坂井律子著「〈いのち〉とがん 患者になって考えたこと」(岩波新書)を読んだ。
たまたま書店で目について買った本で、いわゆる闘病記のようなものかと思いつつ読み始めたのだったが、刺激を受けるとともに、共感と向日性の意欲のようなものをかき立てられる思いがした。
読みながら付箋を貼り付けていったのだが、読み終わったあともその付箋の箇所を読み返したり、そこで感じたことを反芻したりして、なかなか書棚に収められないままいつまでも机の脇に置いたままになっているのである。
著者は1年10か月を過ごしたNHK山口放送局長としての単身赴任生活を終え、編成局総合テレビ編集長に着任して1か月が過ぎたばかりの時、体調不良が重なって受けた検査の結果、思いも寄らぬ膵臓がんと診断される。
手術は成功するが、「手術はスタートライン」の言葉どおり、著者はそれからの2年間、術後の激しい下痢生活、脱水での入院を経て再発、抗がん剤治療、再手術、再々発、再度の抗がん剤治療……と、「容赦なき膵臓がん」とともに生きることを余儀なくされてしまう。
本書は、その著者が、再々発が判明した2018年2月から11月までの間に書き綴った、《がんに罹った「私」の記録》なのである。
一人の患者が、がんになって感じたこと、思ったこと、がんになって学んだこと、疑問や時に抑えきれぬ憤りも含めて、身の内に湧き起った様々な思いが率直に綴られている。
著者の職業はテレビ番組の制作者であり、番組・作品を通して第三者である視聴者に何かを伝えることを使命としている。
そうした番組を作るうえで、より客観的で専門的な知見を盛り込むために必要なのが広範な取材であり、医学的学術的な裏付けに基づく専門家の見解であったりするのだろうが、本書において、著者がスタンスとしてこだわったのは、そうした伝達のプロフェッショナルとしての立場ではなく、あくまでも一人の患者としての視点を保つことであった。
どんな患者でもやろうと思えば出来る範囲の勉強や体験をもとに見聞きし、考えたことを書く……、そのことを通して当事者である患者一個人の思いを伝え、それを受信し、共感してくれた人々とともに考えながら、より多くの人が分かり合い、支援を受けられる社会になればいいという希望がそこには貫かれている。
こうした姿勢に基づいて綴られたこの本を読みながら、私は深く共感したし、教えられたり、刺激されたりすることばかりだった。
あくまでも一患者の立場にこだわりながらも、自分が受けようとしている治療について、使用される抗がん剤について、食事のあり方について、主治医と患者の関係について……、少しでも疑問に思い、知りたいと思ったことをとことん追求していく姿は、まさにテレビ番組の制作者、ディレクターとして培った力が十二分に発揮されていると感じる。
そうしたなか、友人が貸してくれたDVDで映画「アポロ13」を手術後の痛みを忘れるために見たという著者が、その映画から、ちょうどその頃考えていた「集学的治療」を想起し、さらに主治医と患者の関係に思いを寄せながら次のように書いた言葉には深く共感させられた。
「ひとつでない正解を探して、医師が患者に向き合って考えてくれるのであれば、患者もまた『考える患者』にならなければ……、と私は思った。そして、『絶体絶命』の病気と向き合わざるを得ない生活を、『考える』ことこそが支えてくれると実感していた。」
そしてこの言葉は、最終章の「あとがきにかえて 生きるための言葉を探して」のなかで紹介されている一挿話……、行きつけの小さいけれど硬派の近所の書店で目が釘付けになったという、人文書のすべてに付された真っ赤な帯に書かれた言葉につながるのである。
「悩むな! 考えろ!」
たしかに! 悩むということは逡巡することであり、前には進めない。
悩んでいるひまがあったら「考えろ!」ということなのだ。
私たちは「考える」ための道具としての「言葉」を持っている。その道具をもっともっと使い勝手よく研磨するためにも、学び、考え続けることが何よりも重要なのだろう。
私は本書を読みながら、そうした生き方を実践した著者の姿に深く感銘を受けたのだった。
