seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

幸福な家庭について

2023-10-14 | 読書
ヘミングウェイが「パリ・レビュー」誌のジョージ・プリンプトンのインタビューのなかで、原稿をどのくらい書き直すのかと問われ、「『武器よ さらば』の最後のページのところは39回書き直してやっと満足できた」と答えている。
また、トルストイは「アンナ・カレーニナ」の冒頭の部分を17回書き直し、さらに長大な小説の全体を12回にわたって書き直したという。
この「書き直し」というのはいわゆる推敲とは異なり、文字どおり全面的に一から書き直すということなのだろうか。その回数の多寡にはいささか眉に唾して考えたいとつい勘ぐってしまうのだが、ヘミングウェイは毎日、その日に書いた語数を記録していたというから、おそらくはったりなどではない正真正銘の努力の証しなのだろう。
いずれにせよ巨匠たちの作品に注ぎ込む集中力と精力の猛烈さには脱帽しかない。

さて、アンナ・カレーニナの書き出しの文章はとりわけ有名である。
「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」(木村浩訳)というのがそれだが、これには一体どのような意味が込められているのだろう。
ある日、たまたま友人と話をしていて何故だったかこの冒頭の文章についての戯れ言が始まった。
その友人は、こんなのはただのこけ脅かしに過ぎず意味なんかないと断言するのだが、まさか世界文学の最高峰の小説の書き出しに意味がないなどということがあるだろうかと私は大いに反駁したものだが、当の友人の関心はもう別のところに移っていて話のかみ合うどころではないのだ。

それでも食い下がる私に友人の言うには、そもそも「幸福な家庭はすべて互いに似かよったもの」という言い切り型の定義づけそのものがおかしいというのだ。
すべての「家庭の事情」なるものをつぶさに見てきたふうな口ぶりだが、その家庭がはたして幸福かどうかの尺度は結局のところ個々人のあくまで主観でしかない。百歩譲って仮に幸福な家庭が互いに似かよったものだとするなら、それは人々の思い描く「幸福な家庭像」なるものが単純に似かよっているということなのである。
わが身を振り返ってもそうだし、試しに身近にいる誰でもよいのだが、「あなたの家庭は幸福ですか?」と訊いてみるとよい。誰もが、一瞬戸惑ったのちに「はい、幸福です」と羞じらいながら答えるのではないだろうか。
けれど、そこでもう一歩踏み込んで「ではあなたの考える幸福な家庭とはどのような家庭ですか?」と訊いたとしたら人はどう答えるだろう。おそらくは誰もが似たり寄ったりの凡庸な家庭像しか思い浮かべることができないのではないか、というのが友人の言い分なのである。

私はなるほどなあと思いながら、凡庸な想像力が描き出す凡庸で似かよった幸福な家庭、というものを思い浮かべていた。
しかし、わが身を振り返ってみてもそうなのだが、人は誰しも他人に言えない事情を抱えているものである。
その深刻の度合いはさまざまであり、それを不幸と思うかどうかもまた人それぞれであるにしろ、完璧に幸福な人などどこにも存在しないのではないだろうか。
それこそ「不幸のおもむきは異なっている」のである。

と、そこで友人の持ち出したのがチャップリンのよく知られた次の言葉である。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」

芸術、とりわけ小説なんてものは人様の人生やものごとをクローズアップして描くものなのだ。となれば、そこに表現されたものは悲劇の様相を帯びることになる。
結局、アンナ・カレーニナの冒頭の言葉は、これから私はある家庭の不幸の有り様をこと細かに書いて行きますよ、という作家としての「宣言」なのである。
ま、それ以上の意味はないのじゃないか? というのが友人の結論なのだった。

なんだか腑に落ちないながら、私はなるほどなあと頷くしかなかったのである。

宮沢賢治「カーバイト倉庫」

2023-03-29 | 読書
若い頃に読んだ小説や詩の一節でなぜか忘れられず、その文のリズムや言い回しに何とも言えない魅力を感じるものが誰にも一つや二つはあるのではないだろうか。
私にとって宮沢賢治の第一詩集「春と修羅」の中の「カーバイト倉庫」がまさにそうで、確か二十歳前の独り暮らしを始めた頃に読んで感銘を受け、その後、人生の移り変わりの折節にたびたびその詩の何行かが頭に浮かび、慰められるような気持ちになることがあったのである。

しかし、だからといってこの「カーバイト倉庫」が賢治の詩の中で大きな位置を占めているかというと、決してそんなことはないようなのである。
その証拠に、私の住んでいる街の書店でも入手可能な岩波文庫や新潮文庫、角川文庫の宮沢賢治詩集にはこの作品は収載されていないのだ。編者の目にはさして重要とも思われず割愛されてしまったのだろうか。
私は若い頃、この詩を中央公論社の「日本の詩歌第18巻」の宮沢賢治集で読んだのだったが、バカげたことに引っ越しを何度か繰り返すうちにこの本を紛失してしまっていていたのだった。
そうなると無性にこの詩をもう一度この目で読みたくなってきて、電子書籍やネット、図書館にある筑摩書房の宮沢賢治全集で見つけたのがこの詩なのだった。短いものなので全文を引用する。

  まちなみのなつかしい灯とおもつて
  いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーベンタイン)との
  山峡をでてきましたのに
  これはカーバイト倉庫の軒
  すきとほつてつめたい電燈です
    (薄明どきのみぞれにぬれたのだから
     巻烟草に一本火をつけるがいい)
  これらなつかしさの擦過は
  寒さからだけ来たのでなく
  またさびしいためからだけでもない

      ※蛇紋岩(サーベンタイン)の( )書き部分は実際にはルビとなります

これを一読して思わず自分の目を疑ってしまったのだが、それは自分の記憶にあって慣れ親しんできたと思い込んでいた詩作品とはどこか違和感があったからだ。これは何かの間違いではないか、誰かが勝手に書き換えてしまったのではないかとさえ思ったほどだ。
何かが違う。言葉のリズムや微妙な言い回しが何だかぎこちないような気さえする。これは一体どういうことなのか。自分は何かに騙されているのではないだろうか。

それではと昔自分が読んでいた中央公論社の「日本の詩歌」を図書館で見つけ出し、その頁を慌ただしく繰ってみたのだが、期待はあっけなく裏切られ、そこにあったのは先に引用した詩そのものなのだった。
なかば茫然としながら、私は自分の記憶を疑うしかなかったのだが、その疑念はあっけなく晴らされることになった。

諦めきれないまま書店に足を運ぶたびに様々な版の賢治詩集を捲って見ていたある日、ハルキ文庫の「宮沢賢治詩集(吉田文憲編)」にそれはあったのだ。
そこに載っていた「カーバイト倉庫」は、上記の詩のさいごの五行が次の六行に置き換わっているのだ。それこそ私が求めていたものだった。

