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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

シャットダウン

2013-05-30 | 雑感
 野口悠紀雄著「超説得法~一撃で仕留めよ」(講談社)の中のコラムにこんなことが書いてあってフムフムと頷いてしまった。

 ……マイクロソフトのOS「ウィンドウズ」を終了させるには、画面下にある「スタート」のボタンを押す必要がある。なぜ終わるのに「スタート」なのか?
 ……ひょっとして、単なるミスということはないだろうか?
 本を読む前からPCを操作する未来の子たちは、「スタート」は「終了」という意味だと思わないかと心配だ。

 たしかにパソコンを起動する時にはまず電源ボタンを押すのに、終了したい時に電源ボタンを押してはならず、「スタート」をクリックする、というのはよくよく考えればオカシナことかも知れないなあ。
 昔、何台か前のわが家のパソコンがよくフリーズしてしまい、どうしようもなくなって電源を無理やり切っては後の処理に苦労したことを思い出す。
 それにしてもシャットダウンするのに「スタート」をクリックするように仕掛けた人はどんな意図を持っていたのだろう。
 何事もまずは「初心」に帰れというメッセージだろうか。
 それとも迷った時にはとりあえずスタート地点に立ち返れという教訓だろうか。

 シャットダウンは電源を「遮断」するということであり、かつまた、「シャットダウン」と「遮断」は音が似ていることからの巧妙な当て字なのだという話もあって、なるほどなあ、とまたまた頷いてしまう。

 さらに、シャットダウンにはシステムを一旦停止してから「再起動」するという機能も含まれている。リセットしてスタートし直すというわけだ。

 自分の発した言葉で自縄自縛となり、窮地に追い込まれたどこやらの市長さんもさぞかしシャットダウンして、何もかもなかったことにしたいと思っているのではないかしら。
 それともフリーズしてしまい、もうこうなったら無理やり電源を切るしかないと思っているだろうか。

医療と芸術

2013-05-23 | 文化政策
 佐久総合病院小海診療所長の北沢彰浩氏が5月16日付日経新聞のコラム「医師の目」欄に新しい医療の定義の提案として次のようなことを書いていた。
 「医療とは人がその人らしく生きるために医術で病気を治すこと。ただし治らない病気の時は人がその人らしく最期まで生きられるように寄り添い支えること」が大事になる…
 …「寄り添い支える」が医療の定義に入ると「子供が熱を出すと親は子供に寄り添い支え、高齢の親が寝込むと子は親に寄り添い支える」ので、医療の専門家でない自分たちも寄り添い支える医療の担い手であることに気付き、医療をもっと身近なものに感じることができるようになり…それが医療の民主化をめざすきっかけになる…と言うのだ。

 これらの言葉に深く共感しながら、ここでいう「医療」という言葉を「芸術」に置き換えることができるのではないかと考えていた。

 芸術とは人がその人らしく生きるために、音楽や美術、演劇といったアートの力によって励まし、元気づけること。ただし治る見込みのない病気や絶望の淵にある時は、人がその人らしく最期まで生きられるように寄り添い支えること。
 子供が道に迷い言い知れぬ不安に苛まれていると親は子供に寄り添い支え、高齢の親が孤立と深い疎外感に打ちひしがれて床に臥すと子は親に寄り添い支えるように、芸術の専門家でない自分たちも人の心の声に耳を傾け、その寂しさや儚さや絶望の深さや強さや美しさを感じることができる、そうした芸術の担い手であることに気付く時、芸術をもっと身近なものに感じることができるようになるのではないか……。

 北沢氏はこのコラムで医療の民主化ということを住民参加を前提として考えようと提起しているのだが、それでは、芸術の領域において、民主化や住民参加ということをどのように考えればよいのだろう。
 瀬戸内海や越後妻有における住民参加の芸術祭の成功や、様々なワークショップ、アーティストによるアウトリーチ活動の事例を目にし、耳にしながらも、それはなかなかに厄介な難問であり続けるだろうと思うのだ。
 誰もが「医療」を必要不可欠なもの、万人が欲するものと感じているほどには、誰も「芸術」の必要性やその存在意義を信じてはいないがゆえに……。
 結果として芸術は専門家の手に委ねられ、いつまでも啓蒙の対象であり続け、とどのつまり、芸術の民主化は実現することのない御題目になり下がる。

 だが、本当にそうなのだろうか。
 そんなふうに斜に構えた身振りで簡単にあきらめてよいはずはないだろう。
 私たちがこれまで取り組んできた文化政策はそのための戦略なのであるから。
 それは未だ戦いにすらなっていないのかも知れないのだけれど。

