seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

Think Simple

2012-07-22 | 読書
 伝えるべきことをそのままに、真っ直ぐ伝えることは難しい。とても。
 情報はたいてい言葉を介して伝えられるのだが、言葉が全ての情報を包含しているとは限らない。それどころか余計な情報すら紛れ込ませて、受け取る側の判断を混乱させ、誤らせることすら度々である。
 もっとも伝えるべきこと、伝えたいことが「情報」に限るわけではない。伝達手段において、言葉以外の要素が大きな効果を発揮することは往々にしてある。
 先日、ある故人を偲ぶ会に出席してご遺族のご挨拶の言葉を聞きながら深い感銘を受けた。その言葉が歴史に残るような名言名句に彩られていたわけでは決してない。むしろ、言葉少なに、素朴な気持ちを語りかけたというふうだったのだが、今は亡き人を思う感情に溢れ、その思いは聴衆にストレートに伝わってきた。
 感情の強度が情報の総量を上回っていたのだ。

 大津中学校のいじめ問題に関する学校サイドや教育委員会の記者会見での言葉には、伝えるべき感情(真情といってもよい)が希薄で、しかも発信される情報が巧妙に隠微され粉飾されている、と思われるがゆえに信頼性は皆無と思えてしまう。
 政治家の言葉も同様で、政権与党を飛び出した一派が発する言葉はあたかも国民に寄り添うかのように振舞いながら、発信する情報の中身は空疎で、結局次の選挙目当てなのじゃないのと思われてしまうほどに振る舞いのあざとさばかりが目に付いてしまう。
 原発反対デモに前の前の首相が顔を出して声を発したそうなのだが、同じ「原発反対」という言葉でも、集会に参加した大半の人々とこの元首相の思い描く言葉とは大きな違いがあるのではないだろうか。
 そもそもこの元首相たる人物の言葉にどれほど多くの人が信頼を持ちえているのかは不明だが、それでもこの方の登場に集会では一部の人々から大歓声が上がったというのだからワケガワカラナイというしかない。有象無象の人々がたくさん集まって一時の感情が盛り上がった時の風向きにはよくよく注意しなければならないということの証左ではないだろうか。

 さて、最近思うのは、組織における言葉や情報とそれを取り巻く感情のありようについてである。
 この「感情」というものが実に厄介至極なのである。
 感情は論理ではなく偏光プリズムのようなものだから、たとえ論理的に正しいことであってもその光の方向を偏らせたり、遮断したりもする。それどころか思いもかけない光彩を生み出して染め上げることさえあり得るかも知れないのだ。

 演劇の製作現場はもっともシンプルなあらゆる組織の雛形といってもよいかも知れないが、そこでは演出家や芸術監督が自分のビジョンを俳優やスタッフに理解させ、意図に沿った舞台成果を実現するために千万言を費やし、挙句の果ては怒鳴りまくったり、おどしたり、おだてたり、すかしたり、なだめたり、口説いたり、泣き叫んだり、最後には灰皿を投げたりとあらゆる手立て、手練手管を尽くそうとする。
 ことほどさように言葉で誰かの頭の中に「ある」と思われる考えやらアイデアを他人に伝えることは困難なことなのだ。
 まして、舞台製作という小さな現場以上に複雑で資金や思惑の入り乱れる現実社会の組織における意志伝達は、恐るべき難度の高さを持っているというしかない。
 結局のところ、私たち人間はあまりに余計なものを目にし、余分な考えや憶測や不確かな情報に足元を絡みとられ、その泥沼からなかなか抜け出すことが出来なくなっているのではないだろうか。

 広告のクリエイティブ・ディレクターとしてスティーブ・ジョブズと12年間をともにし、アップルの復活に大きな役割を果たしたケン・シーガルはその著作「Think Simple」のなかで、シンプルであること、明快であることの重要性を語っている。
 「・・・・・・アップルと働いているときには、自分が今どこに立っていて、何が目標で、いつまでにする必要があるかがはっきりとわかる。どういう結果が失敗を意味するかもわかる。」
 「明快さは組織を前進させる。たまに明快なのではなく、24時間いつでもどこでも明快でなければならない。(中略)ほとんどの人は自分のいる組織に明快さが欠けていることに気づかないが、その行動の90%はそうなのだ。」
 「スティーブは自分が実行している率直なコミュニケーションを他人にも求めた。もってまわった言い方をする人間にはがまんできなかった。要領を得ない話は中断させた。」
 「おそらくこれは、もっとも実践しやすいシンプルさの一要素だろう。とにかく正直になり、出し渋らないことだ。一緒に働く人にも同じことを求めよう。」
 「他人に対して率直になることは、薄情な人間になることではない。人を操ることに長けたり、意地悪になったりすることを求めてもいない。自分のチームに最高の結果をもたらすために、ただ言うべきことを言うことなのだ。」

