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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

夏の日のシェード

2022-09-23 | 読書
ときたま無性に読みかえしたくなる小説というのがあって、いつもバスに乗るたびに思い出すのが田中小実昌の短篇「夏の日のシェード」である。

アメリカ西海岸のカナダとの国境沿いの町に、妻なのか恋人なのかはよく分からないのだが、年若いミヤという名の女とやってきた中年の男が、日々不機嫌になってベッドで眠ってばかりのミヤのことを思いやってはどうしたものかとオロオロするさまを男の目線から書いた小説である。
……と、こんな要約でよいのかとまことに心もとないのだが、オジンである「ぼく」は、まだ25歳くらいであるらしいミヤがいつまでも眠っていたり、町の図書館で借りてきた古い日本語訳の「カラマーゾフの兄弟」を読みふけったり、一緒にバスに乗って遊びに出ても窓の外に目を向けたまま黙りこくっているのを腫れ物にでも触れるようにただオロオロと見つめるだけなのだ。
ミヤが口を利くのは小説のなかでも二言三言くらいで、突然荷物をまとめて二ホンに帰ると言いだしたりする様子が男の独り語りを通して描かれるのだが、その実在感は実に生々しく、小説を読みながら私まで語り手の「ぼく」と一緒にどうしたものかとオロオロしてしまいそうになる。

もっとも「ぼく」の独白はまことに男目線そのものなので、そんなことだから彼女に愛想をつかされるんだよと言いたくもなるのだけれど、そこに得も言われぬ滑稽味と子供っぽさが同居していて、だからオジンはダメなんだよと思いながらも同調してしまうのだ。

小説の最後、出て行こうとするミヤを引き留めるために手助けを求めて「ぼく」は、友人でこの町に長く住む本川を呼び出す。
三人で椅子とソファにすわって黙りがちになりながら、本川がミヤに向かって、ともかく今夜は三人で半年前まで自分が板前をしていた日本レストランに行こうと何度も繰り返すというところでこの小説は終わるのだが、この場面はまるでジム・ジャームッシュの昔の映画のワンシーンのようで心に残る。



さて、先日、台風14号が関東をかすめて新潟から東北地方にぬけた日の午前中、
バスに乗って隣の町まで出かけて行ったのだけれど、車中から見る空の色がこれまで見たことがないような濃いグレーに染まっていて、それだけで非日常の世界に入り込んだような気がしたものだった。

台風の直撃はまぬがれたものの、その影響は明らかで、荒川を跨ぐ橋の上から見る川は水量が増して濁った色をなし、今にも膨れ上がりそうなエネルギーを孕んで禍々しさを感じさせる。
その上に広がる黒々とした灰色のキャンバスを背景として、どこからか洩れ出る日の光を反射して白く浮き上がったように林立する建物の壁面や電車の通る橋の鉄骨が美しい。
あいにくその瞬間を写真に撮ることは出来なかったのだが、まるでロードムービーの主人公にでもなった気分なのだった。

とある事情から私は毎週のようにバスに乗って県境を越えて隣の町まで出かけていくのだが、そのたびにささやかな旅情を感じるのを一人楽しんでいるのである。
毎度降車する停留所は決まっていて、それを逸脱してどこか知らない遠い町まで行くということはないのだけれど、「夏の日のシェード」の「ぼく」のように地図を片手にどこまでもバスに乗っているのも悪くはないのかも知れない。
傍らに黙りこくったままのミヤの手をにぎり、窓の外を流れる風景に見とれながら……。



中流危機

2022-09-22 | 雑感
9月18日に放映されたNHKスペシャル「“中流危機”を越えて『第1回 企業依存を抜け出せるか』」を見た。

まず、いわゆる中流層の平均賃金がいかに低下したかという数値に驚かされる。世帯所得の中央値は、この25年で約130万円減少したというのだ。

この番組は、技術革新が進む世界の潮流に遅れ、稼げない企業・下がる所得・消費の減少、という悪循環から脱却できずにいるこの国の現状を踏まえ、厳しさを増す中流の実態に迫り、解決策を模索する……というのが主眼であるらしいのだが、その大きな要因が“企業依存システム”、社員の生涯を企業が丸抱えする雇用慣行の限界だった、としていることにまず大きな違和感を抱いてしまった。

そもそも番組タイトルの「企業依存」という言葉自体に少なからぬ抵抗を感じてしまうのだが、誰もが企業を離れて転職を重ねながらキャリアアップできるわけではない。
私は雇用に対して古い意識と価値観を持ち、そこから脱却できないタイプの人間と言われても仕方ないのだが、企業にはやはり雇用主としての責任があるだろうと思ってしまう。
 
この番組は続く第2回目でも同じテーマを深掘りするようなので、この問題に対しどのような解決策を提示するのかまだ分からないのだが、1回目を見た限りでは、何を問題視し、焦点を当てようとしているのか、どうもピントがずれていると思わざるを得ないのだ。