    (みぞれにすっかりぬれたのだから
     烟草に一本火をつけろ)
  汗といっしょに擦過する
  この薄明のなまめかしさは
  寒さからだけ来たのでなく
  さびしさからだけ来たのでもない

これだ、これなのだ、私が覚えていたのは! と思わず興奮してしまった。こうでなくては。絶対にこちらのほうが良いに決まっているではないか。
この違いは一体何によるものなのか、という疑念が当然のように湧いてきたのだが、それは解説文の最後に注釈として書かれていて、ハルキ文庫に収載されている「カーバイト倉庫」ほか2編の詩は、賢治が「春と修羅」初版本に自筆で手入れをし、宮沢家に所蔵されているものに拠るものということなのだった。
このことは賢治の愛読者には当然のように知られていることなのだろうか。つまりこの詩には、初版本によるものと賢治自身がのちに手を入れたものという異なるバージョンの2種類が流布されているということなのである。

しかしそれでは私が以前手にしていた中央公論社の「日本の詩歌」に載っていたはずの詩がいつの間にか入れ替わってしまったように思えるのはどういうことなのだろう、という疑念が残ることになる。
もう一度図書館で確かめると、私が所持していたのが昭和43年発行の初版であるのに対し、図書館にあるのは昭和54年に改訂された新版なのだった。
つまり、はじめは賢治が手を入れたものを載せていたのが、改訂版を出す際に手入れ前の形に戻したということなのだ。

なるほどと、謎は解けたようでほっとはしたものの、それでもどこかにわだかまりのようなものが残るのは、絶対に手入れ版のほうが格段に良いと私自身は思っているからなのである。
ハルキ文庫の編者である詩人の吉田文憲氏がわざわざこの詩の手入れ版を採用したのも、こちらの方が優れていると評価したからなのではないのだろうか。
これはまあ、ただの一読者の思い込みなのかも知れないけれど。

皆さんはどう思われますか?

走れメロス / 約束と裏切り

2022-10-24 | 読書
教科書にも載って親しまれている太宰治の「走れメロス」は、暴虐邪知の王を糺そうとして囚われの身となったメロスが妹の婚礼に出るために友人セリヌンティウスを人質として故郷に帰ったのち、様々な困難を乗り越えて再び約束の刻限までに友人のもとに戻り、その二人の熱い友情は疑い深かった王の心をも変えてしまうという実に読後感のさわやかで感動的な物語である。

この物語を太宰はどのような心境のもとに書いたのだろうか。
それを計り知ることは難しいが、これを書くきっかけになったのではないかと言われている有名なエピソードが作家・檀一雄との間に起こった「熱海事件」である。
熱海で仕事をしている太宰を呼び戻すため夫人から預かった金を懐に檀一雄が逗留先の宿に向かうのだが、二人して遊興三昧で飲み続けスッカラカンとなってしまう。太宰は菊池寛のところに借金歎願に行くと言って壇を人質にして熱海をあとにするのだが、5日待っても、10日経っても音沙汰がない。
ノミ屋のオヤジに連れられて東京に向かい、太宰の師である井伏鱒二の家に行ったところが、太宰は井伏とのんびり将棋を指していた。
当然の如く壇は太宰に怒鳴ったのだが、この時、太宰は泣くような顔で暗く呟いたのだ。
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

「約束」という言葉の裏にはいつも「裏切り」がつきまとっている。この世の中で約束が果たされることはまずないからなのだが、そう言い切ってしまうと身も蓋もないのが社会というものである。

また、「約束」には暗黙のうちに「期待」が込められているとも感じて知らず知らず重圧を感じたりもする。あなたとの約束が守られることを期待していますよ、と言わんばかりの相手の笑顔がいつか脅迫めいた面相に豹変するのを想像しては逃げ出したくなる。
まあそれはいささか病的に過ぎるとしても、「約束」にはどこかそうした押しつけがましさがあるように感じるのだ。

では、自分が相手の「約束」に「期待する側」だった場合はどうか。
この場合、期待が外れたからといって相手に失望してしまっては社会的な軋轢を生んでしまう。この場合、期待すること自体がともすると反社会的だということになりかねない。すべては勝手に期待したこちらのせいなのだから。

もっとも良いのは、相手の「約束」を単なる社交辞令と考えて真に受けないことだ。社交は社会生活を円滑に運ぶための技術(テクニック)だからである。

社会を円滑に動かすために、人や会社、組織は「契約」という約束を形にしたものを取り交わすのだが、それを担保するのが法律=社会的ルールであり、それに違反した場合には時に罰則が科せられ、社会的信用が失墜してそこに居場所はなくなることさえあり得る。
「契約」は「約束」を公的に確実なものとすることで社会を円滑に運ぶための技術(テクニック)なのである。

ところで、政治家の公約は公になされた約束であるはずだが、その約束が真っ当に果たされたという話は一向に聞こえてこない。
誰もが政治家の公約はただの口約束でしかないと達観してしまっているのだろうか。
一方、英国のトラス首相は党首選での公約を果たそうとして混乱を招き、辞任を余儀なくされた。トラス氏の口約束に期待して彼女を党首に選んだのは保守党員であり、彼ら皆の選択ミスというしかないのだが、思わぬ事態に結果責任を問われたのは当の本人である。トラスは期待を裏切ったというのだ。
このあたり、なかなか難しい判断である。そもそも公約など反故にすべきだったのだろうか。
約束事に政治がからむと話は途端にややこしくなってしまうようだ。

さて、こうした「約束」に「友情」が合わさり綯い交ぜになると話はもっとややこしくなる。
私にもかつてあった青春時代に、そんな約束がこじれて友情を損なった苦々しい経験が山ほどある。それをいやな思い出としていつまでも抱えておくのではなく、それを反転させて、「走れメロス」のようにさわやかで純粋な胸の熱くなるような物語に昇華することができたらよいのになあといつも感じている。

「走れメロス」について太宰治は次のように述べている。
「青春は、友情の葛藤であります。純粋性を友情に於いて実証しようと努め、互いに痛み、ついには半狂乱の純粋ごっこに落ちいる事もあります」

悩むな! 考えろ!

