seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

安部公房とわたし

2013-08-21 | 読書
 山口果林著「安部公房とわたし」(講談社)を読んだ。
 いささかセンセーショナルな捉え方をされがちな本であり、ある種の暴露本的な興味本位の読み方をする向きもないではないだろう。
 しかし、そうした先入観を極力排してこの本に向き合うなら、これがいかに重要な意義を持ち、かついかにインテリジェンスにあふれた文章によって綴られているかということに驚かされるに違いない。
 本書は、1966年3月の桐朋学園大学短期大学部演劇科への第1期受験生だった著者と安部公房の、受験生と面接官としての初めての出会いから、やがて女優となり、安部公房の演劇活動における重要な同志の一人として活躍するとともに、かつ私生活においてもその多くの時間を共にし、とりわけ1980年4月以降、作家が家族と別居してからは実質的なパートナーとして、1993年1月の最期の時に至るまで作家を支え続けながら、いつしか「透明人間」のように作家の公式記録からはかき消されてしまった一人の女性の存在証明としての半生記であり、さらには、安部公房の表現活動における演劇の重要性を改めて掘り起こす貴重な証言であるといえるだろう。

 さて、個人的な話をすると、私が高校生だった1970年頃、まだまだ大学紛争の盛んな時期であったが、大学浪人生だった年長の従兄の影響で安部公房の「砂の女」や「他人の顔」「燃えつきた地図」といった書下ろし長編小説を立て続けに読んでいた。
 当時、安部公房はNHK教育テレビの「若い広場」といった番組にも時おり出演していて若者たちとの対話にも積極的だった記憶がある。
 思えばちょうどその頃、1970年11月上旬、本書の著者である山口果林がNHK連続テレビ小説「繭子ひとり」の主役に決定したとのニュースが流れ、テレビ欄にその芸名の名付け親が作家の安部公房だと紹介されていたのを思い出す。同月25日には作家の三島由紀夫が割腹自殺をするという衝撃的な事件があった。そんな時代だった。
 「安部公房スタジオ」の設立が発表されたのは1973年1月11日のこと。
 俳優座の主要メンバーだった井川比佐志、仲代達矢、田中邦衛、新克利らのほか、山口果林をはじめとする安部公房の教え子たちが参加した劇団であるが、その記者発表のニュースを私はラジオで聞いた。その頃の私は唐十郎らのアングラ演劇の影響をもろに受けていた時期だったし、ちょうど、つかこうへいが華々しく活躍を始めていた時期とも重なり、安部スタジオのニュースには、新劇の俳優たちが何を始めるのかとやや冷やかに首を傾げていたものだ。
 不明を恥じなければならないが、「安部公房スタジオ」はわずか7年足らずの活動ながら、数々の実験的な舞台を作り、特に海外公演では大きな成功を収めたばかりか、大きな影響も与えている。その成果はもっともっと再認識、分析評価されてしかるべきだろう。

 小説「箱男」が刊行されたのは1973年3月のこと。安部公房は著者に対し、君へのラブレターだと語ったそうだが、その執筆時期は、作家が女優である著者と付き合いはじめ、自分の劇団の構想が膨らみ始めた時期とぴったり重なるのである。
 後年、安部スタジオの仕事を振り返るなかで、著者は、スタジオ上演の舞台作品である「愛の眼鏡は色ガラス」、「緑色のストッキング」、「イメージの展覧会」の要素がすべて「箱男」の中に入っていることに改めて驚いている。
 こうした文学と演劇の相関関係、とりわけ安部公房の創造性に及ぼした演劇の影響といった観点からの再評価や批評も私としては待望するところだ。

 1979年5月から安部公房スタジオはアメリカ公演を行い、大成功を収める。しかし、安部夫人もスタッフとして同行したその公演は、著者にとってのちのちまでトラウマとなるほどに苦く辛い緊張を強いるものだった。日本での凱旋公演を終えた女優はそれ以降の安部スタジオの舞台に立つことを諦める。その直後、安部公房はスタジオの休眠状態に入ることを発表する。
 こうして見ると、結果として安部公房スタジオは、女優・山口果林のための劇団だったのではないかとも思える。その後、彼女は仕事の軸足をテレビの世界に移行するのだが、私たちは重要な舞台女優を失ったと言えるだろう。さらに言えば、安部公房がスタジオメンバーとの共同作業による創造活動に新たな可能性を見出していたことを思うと、もしスタジオがその後も存続し得ていたならば、その小説世界にも新たな展開が見られたかも知れないと思うのである。

