時たま思い立っては読み返したくなる小説や童話がある。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」もそうした作品の一つである。普段は文庫本で読むことが多いのだが、私の書棚の奥には1980年代のはじめに出た筑摩書房の「新修 宮沢賢治全集」があって、今回はそれを引っ張り出し、収載されている「銀河鉄道の夜」の異稿(初期形)を比べながら読んだ。
すでにネット上ではこのことに言及している意見が散見されるが、この作品は、昨今社会問題となっているヤングケアラーの話ではないかということを改めて感じる。
ジョバンニの姉は彼と母親との会話に出てくるだけで、実際に姿を現すことはないのだが、病弱でどうやら寝たきりになっているらしい母親の面倒や家事を担っていて、おそらくは外に働きに出ているということが想像できる。
ジョバンニもまた、学校の帰りに活版所で活字を拾う仕事をし、わずかな日銭を稼いでは母親のために牛乳に入れる角砂糖やパンを買ったりする。
異稿では、母親が働きづめに働いて身体の具合が悪くなる様子やジョバンニが朝早く起きて新聞配達の仕事をする様子が彼の独白の形で描かれている。ジョバンニは子どもらしい遊びの時間や睡眠を削って働き、そのために友だちもなく孤独で、授業中は頭がぼんやりとして眠くて仕方がないのだ。
「ぼくはおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする」というのは、一緒に銀河鉄道に乗り込んだカンパネルラの独白だが、これはジョバンニの心情にも共通するもので、作品全体に通底するトーンとなっている。
これは誰かの幸いのために自らが犠牲になるという作品のテーマに直結した設定でもあるのだが、これを今どう捉えればよいのか。批判的に見るか、肯定するのか深く考える必要があるだろう。
さらに異稿では、カンパネルラの家庭と比較して、ジョバンニの家庭の暮らしの貧しさも描かれる。こうしたことから賢治は、現代において問題が顕わになっている社会的、経済的な格差をはじめ、いじめといった問題をも視野に作品を構想していたのではないかと推測されるのだ。
異稿に書かれたこれらの事柄の多くは、今私たちが目にする最終形においては入念に省かれ、描写の奥底に見え隠れするだけなのだが、そのことによって作品は普遍性を獲得し、より象徴の純度を高めていると感じる。
一方、ラストシーンでは、カンパネルラの犠牲的な死が衝撃的に知らされるが、同時にカンパネルラの父親の博士からは、ジョバンニの父が近く帰還することが伝えられる。
ジョバンニは胸がいっぱいになりながら、「母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと」一目散に河原を街の方へ走ってゆくところでこの物語は終わっている。
このラストはジョバンニの境遇にかすかな希望をもたらすものと捉えればよいのだろうか。しかし、友人の死がパラレルに描かれているために、読者はこれを素直には受容することが出来ないのだ。
おそらくはジョバンニの家庭の苦境の多くが「父の不在」によってもたらされたと考えれば、「父の帰還」はジョバンニが抱える問題や鬱屈の多くを解決に導いてくれる要素にはなり得るだろう。だが、父の存在=父権の確立がそのまま子どもや家庭の幸せに直結していると読み取られかねない一面を見てしまうと、この物語のラストにはより複雑な感情を呼び起こされてしまう。
私自身はこれまでごくありきたりな一般的な読者として賢治の詩や童話を読んできたに過ぎないのだが、もっと深く読み込み、読解する必要のある作品なのだと今さらながらに思う。
すでにネット上ではこのことに言及している意見が散見されるが、この作品は、昨今社会問題となっているヤングケアラーの話ではないかということを改めて感じる。
ジョバンニの姉は彼と母親との会話に出てくるだけで、実際に姿を現すことはないのだが、病弱でどうやら寝たきりになっているらしい母親の面倒や家事を担っていて、おそらくは外に働きに出ているということが想像できる。
ジョバンニもまた、学校の帰りに活版所で活字を拾う仕事をし、わずかな日銭を稼いでは母親のために牛乳に入れる角砂糖やパンを買ったりする。
異稿では、母親が働きづめに働いて身体の具合が悪くなる様子やジョバンニが朝早く起きて新聞配達の仕事をする様子が彼の独白の形で描かれている。ジョバンニは子どもらしい遊びの時間や睡眠を削って働き、そのために友だちもなく孤独で、授業中は頭がぼんやりとして眠くて仕方がないのだ。
「ぼくはおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする」というのは、一緒に銀河鉄道に乗り込んだカンパネルラの独白だが、これはジョバンニの心情にも共通するもので、作品全体に通底するトーンとなっている。
これは誰かの幸いのために自らが犠牲になるという作品のテーマに直結した設定でもあるのだが、これを今どう捉えればよいのか。批判的に見るか、肯定するのか深く考える必要があるだろう。
さらに異稿では、カンパネルラの家庭と比較して、ジョバンニの家庭の暮らしの貧しさも描かれる。こうしたことから賢治は、現代において問題が顕わになっている社会的、経済的な格差をはじめ、いじめといった問題をも視野に作品を構想していたのではないかと推測されるのだ。
異稿に書かれたこれらの事柄の多くは、今私たちが目にする最終形においては入念に省かれ、描写の奥底に見え隠れするだけなのだが、そのことによって作品は普遍性を獲得し、より象徴の純度を高めていると感じる。
一方、ラストシーンでは、カンパネルラの犠牲的な死が衝撃的に知らされるが、同時にカンパネルラの父親の博士からは、ジョバンニの父が近く帰還することが伝えられる。
ジョバンニは胸がいっぱいになりながら、「母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと」一目散に河原を街の方へ走ってゆくところでこの物語は終わっている。
このラストはジョバンニの境遇にかすかな希望をもたらすものと捉えればよいのだろうか。しかし、友人の死がパラレルに描かれているために、読者はこれを素直には受容することが出来ないのだ。
おそらくはジョバンニの家庭の苦境の多くが「父の不在」によってもたらされたと考えれば、「父の帰還」はジョバンニが抱える問題や鬱屈の多くを解決に導いてくれる要素にはなり得るだろう。だが、父の存在=父権の確立がそのまま子どもや家庭の幸せに直結していると読み取られかねない一面を見てしまうと、この物語のラストにはより複雑な感情を呼び起こされてしまう。
私自身はこれまでごくありきたりな一般的な読者として賢治の詩や童話を読んできたに過ぎないのだが、もっと深く読み込み、読解する必要のある作品なのだと今さらながらに思う。