22日(土)、東京佼成ウインドオーケストラ定期演奏会を聴いた。(於:東京芸術劇場コンサートホール)
指揮:シズオ・Z・クワハラ、ピアノ:ステュワート・グッドイヤー。
冒頭の「ロッキー・ポイント・ホリデー」(作曲:R.ネルソン)が情熱的な指揮と統率された輪郭のクリアな音色が聴衆を引き込む。普段吹奏楽になじみのない私も思わず身を乗り出してしまった。
休憩前の「春になって、王達が戦いに出るに及んで」(作曲:D.R.ホルジンガー)は、途中、演奏者の合唱とも呻り声ともつかない「声」が重要な要素として使われ、終盤で現れるカオス的音響=解説によれば「自由なアドリブで奏でられる反復動機を累積させたクラスター的音響」が、ザ・ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を想起させて面白い。
演奏会の白眉は何と言っても「ラプソディー・イン・ブルー」だろうが、ピアノとウインドオーケストラの競演が素晴らしい。
まったくのありきたりな感想になってしまうが、豊かな音の饗宴を堪能することができた。たまにはこんな時間があってもよいだろう。
その同じ日に読了したのがレイモンド・チャンドラーの「さよなら、愛しい人」(村上春樹訳)である。
最近の私は集中した読書の時間をまったく取ることができない。この本も読み始めてから実は2か月程もかかっている。途中、別の本を何冊か読んだためもあるが、それにしてもかかり過ぎである。現実社会では実にリアルな切迫した事象が相次いで起こり、こうした小説世界がまるでメルヘンのように思えなくもない。それゆえご縁がなかったものと読むのを諦めかけたこともあるのだが、10分刻みの電車での移動時間を重ねながら、それでも最後の100ページは一気に読むことができた。集中できさえすれば、もちろん小説は面白いに決まっているのだが。
同作を読みながら私と同世代以上の人は、今から39年前にロバート・ミッチャム主演で映画された「さらば愛しき女よ」を思い出すのではないだろうか。
共演のシャーロット・ランブリングが魅力的だったし、その翌年に「ロッキー」で一躍スターになるシルベスター・スタローンがまだ無名のチンピラ役で出演していた。
ヤンキースのジョー・ディマジオの連続安打記録に一喜一憂したり、暗い部屋の中で一人チェスに没頭するフィリップ・マーローの姿が面白く印象に残っている。
さて、「さよなら、愛しい人」は先行する翻訳がいくつもある名作だが、新訳をあえて出す意義とは何なのだろう。
旧訳が今の時代にそぐわなくなった、古くさくなった、というのが主な理由だろう。
しかしながら、といつも思うのだけれど、オリジナルの原文はそのままで今の時代にも十分通用し、輝きを放っているのに、何故翻訳だけが古びてしまうのか、それが不思議でならないのだ。
つまりそれは翻訳者もまた表現者であるから、ということに尽きるのかも知れない。今の時代と切り結ぶ表現を新たな創造行為として生み出そうとするのが表現者としての欲望なのだ。オリジナルは変わらなくとも、それを見るものの視点は時代に応じて変化する。その変化を言葉に変換するのが翻訳者なのだ。
あるいはそれは演出家の視点とも似ているのかも知れない。
今月いっぱい開催されている「フェスティバル/トーキョー14」の演目の一つ、薪伝実験劇団の「ゴースト2.0~イプセン『幽霊』より」のプログラムにこんなエピソードが紹介されている。
……今年、北京で学生向けの演劇鑑賞の場で、中国の古典悲劇「雷雨」が公演されたところ、会場が笑いに包まれたとネット上で話題になった。「テキストや演技がそもそも現代に合わない」「今の若者は古典の魅力が分かっていない」など、関係者からは様々な意見が飛び交った。……
これに対し、問われた「ゴースト2.0」の演出家ワン・チョンは、「時代遅れの脚本というのはないと思っています。時代遅れの演出方法ということなんだと思いますね」と答えている。
似たような話を思い出す。
もうかれこれ25年も前の新聞に載っていたのだが、アメリカの地方都市の映画館でハンフリー・ボガート主演の「カサブランカ」(1942年製作)が上演されていた。
場内にはポップコーンをぱくつきながら足を投げ出したような若者で溢れていたのだが、彼らは映画の主人公が話す名台詞の一言ごとに腹を抱えて大笑いしていたというのだ。彼らにとってはこの名作映画も憂さ晴らしの娯楽映画でしかないのだ。
どんな名作映画も、小説も、時間という理不尽な荒波に洗われてみれば、滑稽な姿を露わにしてしまう。
それを今の時代に即して適合したものに仕立て上げ、新たな意味や価値を付与するのが、ここで言うところの演出家であり、翻訳者の仕事なのだろう。
あらためてそう思えば、形となって後代に残らないだけ、演劇という表現は幸福な芸術ジャンルであると言えるのかも知れない。
