seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

虎の尾を踏む男達

2012-10-25 | 映画
 「七世 松本幸四郎 追遠」と銘打った十月歌舞伎を新橋演舞場で観た。(10月8日)
 私の目当ては「勧進帳」で、昼夜役替りの夜の部、幸四郎の弁慶、團十郎の富樫という配役である。義経は、予定されていた染五郎が例のアクシデントで休演となったため、坂田藤十郎が演じている。
 誰もが知っている勧進帳なのだが、改めて「歌舞伎十八番」の中でも屈指の人気演目であることに納得させられる。歌舞伎好きは無論のこと、日本人の琴線に触れる名シーンが凝縮しているのだ。観ていて久々に心が熱くなった。
 とはいえ、この芝居は、へたをすると弁慶の独り舞台になりかねない危険性を擁しているのではないかと思える。そうした弊害を排するために、おそらくは長い時間をかけて改良を重ねながら、富樫が一方の大きな役どころとして存在感を発揮するように工夫したのだろうし、義経の見せ場も作っている。
 それでもやっぱりこの舞台が弁慶役者の独壇場であることに変わりはないのだけれど。

 さて、この舞台を観るちょうど2日前のこと、少し遅れた誕生日のお祝いに黒澤明作品のDVDボックスをいただいた。その中の1巻に「虎の尾を踏む男達」が収載されていて、タイミングのよい予習となった。
 本作は、終戦日を間に挟む戦争の前後において撮影された作品である。黒澤明は当時35歳、東宝撮影所では、仕事をしていない者は「みんなしゃがんで話をしていた」「腹が空いて、立っているのは辛いのである。」と回想していることが、小林信彦の「黒澤明という時代」(文春文庫)に紹介されている。
 もともと大河内伝次郎とエノケンが共演する別の映画の企画だったのが、クライマックスに使う馬が軍馬として徴用され調達できなかったことから代案として浮かんだのが、能の「安宅」と歌舞伎の「勧進帳」をもとにした本作であるという。
 物資不足でフィルムも思うように手に入らないこの折、1時間足らずの作品の構想は渡りに船だったのかも知れない。

 勧進帳の舞台では弁慶、義経を含めた一行の人数は5人だったはずだが、映画では強力役のエノケンを除く人数は7人である。と、ここで後年の「七人の侍」を想起させるのはただの偶然か。
 義経役は岩井半四郎、弁慶:大河内伝次郎のほか、家来には森雅之、志村喬、河野秋武、小杉義男といった豪華な顔ぶれが揃う。富樫を若い藤田進が演じているが、撮影時の彼は姿三四郎役で人気を博してから間もない頃で、子どもたちのヒーローであったはずだ。その若い富樫は、複雑な心理を窺わせる歌舞伎の富樫とは異なり、あくまで真っ直ぐかつ無垢な視線で義経主従を見つめ、そして見逃すのだ。

 本作は、戦後もまだしばらくは存在した日本の検閲官によって「日本の古典的芸能である歌舞伎の“勧進帳”の改悪である」「エノケンを出すこと自体、歌舞伎を愚弄するもの」などと難癖をつけられ、その言葉に怒りを爆発させた黒澤の態度に対し、戦争に負けて尾羽打ち枯らしたはずの彼ら権力者たちはGHQへの報告書から本作を削除し、未報告の非合法作品として葬り去ることによって報いた。
 「虎の尾を踏む男達」は7年間のお蔵入りののち、米軍による占領終結の直前、1952(昭和27)年4月24日になってようやく公開されたのである。ただ、その時にはもう、大河内伝次郎もエノケンも藤田進も観客を集めるスターではなくなっていた、と小林信彦氏は書いている。

 私はこの作品を大スクリーンで観る機会にはまだ恵まれていないのだが、今回見直して、以前、もう10数年も前にテレビの黒澤明特集で観た時とは違ったインパクトを受けた。
 それは私自身が齢を重ねたということかも知れないのだが、端的にいえば、義経主従とエノケン演じる強力の関係に合点がいくようになったとでも言えばよいだろうか。
 以前にはただ煩く感じたエノケンの演技がただの悪ふざけではなく、卓抜な演技力やリズム感に裏打ちされたことが納得される。そのことが義経主従一行の姿を相対化しつつ、悲劇性を際立たせる効果を生んでいるのだ。
 そして、あのラストシーン。
 勧進帳でも富樫から酒が届けられ、酔った弁慶が延年の舞を舞う。その後、あの屈指の名ラストシーン、弁慶の飛び六法の引っ込みへとつながるのだが、映画では、弁慶の豪快な飲みっぷりにあやかった強力が酔った挙句の剽軽な踊りを踊って見せる。
 ふと強力が気がつくと日はとっぷりと暮れ、一行も立ち去った後とみえてあたりには誰もいない。
 周りをキョロキョロと見渡したエノケンの強力だが、やおら見得をつくると軽く飛び六法を踏みながら画面左手前の方向へと消えていく……。

