seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

チェーホフのいたずら

2011-02-20 | 読書
 もう一週間が過ぎてしまったが、先週月曜の午後から降り始めた雪が、交通網を撹乱しながら、東京の町全体を真っ白な雪景色に覆ったかと思えば、翌日の陽気でその夕刻にはもう道路は乾いてしまっていた。
 朝にはぐしゃぐしゃにぬかるんだ道を歩いていたのでその落差に驚いてしまったものだが、週末になっても少し路地に入った日の当たらない家の陰などには根雪が残っていて何となく風情を感じたりしたものだ。(雪国の人たちには申し訳ないようだけれど……)

 そんなふうに雪が降り積もったりするたびになぜだか思い出すのが、梶井基次郎の「泥濘」や「雪後」といった小説だ。
 「泥濘」では、雪の降ったあと、実家から届いた為替を金に替えるために主人公が銀行に出かける。「お茶の水から本郷に出るまでの間に人が三人まで雪で辷った」「赤く焼けている瓦斯暖炉の上へ濡れて重くなった下駄をやりながら自分は係りが名前を呼ぶのを待っていた」といった文章が印象的に記憶に残っているのだが、この小説が書かれた昭和初年の頃の舗装も施されていない東京の町並みが思い浮かぶ。
 一方、「雪後」の中では、地味な研究生活を送る主人公が、文学をやっている友人から聞いたというロシアの短篇作家の書いた話をその妻にする。
 少年が少女を橇遊びに誘う。橇に乗って風がビュビュと耳もとを過ぎる刹那、少年が「ぼくはお前を愛している」と囁く。それが空耳だったのかどうか確かめたいばかりに今度は少女が何度も少年を橇遊びに誘い、その声を聞こうとする。
 「もう一度!もう一度よ」と少女は悲しい声を出した。今度こそ。今度こそ。
 やがて二人は離ればなれの町に住むようになり、離ればなれに結婚するが、年老いても二人はその日の雪滑りを忘れなかった――という話だ。

 すでにご存知の方も多いと思うけれど、これはチェーホフの短篇小説で、「たはむれ」あるいは「たわむれ」というタイトルでよく知られている作品である。井上ひさし氏も「人生はあっという間に夢のように過ぎてしまうという生の真実をあざやかに書いている」として絶賛していたらしい。
 私はこれを最初に講談社文芸文庫版の木村彰一の訳で読んだ。なんて素敵な小説だろうと思ったものだ。
 その同じ小説が、昨年9月に刊行された沼野充義氏による「新訳 チェーホフ短篇集」の中では「いたずら」という題名で紹介されている。沼野氏の解説では、「いたずら」と訳しているものとしてあとは松下裕氏のものがあるくらいとのこと。
 原題のロシア語は「ちょっとしたおふざけ」くらいのニュアンスで、「たわむれ」も悪くはないのだが、現代では少しきれいごとに過ぎるような気がして「いたずら」を採ったとのことだ。

 この小説をチェーホフははじめに1886年に発表したのだが、それを1899年に改訂し、結末部分を大きく書き替えている。最初の発表時、チェーホフは開業医として仕事を始めてまもなく、ユーモア作家として短篇を書きまくっていた頃で、一方、改訂版の時にはすでにシリアスな大作家としての地位を確立していた時期である。
 一般に知られているのはその改訂版なのだが、沼野訳の短篇集では、その両方を上下2段に並べて提示するという面白い「いたずら」をしている。
 読者に対して、さあ、お好きな方をお読みください、というわけだ。

 沼野氏はそのほかにもこの短篇集でさまざまな翻訳上のいたずらを仕掛けているのだが、それは好みもあるだろうし、読んでのお楽しみというところ。
 それにしてもこの「新訳短篇集」はそれぞれの作品に付された解説が充実していて面白い。初めて知るような発見があってナルホドなあと思ってしまう。
 この「いたずら」という作品に関しては、多くの女性を惹きつけながら、結局普通の男女関係になかなか踏み込もうとしなかったチェーホフの恋愛に対する態度を反映したもの、という見解を示している。
 さらには通俗的なフロイト的解釈として、処女の純白を思わせる雪に覆われた丘を燃えるような赤いラシャ張りの橇に乗り、少女は男にそそのかされ、奈落の底に落ちるように飛んでいく。その刹那、男は恍惚感の絶頂で少女に囁きかける。その意味するところは説明を要さない、という訳だ。
 この深層心理の解釈に感心はするものの、なかなか同意はし難い。もっとも少年少女それぞれのその後の結婚生活が完全に幸福なものであったとは到底思えないわけで、そうした生活の中で夢見る、自分たちが獲得したかもしれない官能のあるべき姿がその記憶=思い出に投影されているということは言えるのだろう。