演じるということ

2013-05-12 | 演劇
 「何かを言うために戯曲を書くのではない。戯曲を書くために何かを言うのだ」
と言ったのは劇作家の岸田國士である。

 ボヴァリー夫人を書いたフローベールは「何についても書かれていない小説」を書こうとした。
 「外に繋がるものが何もなく、地球が支えられなくても宙に浮かんでいるように、自分の文体の力によってのみ成り立っている小説。出来ることなら、ほとんど主題を持たないか、少なくとも主題がほとんど目につかない小説」
 それこそが彼の書きたいものだった。

 こんなことが言えるだろうか。
 俳優は、何かを言うために演じるのではない。演じるために何かを言うのだ、と。

 もし、演じることが演じようという意思、あるいは想像力のみによって成り立つのなら、そこには戯曲も、演出家も、劇場も、舞台すらも必要ではない。

 一方、演劇にとっていまや俳優は必要不可欠な存在ではないのだ。俳優はロボットでよい、と言い放つ劇作家もいるくらいなのである。
 演劇にとって必要なものとはなんだろう。
 
 支えがなくとも宙に浮かんでいる地球のように、演劇は何ものも必要とはしない、という仮説は成り立つだろう。
 演劇にとって、俳優も劇作家も演出家も美術家も舞台監督も照明や音響も、一切のものが実は不要のものである。
 私=私たちの知覚する世界そのものがすなわち演劇なのだから。

 さてさて、私たちの知覚する世界とは何か。その一切は誤謬であり、夢のようなものだという人もいるだろう。
 そう、演劇とは夢のように儚いもので出来ている。
 その夢の中に私自身も存在するのだ。
 

リンカーン

2013-05-09 | 映画
 すでに旧聞に属するが、オリンピック招致運動のために渡米した東京都知事が米紙のインタビューに応じた際の発言が大きくクローズアップされた。
 真意が伝わっていないとか、そんな意図はなかった、いやいや記事には絶対の自信があるといったやりとりがあり、結局謝罪・訂正したということは、おそらく報道された内容の発言があったことは間違いないことなのだろう。
 それが記者によって仕掛けられたトラップによるものなのか、知事自身の油断、慢心が呼び寄せたものなのかはさておき、その発言が及ぼしたかも知れない招致レースへの影響や言葉そのものの品格、オリンピックの歴史や相手国への敬意の欠如には多くの人が失望したに違いない。

 有名な老子の言葉、「大上は下これ有るを知るのみ。其の次は親しみてこれを誉む。其の次はこれを畏る。其の次はこれを侮る。」を引用するまでもなく、人民に莫迦にされるのは最低ランクの政治家である。その発言にはよくよく留意しなければならない。
 さりとて「もっとも優れた君主というものは、ことさらな政治はせず、人民はその存在を知っているだけである」と言われても、おさまり返ってばかりはいられないのが、現代の政治家というものなのだろう。誰もがあるかなきかの指導力なるものを最大限に発揮して後世に名を残そうとやっきになって走り回る。
 しかし、優れた指導者、政治家というものは、何を成し遂げたかという事実よりも、残した言葉によってこそ長く記憶されるのではないだろうか……。

 今からちょうど150年前、南北戦争下のゲティスバーグで行った演説があまりに有名な米国第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、自身の発する言葉の力を知悉し、その効力を最大限に発揮させることにおいて卓抜な戦略家だった。
 スピルバーグが監督し、タイトルロールをダニエル・デイ=ルイスが演じ、アカデミー主演男優賞に輝いた映画「リンカーン」は、奴隷解放宣言の恒久化に向け、憲法改正に必要な下院での賛成3分の2以上の議席確保のための言葉による戦いを、裏工作やポストをちらつかせての懐柔策などを交えて描いた作品である。
 2時間半に及ぶ長尺の映画であるが、少しも飽きさせることのない緊迫感に満ちた演出や演技の力はまさに見事だ。トミー・リー・ジョーンズの演じる奴隷解放急進派の代議士スティーブンスが、憲法改正こそを最優先として自らの主張を封印しながら演説するシーンはその心理戦の綾を的確に描いて観る者に感動を与える。私はこの場面で思わず涙してしまった。

 さて、当のリンカーンであるが、はじめから奴隷解放論者だったかどうかは分からない。彼にとっての最優先事項は合衆国の統一であり、奴隷解放はその交渉のための道具に過ぎなかった、との見方もできるだろう。それが戦争の長引く中、次第に引くに引けないところに自身を追いやった、つまり、ほかならぬ自らの演説=言葉そのものが自分自身の実体や本質に先立つ形で牽引していったということが言えるのではないか。
 リンカーンは、黒人の奴隷制度廃止に政治家生命を賭して挑んだが、反面、先住民であるインディアンには容赦のない殺戮をもって対したという。(もちろん映画では描かれていないけれど……)
 そうした矛盾に満ちた人間が時に偉大な指導者となり、神格化される。まさに政治は一筋縄では捉えることのできないアートであり、トリッキーなサーカスのようなものだとでも言うしかないのだ。