指揮:シズオ・Z・クワハラ、ピアノ:ステュワート・グッドイヤー。
冒頭の「ロッキー・ポイント・ホリデー」(作曲:R.ネルソン)が情熱的な指揮と統率された輪郭のクリアな音色が聴衆を引き込む。普段吹奏楽になじみのない私も思わず身を乗り出してしまった。
休憩前の「春になって、王達が戦いに出るに及んで」(作曲:D.R.ホルジンガー)は、途中、演奏者の合唱とも呻り声ともつかない「声」が重要な要素として使われ、終盤で現れるカオス的音響=解説によれば「自由なアドリブで奏でられる反復動機を累積させたクラスター的音響」が、ザ・ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を想起させて面白い。
演奏会の白眉は何と言っても「ラプソディー・イン・ブルー」だろうが、ピアノとウインドオーケストラの競演が素晴らしい。
まったくのありきたりな感想になってしまうが、豊かな音の饗宴を堪能することができた。たまにはこんな時間があってもよいだろう。
その同じ日に読了したのがレイモンド・チャンドラーの「さよなら、愛しい人」(村上春樹訳)である。
最近の私は集中した読書の時間をまったく取ることができない。この本も読み始めてから実は2か月程もかかっている。途中、別の本を何冊か読んだためもあるが、それにしてもかかり過ぎである。現実社会では実にリアルな切迫した事象が相次いで起こり、こうした小説世界がまるでメルヘンのように思えなくもない。それゆえご縁がなかったものと読むのを諦めかけたこともあるのだが、10分刻みの電車での移動時間を重ねながら、それでも最後の100ページは一気に読むことができた。集中できさえすれば、もちろん小説は面白いに決まっているのだが。
同作を読みながら私と同世代以上の人は、今から39年前にロバート・ミッチャム主演で映画された「さらば愛しき女よ」を思い出すのではないだろうか。
共演のシャーロット・ランブリングが魅力的だったし、その翌年に「ロッキー」で一躍スターになるシルベスター・スタローンがまだ無名のチンピラ役で出演していた。
ヤンキースのジョー・ディマジオの連続安打記録に一喜一憂したり、暗い部屋の中で一人チェスに没頭するフィリップ・マーローの姿が面白く印象に残っている。
さて、「さよなら、愛しい人」は先行する翻訳がいくつもある名作だが、新訳をあえて出す意義とは何なのだろう。
旧訳が今の時代にそぐわなくなった、古くさくなった、というのが主な理由だろう。
しかしながら、といつも思うのだけれど、オリジナルの原文はそのままで今の時代にも十分通用し、輝きを放っているのに、何故翻訳だけが古びてしまうのか、それが不思議でならないのだ。
つまりそれは翻訳者もまた表現者であるから、ということに尽きるのかも知れない。今の時代と切り結ぶ表現を新たな創造行為として生み出そうとするのが表現者としての欲望なのだ。オリジナルは変わらなくとも、それを見るものの視点は時代に応じて変化する。その変化を言葉に変換するのが翻訳者なのだ。
あるいはそれは演出家の視点とも似ているのかも知れない。
今月いっぱい開催されている「フェスティバル/トーキョー14」の演目の一つ、薪伝実験劇団の「ゴースト2.0~イプセン『幽霊』より」のプログラムにこんなエピソードが紹介されている。
……今年、北京で学生向けの演劇鑑賞の場で、中国の古典悲劇「雷雨」が公演されたところ、会場が笑いに包まれたとネット上で話題になった。「テキストや演技がそもそも現代に合わない」「今の若者は古典の魅力が分かっていない」など、関係者からは様々な意見が飛び交った。……
これに対し、問われた「ゴースト2.0」の演出家ワン・チョンは、「時代遅れの脚本というのはないと思っています。時代遅れの演出方法ということなんだと思いますね」と答えている。
似たような話を思い出す。
もうかれこれ25年も前の新聞に載っていたのだが、アメリカの地方都市の映画館でハンフリー・ボガート主演の「カサブランカ」(1942年製作)が上演されていた。
場内にはポップコーンをぱくつきながら足を投げ出したような若者で溢れていたのだが、彼らは映画の主人公が話す名台詞の一言ごとに腹を抱えて大笑いしていたというのだ。彼らにとってはこの名作映画も憂さ晴らしの娯楽映画でしかないのだ。
どんな名作映画も、小説も、時間という理不尽な荒波に洗われてみれば、滑稽な姿を露わにしてしまう。
それを今の時代に即して適合したものに仕立て上げ、新たな意味や価値を付与するのが、ここで言うところの演出家であり、翻訳者の仕事なのだろう。
あらためてそう思えば、形となって後代に残らないだけ、演劇という表現は幸福な芸術ジャンルであると言えるのかも知れない。