 そうした目でもう一度梶井基次郎の「雪後」を読み返してみると、以前はどうしてこのエピソードが挿入されているのかその意図を測りかねていたのが、何となく感得できるように思えてくる。
 「雪後」には、お産を控えた若い妻のいる結婚生活と主人公の苦しい研究生活が対比され、そこに社会主義運動に関わる友人の姿をとおして当時の社会状況が点描される。
 さらに、このチェーホフの短篇のエピソード、女の太腿が赤土の中から何本も何本も生えているという夢の話、姑が見たという街の上でお産をする牛の話などが加わってこの小説は構成され、それらの要素が渾然となって、一人の若い研究者の不安と希望が象徴的に描かれているのである。

 梶井がこの小説を書いたのは、チェーホフ没後22年経った頃だ。いわば同時代の現代作家といってよいだろう。
 それから85年。いま、チェーホフも、梶井基次郎も、同時代の作家として私たちとともにいる。

論語と演劇

2011-02-13 | 言葉
 最近よく(といっても気が向いたときだけれど)論語をひもといてはその言葉を噛み締めている。
 論語と聞くと何だか説教くさくて堪らないと思っていたし、孔子という人物があまりに立派な出来すぎた御仁でなんとも鬱陶しい先生のように思えてならなかったのだが、いつだったか、日本経済新聞日曜の書評欄の名物コラム「半歩遅れの読書術」のなかで次のような読み方が披露されていて思わず納得してしまった。
 お書きになっていたのが誰だったのかすっかり忘れてしまったのだが、孔子が急に身近な人に思えてきたのだ。
 紹介されていたのはあまりに有名な次の言葉である。
 「子曰く、吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。」

 これは次のように読めるというのである。(記憶だけで書くので少しニュアンスが違っているかも知れないけれど)すなわち、
 「私は15歳になるまで学問などしようとは思わなかった。30歳になるまで自立できなかったし、40歳になるまで誘惑に負けてばかりだった。50歳になるまで自分の使命に気づきもしなかったし、60歳になるまで人の言うことなんかに耳を傾けなかった。70歳になるまで自分勝手に行動してはついつい行き過ぎて失敗ばかりだった」

 ・・・・・・どうだろう、急に孔子が悩み多き身近な友人のように思えてきたのではないですか?
 論語はまさに孔子がその生活の中で悩み、傷つき、失敗を重ねながら体得した言葉の積み重ねだったのである。そう思うと、説教ばかりと感じていた言葉の数々がまるで違ったもののように心に響いてくるのではないだろうか。
 
 思いついた言葉を並べてみると、次のようなものがある。
 「子曰く、父在せば其の志を観よ。父没すれば其の行いを観よ。三年父の道を改むる無くんば、孝と謂う可し。」

 私たちはついつい先人の教えからどうやって脱却しようと焦ってばかりいる。それをイノベーションとか改革とか格好良いことと思いがちだ。
 中村勘三郎さんが若い頃、先代の勘三郎さんから教えてもらった役を何とか自分流に変えようと苦心していたときのこと、
 「頼むからオレの目の黒いうちは教えたとおりにやってくれ」と云われたという有名な話がある。
 一方で、「伝統は革新の連続によって創られる」という意味の言葉もある。とりわけ伝統芸能の世界にいる方々から聞くことが多い。
 要するにこれはただ単に真似をしていろということではないのだろう。その志やめざすべきところ、その行いの底にある思想を受け継げということなのかも知れない。そう思うと、この言葉は限りなく深いものに感じられる。

 「子曰く、唯仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。」

 これはどういうことだろう。
 誰もが公平な心と眼で正しい評価ができるわけではない。どれほど尊敬できる人生の先達であっても常に正しい情報を持ち、身びいきにならない公正な鑑識眼を持っているとは限らないということだ。まして周りには「巧言令色」の輩が跋扈している。悲しいことだけれど。

 「子曰く、父母に事えては、幾諫す。志の従わざるを見ては、又敬して違わず、労して怨みず。」

 尊敬すべき父親世代の扱いほど厄介なものはない。
 もしその行いや考えが正しくないときにはそれとなく諌めるが、それでも父母がそれを受け容れないのであれば、もとどおり敬意を払って従い、世話を続けて文句は言わない、ということだ。
 孔子も内心手を焼いていたのではないだろうか、その困って苦笑する顔が思い浮かぶようだ。

 芸術の世界において世代間の闘いはどうあるべきなのか。
 芸術は先行する価値観を乗り越えることによって新しいものが生まれる。それは宿命なのだ。であれば先人からの批判を畏れていてはならないだろう。