2022-10-12 | 読書
坂井律子著「〈いのち〉とがん 患者になって考えたこと」(岩波新書)を読んだ。
たまたま書店で目について買った本で、いわゆる闘病記のようなものかと思いつつ読み始めたのだったが、刺激を受けるとともに、共感と向日性の意欲のようなものをかき立てられる思いがした。
読みながら付箋を貼り付けていったのだが、読み終わったあともその付箋の箇所を読み返したり、そこで感じたことを反芻したりして、なかなか書棚に収められないままいつまでも机の脇に置いたままになっているのである。

著者は1年10か月を過ごしたNHK山口放送局長としての単身赴任生活を終え、編成局総合テレビ編集長に着任して1か月が過ぎたばかりの時、体調不良が重なって受けた検査の結果、思いも寄らぬ膵臓がんと診断される。
手術は成功するが、「手術はスタートライン」の言葉どおり、著者はそれからの2年間、術後の激しい下痢生活、脱水での入院を経て再発、抗がん剤治療、再手術、再々発、再度の抗がん剤治療……と、「容赦なき膵臓がん」とともに生きることを余儀なくされてしまう。

本書は、その著者が、再々発が判明した2018年2月から11月までの間に書き綴った、《がんに罹った「私」の記録》なのである。
一人の患者が、がんになって感じたこと、思ったこと、がんになって学んだこと、疑問や時に抑えきれぬ憤りも含めて、身の内に湧き起った様々な思いが率直に綴られている。

著者の職業はテレビ番組の制作者であり、番組・作品を通して第三者である視聴者に何かを伝えることを使命としている。
そうした番組を作るうえで、より客観的で専門的な知見を盛り込むために必要なのが広範な取材であり、医学的学術的な裏付けに基づく専門家の見解であったりするのだろうが、本書において、著者がスタンスとしてこだわったのは、そうした伝達のプロフェッショナルとしての立場ではなく、あくまでも一人の患者としての視点を保つことであった。
どんな患者でもやろうと思えば出来る範囲の勉強や体験をもとに見聞きし、考えたことを書く……、そのことを通して当事者である患者一個人の思いを伝え、それを受信し、共感してくれた人々とともに考えながら、より多くの人が分かり合い、支援を受けられる社会になればいいという希望がそこには貫かれている。

こうした姿勢に基づいて綴られたこの本を読みながら、私は深く共感したし、教えられたり、刺激されたりすることばかりだった。
あくまでも一患者の立場にこだわりながらも、自分が受けようとしている治療について、使用される抗がん剤について、食事のあり方について、主治医と患者の関係について……、少しでも疑問に思い、知りたいと思ったことをとことん追求していく姿は、まさにテレビ番組の制作者、ディレクターとして培った力が十二分に発揮されていると感じる。

そうしたなか、友人が貸してくれたDVDで映画「アポロ13」を手術後の痛みを忘れるために見たという著者が、その映画から、ちょうどその頃考えていた「集学的治療」を想起し、さらに主治医と患者の関係に思いを寄せながら次のように書いた言葉には深く共感させられた。

「ひとつでない正解を探して、医師が患者に向き合って考えてくれるのであれば、患者もまた『考える患者』にならなければ……、と私は思った。そして、『絶体絶命』の病気と向き合わざるを得ない生活を、『考える』ことこそが支えてくれると実感していた。」

そしてこの言葉は、最終章の「あとがきにかえて 生きるための言葉を探して」のなかで紹介されている一挿話……、行きつけの小さいけれど硬派の近所の書店で目が釘付けになったという、人文書のすべてに付された真っ赤な帯に書かれた言葉につながるのである。
  「悩むな! 考えろ!」

たしかに! 悩むということは逡巡することであり、前には進めない。
悩んでいるひまがあったら「考えろ!」ということなのだ。

私たちは「考える」ための道具としての「言葉」を持っている。その道具をもっともっと使い勝手よく研磨するためにも、学び、考え続けることが何よりも重要なのだろう。
私は本書を読みながら、そうした生き方を実践した著者の姿に深く感銘を受けたのだった。

夏の日のシェード

2022-09-23 | 読書
ときたま無性に読みかえしたくなる小説というのがあって、いつもバスに乗るたびに思い出すのが田中小実昌の短篇「夏の日のシェード」である。

アメリカ西海岸のカナダとの国境沿いの町に、妻なのか恋人なのかはよく分からないのだが、年若いミヤという名の女とやってきた中年の男が、日々不機嫌になってベッドで眠ってばかりのミヤのことを思いやってはどうしたものかとオロオロするさまを男の目線から書いた小説である。
……と、こんな要約でよいのかとまことに心もとないのだが、オジンである「ぼく」は、まだ25歳くらいであるらしいミヤがいつまでも眠っていたり、町の図書館で借りてきた古い日本語訳の「カラマーゾフの兄弟」を読みふけったり、一緒にバスに乗って遊びに出ても窓の外に目を向けたまま黙りこくっているのを腫れ物にでも触れるようにただオロオロと見つめるだけなのだ。
ミヤが口を利くのは小説のなかでも二言三言くらいで、突然荷物をまとめて二ホンに帰ると言いだしたりする様子が男の独り語りを通して描かれるのだが、その実在感は実に生々しく、小説を読みながら私まで語り手の「ぼく」と一緒にどうしたものかとオロオロしてしまいそうになる。

もっとも「ぼく」の独白はまことに男目線そのものなので、そんなことだから彼女に愛想をつかされるんだよと言いたくもなるのだけれど、そこに得も言われぬ滑稽味と子供っぽさが同居していて、だからオジンはダメなんだよと思いながらも同調してしまうのだ。

小説の最後、出て行こうとするミヤを引き留めるために手助けを求めて「ぼく」は、友人でこの町に長く住む本川を呼び出す。
三人で椅子とソファにすわって黙りがちになりながら、本川がミヤに向かって、ともかく今夜は三人で半年前まで自分が板前をしていた日本レストランに行こうと何度も繰り返すというところでこの小説は終わるのだが、この場面はまるでジム・ジャームッシュの昔の映画のワンシーンのようで心に残る。



さて、先日、台風14号が関東をかすめて新潟から東北地方にぬけた日の午前中、
バスに乗って隣の町まで出かけて行ったのだけれど、車中から見る空の色がこれまで見たことがないような濃いグレーに染まっていて、それだけで非日常の世界に入り込んだような気がしたものだった。

台風の直撃はまぬがれたものの、その影響は明らかで、荒川を跨ぐ橋の上から見る川は水量が増して濁った色をなし、今にも膨れ上がりそうなエネルギーを孕んで禍々しさを感じさせる。
その上に広がる黒々とした灰色のキャンバスを背景として、どこからか洩れ出る日の光を反射して白く浮き上がったように林立する建物の壁面や電車の通る橋の鉄骨が美しい。
あいにくその瞬間を写真に撮ることは出来なかったのだが、まるでロードムービーの主人公にでもなった気分なのだった。

とある事情から私は毎週のようにバスに乗って県境を越えて隣の町まで出かけていくのだが、そのたびにささやかな旅情を感じるのを一人楽しんでいるのである。
毎度降車する停留所は決まっていて、それを逸脱してどこか知らない遠い町まで行くということはないのだけれど、「夏の日のシェード」の「ぼく」のように地図を片手にどこまでもバスに乗っているのも悪くはないのかも知れない。
傍らに黙りこくったままのミヤの手をにぎり、窓の外を流れる風景に見とれながら……。