 2003年、作家の従姉妹である渡辺三子が発行する郷土誌「あさひかわ」455号に安部公房の没後10年を記念して著者が寄稿した「安部公房と旭川」が本書の中で紹介されている。
 短い文章ながら、安部公房と北海道との関わりやルーツ話、安部スタジオにおける稽古の様子、その演劇活動の意味などが過不足なく書かれていて素晴らしい。
 そこには、安部公房の目指したものとして、ドキュメントな会話の再現があったことや、スタジオにおいて、オリジナルな表現の発掘、開発のために、俳優たちがアイデアを互いに出し合い、安部公房の厳しい審査を経てそれらを取捨選択しながら舞台に乗せていったプロセスなども描かれ、実に興味深い。
 安部スタジオの後期、創立当初の主要メンバーが離れ、文字通り若手だけのチームとなっていったが、むしろそのことによって安部公房の目指す演劇表現がより明確化し、先鋭化するとともにそれが舞台上に現出した時期でもあった。しかしながら、それらの舞台の戯曲は完成形としては存在せず、役者達の覚え書き程度のものが残っているだけだという。
 「ぼくはしだいに自分の舞台を、舞台によってしか語れなくなりはじめている。考えてみると、小説の場合もやはり同じことなのだ」と作家は「水中都市」の上演パンフレットに書いている。
 また、ある時のエチュードでは、「あなたは白い紙を持っている、役者として与えられた時間を使いなさい」という課題が出された。思い悩むメンバーを前に、難しかったかなと呟きながら安部公房は次のように語ったという。
 「物を創造するというのは、本気で、真っ白な紙に向き合うことなんだ。安易に使い古された表現に逃げずに、真っ向から向き合って耐えることなんだ。言葉に詰まり、悪戦苦闘する処からしか、新しいオリジナルな表現は生まれない。そのことを体感してほしかったんだけどね。」

 その文章の最後に著者はこう書いている。
 「最近、現役で活躍している演劇人から九州で観た『イメージの展覧会』に衝撃を受けたという感想を聞いた。うれしかった。安部さんの創造活動の一端を共有できたことは、わたしの財産だ。いまも、わたしの血と肉になって生きつづけている。」

 著者が本書を通じて言いたかったことは、まさにここに集約されているのだろうと思う。
 安部公房に関わった人の立場によって感想は異なるだろうが、作家の人生と創作の新たな一面を再発見したという意味でも、一人の女性の半生を描きだしたという意味においても、読み応えのある一冊である。

小津安二郎の戦争

2013-08-17 | 映画
 今年は映画監督・小津安二郎の生誕110周年、没後50周年という節目の年にあたる。
 1903年12月12日に生まれた小津は、ちょうど満60歳の誕生日である1963年12月12日に亡くなったのだ。12の5倍が60である、ことを思い合わせるとこの数字には何か意味があるのかと思えてならない。余計なことではあるけれど…。
 いま私たちが写真などで見るその風貌からも小津監督には、巨匠、大家といった呼称がいかにも相応しいが、60歳という没年齢はあまりに早い死であったと改めて感じる。

 その小津作品だが、昨年のニュースでは、英国映画協会発行の「サイト・アンド・サウンド」誌が10年ごとに発表する、世界の映画監督358人が投票で決める最も優れた映画に「東京物語」(1953年)が選ばれるなど、その評価はいまなお高い。批評家ら846人による投票でも同作品は、アルフレッド・ヒチコック監督の「めまい」(58年)、オーソン・ウェルズ監督・脚本・主演の「市民ケーン」(41年)に次ぐ3位だった。
 今年5月に開催されたカンヌ映画祭では、最後の監督作品となった「秋刀魚の味」(62年)のデジタル修復版がプレミア上映されたほか、2月にはベルリン映画祭で「東京物語」が上映され、今秋のベネチア国際映画祭でも「彼岸花」(58年)が披露されるという。

 そうした背景のもと、2カ月ほど前に出た雑誌「シナリオ7月号」では、小津とシナリオ作家の野田高梧が戦後後期のすべての作品をそこで書いたという蓼科高原の小津の山荘での記録である「蓼科日記」の特集とともに、「秋刀魚の味」のシナリオが収載され、さらに、文芸誌「文學界8月号」には、「蓼科日記」刊行を担った編集者の照井康夫氏が「小津安二郎外伝 ~四人の女と幻想の家」と題した評論を書いていて興味深い。