 多くの組織では、トップの言葉に取り巻きが無用の忖度を加え、飾り立てるがゆえに、あるいはトップ自身の意思が不明確で受け手によっていかようにも解釈可能であるがゆえに、あるいは情報が共有化されず不確かなまま輻輳してより複雑化するがゆえに、実に多大な労力が非生産的な時間として空費される。
 そのための処方箋は実にシンプルなはずだが、実行は困難だ。
 それゆえにスティーブ・ジョブズは偉大なのである。少しばかり付き合いにくいところのある人物であったとしても。
 「残酷なまでに正直なことと、たんなる残酷なことはまったく違う」のだ。

楽園のカンヴァス

2012-07-07 | 読書
 原田マハの山本周五郎賞受賞作「楽園のカンヴァス」を読んだ。
 アンリ・ルソーの最晩年の作品「夢」と、それに酷似した作品の真贋をめぐって繰り広げられる美術ミステリーである。折しも本作は直木賞候補作に名を連ねたとの報道があったばかり。ネタバレに留意しながらメモしておこう。

 故郷の岡山・倉敷にある美術館で監視員をしている早川織絵だが、実はかつては天才的な視点で次々と論文を発表し、国際美術史学会で注目を集めた研究者だった。
 その彼女に、某新聞社の文化事業部長らから声がかかる。その新聞社が国内の美術館と組んで開催する大規模なルソー展にニューヨーク近代美術館所蔵の「夢」を招聘する交渉の中で、先方の学芸部長ティム・ブラウンから、織絵が日本側の交渉窓口になるなら貸し出してもよいとの条件が示されたというのだ。
 と、そこから話は17年前のティムと織絵との出会いに遡っていく……。

 17年前の1983年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のアシスタント・キュレーター、ティム・ブラウンにあるコレクターの代理人から一通の手紙が届く。素朴派の画家アンリ・ルソーの名作を所有している、それを調査してほしいとの依頼だった。スイスの大邸宅に向かったティムは、そこでありえない絵を目にする。MoMAが所蔵するアンリ・ルソーの大作「夢」とほぼ同じ構図、同じタッチの絵がそこにはあったのだ。持ち主の大富豪は、真贋を正しく判断した者にこの作品の取り扱い権利を譲渡すると宣言する。
 ヒントとなる古書を渡されたティムと、鑑定のライバル、日本人研究者の早川織絵。ふたりの研究者に与えられたリミットは7日間。この絵は贋作か、それとも真作なのか?
 伝説のコレクター、美術館職員、オークション会社からインターポールまで、さまざまな思惑の交錯するなか、その作品の謎を追って、小説の舞台は倉敷、ニューヨーク、バーゼル、パリをめぐる……。

 とまあ、概要はこんなストーリーである。ミステリー仕立ての小説ではあるのだが、おそらく作者は本格ミステリーを書くことが目的だったわけではないように思われる。
 ミステリーの形式を借りながら、そこで描きたかったのは、アートへの熱い思いであり、芸術家の才能がいかに生まれ、見出されていくのかといった奇跡の物語なのではないか、と感じるのだ。
 いささかおとぎ話めいたルソーと彼を取り巻く当時のパリに集まった綺羅星のような芸術家たちの交流、ルソーの美のミューズとなる洗濯女ヤドヴィガとの出会い、そして何よりルソーの才能をいち早く見抜いた天才、パブロ・ピカソの炯眼と友情。
 さらには貧窮と苦悩のなかから生み出された芸術作品を愛してやまない人々の姿。
 そうしたもののすべてが作者の描きたかったものなのだろう。
 作者自身、森美術館の開設準備に携わったり、MoMAでの勤務経験を持ち、フリーのキュレーターとしての豊富なキャリアを持っており、そうした中で育まれたアートへの愛が深くこめられた小説なのだ。
 ヤドヴィガへのルソーの一途な思いに同情し、ピカソの姿に心躍らせられながら、何より、ティム・ブラウンと織絵の二人の主人公のルソーの作品への思いとともに深まりゆくお互い同士の愛の行方に心が熱くなる。
 それはこんな文章に表れているだろう。以下、引用。