「赤と黒」を読みながら考えたこと

2022-09-20 | 読書
スタンダールは小説のなかで政治を描くことについて、どのような考えを持っていたのだろうか。
「赤と黒」の第2巻22章のなかに次のような言葉が出てくる。

「……想像力の楽しみのただなかに政治をもちだすのはコンサートの最中にピストルを撃つようなもの」(野崎歓訳)

スタンダール自身は政治などとは無縁でいたいという考えを持っていたようで、上記の言葉も本心から出ているように感じるのだが、これに対し、想像上の対話における出版者は、この「赤と黒」の作者に向けて次のように言うのである。

「……だが、あなたの登場人物たちが政治の話をしないとすれば(略)それはもはや1830年のフランス人とはいえないし、あなたの本だって、もはやあなたが自負していらっしゃるような鏡ではなくなってしまう……」

スタンダールがわざわざこんな対話を作中に埋め込んでいるのは何故だろう?
もちろんこの小説中の作者が言うように、せっかくの面白い小説で読者を楽しませようとしているときに政治をもちだすのは、すべてを台無しにする暴挙だ、と言いたいわけではなく、一応そんな素振りを見せはしましたが、出版社がこんなことを言うものですからという免罪符を自らに与えつつ、読者に納得してもらうための詐術と考えるのが妥当だろう。

スタンダール自身の本心はともあれ、いまや政治の力学があらゆる人間を巻き込んでしまっている以上、人間と社会を映し出す「鏡」たる小説のなかで、そうした政治のありように光を当てないわけにはいかないということである。
そしてそれを描くことにスタンダールは極めてあざやかな力量を発揮したのだ。
政治的な力学や駆け引きが主人公の運命にただならぬ影響をもたらし、物語の光彩をより輝かせる。まさにそれが「赤と黒」や「パルムの僧院」が現在においても現代的な文学となり得ている所以と言えるのかも知れないのである。

以上はしかし、物語が、芸術が政治をあくまで材料として扱い得た時代の話である。
とりわけ顕著なのは20世紀に入ろうとする時代以降かと思うのだが、プロパガンダなるものがなりふり構わず政治が芸術を利用し始めたのだ。
そうしていつの間にか文化芸術そのものが政治のしもべとして利用される具材となり果ててしまっているのではないだろうか。このことに私たちはもっと敏感にならなければならないだろう。

これはどこの国を問わず言えることだろうが、国威発揚であったり、国の魅力を発信するという名目であったり、理由づけは様々だが、政治が文化芸術やスポーツを利用しつつある現状にはどうにも胡散臭いものを感じてしまう。
クールジャパンしかり、オリンピックしかり、それらは今や政治そのものと化してしまった感がある。

一方、その利用される側も、生き残りのために自ら身を捧げるようなしぐさをする場面のあることも事実である。
挙句の果てに、売れる芸術や稼げる文化が重要視される風潮が生まれてくる。

本当に大事なものは何か。自らに深く問いかける時である。

おいしいごはん、って?

2022-09-17 | 読書
高瀬隼子氏の小説「おいしいごはんが食べられますように」(芥川賞受賞作)はかなり前に掲載された雑誌で読んだのだったけれど、感想を言葉に出来ないまま時間が経ってしまい、そのことが気になっていた。
とても面白く一気に読んだのだったが、そのまま消化してしまうことが出来ずに胃の中でもっとしっかり咀嚼せよと食べたものが主張している、そんな感じなのである。

人間は生まれてきた時から《死》が運命づけられているのと同様、《ごはん》を食べることからは誰も逃れられない。その意味で《死》と《ごはん》は同義なのかも知れない。このことは思いのほか深い哲学的テーマを内包した小説であることを示しているようにも感じるのだ。

本作は、食品や飲料のラベルパッケージの製作会社で全国に13の支店がある、その一つである小さな職場内の人間関係を描いている。
ところで、どんな《ごはん》をおいしいと感じるかは人それぞれであって、個々の価値観によって大きく異なるのだが、その《ごはん》というフィルターを通して職場の人間関係が立体的に描かれるのがこの小説なのである。秀逸な作品だ。

職場には実にさまざまな人がいて、ある時は反目したり、同情したり、同調したり、抑圧したり、悪口を言ったり言われたりと、その時々の反応が人間関係を綾なして職場を居心地良くしたり、居たたまれない環境を生んだりする。
もちろん、それはそこにいる人間個々の性格や生育過程で身にまとった生活習慣のようなものが、相手との関係で化学反応を起こすようなものかも知れないのだが、この小説では、登場人物一人ひとりの《ごはん》に対する感じ方の違いが、その人間をシンボリックに表現しているという点に私は面白さを感じたのだったが、これは的外れだろうか?

たとえば主要な登場人物の一人、「二谷」であるが、彼は「おれは、おいしいものを食べるために生活を選ぶのが嫌なだけだよ」と言い、おでんを食べたいと思っても、そのためにおでん屋まで行くのは、自分の時間や行動が食べ物に支配されている感じがして嫌と言い、コンビニがあるならそれで済ませたい、と考える人間だ。

私自身、若い頃はこの「二谷」と同様の考えだったこともあり、思わず頷いてしまったのだが、このほかにも、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」と言った高貴な人のように、《ごはん》とケーキを同等以上のものと考えて、職場での評価を取り戻そうとばかりにお菓子作りにいそしむ人がいれば、それを嫌悪する人もいる。
人間関係の間には常に《ごはん》が介在し、それがシンボリックな役割を果たすのである。

さて、この小説では、登場人物が一人称、三人称と入れ替わりながら語られるのだが、それが奇妙なズレとなって客観と違和を読み手に同時に感じさせる。
二谷以外の人物がみな「○○さん」とさんづけで呼ばれるのも不要な親密感を拒絶する効果を生んでいるようだ。乾いたユーモアが人間関係の冷徹な腑分けを包んで絶妙である。

ところでこの「おいしいごはんが食べられますように」というのは、自分のためのおまじないのようなものだろうか。誰かが誰かのために発する祈りのようなものなのだろうか。
よくよく考えれば、不思議な言葉だなあと感じてしまう。

あるいはそれは、どこか高いところから、職場の人間関係に右往左往し、疲れてしまった人間たちに同情して《ごはん》の神様が投げかける呟きなのかも知れない。

「千羽鶴」を読む

2022-08-14 | 読書
読書というものは不思議なもので、むかし途中で投げ出したまま、どうしても読めなかったものが、ちょっとしたタイミングで読み直したらとても面白かったという体験は誰もが思い当たることではないだろうか。
私にとって、川端康成の「千羽鶴」がまさしくそうで、それこそ大昔、中学を卒業して高校に入学する前という中途半端な精神状態の時に読み始めたのだが、ついに読み切れずそのままになってしまっていた。

