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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

芸術家と長寿 その2

2009-12-31 | アート
 名だたる芸術家のなかでも天才中の天才と称されるパブロ・ピカソは生涯に6万点とも8万点ともいわれる作品を残したと言われる。
 これは創作に費やした期間を仮に10歳前後から死ぬまでの80年間と想定して、1日あたり2~3点の作品を毎日毎日創り続けた数に匹敵する膨大な量である。
 常人を超える精力の持ち主なればこそとも言えるけれど、ピカソはそうした集中力やエネルギーを持続するために、時代ごとに表現様式を全く別のものに変えたり、絵画にとどまらず彫刻、版画、陶器、舞台衣装、舞台美術など、興味の赴くままに取り組む表現分野を変えるなど、様々な工夫をし、それをある意味で《技=術》化していたと言えるだろう。

 マリ=ロール・ベルナダック、ポール・デュ・ブーシェ著「ピカソ 天才とその世紀」によれば、ピカソは、無駄な動きを一切せずに、3、4時間あまりも立ったまま続けて描くことができたそうだ。(以下引用)
 「そんなに長い間立っていて疲れないのかと、私は彼に聞いてみたことがある。彼は首を振った。
 『いや、描いている間、私はイスラム教徒がモスクに入る前に履物を脱ぐように、戸口に肉体を置いてきているのだ。このような状態では、肉体は純粋に植物的にしか存在していない。だから、われわれ画家はたいていかなり長く生きるのだ。』」とピカソは言っている。

 熊谷守一は戦前期、豊島区にあった長崎アトリエ村の芸術家達の守護神とも目された人だが、97歳で亡くなるまでの晩年の15年ほどは自宅の庭から一歩も出ることなく「仙人」と称された。
 この仙人は日がな一日、庭に寝ころがって蟻んこの動きを眺めて飽きることがなかった。さらには小さな石ころを飽かず見つめては面白がっていたという。

 先のピカソが言った「このような状態では、肉体は純粋に植物的にしか存在していない」という境地と相通ずるものがあるのではないだろうか。
 そうしたなかで生み出された熊谷守一の作品は、無駄なものを極限まで削ぎ落とした簡潔さと絶妙のバランス感覚による誰にも真似のできない高度なデザイン性を感じさせるものだ。
 これは自分自身を無化し、対象物と同化することではじめて得られる画境といえるだろう。これもまた、自分の肉体を植物や無機物に転化するという《技=術》なのである。

 さて、私自身が役者として舞台上で誰か別の人物を演じるとき、古典的な言い方をするならば、私はその人物の人生を生きている、ということになる。
 その間、私は自身の時間を止めることで、よりいつまでも若くいられるのだろうか、それとも、二人分の人生を生きることで倍も早く老け込んでしまうことになるのだろうか。

 これは深い謎である。

芸術家と長寿

2009-12-31 | アート
 葛飾北斎、横山大観、パブロ・ピカソ、グランマ・モーゼス、小倉遊亀、片岡球子、中川一政、熊谷守一、森田茂・・・。
 ここで質問。これらの人々に共通するものは何か・・・。

 そう、その誰もが、90歳あるいは100歳を超えてなお現役として作品を創り続けた芸術家たちなのである。
 《芸術家》というと何となく20代、30代で夭折した早熟の天才というイメージがつきまとうのだけれど、意外なことに実に多くの芸術家が長寿で、それも最晩年に至るまで創作活動にいそしんだという事実には驚かされる。その秘密は何なのだろう。
 絵筆や彫刻のノミを手に、あるいは粘土をこねながら、常に観察を行い、記憶し、様々に色や形を組み合わせ新たな様式を生み出すという仕事が頑健な身体や活発な脳の保持に役立っているということはいえるかも知れない。
 それ以上に、彼らは、作品を創るという行為を《日常化》するなかでそれをより持続するための《技=術》を習慣化することができていたのだろうと思う。

 まず触れておきたいのが、アンナ=メアリ=ロバートソン=モーゼスこと、グランマ=モーゼス(モーゼスおばあちゃん)である。
 彼女が本格的に絵を始めたのは何と75歳の時だったという。1940年に80歳で初めての個展を開くや、画家としての彼女の存在はアメリカだけではなく、世界に知られることになり、その後101歳で亡くなるまで作品を描き続けた。
 75歳まで絵を始めることのなかった彼女は、それまでの人生の大半を忙しい農民の妻として過ごした。その生活がのちの画家としての彼女の資質を育んだことは間違いないだろう。
 彼女は、1860年ニューヨーク州の小さな農村・グリニッチに生まれた。12歳から近くの農家に奉公に出て15年間働き、27歳で結婚して10人の子供を出産、そのうち5人を亡くし、67歳で夫と死別する。その後、病弱な娘アンナを助けるためにヴァーモント州ベニントンへ。そしてリューマチで手をおかしくしてから絵筆を取ったのだ。
 彼女は身の回りのもの何にでも絵を描いていたそうだが、このことは、彼女にとっての表現行為がそれまでの労働とひと続きのものであるということを示しているように思える。
 