 10日付の日本経済新聞に野田秀樹氏のインタビュー記事が載っている。
 今の若者と接して感じることはと問われて、
 「自分の20代の頃と比べて傍若無人なのが減った。日本の文化全体を見ても元気がない。・・・80年代のサブカルチャー的なものを焼き直しているように感じることが多い」と答えたあと、その飽和状態をどう突破できると思うか、との問いに対し、次のように語っている。
 「たぶんそれは次の世代の仕事でしょう。僕にとっては不愉快なものかもしれないけど、いつか強い表現が出てくるだろうと思う。僕の若いときだって、上の世代からは不愉快に思われていたかもしれないので」

 その意見に賛同する。
 若い世代よ、がんばれ。大いに不愉快なもの、演劇はこうあるべき、こうあらねばならないといった既成概念を打ち壊す強い表現を創り出してほしいものだ。


時代の変化

2011-02-10 | 雑感
 先日、テレビで往年の角川映画で、薬師丸ひろ子、松田優作主演の「探偵物語」を放映していて、思わず見入ってしまった。この二人はやはり得難い俳優なのだということを再認識した。特に薬師丸ひろ子のような独特の空気感を出せる若い女優はなかなかいるものではない。
 それはそうと私が興味を惹かれたのは、そう言えば、この映画が作られた1983年頃にはまだ携帯電話なんてものはなく、主人公たちの連絡手段として公衆電話が大活躍していたということであった。
 今ならさしずめ携帯電話やメールで簡単に連絡を取り合うところだが、相手の居場所が分からず連絡がなかなか取れなかったり、すれ違ったりと、このやきもきとする不便さがドラマを生んでくれていたのだ。
 時代の変化で仕方のないことなのだけれど、おそらく30年以上前のミステリーや恋愛ドラマの多くが、今だったらあり得ない設定となっているのではないだろうか。
 それはある意味で味気ないことでもあるだろう。
 ちなみに、この映画が作られた2年後の1985年にNTTが肩から下げる大型の携帯電話、ショルダーホンを発売している。
 この頃は手紙も原稿書きももちろん手書きが主流だった。ようやく仕事場のオフィスにワープロ機が何台か導入された頃ではなかったか。
 
 前回、阪神淡路大震災からすでに16年が経ったということに触れたのだが、世の中の変化ということを考えるとき、この1995(平成7)年が一つの転換点であったという気がする。
 この震災をきっかけとして、携帯電話が非常時に役立つということがクローズアップされたため、家族を口説いて購入するインセンティブとなったのだ。
 同年7月にはPHSがサービスを開始、9月時点の携帯電話の普及は650万台であったという。また、この年にはウィンドウズ95が発売され、パソコンが一般家庭にも浸透しはじめたように思う。
 翌1996年、ヤフー株式会社がアメリカのヤフー・コーポレーションと日本のソフトバンク株式会社によって共同設立され、Yahoo!JAPANが商用の検索エンジンとしてサービスを開始している。
 2000年には携帯電話の加入台数が5000万台を超え、固定電話を上回った。2007年にはそれが1億台を突破している。
 同じく2000年にISDNの定額制サービスが登場し、インターネット人口は以後増加の一途を辿ることになる。
 Yahoo!JAPANがサービスを開始した1996年から2年間の総ページビュー数は1000万PVだったそうだが、2009年時点でのそれは何と月間で約480億PVにも及んでいるという。
 まさにこうした携帯機器やインターネットサービスの普及は、人々の生活から仕事のあり方まで何もかもを暴力的なまでに大きく変えてしまったようだ。

 今ではツイッターが世界を変えつつある。
 若者がツイッター上で行った政権への退陣要求がエジプトでの国民的な運動に広がったと言われるように、この小さなつぶやきが実に大きな力を持つに至ったのだ。
 とは言え、考えてみれば1年ちょっと前まで、このツイッターはまだそれほど普及してはいなかったはずだ。それが今では、映画・演劇・展覧会の評判はもとより、政治ネタ、商品の口コミ宣伝等への反映、育児から介護までの様々な情報が飛び交うなど、そのつぶやきは世界中に満ち溢れるようになっている。

 こうした情報コミュニケーション技術の発達とともに私たちの生活が本当に豊かになったのかどうか、自問してみたい。
 コミュニケーションのための道具の発展とともに、まさにコミュニケーションの希薄化が始まったという気がしているのは、私ばかりではないだろう。

 先日、ある劇団の稽古場を覗いた時、出番のない若い役者たちがみな携帯のメールチェックにいそしんでいるのを見て唖然とした。
 口うるさく言うつもりはないけれど、これでは集中も何もあったものではない。
 稽古場から携帯を追放せよと叫びたい。