もっともこの小説をその年齢で理解しろというのがそもそも無理なことだろう。今頃になって再会できたのはかえって良かったのかも知れないのだ。

登場人物は、三谷菊治という会社勤めをしているらしい20代半ばと覚しき青年を中心として、彼を取り巻くのが、かつて菊治の父の愛人だった茶の師匠栗本ちか子であり、ちか子が仲立ちする形で紹介され、のちに菊治の妻となる令嬢ゆき子、さらにはちか子の後に父の愛人となり、父の死後、ちか子が主宰する茶会での再会後、菊治と道ならぬ関係となる太田夫人とその娘文子である。
その彼らの織りなす愛憎劇を志野と織部の茶器が静かに見つめる、というのが大まかな構成である。

愛と欲、未練と諦念の入り組んだ人間関係のなかを行き来する茶器は、何百年もの間、数多の人の手に渡り、愛されながら、人々の運命をその冷たくもあり、なまめかしくもある肌理のうえに映し出し、見つめてきた。
その茶器をある種の狂言回しとして、菊治と彼を取り巻く女たちの運命が描かれる……。

茶器は茶器そのものとして、ただそこに在ることで、それを所有し、触れる人間の懊悩や欲望をしずかに映し出す。その冷然とした光にあぶり出された自身の宿命に抗いきれない人間たち。
ある者は自ら命を絶ち、ある者は姿を消そうとし、ある者は断ち切れない思いを抱えたまま、引き裂かれた愛のはざまに沈み込んでいく。

太田夫人と娘の文子、菊治の妻となるゆき子らの姿はどこか抽象的であり、無機質な美しさを有した現実離れしたものとして描かれるのだが、そこに対置されるのが茶の師匠、ちか子である。

下世話で現世的な知恵と狡猾さを持ち、好悪や身のうちにわき起こる憎悪の感情を隠そうともせずに他人の心の中にまでずかずかと入り込んで平然としたその姿は、川端の筆によって見事なまでの実在感を与えられている。
ちか子の存在は、シテが舞う厳粛な能舞台に乱入した狂言師のような滑稽さをまとっているが、その姿が生々しい現実感を伴って描かれるほどに、彼女に翻弄されるような主人公たちの美しさはより抽象度を増すように感じられるのだ。

「千羽鶴」は5つの短篇からなり、その続編「波千鳥」は3つの短篇で構成されている。
それらは昭和24年から数年にわたっていくつかの雑誌に分散発表された作品がまとめられて長編となったもので、こうした連作形式は「雪国」や「山の音」にも共通する書き方である。
戦後のこの時期にはすでに書き下ろしで長編を発表する方法もあったはずなのだが、川端にとってはこの連作方式が体質に合ったものだったのだろうか?

それはそれとして、本作は創作ノートが盗難に遭うという不幸によって中断を余儀なくされたものとのことだ。
この先、菊治とゆき子夫婦と姿を消した文子の運命がどのように展開するのか、そしてそれを川端がどのように構想していたのか、興味は尽きない。

見えないものを想像すること

2022-07-06 | 読書
ロシアによるウクライナへの侵攻が始まってからすでに4か月半が過ぎようとしている。その情勢は日々報じられるけれど、そうした情報の何を信じればよいのか分からなくなることがある。
戦場における人権侵害と思われる事象が頻発し、それをウクライナ側は非難し、西側諸国の報道もそれに同調し、ロシアの非道ぶりを糾弾する。これに対しロシア側は即座に反論、これはウクライナ側が自らの犯罪を押し隠すための情報操作だと主張したりする。

もとより侵攻を仕掛けたロシアに非があるのは明らかであり、心情的にもウクライナ側の情報を信じたくなるのは道理だが、果たしてどこに真実があるのか、それを真摯に見極めることを諦めてはならないのだろう。
どちらかが100%正しく、どちらかには1%の真実もないと軽々に断定するのは、それこそ真実を見誤ることになってしまうのかも知れないのだ。

人の数だけ真実があると、したり顔でいう識者のいるのも事実だし、すべての情報は操作されていると真面目な顔で陰謀論まがいの意見を言う人もいる。
しかし、人の数だけ真実があると言ってしまった瞬間に私たちは思考停止の罠に落ち込んでしまっているのではないだろうか。

開高健の長編小説「夏の闇」が刊行されたのは1972(昭和47)年3月で、今からちょうど50年前のことだ。
著者自身が第2の処女作という本作は、ベトナム戦争で信ずべき自己を見失った小説家の主人公が、ただ眠り、貪欲に食べ、性に溺れる泥沼のような日々の中から、やがてベトナムの戦場に回帰しようとするまでを描いた作品である。

半世紀前のこの年は、冬季札幌オリンピックがあり、米国ニクソン大統領の電撃的な中国訪問があり、連合赤軍によるあさま山荘事件が起き、沖縄が日本に返還された年である。
冷戦のさなかでドイツは東西に分断され、その象徴たる「ベルリンの壁」は厳然とそびえていた。そして、その翌年にアメリカが撤退することになるとはいえベトナム戦争はいまだ終結の見通しがなかった頃だ。

その時代、情報を手に入れる手段は極めて限られていた。今とは隔世の感がある。そうしたなか、小説の終盤近くに主人公は滞在先の街にある通信社の支局を訪ね、かつてベトナムで記者の仕事をしていた伝手で記録ファイルを見せてもらったりしながら戦争の情勢を知ろうとするのだ。

以下、主人公の独白部分を一部引用する。

「……壁の東側にいる人間でなければつかめない現実があるだろうし、西にいる人間でなければつかめない現実もあるだろう。どちらもそれを唯一の本質といいたがる。けれど、壁の上にいる人間でなければつかめない現実というものもあるはずじゃないか。それも本質だ。おれには唯一の本質など、ないね。眼のふれるもの、ことごとく本質だね。もし生きのびられておれが何か書いたらどちらの側もめいめいに都合のいい部分だけをぬきとって自分たちの正しさの証明に使うだろうね。使えないとわかれば嘲笑、罵倒、または黙殺だね。使えるあいだはどちらかからか、どちらからもか、歓迎してくれるだろうが、あとはポイだな。……」

