高に訴える政治性や思想、力の入った熱演や先端的な演劇性とはまったく異なる手法で、あくまで軽やかに、肩の力を抜いた演技やマイム、音楽、歌唱によって、この芝居で表現しようとした核のようなものは確かに観客のもとに届けられる。
 舞台上から余計なもの、過剰なものをとことん引き算していったその果てに、舞台を観ることでしか感得できない「表現」だけが残った、そういえばよいだろうか。

 以下、上演パンフレットに掲載されたピーター・ブルックの言葉を引用しておこう。それらは折に触れ、私を勇気づけ、励ましてくれるようだ。

 ……ますます残酷さを増す人間生活の一面に対し、もし今日の演劇がなにかをする責任があるとすれば、それは、残酷さを絶望の淵に沈み、喉をかっ切って自殺する理由として描くことではない。逆にそこから、希望や勇気に真の意味が見えてくるということ。それを観客一人ひとりに示さなければならない……。

 ……演劇に責任があるとすれば、つまりそれは「観客が劇場に来るのは、患者が医者に診察してもらいに行くのと同じことだ。診察を終え病院を去るときは、来たときより元気になって帰らなければならない。そうでなければその医者はヤブに違いない」ということなのです。

 ……演劇の無力さを感じるというのは最悪の状況といえるでしょう。むしろ、演劇が世界を変えられないと思ってしまうときほど、「小さなスケール、少ない人々が小さな一滴を創り出すことができる。そこからなにかしら、他の人々にとっての希望を創り出すことができる」と信じるべきです。その雫の一滴一滴に、すべて価値があると信じることが重要なのです。

瞬か/言葉のない世界

2013-12-04 | 演劇
 「小説に限ったことではないが、人間の心にはなぜだかフィクションだけしか届かない場所があって、フィクションでしか癒せない部分があるような気がしている」
 と、作家の窪美澄氏がひと月ほど前(11月3日付)の日経新聞に書いていた。
 言葉を誰かに伝えようとし、その言葉が意味を持って相手に伝達されるためには一定程度論理的であることが求められる。
 しかし、論理的だから言葉が相手の心に響くわけではなく、理路整然と正しいことを言ったからといって相手が共感し、感動するわけではない。
 言葉とは難しいものだ……、と思うけれど、これは言葉そのものの難しさではなく、誰かに何かを伝えることの難しさなのだろう。
 宇宙の始めに言葉があり、言葉によって世界のあらゆるものが名づけられ、名づけることによって人がモノゴトを認識するのだとすれば、すべての現象は言葉によって規定され、意味づけられるということになる。
 しかしながら美や芸術的感動といったものが、言葉では言い表すことのできない、むしろ言葉そのものとは異なる地点から生まれ出るように思えるのも確かなことだ。
 フィクションもまた、言葉そのものからというよりは、言葉と言葉の相互作用によって認識の隙間あるいは裂け目に突然のように生まれ出るものなのかも知れない。
 
 そんなことを考えたのは、これまたひと月ほど前にフリージャズピアニストのスガダイローとバレリーナ酒井はなの二人による即興パフォーマンスによる舞台を観て、その記憶がいまだに消えずにいるからである。
 この公演は、「スガダイロー五夜公演『瞬か』」と題された東池袋の劇場あうるすぽっとの企画・製作によるもので、スガダイローが7組の身体表現家とともに五夜にわたって打合せなしの即興表現を繰り広げるというものだ。
 そのすべてを通して観なければその素晴らしさを十全に味わうことなどできないのだろうが、それでもこの一夜の遭遇に私自身は僥倖としか言いようのない感動を覚えた。
 それは身体=肉体とその表現技術を尽くして、二組の表現者がお互いの音や気配、動作、思考の方向性を嗅ぎ分け、共調しながら、自分だけでは為し得なかった表現の地平へと推し進めようとする営為なのだ。
 それぞれが生み出す音の一つ一つ、身体動作の一瞬一瞬に意味があるのではない。それらが連なることで美しさを生み出し、結びつくことで新たな表現が生まれ、観るものの意識を覚醒させる。
 そこに芸術表現の秘密=魅力がひそんでいるようにも思える時間だった。
 そうした時間のなかにいつの間にか浮かび上がるもの、その一つが「フィクション」と呼ばれるものなのかも知れない。

 それはこと芸術、文学や舞台表現にとどまらない、あらゆる人間の創造的行為、イノベーションに通底した秘儀なのである。