 「秋刀魚の味」のシナリオを読んで改めて感じるのは、終戦から17年が過ぎた社会において、まだまだ戦争の記憶、傷痕といったものが一見平穏な日常の中に見え隠れしているということである。
 笠智衆演じる平山が、たまたま立ち寄った中華料理店、そこは昔恩師だった佐久間(東野英治郎)が細々と経営している店なのだが、そこでかつての部下だった坂本(加藤大介)と再会する。彼は戦時中に平山が駆逐艦の艦長だった時の一等兵曹なのである。
 二人は小さなトリス・バアに席を移し、レコードで軍艦マーチを流しながら「ねえ艦長、どうして日本負けたんですかねえ」などという会話を交わす。
 二人は昔を懐かしみ、戦後の苦労を当たり障りのない会話で語るだけなのだが、当然、そこには語ることのできない様々な感情、時間といったものが胸の奥深くしまいこまれたままなのだ。
 こうしたことは、現代の私たちにとって、阪神淡路大地震やオウム真理教のサリン事件が18年前の出来事ながらいまだ忘れられない事象であることと照らし合わせれば感得できるであろう。
 まして、「秋刀魚の味」が作られた昭和37年は、2年後に迫った東京オリンピック開催を目前にした高揚感に包まれていたとはいえ、ほんの10年前までこの日本はアメリカに占領されていた、そんな年なのである。

 そう思って小津安二郎の60年の生涯を振り返ると、彼がいかに戦争というものを身近に感じながら生きてきたか、そのことが彼の作品にどのように影響してきたのかということを考えずにはいられない。
 小津が生まれた翌年に日露戦争、その10年後に第一次世界大戦が勃発、さらにその9年後、小津が20歳の時には関東大震災が起こる。その8年後に満州事変、33歳の昭和12年9月から14年7月まで1年10か月余りの期間は応召、上海派遣軍の化学兵器部隊に所属して中支の戦場で過ごす。加えて、昭和18年6月からは陸軍報道部映画班員として従軍を命じられ、シンガポールで敗戦を迎え、21年2月、42歳となった小津はようやく日本の土を踏んでいる。
 こうして振り返ると、いかに彼が短期間のうちに戦争や災害と身近に接してきたか、そうした中で培われた人間洞察や批評精神がいかに現実によって鍛えられ、研ぎ澄まされたものであったかということを思わずにはいられない。
 そのことは、「小津安二郎外伝 ~四人の女と幻想の家」のなかで紹介されている、火野葦平の「麦と兵隊」「土と兵隊」を読んでの「読書ノート」における強烈な批判からも感じることができる。

 さて、「小津安二郎外伝」でもう一つ忘れられないのは、映画監督・山中貞雄との別れのくだりだ。
 昭和13年1月12日、小津は戦地で山中と会っている。後に山中の死を知った小津が、「キネマ旬報」14年1月1日号に書いた「手紙」という一文が美しい。
 小津は、昭和13年12月20日、「中央公論」に掲載された山中貞雄の遺書を読み、その日の日記にこう書いている。
 「山中貞雄の遺書を読む。撮影に関するnoteがある。その中に現代劇に対しての烈々たる野心が汲みとれて、甚だ心搏たれる。詮ないことだがあきらめ切れぬ程に惜しい男を失した。」

 山中貞雄は、昭和13年9月17日未明、収容された野戦病院で戦病死した。満28歳と10カ月の生涯であった。
 あの戦争によって、どれほどの才能が無残に散って行ったか、失われたか。言葉にできない思いが残る。
 英国映画協会の「サイト・アンド・サウンド」誌は、小津監督が「東京物語」において、「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつくり上げた」と評価した。
 小津はその生涯における様々な喪失と無念の思いを映画表現の様式の中に昇華しようとしたのである、とこれはまあ勝手な想像だが、そう思えてならない。

クロワッサンで朝食を

2013-08-07 | 映画
 映画「クロワッサンで朝食を」を観た。
 エストニア人であるイルマル・ラーグの長編映画監督デビュー作である。抑制された演出、演技が深い感動を呼び起こす佳作だ。