「……二十四日間の攻防戦のうちに反政府側は“臨時政府”樹立を宣言し、大学教授を省長に任命し、人民裁判を開いたと伝えられる。反政府側は数千人殺され、アメリカ兵が数百人殺され、政府側兵士が数百人殺され、市民は約二千五百人殺されたと伝えられる。こういう数字は“数千人”を“数百人”としていいかもしれず、“数百人”を“数千人”としていいかもしれない。あるいはいっさい数字をあげないで、市民は逃げつつ殺され、アメリカ兵はたたかいつつ殺され、反政府兵はたたかいつつ殺され、政府兵は逃げつつ暴行略奪しつつたたかいつつ殺されたといったほうがいいかもしれない。……」

以上、ほんの一部の引用だが、これを読むと50年も前のこととは思えない。言葉を少し入れ替えるだけで、まるで今目の前で起こりつつあることのように思える。
この半世紀の間に、情報網は驚くほどの進展を見せ、平和を維持するための国際的な枠組みも強化されてきたはずなのに、人間の本質は根本のところで何も変わってはいないということなのだろうか。

では、私たちが今起こりつつあることから目を背けず、真実に近づくための手段は何なのだろうか。

ここで「夏の闇」からさらに30年ほども遡った時代、作家トーマス・マンがナチス・ドイツの手から逃れた亡命先でいかに情報を得ようとしていたかを思い出して胸が熱くなる。
以下、池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」からの引用である。

「……新聞やラジオの報道によりつつ、もとより半分もうのみにしない。とりわけドイツからの報道が、どれだけ操作され、かたよったものであるか、存分に知っていた。真実に一歩でも近づくためには、さしあたりここにあるものを手がかりにして、ここにないものを思わなくてはならない。……」

あらゆるものを疑いつつも、目の前にあるものを手がかりとして、見えないものを想像する自身の力を鍛え、信じることが何より大切なのかも知れない。

ネガティブ・ケイパビリティ

2022-06-22 | 読書
友人たちが私の書いたものにたまに感想を寄せてくれるのだが、最近投稿した「何も決めないという決定」「対立しながら共存する」について、それは「ネガティブ・ケイパビリティ」というジョン・キーツが唱えた概念に近いのじゃないか、と教えてくれた。
そう言われてはっと気がついたのだが、それは確かにそうなのだ。

「ネガティブ・ケイパビリティ」については、小川公代著「ケアの倫理とエンパワメント」の序章と1章に詳しく書かれている。
定義づけとしては、「相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない『宙づり』の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力」ということであり、「短気に事実や理由を手に入れようとせず、不確かさや、神秘的なこと、疑惑ある状態の中に人が留まることができるときに表れる能力」を意味するとある。

さらに本書では、作家で精神科医である帚木蓬生がその著作の中で「人はどのようにして、他の人の内なる体験に接近し始められるのだろうか」という問いに言及していることを紹介している。帚木氏は「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」の中で次のように書く。

「共感を持った探索をするには、探究者が結論を棚上げする創造的な能力を持っていなければならない。(中略)体験の核心に迫ろうとするキーツの探求は、想像を通じて共感に至る道を照らしてくれる」

これらの言葉は、最近話題になったいくつかの文学作品において描かれる登場人物が、自分が抱える癒しがたい痛みや傷について、第三者の一方的な決めつけによってカテゴライズされたり、おざなりでありきたりの理解から発せられる同情や憐みに対して異議申し立てをする姿が描かれていることを想起させる。
それらの作品の中では、当事者の痛みに寄り添うことのない第三者の「想像力の欠如」こそが断罪されるべきであると読者は期待するのだが、その期待が叶えられることはなく多くの場合は宙ぶらりんのままに放置される。作家たちは、想像力を駆使して当事者の苦悩に寄り添いながら、そうした現実の姿をもまた冷徹に見つめるのだ。

まさに、「想像力は他者との共感に至る道筋」であり、「病気や苦悩に寄り添いながら、その状況をじっと見守る営為と、物語を言葉で紡いでいく営為は地続き」なのである。

改めて、「ネガティブ・ケイパビリティ」が、芸術作品を生み出すために必要な能力であるのみならず、仕事上の課題解決や組織のマネジメントにおいてもまた極めて有効で不可欠なものであると感じる。

旅する王~「未必のマクベス」

2022-06-15 | 読書
早瀬耕の小説「未必のマクベス」を読み終わる。
本作は2014年に刊行された氏の22年ぶりの長編第2作とのことだが、私はこれを2年ほど前に文庫本で買ったまま、600ページを超える分量に気後れして未読のままにしていたのだった。

最近になって本を読むしか楽しみのない境遇になってようやく読み始めたのだったが、結果として、素晴らしい読みごたえと読後の充実感だった。
いわゆるエンターテイメント小説だが、ジャンルとしては異色の犯罪小説にして、痛切な恋愛小説と表紙に紹介されているとおりだ。そのほかにも、サスペンス、ハードボイルド、経済小説、企業を舞台にしたミステリー等々、さまざまな形容が可能であるように、多面的な光彩を放つ作品なのだ。
シェイクスピア好きにもたまらない要素が存分に仕掛けられている。小説の世界観を好きになると、いつまでもその中で浸っていたいと思わせる得難い魅力に満ちた作品でもある。
事実、読み終わった途端にまた冒頭からもう一度読み返したいという誘惑に駆られてしまうだろう。これは初恋の思い出がいつまでも新鮮なまま、胸打つ感情を保ち続けるのと似ているようでもある。

「未必のマクベス」は王となって旅を続けることを宿命づけられた男の話である。そこにシェイクスピアの「マクベス」の筋立てがオーバーラップして彼を底深い落とし穴に誘い込むのである。
マクベスが魔女の予言に唆されて予期しなかった王冠の簒奪に手を汚し破滅していくように、本作の主人公もまた、いつでも引き返せたはずの旅の路程に自ら身を投げ出していく。それは見たこともない世界を旅する誘惑に抗しきれなかったからなのか。

冒頭、次のような言葉があって、旅の意味合いについて考えさせられる。

 「……『旅慣れた人』は、旅などしていない。大半の『旅慣れた人』は、旅に似た移動を繰り返しているだけだ。飛行機が離陸するとき、旅先での出来事を想像して心躍らせることも、帰国したときにほっとすることもなくなる。それは旅ではなく、ただの移動に変わってしまっている。それでも『旅慣れている』と評される人がいるならば、彼は、その移動が終わったときから旅を始めるのだろう。……」

この言葉に何とも言えず共感するのは、私たちの人生がまさに旅そのものだからなのだろう。旅慣れた人の移動が味気ないように、世慣れた人の人生も随分つまらないものではないかと思うのは、こちらがいつまでも人生のさまざまな場面で躓いてばかりいるからだろうか。
芝居の世界で言えば、舞台慣れした俳優や、場数ばかり踏んで舞台に立つことに何の感動も覚えなくなった役者の演技がつまらないのと同様なのだ。観客が求めているのは、初めての旅に向かう時のワクワク感であり、発見なのである。

