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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

NOISES OFF

2011-06-29 | 演劇
 前回、「NOISES OFFノイゼス オフ」の舞台について、「出演する俳優には、体力をはじめ神経的にも相当過酷を強いる芝居・・・」という感想を書いたばかりだったのだが、25日のマチネ公演の最中に出演者の成河(ソンハ)が怪我をしてしまい、同日夜と翌日千秋楽の公演が中止になったとのニュースが流れた。
 この舞台での成河(ソンハ)の演技はまさに身体を張ったコメディアンぶりで瞠目に値するものだった。終盤、床のマットに足をとられ、宙に身を投げ出しながら顔面から前のめりに倒れる場面があったのだが、無声映画時代のチャップリンやバスター・キートン、あるいは榎本健一などの往年の喜劇役者を髣髴とさせる演技だった。
 怪我をしたのは別の場面だったようだが、それだけ危険と隣り合わせの場面の連続だったのだろう。

 そうした危険を回避するために、俳優は稽古を積み重ね、何度もタイミングを計り、小道具の配置や衣装のチェックなど入念な準備をするわけなのだが、それでも本番の舞台には予期せぬ間や空隙が生じるようで、そこに足を踏み込んでしまった役者は思わぬ冷汗をかくことになる。
 その場に立つことになった役者は、それこそ世界全体が崩壊するのを必死になって食い止めようとあらゆる手立てを使って足掻くしかないのだ。決して裏方でのそうしたドタバタを表の舞台に出してはならないというのが、暗黙の、絶対的なルールなのだが、それがいつしか公然と表舞台に出てしまい、気がつくと台本に書かれたものとは似ても似つかない世界がそこに現出することになる。まさに、タガの外れた、背骨のない巨大な怪獣が舞台にのさばり出すのだ。
 「NOISES OFFノイゼス オフ」は、そうした世界を描いている、とも言えるだろう。
 今の政治状況のことは口にするまいと思ってはいてもどうしても連想してしまう。この何日かの政権与党をとりまくドタバタは笑えぬ喜劇と言うしかないではないか。
 演劇の持つ批評性がそこにあると言ってもよいのだろう。

 成河(ソンハ)氏には誠に気の毒だが、そうした舞台の意図を予期せぬ形で体現してしまったということかも知れない。十分に治療し、身体を休めて一日も早く舞台に無事復帰されることを願う。

こんな芝居を観た

2011-06-25 | 演劇
 6月11日、銀座8丁目の博品館劇場で私の知人・友人である伊藤貴子、長縄龍郎、花風みらいの3人が出演している舞台「天切り松闇がたり~衣紋坂から」を観た。原作:浅田次郎、なぎプロ・草薙良一プロデュース公演。
 原作の人気シリーズの第1巻所収の作品のいくつかをつなぎ合わせた内容で、原作のエッセンスをうまく台本にまとめて舞台化した作品と言えなくはないが、正直に言って、どうにも底が浅く見えて仕方がない。
 こういうお芝居が好きな方はいるだろうし、事実、前列のおばちゃんたちはもちろん(この私まで!)涙を流して観ていたのだが、浅田次郎の原作に溢れる今の時代へのアンチテーゼであったり、権力を振りかざすものへの言いようのない怒りであったりというものが何とも希薄に思えるのだ。
 それに、目細の安吉親分をはじめとする一家の面々が矮小化されて描かれているように思えるのもつらい。
 私の友人たちが3人とも脇ながらしっかりと存在感を出していたのが救いと言えば言えるのだが、商業演劇でもなく小劇場演劇でもない中途半端さのなか、恐らくは稽古時間も不十分だったのだろうなという裏の事情ばかりが透けて、舞台に立つことの動機を欠いていたように見えたのは、果たして私の目が曇っていたのか・・・。

 6月17日、東池袋の劇場「あうるすぽっと」で「NOISES OFFノイゼス オフ」を観た。 作:マイケル・フレイン、翻訳:小田島恒志、演出:千葉哲也。
 これは紛れもない傑作舞台である、と言ってしまっても良いだろう。これぞ演劇、これぞコメディ、という素晴らしい舞台だった。
 作品は、1982年に書かれたシチュエーション・コメディー。作者マイケル・フレインが書いた別の喜劇を、彼自身が舞台袖から見ていた際、客席から舞台を観るより、舞台裏から観た方がより面白いと感じたことがきっかけで作られたという。
 1幕と2幕では舞台セットが反転し、舞台の表と裏における役者たちの姿を観客は覗き見ることになる。
 場面は時間軸としては大きく3つに分かれていて、「NOTHING ON何事もなし」という芝居の本番初日を控えた舞台稽古の一日、それから1カ月を経た地方公演のある日、さらに2カ月後の千秋楽という時の流れのなかで変貌する俳優たちの姿がコミカルなうえにも残酷に描かれる。
 役者というものは、たとえ裏ではどれほどいがみ合ったり、三角関係にあったり、破局したりといろいろ込み合った人間関係にあろうと、舞台上にはそれをおくびにも出さないよう取り繕うものだが、この芝居の見どころは、それがちょっとしたきっかけでその暗黙のルールが破れてしまい、裏の顔が次第に表の顔に取って代わってしまうというそのプロセスにあるといえるかも知れない。その壊れようはまさに世界の屋台骨が崩れたかと思えるほどの衝撃なのだが、それを観客はもう笑って観ることしかできないのである。
 私はこれを観ながら、今の政権のごたごたをしきりに思い起こしていたのだが、この芝居には確かにそんな批評性もあるのに違いない。
 出演する俳優には、体力をはじめ神経的にも相当過酷を強いる芝居だが、それを補うだけの稽古の時間の積み重ねがあったはずと思えて何とも羨ましい舞台なのでもあった。
 ケネス・ブラナーがかつて監督した映画「世にも憂鬱なハムレットたち」について語った「俳優とは、誰もが感じている自己妄想を強調した実例であるということがどんなに面白いかということをこの映画は描いている」という言葉を思い出す。