 雪深いエストニアの田舎町で2年間介護を続けた母を看取った主人公のアンヌだったが、夫とは離婚し、子どもたちも独り立ちしたあと、心身ともに疲れ切った彼女は取り残されたような思いの中にいる。
 そんな時、かつて勤めていた老人ホームから、パリで過ごすエストニア出身の老婦人が世話係を探しているとの連絡を受ける。フランス語の会話が出来るアンヌなら適任と考えての打診なのだった。
 悲しみを振り切るようにして憧れのパリにやってきたアンヌだったが、彼女を待ち受けていたのは、高級アパルトマンに一人で優雅に暮らす、毒舌で専制君主のように気難しい老婦人フリーダで、彼女は家政婦などいらないと、冷たくアンヌを追い返そうとする。
 アンヌを雇ったのは、アパルトマンの近くでカフェを経営するフリーダの息子とおぼしき、アンヌとは同年配のステファンという男だった……。
 おいしいクロワッサンをどこで買うかも知らないアンヌに冷たい態度を続けるフリーダだったが、遠い昔、エストニアから出てきた頃の自分の姿をアンヌに重ね合せ、次第に心を通わせ始める。やがて、アンヌもフリーダの孤独な生活の秘密を垣間見るようになるのだった……。
 
 これ以上の紹介はネタバレ、というよりも、初めてこの映画を観るときの楽しみを奪うことになると思うので、もどかしいけれど差し控えなければならない。
 本作は抑制されたストーリー展開や微かな動作や表情によるほのめかし、伏線の効果的な活用によって、小さな驚きや発見に満ちた作品なのだ。観客はその小さな発見の積み重ねを経て、深い感動に身を委ねることになる。
 老いと死、ふるさとの記憶、男と女の愛、性愛を超越した人間同士の愛情、諦念、世代間の心の交流を扱ったこの映画は、アンヌ、フリーダ、ステファンの3人の関係性やその変化が大きな見どころと言えるのだが、とりわけ、はじめは田舎じみて野暮ったく疲れた中年女だったアンヌが、パリの生活に次第に慣れ、フリーダと気持ちを通わせるなかで生まれ変わったように美しくなっていく様子に目を瞠らされる。
 さらには、3人のそれぞれが何を受け入れ、何を失い、そのことで何を得たのかという人生の普遍的なテーマが観る者の心に余韻となって残り、この映画についていつまでも語り続けたいという思いにさせる。

 アンヌ役はエストニアの個性派女優ライネ・マギ、ステファン役はフランスの舞台出身俳優パトリック・ピノー、そしてフリーダを演じるのが、フランス映画の象徴ともいうべきジャンヌ・モローである。
 今年85歳になるジャンヌ・モローだが、女であることの矜持とすでに若くはないことの失意を併せ持つフリーダという女性像を威厳に満ちた演技で巧みに表現している。
 その姿の向こうに、ルイ・マル監督の映画「死刑台のエレベーター」で囁くような甘い声で愛を語り、マイルス・デイビスの奏でるトランペットの音色を背景にパリの夜を彷徨する若い人妻役のジャンヌ・モローが浮かび上がる。
 アンヌがパリにやってきた初めの頃、夜中にフリーダの家を抜け出してパリの街を散策するシーンがあるのだが、そのシーンに「死刑台のエレベーター」を重ね合わせて思い浮かべる人は多いことだろう。
 当然ながら、この場面はイルマル・ラーグ監督がジャンヌ・モローに捧げたオマージュに違いないのだ。

 ところで本作の原題は「パリのエストニア女性」といったところだろうと思うのだが、「クロワッサンで朝食を」というこの邦題はいかがなものか。なかなか難しい。

さよなら渓谷

2013-08-05 | 読書
 吉田修一著「さよなら渓谷」を読んだ。
 刊行されてからすでに5年が経っているのだが、これまで手に取る機会がなかった。今回読む気になったのはもちろん映画化された作品が話題になり、とりわけ主演の真木よう子の映像の鮮烈さに引き付けられたからである。(要はただのミーハーに過ぎない、ということ)
 そうは言いながら、吉田修一の作品はこの半年に読んだ「悪人」、「路」をはじめ、思い返せば16年前の文學界新人賞受賞作品「最後の息子」、11年前の芥川賞受賞作品「パークライフ」もリアルタイムで読んできた。その成長ぶりを身近に感じてきた作家の一人なのである。
 その作品の多くが映画化、ドラマ化されているように、人々の興味を惹くストーリー展開のうまさ、題材の強烈さなど、映像の撮り手の意欲を掻き立て、刺激する何かを吉田修一の小説は持っているのに違いない。

