11月9日、フェスティバル/トーキョーの主催演目、「レヒニッツ(皆殺しの天使)」を観た。作:エルフリーデ・イェリネク、演出:ヨッシ・ヴィーラー、製作:ミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場、会場:東京芸術劇場プレイハウス。
第二次世界大戦の終結も間近なある夜、オーストリア=ハンガリー帝国国境付近のレヒニッツ村の城で、ナチス親衛隊、ゲシュタポ、地元ナチ党党員による「友愛パーティ」が開かれ、その最中、パーティの余興として200人弱のユダヤ人強制労働従事者が虐殺された。
本作はその酸鼻を極めた事件をもとに、ノーベル賞受賞作家エルフリーデ・イェリネクが書いた戯曲に基づく作品である。
舞台上には5人の「報告者」が登場し、事件の詳細を語ろうとするが、彼らの証言は、重複や脱線を繰り返し、語り手が誰なのか、どの立場の者(=加害者、被害者、観察者)なのかさえあやふやなまま、矛盾を孕みつつ迷走する。
この事件は、戦後、捜査の最中に目撃者が殺害されたこともあり、銃声や撃たれた人々の悲鳴については人々の口から口へと伝えられながら、真実は闇の中に深く隠微されたまま沈黙の壁によって遮断されているという。
イェリネクは、多言語を用い、言葉を不規則に分解し、膨張させ、饒舌にお喋りを続けながらも真実を語らないことで沈黙を貫こうとする人々の状況を焙り出す。
プログラムに書かれたドラマトゥルクのユリア・ロホテの言葉――、
「……第二次世界大戦の被害者・加害者・目撃者が刻々と減っている中、今日の報告者の証言に関する状況はどのようなものになるのだろうか。
歴史は引火点であり続ける、それを消し去ることはできない。誰かが消し去ろうとすればするほど、それは燃え上がる。……」
この舞台を観ながら、例えば現在の日韓両国をめぐる状況、従軍慰安婦に関する様々な言説を想起することは容易だろう。証拠がないから事実がなかったのではないということを、歴史に向き合う中で私たちは真摯に考え続けなければならない。
さて、そうは言いながら、この舞台、言葉が一切分からない私のような日本人観客にとって、これをどのように受け止め、評価するかは難しい問題だ、というのが正直な感想だ。
言葉の意味は字幕によって知らされるけれど、それが省略によるものなのか、意訳なのか悪訳なのか、原文に忠実ゆえの意味不明さなのか、咀嚼できないまま苛立ってしまうのだ。
以前、作家の故・丸谷才一氏が、2011年4月、シアターイワトでの公演「演劇でもオペラでもない、作品でさえないこころみ」に立ち会っての感想を書いていたのを思い出す。確か今年の1月、ピアニストの高橋悠治氏の著作に対する書評の中での感想だ。
「感覚の斬新と趣向の妙と豊かなエネルギーに熱中したり、疲れ果てたりした。」と作家は書くのだ。
「文学の場合と違い、パフォーミング・アーツは、テクストを読み返したり、飛ばし読みしたりするわけにはいかない。そういうジョイスやプルーストやカフカの読者の特権はわれわれには与えられていないから、芸術の新しい形態や方向を探求することの当事者となる者、すなわち享受者の責任の取り方はむずかしい。」
文学者と舞台芸術家の感性の相違を面白く感じながら、おそらくはつまらなかったのだろうと思われる舞台の感想をさすがにうまく表現するものだなあと感心したものだが、この「レヒニッツ(皆殺しの天使)」を観ながら、私はそんな言葉を思い返していたのだった。
第二次世界大戦の終結も間近なある夜、オーストリア=ハンガリー帝国国境付近のレヒニッツ村の城で、ナチス親衛隊、ゲシュタポ、地元ナチ党党員による「友愛パーティ」が開かれ、その最中、パーティの余興として200人弱のユダヤ人強制労働従事者が虐殺された。
本作はその酸鼻を極めた事件をもとに、ノーベル賞受賞作家エルフリーデ・イェリネクが書いた戯曲に基づく作品である。
舞台上には5人の「報告者」が登場し、事件の詳細を語ろうとするが、彼らの証言は、重複や脱線を繰り返し、語り手が誰なのか、どの立場の者(=加害者、被害者、観察者)なのかさえあやふやなまま、矛盾を孕みつつ迷走する。
この事件は、戦後、捜査の最中に目撃者が殺害されたこともあり、銃声や撃たれた人々の悲鳴については人々の口から口へと伝えられながら、真実は闇の中に深く隠微されたまま沈黙の壁によって遮断されているという。
イェリネクは、多言語を用い、言葉を不規則に分解し、膨張させ、饒舌にお喋りを続けながらも真実を語らないことで沈黙を貫こうとする人々の状況を焙り出す。
プログラムに書かれたドラマトゥルクのユリア・ロホテの言葉――、
「……第二次世界大戦の被害者・加害者・目撃者が刻々と減っている中、今日の報告者の証言に関する状況はどのようなものになるのだろうか。
歴史は引火点であり続ける、それを消し去ることはできない。誰かが消し去ろうとすればするほど、それは燃え上がる。……」
この舞台を観ながら、例えば現在の日韓両国をめぐる状況、従軍慰安婦に関する様々な言説を想起することは容易だろう。証拠がないから事実がなかったのではないということを、歴史に向き合う中で私たちは真摯に考え続けなければならない。
さて、そうは言いながら、この舞台、言葉が一切分からない私のような日本人観客にとって、これをどのように受け止め、評価するかは難しい問題だ、というのが正直な感想だ。
言葉の意味は字幕によって知らされるけれど、それが省略によるものなのか、意訳なのか悪訳なのか、原文に忠実ゆえの意味不明さなのか、咀嚼できないまま苛立ってしまうのだ。
以前、作家の故・丸谷才一氏が、2011年4月、シアターイワトでの公演「演劇でもオペラでもない、作品でさえないこころみ」に立ち会っての感想を書いていたのを思い出す。確か今年の1月、ピアニストの高橋悠治氏の著作に対する書評の中での感想だ。
「感覚の斬新と趣向の妙と豊かなエネルギーに熱中したり、疲れ果てたりした。」と作家は書くのだ。
「文学の場合と違い、パフォーミング・アーツは、テクストを読み返したり、飛ばし読みしたりするわけにはいかない。そういうジョイスやプルーストやカフカの読者の特権はわれわれには与えられていないから、芸術の新しい形態や方向を探求することの当事者となる者、すなわち享受者の責任の取り方はむずかしい。」
文学者と舞台芸術家の感性の相違を面白く感じながら、おそらくはつまらなかったのだろうと思われる舞台の感想をさすがにうまく表現するものだなあと感心したものだが、この「レヒニッツ(皆殺しの天使)」を観ながら、私はそんな言葉を思い返していたのだった。