 「このさき、自分をどんな運命が待ち受けていても、どんな立場になっても。アートに寄り添って生きる、自分の決心は変わらない。」
 「君の人生が、豊かであるように。いつまでも、アートに寄り添う人生であるように。そして、いつかまた、会えるように――。」
 「生きてる。/絵が、生きている。/そのひと言が真理だった。この百年のあいだ、モダン・アートを見出し、モダン・アートに魅せられた幾千、幾万の人々の胸に宿ったひと言だったのだ。」

 最終章のこれらのくだりからは読みながら胸がいっぱいになってしまった。
 最近、私自身がアートから見放されたように感じていたからだろうか……。
 ラストシーンの心地よい余韻が心を打つ。ミステリーの形式によるアートを介した恋愛小説の佳品である。



古い船を動かすのは

2012-07-05 | 雑感
 新聞を読んでいると何とも悲観的な気分になってしまうことが多いものだが、そんな記事を引用しながらとりとめのない話をしよう。

 7月2日、欧州連合統計局が発表したユーロ圏の5月の失業率が11.1%となり、統計上比較可能な1995年以降で最悪を更新したとの報道があった。
 ユーロ圏では南欧を中心に失業率の悪化が続き、失業者は1756万人に達し、前年比で182万人増加した。
 特に、EUに金融支援をしたスペインでは5月の失業率が24.6%となり、特に若年層(25歳以下)では52.1%に達した。少なくとも2人に1人が仕事に就けない状況に陥っているのだ。

 片やわが国の状況はどうだろう。少子化を反映して若年人口は大きく減少している。企業がこれまでと同じ水準で採用を維持していれば人手不足になり、就職活動は楽になっていたはずだが、実際には構造的変化や景気循環の影響により、人口が減少する以上に上質な雇用機会が減ったことで就職難が続いている。
 樋口美雄慶大教授(7月3日付、日本経済新聞経済教室)によれば、15歳~24歳の男子人口は2010年までの15年間で31.2%も減ったが、正規雇用はこれを上回る52.9%も減ったという。
 学卒後の25~34歳層においても同様で、この年齢層の男子人口は同期間に51万人減ったが、正規雇用は128万人も急減した。
 一方、非正規雇用の割合は15年前には2.5%であったものが、今では11.5%にまで上昇しているという。

 日本は、そして世界は、これからどうなっていくのだろう。
 ため息ばかりが先に立ってしまうけれど、若い世代が素朴に夢を持って自身の人生設計を語ることのできる、ごくごく当たり前の社会づくりの構想ができないものだろうか。

 私の尊敬する知人で税理士のMさんが、「グローバル化というのは、熱い経済と冷え切った経済を混ぜ合わせてぬるま湯にするようなものだから、これが進展したからといってこの先景気のよくなるはずがない」と言っていたのを思い出す。妙に納得したものだ。
 世界の人口70億人のうち、年間所得が2万ドルを超える層は約2億人であるのに対し、年間わずか3000ドル以下の低所得層は実に40億人を超えるという。
 富裕層と呼ばれるのは、そうしたピラミッドの頂点にある砂粒のような数の人々なのだ。
 企業はより低廉で長時間労働にも耐えうる労働者を求めて根なし草のように世界を巡る。その地域に根を張って産業を育むとか雇用を守ろうとの志も責任感も意欲もなく、後には荒れ果てた土地だけが残されるだろう。インターネットやコンピュータの発展がそれを可能なものとして後押しし、生産性向上の名のもとに人々から働き口を奪っていく……。

 日本の地方都市の街並みがどこも同じような顔になってしまったように、やがて世界もフラット化し、均質化して、世界中の何でもが手に入るがその土地ならではのものが何もないといった、のっぺりとして無機質な社会になりつつあるのだろうか。