 さて、今回の作品は、秋田県で起こった連続児童殺人事件の容疑者を思わせる女性のクローズアップに始まり、それに群がるマスコミ報道の喧騒から、やがてその隣家に住む平凡などこにでもいそうな若い夫婦に焦点があてられ、そのことによって15年前に起こったある事件が浮かび上がるという趣向。
 非常に説明しにくく、自分でも口ごもってしまうという作者の言葉を引用して、すごく乱暴に言ってしまえば、本作は「レイプ事件の加害者と被害者が、15年の歳月を経て、夫婦のように暮らしている日常を描いた小説」なのであり、そこに至る二人の葛藤と苦しみ、そしてこれからの人生の行く末への興味と不安が読む者の心に楔となっていつまでも突き刺さるような作品である。
 文芸誌ではなく、週刊誌に連載された作品ということだから、純文学というよりはむしろエンターテイメント性を意識して書かれた小説であろうとは思うのだが、読後感はずっしりと重く、主人公二人の人生がいとおしくて堪らなくなる。

 それにしても吉田修一はうまい作家になったなあとつくづく思う。
 滑らかなカメラワークを思わせる叙述、カットバックや回想シーンの挿入、登場人物の独白を自在に組み合わせながら物語は展開され、読み手を導いていくのだ。その渓谷へと。
 胸をえぐるような忘れられない言葉のいくつかを引用する。(以下、ネタバレ必須。ご容赦)

 ……電話ボックスのガラス越しに、どれくらい対峙していただろうか。ボックスから出てきた夏美が、「お金、貸して」と小声で言った。
 ……あの日、夏美は千円も持っていなかった。千円も持たずに実家を飛び出していた。すぐに財布を出した。財布に入っているだけの金を差し出した。
 気がつけば、「すいませんでした。ごめん……。ごめんなさい」と何度も謝っていた。
 「……死ねないのよ」
 とつぜん夏美は言った。そう言って涙を堪え、差し出した金をくしゃくしゃにしながら自分の財布に押し込んだ。

 ……あの夜から、いったいどれくらいの月日が流れたのか。
 「なんでもしてくれるって言ったじゃない。そう何度も手紙に書いてたじゃない!」
 銀座の並木道で、夏美は叫んだ。
 「なんでもしてくれるんでしょ! だったら私より不幸になりなさいよ! 私の目の前で苦しんでよ!」
 気がつけば、泣きじゃくる夏美の手を引いて、走ってきたタクシーに乗り込んでいた。
 家へ連れて帰るつもりだったのか。
 二人でどこかへ逃げるつもりだったのか。
 一緒に死のうとでも言うつもりだったのか。

 ……一緒にここで暮らそうと言い出したのは、私からです。
 私は誰かに許してほしかった。あの夜の若い自分の軽率な行動を、誰かに許してほしかった。でも……、でも、いくら頑張っても、誰も許してくれなかった……。
 私は、私を許してくれる人が欲しかった。

 ……銀行から最後の二十万円を引き出してきた尾崎は、「あとは、あなたが決めて下さい」って言いました。私は、「どうしても、あなたが許せない」と言いました。「私が死んで、あなたが幸せになるのなら、私は絶対に死にたくない」と。「あなたが死んで、あなたの苦しみがなくなるのなら、私は決してあなたを死なせない」と。「だから私は死にもしないし、あなたの前から消えない。だって、私がいなくなれば、私は、あなたを許したことになってしまうから」と。

 (思わず長々と引用してしまいました。ご容赦。)
 さて、あなたの前から消えない、と言っていた女は、最後に男の前から突然のように姿を消す。それが、許しを意味することなのかどうか、誰にも分からないまま。
 しかし、男はどんなことをしてでも女を見つけ、探し出そうとするだろう……。
 何故か。それが彼の罪だから、あるいは愛だからなのか。誰からも許してもらえなかった二人が、最後に行き着く場所がお互いのもとでしかないことを男も女も感じ取っているからなのか。
 やがて、長い長い年月が過ぎてゆき、二人の道行きは誰の記憶からも次第に薄れていくのだろう。
 そうしていつしか、「昔、男ありけり」「女ありけり」といった遥か昔むかしの恋物語のように、この二人の運命も語られるようになるのかも知れない……。