 誰もが唸る名場面であるが、今回DVDを観た私のささやかな発見は、もしかしたら、ここで描かれた全てのこと、安宅の関での勧進帳の読み上げから山伏問答の一切合財、義経主従の存在すらが、強力の見た「一夜の夢」だったのではないか、ということである。
 そうであればこそ、この映画が撮影された「時代」の悲劇性はより際立ったものとして感じられるのではないか。
 戦時中、黒澤明は能にのめり込んだと言う。そうした能の劇構造を巧みに活用した語りの詐術の精華がこの作品にはあると思うのだが、どうだろう。

何のための文化政策か

2012-10-04 | 文化政策
 もう半月も前のことになるけれど、研修旅行で上京した福岡大学法学部1年生20名ほどの皆さんの前で私が関わった豊島区の文化政策について話をする機会があった。
 お世話になっているO教授の教え子たちなのだが、Oさんは、豊島区が廃校を活用した文化拠点づくりプロジェクトである「にしすがも創造舎」を中心とした地域再生計画を国に申請した当時、内閣府の企画官をされていたというご縁で、ここでの活動に興味を持たれ、機会あるごとに何かと助言や励ましの応援をしてくださっている。
 「にしすがも創造舎」をご自分にとっての地域再生の「一丁目1番地」といってはばからない方で、私にとって、同じ空気感を共有できる数少ない「仲間」の一人といってもよいだろう。(言い過ぎか……)
 
 とは言え、その日集まった福岡大学の学生の皆さんにとって、東京・豊島区などあまりに遠い存在でしかなく、そこでの文化政策の話など、興味の抱きようもないのではないか、とも思えたのだが、案の定、将来の就職先として東京をターゲットに考えているかどうかを尋ねたところ手を挙げた学生は皆無であった。
 それはそうだろう、北九州・福岡市は人口150万人に及ぶ大都市なのだ、その周辺で生まれ育った人々にとって、大阪、神戸、名古屋を通り越してわざわざ東京に職を求めて移り住むなどということは、想像すらあり得ないことなのかも知れないのだ。
 
 それはともあれ、今回の講義資料を作りながらの収穫は、10年ほど前に勉強のために読んだ中川幾郎著「分権時代の自治体文化行政」からのメモ書きを改めて読み直したことだった。
 その中でも、1970年代末の畑和埼玉県知事時代に提示された埼玉県における文化行政のキーワードである、いわゆる「埼玉テーゼ」は、今もなお一般に流布している文化行政の分かりやすい道しるべと言ってよいだろう。
 すなわち、「①人間性」「②地域性」「③創造性」「④美観性」の4つのテーゼであるが、これらの一つひとつが持つ真の意味合いは、80年代に入ってからの美術館や音楽ホール等の建設に代表されるハコモノ行政の波に呑み込まれ、さらにはその後のバブル崩壊や景気低迷の長期化のなかで撹拌され、希薄化し、雲散していった。
 しかし、これらの命題に込められた意味をもう一度深く噛みしめてみた時、そこには文化政策の本質的な意義がしっかりと内包されていると思えるのだ。以下、メモ書きから引用。

 「人間性」とは、市民のライフサイクルと日常生活の全体性をみつめることを基本としながら、多様な市民の立場に立った視点から、行政の改善や改革を図ることにつなげることを企図する。
 そこにおいて、地方自治の主権者としての自律性と統治能力をもつ市民像の追求と、行政と市民の協働方式の追求は同一線上にあるといえる。

 「地域性」とは、単に、地域の個性化を追求し、風土、歴史、産業、住民特性を重視した施策を展開するということではなく、地域のアイデンティティ(自覚された個性、独自性)の形成、開発までを射程に入れたものでなければならない。
 アイデンティティは、他者との関係性の中で形成されるものであり、他都市、世界諸地域との交流の活性化なくしては生まれない。
 異なった文化のふれあいが豊かな文化を生み出し、人々を生き生きとさせ、地域や都市を個性化させる。成功した「むらおこし」「まちづくり」は、この交流の視点を間違いなく重視している。
 個性化の視点とは、すなわち他者との交流による自己発見の視点にほかならない。

 「創造性」とは、前例や規制制度、縦割りの枠組みにとらわれず、自由な発想と積極的な提案を重要視することであり、そのためには、自治体自身が、政策主体として自立するという問題意識、危機意識が不可欠である。
 とりわけ、行政内部の意識開発を進める粘り強い仕掛け、創造的な提案を実際に着地させる仕組み、総合的な政策構築のための組織横断マトリックスが重要であり、加えて、市民意識の活性化への働きかけや市民からの政策提案を受け入れていく実際的な回路=市民との協働の視点が何よりも必要となる。

 「美観性」とは、地域の個性的な文化と、平均的な日本文化や世界共通の文化の地域内での流動性を高め、異化(個性化)と同化(共通化)の緊張関係を際立たせていくために、文化衝突や文化交流の活発な回路を意識的につくることにほかならず、これらをとおして優れた公共デザインや地域デザインが形成される。

 以上は、「行政の文化化」というものを考えるうえでの命題であり、30数年も前の考え方に違いないのだが、根底に流れるものは今もなお古びることなく、切迫性を伴って私たちに文化政策の有り様を問いかける。
 これらを忘れた文化事業は、それがいかに華々しくにぎわいを呼んだとしても、ただ空しいだけだろう。
 それが、あの日、私の前にいた20歳前後の学生たちの心にどれだけ響いたかは分からないのだけれど……。