 1に雇用、2に雇用、最も重要なのは雇用政策だと言ったのは何代前の総理大臣だったっけ? そうした政策の芽がどれだけ育ったというのか。
 創業して40年以上経過した企業では社員が高年齢化し平均して雇用が減少しているという。その一方、創業して間もない若い企業は倒産のリスクも高いが雇用を増やしている、ということは昨年の中小企業白書にも書かれていた。
 先述の樋口教授の寄稿論文のなかに、あるスーパーマーケットでは、正社員を増やし、そのことで人件費は上昇したが、それ以上にその人たちの能力発揮で売り上げが伸び、利益が増えたという事例が紹介されている。
 いらぬ政争に明け暮れしているゆとりなどないはずだ。若い世代の起業を促し、雇用を創出し、正社員を増やすために、法と規制と財政投資によって企業を誘導する、それとともに海外からの投資を呼び込むような規制緩和にも取り組む、そうした多面的なあらゆる手立てをもって内需を拡大していくような政策を政府は講じるべきなのではないだろうか。
 そこにもう一つ、文化政策が何よりも重要であることを忘れてはならないだろう。
 フラット化した世界にあって、その国、その地域、その土地のアイデンティティを育み、表わすものは文化にほかならないのだから。

 団塊の世代がすでに高齢者と呼ばれる年代になり、10年後には後期高齢者となる。
 シンガーソングライター(懐かしい呼称だ!)の吉田拓郎はその世代の代表であり、僕ら世代にとってはあこがれのお兄さんだった。
 その拓郎の歌を思い出す。

  古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう
  古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう……

ミレニアム

2012-07-03 | 読書
 スティーグ・ラーソン著「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」を読んだ。
 2005年にスウェーデンで刊行、日本でも3年ほど前に発売されて評判になり、本国で映画化された作品も世界中でヒットしたばかりかハリウッド版のリメイク作品も主演女優が米アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされるなど話題になって久しくすでにDVD化されているのだから何を今さらと笑われることは百も承知で言うのだけれど、いやあ面白かったなあ。
 文庫本の帯にあるような読者の「面白すぎて徹夜してしまった」「どうしても読むのがやめられない」という言葉もウソではないと素直に納得するほど夢中になってしまった。こんなに集中して頭がフラフラになるほどのめり込んで読書するのは最近では滅多にないことなのだ。
 ついでにスウェーデン版の映画もDVDで観て堪能してしまった。

 本作は、ジャーナリストであったラーソンがパートナーの女性エヴァ・ガブリエルソンと執筆した処女小説にして絶筆作品であり、ラーソンは第1部の発売もシリーズの成功も見ることなく2004年に心筋梗塞で急死した、ということも伝説を象る大きな要素となっている。
 シリーズ全篇を通して女性への偏見・軽蔑・暴力がテーマとなっているが、そればかりではない社会的スケールの大きさがある。それでいて読者の興味と集中力を一刻も逸らさないこの求心力は一体何によるものなのか。

 物語は雑誌「ミレニアム」の編集者ミカエル・ブルムクヴィストの視点を中心に描かれるが、もう一人の主人公、身長154cmのまるで少年と見紛うような、無表情の、背中にドラゴンのタトゥーを背負った天才ハッカー、女調査員リスベット・サランデルの抗しがたい魅力は読む者の心を捉えて離さない。
 映画は3時間、映画館では興行上の都合からぐっと短縮されているから、上下巻900ページに及ぶ原作のいくばくかは省略やほのめかし、大胆なカットによって改編せざるを得ない。そのどこをどうやって料理したかも監督の腕の見せどころなのだろう。
 ミカエルの放縦ともいえるセックスライフがお行儀のよいものになっていたのはまあ仕方ないとして、ラスト近くで描かれていたリスベットのミカエルへのほのかな恋の芽生えや切ない思いが、跡形もなく消えていたのは残念としか言いようがない。

 さて、本作にはもう一つ経済小説という側面も隠し味としてあって、構想の大きさを感じさせる要素になっている。
 少しばかりラスト近い場面から引用する。
 最後、ミカエルは宿敵となった実業家の不正を暴き勝利を収めるが、その結果、ストックホルム市場で株価が急落し、窓から身を投げるしかないという若い投資家が続出する。そうしたスウェーデン経済の破綻に「ミレニアム」はどう責任を取るのかとマスコミの取材者に問い詰められた場面でのミカエルの対応だ。
 スウェーデン経済が破綻しつつあるというのはナンセンス、と彼は即座に切り返す。
 「スウェーデン経済とスウェーデンの株式市場を混同してはいけません。スウェーデン経済とは、この国で日々生産されている商品とサービスの総量です。それはエリクソンの携帯電話であり、ボルボの自動車であり、スカン社の鶏肉であり、キルナとシェーヴデを結ぶ交通です。これこそがスウェーデン経済であって、その活力は一週間前から何も変わっていません。」
 「株式市場はこれとはまったく別物です。そこには経済もなければ、商品やサービスの生産もない。あるのは幻想だけです。企業の価値を時々刻々、十億単位で勝手に決めつけているだけなんです。現実ともスウェーデン経済とも何のかかわりもありません。」

