映画「マーガレット・サッチャー」についてもう少し書いておきたい。
うまく説明できるかどうか分からないのだが、ここで言いたいのは、この映画がひとえにメリル・ストリープの「一人芝居」のために設えられた「舞台=世界」であるということだ。
本作が、いわゆる政治家の伝記映画でないことは明白だろう。彼女がどのような主義主張を持ち、その思念と哲学をどのように鍛え上げ、どのような葛藤の中で政治家としての地歩を固めていったのかというようなことが詳細に描かれているわけではないのだ。
その意味で本作には、政治家志望の若者にとっての参考になるとか、人生哲学を学び取ろうとする人々に何らかの示唆を与えるといった要素がまるでない、と言ってよい。
とある食料雑貨店でミルクを買うためにレジに並ぶ老女のクローズアップで始まる映画の冒頭、誰もこの老いた女性がかつての英国首相であるなどとは気がつかない。
次のシーン、彼女は薄い焦げたトーストにゆで卵と紅茶という質素な朝食のテーブルに夫デニスとともにいる。ひとしきり夫との会話が交わされた次の瞬間、テーブルの前にぽつねんと座っているのは彼女一人であり、夫の姿は老女の見た幻影に過ぎなかったことが観客に示される。雑貨店でミルクを買ったのも、軽い認知症を患う彼女の徘徊の有り様であったのだ。
これは、老残のなかにある一人の女性の幻想の物語であり、あらゆる権威を剥ぎ取られた王の物語である。まさに狂気の淵を歩く「リア王」のごとき老いた英雄をメリル・ストリープは演じるのだ。
そのあとに展開される若き日々の姿も、強烈なリーダーシップで国を率いる姿も、すべては幻想に過ぎない。あったかも知れず、なかったかも知れない、そんな「うたかたの夢」をこの人物も、私たちもまた生きるしかない……。
そうした夢の世界に生きる老女の独り語りによってこの映画は成り立っている。無論、語るのは女優メリル・ストリープである。
この映画では、メリル・ストリープのそっくりさんぶりが大きな話題となった。メイクアップ、髪型はもちろん、イギリス英語のアクセント等々、まるでマーガレット・サッチャーが乗り移ったかのような演技は称賛に値する。
ところで、思い返してみると、彼女がメイクアップに頼ったのは最晩年のシーンであり、壮年期の場面ではそれほど凝ったメイクをしていたわけではない。
映画を観ている最中、私たちはメリル・ストリープの演じる姿に疑いもなくサッチャーの姿を思い描いていて、そのあまりの似姿に驚きも感じるのだが、後になってパンフレットの写真を見ると、そこには本来のメリル・ストリープが映っている、ということを発見して二度驚かされる。
これこそがまさに「演技」の力にほかならないのだろう。
うまく説明できないのだけれど、通常、映画を観るとき、私たちは登場人物に感情移入しながら、スクリーン上の人物が実在のもの、現実にこんな人物がいるのだということを感じながら観ている。
だが、この映画では、実在のサッチャーの姿を私たちは知っており、なおかつ、そのサッチャーをメリル・ストリープが演じているということを知りながら、そのうえで感情移入するという回路を辿ることになる。
この映画が、より演劇に近接しているということの何よりの証左だろう。
優れた俳優の演技を観ることの快楽がそこにはある。
余談だが、彼女が党首選に打って出ようとした時、参謀格の議員の勧めで、声のトーンを下げるため、トレーナーについてボイストレーニングをするシーンがある。
「英国王のスピーチ」のシーンとダブって思わず笑みを浮かべてしまったが、政治とはまさに演劇なのだということを雄弁に語っていて私はとても気に入っている。
うまく説明できるかどうか分からないのだが、ここで言いたいのは、この映画がひとえにメリル・ストリープの「一人芝居」のために設えられた「舞台=世界」であるということだ。
本作が、いわゆる政治家の伝記映画でないことは明白だろう。彼女がどのような主義主張を持ち、その思念と哲学をどのように鍛え上げ、どのような葛藤の中で政治家としての地歩を固めていったのかというようなことが詳細に描かれているわけではないのだ。
その意味で本作には、政治家志望の若者にとっての参考になるとか、人生哲学を学び取ろうとする人々に何らかの示唆を与えるといった要素がまるでない、と言ってよい。
とある食料雑貨店でミルクを買うためにレジに並ぶ老女のクローズアップで始まる映画の冒頭、誰もこの老いた女性がかつての英国首相であるなどとは気がつかない。
次のシーン、彼女は薄い焦げたトーストにゆで卵と紅茶という質素な朝食のテーブルに夫デニスとともにいる。ひとしきり夫との会話が交わされた次の瞬間、テーブルの前にぽつねんと座っているのは彼女一人であり、夫の姿は老女の見た幻影に過ぎなかったことが観客に示される。雑貨店でミルクを買ったのも、軽い認知症を患う彼女の徘徊の有り様であったのだ。
これは、老残のなかにある一人の女性の幻想の物語であり、あらゆる権威を剥ぎ取られた王の物語である。まさに狂気の淵を歩く「リア王」のごとき老いた英雄をメリル・ストリープは演じるのだ。
そのあとに展開される若き日々の姿も、強烈なリーダーシップで国を率いる姿も、すべては幻想に過ぎない。あったかも知れず、なかったかも知れない、そんな「うたかたの夢」をこの人物も、私たちもまた生きるしかない……。
そうした夢の世界に生きる老女の独り語りによってこの映画は成り立っている。無論、語るのは女優メリル・ストリープである。
この映画では、メリル・ストリープのそっくりさんぶりが大きな話題となった。メイクアップ、髪型はもちろん、イギリス英語のアクセント等々、まるでマーガレット・サッチャーが乗り移ったかのような演技は称賛に値する。
ところで、思い返してみると、彼女がメイクアップに頼ったのは最晩年のシーンであり、壮年期の場面ではそれほど凝ったメイクをしていたわけではない。
映画を観ている最中、私たちはメリル・ストリープの演じる姿に疑いもなくサッチャーの姿を思い描いていて、そのあまりの似姿に驚きも感じるのだが、後になってパンフレットの写真を見ると、そこには本来のメリル・ストリープが映っている、ということを発見して二度驚かされる。
これこそがまさに「演技」の力にほかならないのだろう。
うまく説明できないのだけれど、通常、映画を観るとき、私たちは登場人物に感情移入しながら、スクリーン上の人物が実在のもの、現実にこんな人物がいるのだということを感じながら観ている。
だが、この映画では、実在のサッチャーの姿を私たちは知っており、なおかつ、そのサッチャーをメリル・ストリープが演じているということを知りながら、そのうえで感情移入するという回路を辿ることになる。
この映画が、より演劇に近接しているということの何よりの証左だろう。
優れた俳優の演技を観ることの快楽がそこにはある。
余談だが、彼女が党首選に打って出ようとした時、参謀格の議員の勧めで、声のトーンを下げるため、トレーナーについてボイストレーニングをするシーンがある。
「英国王のスピーチ」のシーンとダブって思わず笑みを浮かべてしまったが、政治とはまさに演劇なのだということを雄弁に語っていて私はとても気に入っている。