従来の雇用慣行は本当に切り捨てるべきなのだろうか。企業依存は本当に悪いことなのだろうか。
内部人材の能力を育て引き出すのではなく、能力の高い人材を外部から登用することが本当に解決策になるのだろうか。
根本的問題は果たしてどこにあるのか。

社会全体が負のスパイラルに陥り、企業が人間を切り捨てる方向に向かわざるを得ないような体制になったのは、そうなるような政策を政府が取ったからなのだ。
その結果として現状があるのであれば、やはり政治の間違いと無策ぶりは告発しなければならないだろう。

人材育成はすべての基本である。人が育たなければイノベーションも起こらない。業績もあがらない。
企業にとって人材育成は最大のミッションであると言い切ってもよいのではないか。企業理念の根本に置くべきテーマであると私などは考えてしまうのだが、それはお花畑的発想だと断じられてしまうのだろうか。

企業が衰退し、人を育てる力も余裕もなくなってしまっているのなら、それを補完する機能を政府がしっかりと将来への投資として制度設計すべきなのだ。
働く人々へのセーフティネットの構築は急務であり、スキルアップのためのシステムづくりは喫緊の課題である。

そしてそれは今からでも決して遅くはないのだ。

「赤と黒」を読みながら考えたこと

2022-09-20 | 読書
スタンダールは小説のなかで政治を描くことについて、どのような考えを持っていたのだろうか。
「赤と黒」の第2巻22章のなかに次のような言葉が出てくる。

「……想像力の楽しみのただなかに政治をもちだすのはコンサートの最中にピストルを撃つようなもの」(野崎歓訳)

スタンダール自身は政治などとは無縁でいたいという考えを持っていたようで、上記の言葉も本心から出ているように感じるのだが、これに対し、想像上の対話における出版者は、この「赤と黒」の作者に向けて次のように言うのである。

「……だが、あなたの登場人物たちが政治の話をしないとすれば(略)それはもはや1830年のフランス人とはいえないし、あなたの本だって、もはやあなたが自負していらっしゃるような鏡ではなくなってしまう……」

スタンダールがわざわざこんな対話を作中に埋め込んでいるのは何故だろう?
もちろんこの小説中の作者が言うように、せっかくの面白い小説で読者を楽しませようとしているときに政治をもちだすのは、すべてを台無しにする暴挙だ、と言いたいわけではなく、一応そんな素振りを見せはしましたが、出版社がこんなことを言うものですからという免罪符を自らに与えつつ、読者に納得してもらうための詐術と考えるのが妥当だろう。

スタンダール自身の本心はともあれ、いまや政治の力学があらゆる人間を巻き込んでしまっている以上、人間と社会を映し出す「鏡」たる小説のなかで、そうした政治のありように光を当てないわけにはいかないということである。
そしてそれを描くことにスタンダールは極めてあざやかな力量を発揮したのだ。
政治的な力学や駆け引きが主人公の運命にただならぬ影響をもたらし、物語の光彩をより輝かせる。まさにそれが「赤と黒」や「パルムの僧院」が現在においても現代的な文学となり得ている所以と言えるのかも知れないのである。

以上はしかし、物語が、芸術が政治をあくまで材料として扱い得た時代の話である。
とりわけ顕著なのは20世紀に入ろうとする時代以降かと思うのだが、プロパガンダなるものがなりふり構わず政治が芸術を利用し始めたのだ。
そうしていつの間にか文化芸術そのものが政治のしもべとして利用される具材となり果ててしまっているのではないだろうか。このことに私たちはもっと敏感にならなければならないだろう。

これはどこの国を問わず言えることだろうが、国威発揚であったり、国の魅力を発信するという名目であったり、理由づけは様々だが、政治が文化芸術やスポーツを利用しつつある現状にはどうにも胡散臭いものを感じてしまう。
クールジャパンしかり、オリンピックしかり、それらは今や政治そのものと化してしまった感がある。

一方、その利用される側も、生き残りのために自ら身を捧げるようなしぐさをする場面のあることも事実である。
挙句の果てに、売れる芸術や稼げる文化が重要視される風潮が生まれてくる。

本当に大事なものは何か。自らに深く問いかける時である。

東北へのまなざし

2022-09-18 | アート
会期末が迫っているということで、東京ステーションギャラリーで開催中の「東北へのまなざし」展を見に行った。



昭和のはじめ、1930年代、40年代において、先端的な意識をもった人々が相次いで東北地方を訪れ、この地の建築や生活用品に注目した。
こうした東北に向けられた複層的な「眼」を通して、当時、後進的な周縁とみなされてきた東北地方が、じつは豊かな文化の揺籃であり、そこに生きる人々の営為が、現在と地続きであることを改めて検証するもの、と展覧会のチラシには書かれている。

ドイツの建築家ブルーノ・タウトや民藝運動を展開した柳宗悦、考現学の祖として知られる今和次郎や「青森県画譜」を描いた弟の今純三の仕事などが紹介されていて、それぞれに興味深いのだが、その中で、特に私の目当てだったのは東北生活美術研究会を主導した福島出身の画家吉井忠の仕事だった。