たまたま書店で目について買った本で、いわゆる闘病記のようなものかと思いつつ読み始めたのだったが、刺激を受けるとともに、共感と向日性の意欲のようなものをかき立てられる思いがした。
読みながら付箋を貼り付けていったのだが、読み終わったあともその付箋の箇所を読み返したり、そこで感じたことを反芻したりして、なかなか書棚に収められないままいつまでも机の脇に置いたままになっているのである。
著者は1年10か月を過ごしたNHK山口放送局長としての単身赴任生活を終え、編成局総合テレビ編集長に着任して1か月が過ぎたばかりの時、体調不良が重なって受けた検査の結果、思いも寄らぬ膵臓がんと診断される。
手術は成功するが、「手術はスタートライン」の言葉どおり、著者はそれからの2年間、術後の激しい下痢生活、脱水での入院を経て再発、抗がん剤治療、再手術、再々発、再度の抗がん剤治療……と、「容赦なき膵臓がん」とともに生きることを余儀なくされてしまう。
本書は、その著者が、再々発が判明した2018年2月から11月までの間に書き綴った、《がんに罹った「私」の記録》なのである。
一人の患者が、がんになって感じたこと、思ったこと、がんになって学んだこと、疑問や時に抑えきれぬ憤りも含めて、身の内に湧き起った様々な思いが率直に綴られている。
著者の職業はテレビ番組の制作者であり、番組・作品を通して第三者である視聴者に何かを伝えることを使命としている。
そうした番組を作るうえで、より客観的で専門的な知見を盛り込むために必要なのが広範な取材であり、医学的学術的な裏付けに基づく専門家の見解であったりするのだろうが、本書において、著者がスタンスとしてこだわったのは、そうした伝達のプロフェッショナルとしての立場ではなく、あくまでも一人の患者としての視点を保つことであった。
どんな患者でもやろうと思えば出来る範囲の勉強や体験をもとに見聞きし、考えたことを書く……、そのことを通して当事者である患者一個人の思いを伝え、それを受信し、共感してくれた人々とともに考えながら、より多くの人が分かり合い、支援を受けられる社会になればいいという希望がそこには貫かれている。
こうした姿勢に基づいて綴られたこの本を読みながら、私は深く共感したし、教えられたり、刺激されたりすることばかりだった。
あくまでも一患者の立場にこだわりながらも、自分が受けようとしている治療について、使用される抗がん剤について、食事のあり方について、主治医と患者の関係について……、少しでも疑問に思い、知りたいと思ったことをとことん追求していく姿は、まさにテレビ番組の制作者、ディレクターとして培った力が十二分に発揮されていると感じる。
そうしたなか、友人が貸してくれたDVDで映画「アポロ13」を手術後の痛みを忘れるために見たという著者が、その映画から、ちょうどその頃考えていた「集学的治療」を想起し、さらに主治医と患者の関係に思いを寄せながら次のように書いた言葉には深く共感させられた。
「ひとつでない正解を探して、医師が患者に向き合って考えてくれるのであれば、患者もまた『考える患者』にならなければ……、と私は思った。そして、『絶体絶命』の病気と向き合わざるを得ない生活を、『考える』ことこそが支えてくれると実感していた。」
そしてこの言葉は、最終章の「あとがきにかえて 生きるための言葉を探して」のなかで紹介されている一挿話……、行きつけの小さいけれど硬派の近所の書店で目が釘付けになったという、人文書のすべてに付された真っ赤な帯に書かれた言葉につながるのである。
「悩むな! 考えろ!」
たしかに! 悩むということは逡巡することであり、前には進めない。
悩んでいるひまがあったら「考えろ!」ということなのだ。
私たちは「考える」ための道具としての「言葉」を持っている。その道具をもっともっと使い勝手よく研磨するためにも、学び、考え続けることが何よりも重要なのだろう。
私は本書を読みながら、そうした生き方を実践した著者の姿に深く感銘を受けたのだった。
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