 6月21日、王子小劇場にて、ひげ太夫の第31回公演「崑崙クジャク」を観た。
 「天切り松闇がたり」に出ていた伊藤貴子ちゃんがあれから1週間ほど過ぎたばかりでもうこちらの舞台に出ている。今の私にはもうとても望み得ないバイタリティだ。これまた羨ましい。
 ところで、お馴染みのひげ太夫は今回もいつものパターンで暴れまくる・・・のだが、今回はいささか元気がないようにも感じられたのは何故なのか。
 黄金の公式とも思えたこのワンパターンも、震災後の疲れた眼には退屈にしか映らない。
 この手法は両刃の剣なのだと気づかされる。
 私は、この劇団の主宰で作・演出の吉村やよひさんの大ファンなのではあるけれど、作者あるいは演出家の世界観に他の役者たちが奉仕するだけの舞台、と感じた瞬間にその芝居の魅力はたちまち色褪せてしまう。
 それはわが身を振り返って、まさに自分自身の胸先に突きつけられた剣なのでもある。


わからないということ

2011-06-04 | 雑感
 数日前の夜、夕食後のことだが、全身にジンマシンを発症した。
 もともとアレルギー体質ではあるのだが、これほどの腫れを伴う皮膚疾患はこれまでに経験がないことで我ながら驚いてしまった。
 それにしてもその日食べたものをいくら思い出しても原因となるものが思い当たらない。これまで長い時間をかけて蓄積されてきたアレルギーの因子が何かのきっかけで「噴火」したとしか思えないのだった。

 翌日、眠りから覚めたらキレイに治っていた、なんてことがあるはずもなく、顔の皮膚が赤くなって、おまけに瞼が腫れあがり、人相まで変わってしまったようなのだ。思いあまって駅近くの皮膚科専門の病院をネットで検索し、診察を受けることにした。
 訪ねた医院の医師によれば、蕁麻疹のおよそ70%は原因が分からないのだという。
「だから、血液検査のような無駄なことはやりません」と、冷静な顔で言う。
 結局、その症状を抑え鎮めることしかできないわけで、発熱の原因をさぐることなく、解熱剤を投与してただ熱を下げるというような治療しかない、ということなのだ。
 そんなものなのかなあ、と思いつつ、ステロイドを長い時間をかけて注射してもらい、アレルギー症状を抑える飲み薬として抗ヒスタミン薬を処方してもらった。
 
 ステロイドに即効性があるとは聞いていたが、これほどの効力があるとは!
 驚いたことに、注射してもらって2、3時間後には、あれほど全身に赤く水膨れのようになって発症していたものが、それこそマジックのようにきれいに消えてしまったのだ。
 それほど強い効果を持つということは、その副作用も強いのだろうな、と思いつつ、気持は浮き立つようだった・・・。

 気をつけなければいけないのは、その薬によって原因が取り除かれたわけではないということなのだ。この何が何だか分からないというのは不安なものだ。
 このことを現下の東日本大震災や福島の原発災害に結びつけていうことはあまり適切ではないかもしれないけれど、これらの抱える不安の大きな要因が「分からなさ」にあることは確かだろう。
 私たちは震災後の復興を語り、行動するけれど、自然のメカニズムが解明されているわけではない。自然災害の原因そのものが取り除かれているわけではないなかで生活を再建しなければならないことの不安は残り続ける。

 3日付の毎日新聞に反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏が寄稿している文章にこんな一節があった。
 「『よくわからない』というこのことが、今回の原発災害の特徴を決定づけている。どこまで有害なのかよくわからない、いつ帰れるのかよくわからない、食べても大丈夫なのかよくわからない。この『よくわからなさ』が、福島県内外の避難者はもとより、多くの人たちの去就を決定不能にし、宙づり状態にしている。宙づりにされているのは現在の職・住を含む生活総体と、未来に及ぶ。」

 この分からなさととことん付き合いつつも、さまざまな問題や課題の要素を冷静に腑分けしながら対処し、未来に向けての行動を一つひとつ積み重ねていくことが求められる。
 そのためには明確な論理や心に響く言葉が何よりも大切であると思うのだが、いまの政治にそれを求めることはできないのだろうか。
 ペテン師とピエロは小説や芝居の世界ではヒーローだが、この現実の世界では唾棄すべき存在に成り果てたかのようだ。
 その「わからない」言葉や論理が人々に絶望やあきらめしかもたらさないとすれば、「最小不幸社会」をめざしたはずのこの国の不幸が、それこそ「最大値」に極まったとしか言いようがない。