seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

バルザックと小さな中国のお針子

2013-04-03 | 読書
 今年の1月以降、ある一連の出来事があって、その対応に気を取られ、小説を読んだり、美術作品を眺めたり、映画や芝居を観たりといった時間の楽しみ方とは違った方向に私自身の精神状態が逸れてしまっていた。
 時間がとれないとか、単に多忙であるというのとは異なる次元で、あらゆる事物への無関心が心の中に巣食ってしまっていたようなのだ。
 要は集中力の問題かとも思うのだけれど、ある種のスランプのようにも感じる。芝居を観ても心を動かされないし、いわゆる純文学など、何のためにこんなものを書くのだとばかり、2、3ページも続けて読み進めることができない。
 それでも書店には毎日のように顔を出し、熱に浮かされたように、あるいは、何かの免罪符を手に入れるかのように本を手当たり次第に買い集め、瞬く間に整理したばかりの書棚はいっぱいに溢れてしまったが、ただそれらは埃を被って放置されたまま顧みられることもない。

 そんな時、リハビリ代わりに読んだのが、フランス在住の中国人作家ダイ・シージエの小説「バルザックと小さな中国のお針子」だった。

 物語の舞台となるのは、文化大革命の嵐が吹き荒れる1971年の中国。
語り手である17歳の「僕」と18歳の友人・羅(ルオ)は、ともに医師と歯科医の父親を持つ知識階層=反革命分子の子として、都市部から遠く離れた山奥の村に下放され再教育を受けることになる。
 そこは、まるでSF小説のなかにしか現れないような、あらゆる文化や芸術の途絶した世界だった……。
下放された人間がその任を解かれ、都市部に戻れる確率は1000人の内3人。僕と羅(ルオ)はその3人に選ばれるよう、重労働に従事し村長のご機嫌を取れる方法をあれこれと模索する。羅(ルオ)には自分がかつて見聞きした映画や小説の物語を、あたかも目の前で演じられ、起こっているかのように現出させるという「語り」の才能があった。その力を村長に認められた二人は重労働を免除され、山を一つ越えた村で上映された北朝鮮のプロパガンダ映画を観に行っては、村人たちの前でその映画を再現するという役割を担うようになる。僕の演奏するヴァイオリンの調べに乗せ、映画のストーリーを語る羅(ルオ)の天才的な語りは、村の人々の心を打ち、涙を誘い出すのだった……。
ある日のこと、隣村に同じく下放されている同級生のメガネを訪ねた二人は、偶然、その部屋の奥深くに隠された鞄を見つける。
その中身は、中国で禁書とされた海外の小説で、ある一つの交換条件で二人は一冊の本をメガネから手に入れる。その本は、バルザックの小説だった。二人はその本を貪るように読み、その魅力に心を奪われる。
 そうした日々の中、二人は、隣村で人々の要望に応えてどんな服でも縫い上げる仕立屋とその一人娘で、お針子を務める美少女・小裁縫と出会い、知り合いとなる。
僕と羅(ルオ)は、ともに一目で恋に落ちるのだったが、先んじたのは羅(ルオ)で、持ち前の語りの才で映画を目の前に現前させ、バルザックを読み聞かせながら小裁縫の心ばかりか、肉体をも手に入れてしまう。僕は、その一部始終を複雑な気持ちで見詰め続けるしかないのだったが……。

 さほど長くはないこの小説を私は2週間以上もかけてゆっくりと読んだ。そのペースが私のリハビリには有効なのだと思いながら。
 この小説の魅力はなんといっても、文学も芸術も途絶され、本を読むことが国家から糾弾されるような恐怖政治のもと、文字すら存在しないような偏狭な社会のなかで再び文学作品に出合い、文章を読むことの幸福を心から味わうという、その至福の瞬間を青春小説の形式で描き出したことだろう。
 それも、機知と諧謔に富みながら、同時に無垢と悪意、純情と嫉妬、善行と悪徳がない交ぜとなり、それらすべてを寓話的な語り口とともに青春期特有の痛みと官能が甘くくるみ込んでいるような、そんな小説なのだ。

 著者のダイ・シージエは、自身も文革の嵐の中、青春時代を送らざるを得なかった中国人作家であり、本作を原作とする映画の監督でもある。
 そうした著者の経歴を知ると、いくつもの偶然と必然によって一つの文学作品が生まれ、それが遠い国の読み手のもとに届けられ、享受されることの不思議さというものをあらためて思わずにはいられない。