 カッコいいなあ……。
 日本の小説の主人公がこんなセリフを口に出来るだろうか。わが国の産業について、私たちはこれほどの矜持を持って熱く語ることが出来るだろうか。
 問題は、グローバル化や空洞化の進展するなかで企業家たちが誇りも何もかなぐり捨てたかのように生き残りだけを自己目的化したかと思える事業戦略の中で、産業そのものがこの国から失われつつあるのではないかとの疑念を拭いきれないことである。そんな国で若者はどんな夢を見ればよいのか。
 ミステリーの面白さに現実を忘れたその後のふとした時間にそんな思いが忍び寄る……。


私を文楽に連れてって

2012-07-02 | 文化政策
 6月30日付の毎日新聞に「大阪市 文楽補助金 全額カットへ」の見出しが躍っていた。
 大阪市の橋本市長が、公益財団法人「文楽協会」への補助金について、予算ヒアリングのため申し入れていた面会を人間国宝に拒否されたとして「特権意識にまみれた今の文楽界を守る必要はない」と、全額カットする意向を表明した、というものである。
 市は今年度本格予算案に昨年比25%減の3900万円を計上しているが、市長は議会で可決されても執行しない方針という。
 一方、文楽トップの人間国宝、竹本住大夫さんは「面会の申し込みがあったとは聞いていません」と驚き、「こっちが会いたいです」と話した、とのこと。

 何かとてつもない行き違いか勘違いがあったのだろうか。何か言葉に言い表せないもやもや感が胸に残る。当の橋本市長はなぜこれほどまでに文楽を目の仇にするのだろう。
 もっとも府知事時代に大阪(現・日本)センチュリー交響楽団への補助金を全廃するなど、文化助成に大ナタを振るってきた人だから、文楽だけを狙い撃ちにしているわけではないのかも知れないのだが。

 この問題については、同じく毎日新聞6月1日付夕刊の特集ワイドで大きく取り上げられていた。
 これによると、当時、府知事だった時には一度見に来ただけで、「こんなんに3時間も4時間も座っているのはつらい」と切り捨て、「2度目は行かない」と言ったとか。その後、府知事は文楽協会への大阪府補助金3631万円の約43%を削減した。
 これに対し、多くの識者から批判の渦が巻き起こったのは周知の事実。その後、橋本市長は「文楽は守るが、文楽協会は守らない」と発言し、これまた波紋を呼んだとか。

 市長にとっては文楽も歌舞伎も落語もポップ系の歌手もアイドルも芸能人も違いはないようだから、公的に守るべき文化なんて青くさい論ははなから聞く耳を持たないのかも知れない。
 でも、この場合、圧倒的に権力を持っているのは市長の側なのだから、「特権意識にまみれた今の文楽界云々」という発言はいかがなものだろうか。

 もちろん様々な意見があって、文楽擁護派のコシノヒロコさんも文楽の素晴らしさや守るべき文化の大切さを訴える一方、文楽の側にもこれまで甘えがあったのではないか、観客を育てるという努力をしてこなかったのではないかと苦言を呈している。
 それは十分に理のある話で納得もするし、文楽界にもしっかりしろよと声もかけたくなるけれど、それにしても大阪市長は約267万人の人口を擁する大都市・自治体の代表であり、顔でもある。そうした立場にある人が自分の価値観を一方的に押し付け、その価値観で相手の矜持も培ってきた伝統も何もかも問答無用で捻り潰そうとするのは考え物である。
 自治も文化もケンカではない。ただ議論に勝てばよいというものではないのだ。

 いっそ若い世代に人気のある市長のことだ。それなら持ち前の弁舌とカリスマ性で若者たちに呼びかけてはどうだろう。
 「みんなで文楽を観に行こう! 文楽協会はけしからんが、文楽を観ないのは大阪人の恥や!」くらいのことは言ってもらいたい。
 たとえばそれで10万人の若者たちが呼びかけに応じて文楽のチケットを買って観に行ってくれたら、それだけでカットされた補助金くらいカバーできるというものだ。
 橋本市長はその功績によって我が国の古典芸能の救世主として永遠に名を残すことになるだろう。そうなればもう誰にもハシズムなどとは言わせない。
 「私を文楽に連れてってー」と皆で声高らかに歌うことにしよう。