100年前の「瀕死の白鳥」(「雪国」再読 その3)

2022-05-07 | 読書
川端康成が「雪国」を執筆した、昭和10年から22年頃まで、すなわち1930年代、40年代の日本における西洋舞踊の受容・理解はどの程度にまで進んでいたのだろう。
島村が、東京に妻子を養いながら、雪国の温泉宿に長逗留を許すほどの経済的余裕を、その執筆活動が賄っていたというのは疑わしいにしても、彼が書く西洋舞踊の紹介文や批評文に一定の需要があったというのは確かだろう。
それが特定の好事家の間に流通する雑誌なのか、同人誌的なものかは別にして、その頃(1930年代)にはすでに西洋舞踊というものが日本人の生活や意識の中に浸透していたということなのだろうか。

「雪国」の執筆開始の1935(昭和10)年から13年ほど遡った1922(大正11)年のこと、ロシア出身のバレリーナ、アンナ・パヴロワが世界巡演の一環として来日し、東京の帝国劇場をはじめ全国8都市で公演を行った。
今からちょうど100年前のことである。
パブロワの名声は当時の日本にもすでに伝わっていて、チケットは極めて高額だったにも関わらずすべて完売、大入り満員の盛況だったというのだが、何より、「バレエ」なるものを見たこともなかった一般大衆の間にその存在を知らしめ、わが国において西洋舞踊が定着・普及するきっかけを作ったと言われている。

その帝国劇場での公演を芥川龍之介も見ていて、「露西亜舞踊の印象」と題した文章の中で、その時の演目の一つ「瀕死の白鳥」について、「僕は兎に角美しいものを見た」と賞賛したことはよく知られている。
しかし、である。
その他の演目や公演を見た芥川の受けた印象は少し異なったようである。彼は次のように書いているのである。

「一体西洋の舞踊なるものは独楽のようにぐるぐる廻ったり空中へひらりと跳びあがったりする。
 あれは衛生上には少なくとも観客の衛生にはあまり好結果を与えないものらしい」
「一体アンナ・パブロワの舞踊は巧妙とかなんとかと思う前に骨無しの感じを与えるのである。
 実際我々日本人は骨無しと評するもの以外にああいう屈曲自在を極めたしなやかな身体を見ることはない。
 骨無しはもちろんグロテスクである。
 僕はこの感じのために、不気味になったり、滑稽になったり、角兵衛獅子を思い出したり、
 パブロワもロシアの酢を飲むかなどと下らないことを考えたり、要するに純一無雑なる鑑賞の態度にはいれなかった」

こうして引用してみると、何だか芥川には残酷なような気もするのだが、当時の日本における最高の教養人といってよい芥川龍之介にして、ことバレエに関してはこの程度の認識だったのである。
いわんや多くの一般大衆が西洋舞踊を受け入れる土壌はほぼ皆無といっても過言ではなかっただろう。
それが、その後の10数年で驚くほどの進展を見たということなのである。

アンナ・パヴロワの訪日公演以降、バレエを習いたいと希望する者が急激に増えたというが、その受け皿となったのが、エリアナ・パヴロワである。
エリアナ・パヴロワはロシア貴族の娘として生まれたが、ロシア革命を逃れ、母妹とともに祖国を捨てて日本にたどり着いたと言われる。それが1921(大正10)年頃のことである。
当初、横浜で社交ダンスを教えて生計を立てていたが、アンナ・パヴロワの舞台に触発されて急増したバレエ希望者のために、1927(昭和2)年、鎌倉七里ヶ浜にわが国初のバレエ専門の教室を開設した。
その門下からは、日本におけるバレエの第一歩を飾った多くの人材が輩出されたのである。
エリアナは門下生とともにバレエ団を結成、各地を巡業して好評を得たばかりか、戦時下の将兵慰問にも参加している。彼女は慰問巡業先の南京で亡くなったが、その働きががわが国におけるバレエ受容の土壌形成に大きく貢献したことは間違いない。

もう一人、わが国の「バレエの母」と称されるのが日本人外交官と結婚し、1936(昭和11)年に来日したオリガ・サファイアである。
来日後、当時の日劇ダンシング・チームのバレエ教師に就任にしたオリガは、伝統的かつ正統派のロシアのクラシック・バレエをわが国にもたらした最初の人であり、技術のみならず理論や、バレエ上演のノウハウといったものをわが国に定着させるのに多大な貢献を果たした。
彼女のもとからは、第二次世界大戦後の日本におけるバレエ・ブームを支えた多くの人々が影響を受け育っている。
                 (以上、公益社団法人日本バレエ協会のHPから一部引用)

こうして見ると、100年前のアンナ・パヴロワの訪日公演がわが国にもたらした影響がいかにエポック・メイキングなものだったかが分かるのだが、1930年前後になると、バレエばかりでなく、大正前期に帝国劇場歌劇部教師だったジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーの門下だった石井漠、高田せい子はじめ、ドイツに留学した江口隆哉、宮操子などのモダン・ダンスの舞踊団、さらには浅草に創立されたカジノ・フォーリーにおけるレヴューなど、多彩な西洋舞踊が活況を呈しはじめている。

川端康成もまた、こうした舞踊界のうねりの中に身を投じた一人であった。
川端は、1929(昭和4)年に小説「浅草紅団」を執筆したように、当初は数多くのレヴューを見て歩き、入れ込んでいたようだが、カジノ・フォーリーに出演していた梅園龍子という美しい少女との出会いから、彼女を大衆娯楽の踊り子ではなく芸術舞踊家に育てようという野心を抱き、それを契機としてバレエの世界に関心を寄せていったことはよく知られている。

実際、川端はその頃から舞踊に関する文章を多く書いていて、「わが舞姫の記」(1933年)の中では、「この頃は読む小説の数よりも見る舞踊の数のほうが遙かに多い」と言っているほどだ。
ただ、自身の立場については、あくまで素人の舞踊愛好家であるとして、日本の舞踊の発展のためにそれを紹介する宣伝広告塔であるという自覚と使命感を持っていたようだ。

そのうえで川端は、専門の舞踊批評家を鼓舞するように次のように書いている。

「一般に西洋舞踊を見る予備知識の乏しい日本では、見物の無理解を嘆く前に、親切な啓蒙が必要である。これは批評家の義務でもある。
 私が批評家または研究家に望むところは、自ら舞踊の実際運動に身を投じて泥まみれになるほどの愛情と熱意である」
                            (「舞踊界実際」1934年)