 余談。
 ふと思ったのだが、レイプ事件の被害者と加害者という、このあまりに立場の違う二人、違いすぎるが故にそっくりな二人、違いすぎるがゆえにあまりに近しい二人、一緒にいる限り憎むしかない相手、許すためには離れなければならず、愛するためには別れなくてはならない、そんな二人の関係に、最近ことに歴史認識に起因して緊張が高まりつつある近くて遠い国々と私たちの絵姿が映し出されているように感じたのは、まるで見当はずれなことだろうか。

短編小説/3人の作家

2013-08-03 | 読書
 3人の作家の作品を続けて読んだ。
  川上弘美著「なめらかで熱くて甘苦しくて」
  絲山秋子著「忘れられたワルツ」
  津村記久子著「給水塔と亀」

 前2作は短編集、「給水塔と亀」は川端康成文学賞受賞の短編小説である。
 共通するのは3人の作家がともに女性であるということなのだが、これはたまたまそうだったということなのか、今は女性の書くものが面白いということなのか…。

 川上弘美(以下敬称略)の小説にはそれぞれ「水」「土」「空気」「火」の4元素と「宇宙」を意味するタイトルがラテン語によって表記されている。
 これらの作品のテーマは「性」あるいは「性欲」ということなのだが、川上弘美は作者インタビューで次のように語っている。
 「たとえば雑誌の『セックス特集』などで、『性』はそれだけ切り取られて語られがちですが、性欲について書こうと考えるうちに、そのようには語れないと気がつきました。朝目を覚まして1日を送る、その中に、性欲は根を張って取り込まれている。それは宇宙を構成する4元素と同じように、自分を構成している要素のひとつだと思ったんです」

 つまり本作は、いわゆる男女のあれやこれやを描いた心理小説ではなく、恋愛小説でも、ましてや官能小説などではまったくなく、それどころか通常私たちが「現実」と呼ぶこの世界を描いた小説ですらない。
 宇宙を成り立たせているあらゆる要素、その一つである生物としての人間の誕生から死にいたる過程において生起する現象の深い深い根っこにあるものを、性欲を切り口にして描いた詩のようなもの……という言い方があるいはできるかも知れない。
 なかなか言葉にしづらいのだが、私たちは紛れもなく生物であり、細胞や分子の集合体であるということ、その細胞レベルの結合や分裂といった現象の中に愛だの恋だの憎しみだのといった物語がシステムとして組み込まれているのではないか、といったことを考えさせられるのだ。
 そうした生成過程を経るなかで自己複製や増殖が折り重なり、やがて生まれる典型的な「むかし男ありけり」「女ありけり」といった物語となって幾重にも織りなされ、原型となって人々に間に語り継がれていくのではないだろうか、そんなことを想起させられる。

 これと比べて、絲山秋子の「忘れられたワルツ」に収められた作品群は、もう少し身近でより現実的な設えを有している。
 ただ、その現実感が、いずれの作品においても、あの3.11を境にして少し歪んでいたり、ずれていたり、傷んでいたり、別のものに変容してしまっているのだ。
 その何気ない語り口が、この世界が背負い込んでしまった痛みの深さを余計に感じさせる。
まるでいつもと同じ風景なのに、いつの間にかまったく異なる世界に入り込んでしまったような恐怖。何気ないだけにその底深い恐ろしさがそこには描かれている。
 何度も繰り返し読みたくなる、小説の面白さと深さを兼ね備えた素晴らしい作品集である。

 津村記久子の短編「給水塔と亀」はこれらとはまったく趣を異にした、正攻法の、小説らしい小説である。
 会社を定年退職した独身男性が故郷に引っ越す一日を描いた作品で、給水塔や亀、海、たまねぎ畑、うどんといった道具立てがたくみに配置され、何気ない日常が淡々と、しかし揺るぎのない現実感と深みを持って描かれている。
 それが400字詰め原稿用紙でたった20枚ほどのなかに表現されているのだ。その面白さ。凄さ。

 それぞれの作家が違った持ち味で、それぞれ異なるアプローチでこの世界に対峙し表現しようとしている。小説という芸術の多様性や新たな可能性を感じさせてくれる、楽しい読書体験だった。