seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

DAH-DAH-SKO-DAH-DAH

2012-12-11 | 舞台芸術
 先月23日、舞踊公演「DAH-DAH-SKO-DAH-DAH」を観たことを忘れないようにメモしておきたい。
 演出・振付・美術・照明・出演:勅使川原三郎、主催:フェスティバル/トーキョー、KARAS、会場:東京芸術劇場プレイハウス。F/T12の最後を飾る演目である。

 会場で配られたパンフレットに収載の桂真菜氏(舞踊・演劇評論家)の文章「小さな身体から無限の宇宙へ~宮澤賢治の鼓動を、勅使川原三郎が伝える!」がこの舞台の意義や可能性を過不足なく伝えて素晴らしい。
 これを読みながら、様々なことを思い出したり、気づかされたりしたのだが、本作は今から21年前、1991年に発表された作品を再創造したものだ。
 宮澤賢治の心象スケッチ「原体剣舞連」をモティーフに作られた作品は、91年、湘南台文化センター市民シアターで初演、国内外で上演を重ねた。
 私は同年の東京グローブ座での公演を観たのだったが、ダンス・グループKARASのほか、特別出演した岩手県江刺で実際に「原体剣舞」を継承する12歳の少年の姿が強く印象に残っている。
 桂真菜氏の文章によれば、この少年が出演したのは東京グローブ座だけだったとのことだから、私がその舞台を観ることができたのはまさに僥倖としか言えないのだが、そのイメージの断片はその後の私自身の思考や心のありようを象るものとなっている。
 あの頃の私はまだ若く、当時まだ少年だった彼はいま、当時の私の年齢に近い年頃となっているはずだ……。

 そう言いながら、すっかり忘れているシーンもあって、そういえばあの時にはジャズサックス奏者の梅津和時も出演していて、その奏でる強烈な音と勅使川原のダンスが異相の空間を創り上げていたのだったが、そのことはいつの間にか記憶からすっぽりと抜け落ちていた。
 そのことを今回の舞台を観ることで思い出したのだが、同時に、グローブ座の舞台の少し前に、西荻窪の小さなライブハウスで汗みどろになりながら梅津和時のサックスを初めて生で聞いて感動したことも合わせて思い出した。
 その当時、鬱々としてつらかった様々な出来事や人との別れといったこともまた。

 勅使川原は(以前創作した)その中に行きつづけているものを生き返らせ、新たな生命を作品に与えたかった、と書いているが、その意味において本作は単なる再演やリメイクではない、まさにリ・クリエイトされた舞台である。
 それは、「蒸し返したり誤魔化したり気取り屋の逃げ場所にな」ることと最も遠い挑戦なのだ。
 舞台上の勅使川原のダンスは21年前のそれを上回る強度と鋭さを加えてさらに新たな地平を切り開く。21年前にはいなかった佐東利穂子ほかのダンサーたちの魅力ある動きもまた私には得難いものとして記憶にしっかりと刻みこまれた。

願わくば

2012-12-06 | 雑感
 十八代目中村勘三郎逝去の報が昨日早朝から駆け巡った。もしや、との思いは断片的に聞こえてくるこれまでの報道からも払拭できずにいたのだったが、いざその報せを耳にすると、まさか、との驚きが胸をいっぱいにした。
 私など、何のゆかりもないような人間があれこれ口にすることではなく、また、これから歌舞伎・演劇界にとどまらず、幅広い分野の友人、著名な人々がその人となりや芸の話をするのだろうけれど、やはり自分と同年代の役者の死には悲哀とも何とも言えない喪失感を抱いてしまう。
 素晴らしい俳優だったのは間違いないが、まだまだ円熟には年若く、これからあと少なくとも20年は舞台の花を咲かせ続けてもらいたかったと誰しもが口惜しく思ったに違いない。
 西行法師の「願わくば……」のように、彼もまた、願わくばせめて舞台の上で死にたいと思ったであろうか。

 進取の気性に富んだ彼は、新しいものを積極的に取り入れることで自らの拠って立つ歌舞伎界そのものを活性化させようとしていたのだろう。
 そのことはちょっとした踊りの型や所作の一つひとつにも及んでいたようで、彼に踊りを教えていたある日の先代勘三郎が「おいおい、オレの目の黒いうちは教えたとおりにやっとくれよ」と言ったのは有名な話だ。
 串田和美、野田秀樹、渡辺えりら、小劇場系の作家や演出家とも果敢にコラボし、ジャンルを問わず、映画やテレビドラマ等でも活躍した彼だが、その姿は何よりも歌舞伎という様式の中でこそ美しく輝いていた。
 映画フィルムやDVDは後世に形あるものとして伝えられるけれど、舞台上で光を放つその本当の姿は、私たちの記憶の中にしか残らない。

 同時代を生きて、子役だった勘九郎ちゃん時代からテレビ等でその成長の過程を目にし、共に歩んできた立場からも、彼の存在は他のどの俳優とも異なる身近なものだった。
 もっとも身近な場所で彼を見たのは、もう15年以上も前のことだろうか、雑司ヶ谷鬼子母神の境内で、唐十郎の紅テント芝居を観た時のこと、すし詰めの観客席で、お姉さんの波乃久里子さんや女優の吉田日出子さんたちと一緒に、舞台下に掘った池の中から飛び出してきた水びたしの唐十郎にやんやと喝采を送っていた。その楽しげで羨ましそうな顔が印象的だったが、その体験がのちの平成中村座につながっていったのだろう。
 次に見たのは、数年前、知人の女優Yさんが中村勘三郎と藤山直美が二枚看板の新橋演舞場の舞台に出ていて、その楽屋に会いに行った時、ちょうど次の仕事に出かけるのか、遊びにでも行くのか、急いで出てきた勘三郎さんとすれ違い、一瞬妙な間があって二人きりになり、ふと目が合った。

 ただそれだけのことなのだが、先方はこちらのことを知りもせず、こちらだけがそのことをいつまでも記憶にとどめている。
 こんなことは誰にもあるのに違いないが、そこから何か物語を構想することができるだろうか。
 何か、彼には借りがあるような気もして、そんなことをふと考えたりもするのだ……。
 合掌。