吉井忠ははじめ前衛的な作風をめざしたが、のちに「土民派」と称するように人々の生活にねざした姿を描くようになった。
1936年から37年にかけて渡欧、ピカソの「ゲルニカ」を日本人として最も早く見たとも言われている。帰国後、池袋西口一帯にあった長崎アトリエ村に居を構えた池袋モンパルナスを代表する画家の一人であり、戦後は西池袋の谷端川沿いにアトリエを構えた。

展覧会場の「吉井忠の山村報告記」と題されたコーナーでは、太平洋戦争のはじまった1941年から終戦の前年頃にかけて東北地方を訪れた記録やスケッチなどが数多く展示されている。
氏の画風や絵に向かう考え方の変化はこうした東北の人々の生活にじかに接する中でより確固としたものになっていったのだろうか。

氏は戦後1952年に設立された豊島区の美術家協会にも所属されていて、私事ながら私も仕事の関係で何度かご自宅に伺い、展覧会に出品する作品を預からせていただいたりしたことを懐かしく思い出す。
氏は1999年に91歳で亡くなったのだが、関連でいえば、2006年3月にその1回目が行われた街ぐるみの文化事業である「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」では、娘さんの吉井爽子氏と熊谷守一の二女・熊谷榧氏の展覧会が立教大学の太刀川記念館や構内を使って大々的に開催されたのだった。
それももう16年も昔のことになる。

吉井忠の書いた「東北記」など、東北に関する研究や記録は近年になってようやく全貌が明らかになりつつあるという。
まだまだ注目すべき美術家なのである。



おいしいごはん、って?

2022-09-17 | 読書
高瀬隼子氏の小説「おいしいごはんが食べられますように」(芥川賞受賞作)はかなり前に掲載された雑誌で読んだのだったけれど、感想を言葉に出来ないまま時間が経ってしまい、そのことが気になっていた。
とても面白く一気に読んだのだったが、そのまま消化してしまうことが出来ずに胃の中でもっとしっかり咀嚼せよと食べたものが主張している、そんな感じなのである。

人間は生まれてきた時から《死》が運命づけられているのと同様、《ごはん》を食べることからは誰も逃れられない。その意味で《死》と《ごはん》は同義なのかも知れない。このことは思いのほか深い哲学的テーマを内包した小説であることを示しているようにも感じるのだ。

本作は、食品や飲料のラベルパッケージの製作会社で全国に13の支店がある、その一つである小さな職場内の人間関係を描いている。
ところで、どんな《ごはん》をおいしいと感じるかは人それぞれであって、個々の価値観によって大きく異なるのだが、その《ごはん》というフィルターを通して職場の人間関係が立体的に描かれるのがこの小説なのである。秀逸な作品だ。

職場には実にさまざまな人がいて、ある時は反目したり、同情したり、同調したり、抑圧したり、悪口を言ったり言われたりと、その時々の反応が人間関係を綾なして職場を居心地良くしたり、居たたまれない環境を生んだりする。
もちろん、それはそこにいる人間個々の性格や生育過程で身にまとった生活習慣のようなものが、相手との関係で化学反応を起こすようなものかも知れないのだが、この小説では、登場人物一人ひとりの《ごはん》に対する感じ方の違いが、その人間をシンボリックに表現しているという点に私は面白さを感じたのだったが、これは的外れだろうか?

たとえば主要な登場人物の一人、「二谷」であるが、彼は「おれは、おいしいものを食べるために生活を選ぶのが嫌なだけだよ」と言い、おでんを食べたいと思っても、そのためにおでん屋まで行くのは、自分の時間や行動が食べ物に支配されている感じがして嫌と言い、コンビニがあるならそれで済ませたい、と考える人間だ。

私自身、若い頃はこの「二谷」と同様の考えだったこともあり、思わず頷いてしまったのだが、このほかにも、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」と言った高貴な人のように、《ごはん》とケーキを同等以上のものと考えて、職場での評価を取り戻そうとばかりにお菓子作りにいそしむ人がいれば、それを嫌悪する人もいる。
人間関係の間には常に《ごはん》が介在し、それがシンボリックな役割を果たすのである。

さて、この小説では、登場人物が一人称、三人称と入れ替わりながら語られるのだが、それが奇妙なズレとなって客観と違和を読み手に同時に感じさせる。
二谷以外の人物がみな「○○さん」とさんづけで呼ばれるのも不要な親密感を拒絶する効果を生んでいるようだ。乾いたユーモアが人間関係の冷徹な腑分けを包んで絶妙である。

ところでこの「おいしいごはんが食べられますように」というのは、自分のためのおまじないのようなものだろうか。誰かが誰かのために発する祈りのようなものなのだろうか。
よくよく考えれば、不思議な言葉だなあと感じてしまう。

あるいはそれは、どこか高いところから、職場の人間関係に右往左往し、疲れてしまった人間たちに同情して《ごはん》の神様が投げかける呟きなのかも知れない。