 グランマ=モーゼスの人生から私たちが汲み取りうる最も「素朴」で単純な教訓は、人間はいくつになってもあきらめてはいけないということだろうが、それ以上に重要なのは、《表現》に至る観察する眼や好奇心をいかに持続して習慣化するかということであるはずだ。彼女はそのことを長い労働を通して身につけたのである。

 冒頭に掲げた90歳超の長寿者のなかには列せられなかったものの、丸木スマもまたグランマ=モーゼスに似た表現者の一人である。
 丸木スマ(1875-1956)は、70歳をこえてから絵を描きはじめ、81歳で亡くなるまでの間に700点以上もの作品を残した。
 気骨のある働き者だったというが、《原爆の図》で知られる長男の丸木位里と俊夫妻にすすめられて初めて絵筆をとった。
 元気よく育った木々や草花、可愛がっていた犬や猫、とりたての野菜、山里を行き交う鳥や虫たちなど、日々の暮らしで親しんだ生命あるものの姿をいきいきととらえた天衣無縫で色彩豊かな作風は、今でも多くの人に親しまれている。
 彼女の作品もまた、彼女自身の生活の積み重ねや習慣化された《技=術》のなかから生まれたものに違いない。

 芸術家一人ひとりにそうした創作活動にまつわる生活習慣の挿話があるはずで、そうした話には思わず耳を傾けたくなってしまう。

バベルの図書館

2009-12-12 | 読書
 子どもの頃、私の住んでいた町には小さな図書館がひとつあるだけだった。
 およそ貧しい蔵書ではあったが、私にとってはとてつもなく大きな宇宙のように思えた。館内のすべての本を読みつくすことを夢見ながら、この世界にはどれだけの本があるのだろうと考えてはそっとため息をついたものだ。

 つい最近の新聞記事で、国内で発行されたすべての出版物を収集・保存することが義務づけられている国立国会図書館では、昨今の出版点数の激増や本の大型化等により、収容スペースが限界に近づいていると報じられていた。
 片や別のニュースとして、米国の25図書館が参加する世界最大の「バーチャル(仮想)図書館」が本格稼働するとの記事がある。江戸時代の古文書など、英語以外の書物も含め、蔵書数は当初450万冊規模だが、1年半後には1千万冊超に拡大するとのことだ。
 米国検索大手某社の書籍デジタル化問題は日本の出版界を巻き込んで大論争となったが、電子化をめぐる著作権のルールが整備されれば、蔵書数はさらに飛躍的に拡大し、いずれは誰もが自分の部屋にいながら、パソコンの窓を通じて世界中のあらゆる書物を閲覧することができるようになると思われる。
 バーチャル図書館の出現は、蔵書の保存や収容スペースの確保に関する悩ましい問題を一挙に解決するものとなるのだろうか。

 アルゼンチンの国立図書館長でもあった作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、1937年に書かれた「バベルの図書館」という作品のなかであらゆる本を所蔵する無限の宇宙ともいうべき図書館を夢想している。一方、その末尾に付された注釈では「広大な図書館は無用の長物である」と断じ、無限に薄いページの無限数からなる「一巻の書物」で充分なはずと記述する。
 バーチャル図書館において、その一巻の書物は一台のノートパソコンや携帯端末に取って代わられるのだろう。

 さて、「バベルの図書館」が書かれてから5年ほど後、ボルヘスの10歳年下で昨年生誕100年を迎えた中島敦は「文字禍」という小説で、まだ紙というものがなく、粘土板に硬筆で符号を彫りつけて書物とした古代メソポタミア時代の図書館を描いている。いわく「書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた」時代の話である。
 主人公の老博士は、文字の霊の存在を確かめるために一つの文字を幾日もじっと睨み暮したあげく、その文字が意味を失い、単なる直線どもの集まりにしか見えなくなる。そればかりか、ある日、その地方を襲った大地震によって、夥しい書籍すなわち数百枚の重い粘土板の下敷きとなって圧死する。自らの存在を疑った者に文字の霊が復讐したのである。
 ボルヘスと中島敦、この二人の作家が、地球の裏側でほぼ同時期に対照的な図書館の物語を夢想したことは実に興味深い。

 デジタル記号と化した文字が縦横に飛び交う宇宙空間を経巡り、私の記憶は40年ほどの時間を遡って再び小さな町の図書館へと辿り着く。
 そこでは、捕虫網を片手に麦わら帽子をかぶり、鼻の頭に汗の玉を浮かべた子どもの私が、薄暗い図書館の片隅で、「ファーブル昆虫記」やドリトル先生、シャーロック・ホームズの冒険譚に読みふけっている。

 あの至福に満ちた読書の時間は再び訪れるのだろうか。