人は成熟するにつれて若くなる

2012-07-01 | アート
 今からちょうど80年前の昭和7年、画家の熊谷守一は東京・豊島区千早町に居を定めた。その旧居跡が、現在、豊島区立熊谷守一美術館となっている場所である。
 80年前の豊島区はどんな様子だったのだろうか。
 昭和46年6月に日本経済新聞に掲載された熊谷守一の「私の履歴書」には、「(そのころ)まわりはまだ草っぱらと畑だけでした。十町以上も先のずうっと目白通りまでが、すっかり見渡せました。途中は、ケヤキの木に囲まれた百姓家が数軒見えるだけです。」と書かれている。

 それからわずか9年遡った大正12年、東京は関東大震災によって壊滅的な被害を受けていた。昭和初年以降、当時はのどかな郊外の農村地帯だった現在の豊島区地域には、比較的地盤の固い土地柄に惹かれて工場や学校が移転し、さらにはその周辺に人々が住み着いて次第に都市化の波が押し寄せてくる。
 長崎村と呼ばれた地域には美術学校に通う学生目当てのアトリエ付きの下宿が生まれ、そこに学生ばかりでなく若い貧しい芸術家や物書きの卵、キネマ俳優などが移り住み、やがていつしか「長崎アトリエ村」と呼ばれる様相を呈するようになる。
 熊谷守一はそうした若い芸術家たちの守護神的存在でもあった。

 その豊島区も(東京全体がそうなのだが)昭和20年3月から4月にかけての東京大空襲で再び焼け野原となる。
 当時の様子は、洋画家の鶴田吾郎が描いた「池袋への道」からも窺うことができる。
 池袋から一駅離れた今の要町あたりから池袋を見た光景なのだが、一面焼け野原で瓦礫ばかりとなった道を復員兵姿の男が重い荷を担いでとぼとぼと歩いて行く。野っぱらの向こうに小さく白い土蔵が見えるのだが、それが江戸川乱歩の幻影城と呼ばれた土蔵なのである。

 建築家の隈研吾氏によると「建築の歴史をよく検討してみれば、悲劇から新しいムーブメントが起きている」そうなのだが、たしかに関東大震災と東京大空襲という四半世紀の間に立て続けに起こった災厄が街の様相も文化も大きく変えてしまったことは間違いない。そうした観点からの文化の検証はなされてしかるべきだろう。
 
 さて、「私の履歴書」の連載時、守一は91歳だったが、朝は6時頃に起床、軽い朝食をすませると庭に出て植木をいじったり、ゴミを燃したりしたあとは、奥様の仕事が終わるのを待って二人で囲碁を楽しんだという。もっともその腕前は、噂を聞いて取材に来た囲碁雑誌の記者が呆れて帰って行ったというほどだから自分たちが楽しければよいというくらいのものだったのだろう。
昼過ぎから夕方までは昼寝をし、夜になってから絵を描いたり、書をかいたりと仕事をしたようだ。いま何が望みか、との問いには「いのち」と答え、「これからもどんどん生き続けて、自分の好きなことをやっていくつもり」と書いている。
 ちょっと羨ましい、思ってしまう。

 熊谷守一とほぼ同世代のドイツの詩人・作家ヘルマン・ヘッセは、「人は成熟するにつれて若くなる」と言っている。その真意は、たとえ老年になっていろいろな力や能力が失われたとしても、人は少年・少女時代の生活感情を心の底にずっと持ち続けているし、すべてのはかないものや過ぎ去ったもののうちの何ひとつ失うことなく、むしろより豊かにそれらを反芻し、味わうことができる、ということだと思われる。

 守一は、97歳で没する最晩年まで創作を続け、「自分は誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせる。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせる」と言っているのだが、これもまた、石ころとの対話をとおして、自身の様々な感情や思い出と語り合い、それらを味わい、観察することの豊かさや素晴らしさを意味しているように思われる。
 人が歳を重ねて肉体的に衰え、かつてのような体力や瑞々しい肌つやを失うことは当然のことなのだが、それ以上に人は精神の輝きを得ることが出来るのではないか。
 余計な欲得勘定や虚飾を剥ぎ取っていく中で、より純粋で単純なものが見えてくる。
 熊谷守一の晩年における驚くほど素朴で、しかし絶妙のデザイン性に裏打ちされた作品群はそうした成熟の中から生まれたのである。