さらに川端は、舞踊批評家に対し、批評が「道楽」になっているとして、その知識不足や勉強不足を批判するのだが、次の文章には目を惹かれる。

「見もしない舞踊を評論するなんか、全くたわいない話だ。法螺吹きの毛唐の本を、そのまま受け入れるよりしかたない。見ない舞踊に対しては、なんの懐疑も幻滅も、実感として生じるわけがないから書物や写真で西洋舞踊を見物するほど結構なお道楽は、またとないだろう」
                            (「舞踊界私見」1934年)

実に強烈な批判だが、誠に興味深い文章である。
ここでやり玉にあがっている批評家の姿勢は、まさに「雪国」で描かれた島村が西洋舞踊に対する時の姿勢そのものではないだろうか。

川端は、自分が書く小説の主人公に、自身が批判してやまない「お道楽」にうつつを抜かす舞踊評論家の姿を織り込んだのである。
川端が「島村は私ではない」と明言しているのは先に紹介したとおりだが、私でないどころか、自身が忌み嫌う評論家の姿をあえて映し込んだのは何故なのだろう。

仮説として考えられるのは、ネガフィルムのように川端自身とは白黒反転した島村を造形することで、その陰画を背景として、雪国の世界に匂い立つような駒子の姿を浮かび上がらせようとした、ということなのだが、どうだろう。
興味は尽きない。

「雪国」再読 その2

2022-05-04 | 読書
「雪国」の語り手的存在である島村は、親譲りの財産で、無為徒食の生活をしているとされているが、小説の中ではさらに、かつては彼が日本踊りの研究や批評めいたものを書いていて、自らも実際運動のなかへ身を投じようという時にふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまったことや、今では西洋舞踊の書物と写真を集め、ポスタアやプログラムまで苦労して外国から手に入れたうえで、西洋の印刷物を頼りにそれらを紹介する文章を書くようになり、いつしか文筆家の端くれに数えられている、といったことが島村という人間を表すものとして書かれている。

こうした島村のあり様は、西洋舞踊に対してはもちろん、自分自身により一層冷笑的である、と感じる。

以下、引用すると、「……ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊りを見ることが出来ないというところにあった」「見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮かぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである……」

こうした島村の態度は、仕事の対象である西洋舞踊を愚弄しているとも思えるのだが、無論重点にあるのは、「今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない」ものを書き、「自分の仕事によって自分を冷笑する」という姿勢なのである。
そうした姿勢がどのようにして彼の中に醸成されてきたのかまでは読み取れないにしても、「そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生まれるのかもしれ」ないと彼自身が考えていることは理解できるだろう。
そして、そうした彼の態度=生き方が、駒子に対する態度にも表れているのであり、このことは、小説の全体を貫くトーンとなり、構造そのものとなっているのだと言えるだろう。

島村が見ているのは、目の前の、肉体を持った駒子という女なのではなく、彼の空想が生み出した幻影としての女の美なのである。
そしてその空想は、小説の最後の繭倉の火事の場面で一気に転調し、新たな幻想が彼を包み込む。
それは、夢幻能におけるシテの唐突な退場によって、現実の世界にぽつねんと取り残されたワキ方の姿に似ているようである。

川端康成「雪国」再読

2022-05-01 | 読書
今年は川端康成没後50年とのことで、それを記念してか代表作「雪国」をドラマ化したものがテレビで放映されたり、各地で関連の催しが行われたり、さらにはこれまで全集でしか読めなかった川端の「少年」が文庫で刊行され大きな話題となったりしている。

さらに今年は芥川龍之介の生誕130年でもあり、こちらも関連展示や講演会などが開催されているが、川端は芥川の7歳年少の同時代人だった。
芥川が早くに亡くなっているし、川端はその後の活動が華々しいので活躍した時代が異なっているという気がしていたのだが、芥川の没年である1927(昭和2)年までにはすでに「十六歳の日記」、「伊豆の踊子」などを書いている新進作家だったのだ。
ちなみに川端と同年生まれの作家には、米国のヘミングウェイやアルゼンチンのボルヘス、ロシア生まれのナボコフなどがいて、実に多士済々である。

さて、川端の「雪国」は、ノーベル文学賞授賞理由にあるように「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさ」を代表する作品である。
1935(昭和10)年頃から戦後の1947(昭和22)年にかけて断続的に書き継がれて完成した本作は、執筆されていた時代背景もあって性愛表現などはあくまで抽象的に読者の想像に委ねる書き方をしているのだが、そのことが生々しさを濾過し、象徴的で、えも言われぬ美しさを醸しだしている。

語り手の立場にある「島村」は親譲りの財産で無為徒食の生活をしているのだが、その生活感は希薄であり、この小説の中においては、あくまで「芸者駒子」や「葉子」の姿を浮かび上がらせるという役割のみを担っていると思える。
川端自身が島村について語ったものとして、「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子をうつす鏡のようなもの、でしょうか」という言葉が紹介されているが、新潮文庫版で郡司勝義が注解に書いているように、「能でいえば駒子のシテに対するワキといえようか」という解釈が説得力をもっているように感じられる。
ある場所を訪れた旅人(島村)の前に現れる雪国の精霊のような存在が駒子であり、葉子なのだ。夢幻能形式の叙述によって語られる雪国の生活や自身の身の上話は象徴として昇華され、半ば睡りの中にある島村を通して顕現化するのだ。それゆえにこその駒子の清潔な美しさであり、葉子の「悲しいほど美しい声」なのではないだろうか。

ポール・クローデルは「劇とは何事かが到来するものであり、能とは何びとかが到来するものである」と定義づけている。(堀辰雄訳)
「雪国」には、たしかに劇的要素も十分に配置されているのだが、それよりはむしろ「能」的な美しさに満ちていると感じる。
そういえば冒頭の国境の長いトンネルは、まさに能舞台における「橋懸かり」のような役割を担っていると考えて良さそうである。

当事者の視点でカフカを読む

2022-04-06 | 読書
若い頃にカフカの「変身」を読んだとき、これは社会に適応できなくなった一人の青年の精神の変容=自閉症状あるいは引きこもりの状態を、それを見守る家族の視点から描いた小説ではないかと感じたものだ。
それから幾年月を重ねて自分の親世代が老年となった時には、あの家父長的な力強さを見せていた親が要介護状態に「変わり果てた」現実を目の当たりにした頃にもう一度読んだときには、これは卓抜な「介護小説」であるという感想を持った。
さらに時を経て、自身の身体が以前のようには動かせなくなり、筋力の衰えや関節の痛みを全身に感じるようになった今、主人公グレゴール・ザムザはまさに自分自身のことのように思える。「変身」は、今や私にとって実に切実な小説になったのである。

もちろんその時々の読み方が絶対的に正しいと言い切れるはずもなく、自分勝手に小説を読んでいただけなのだが、読んだ時期や環境によって読み方や理解の仕方が変わっていくというのは仕方のないことであるようだ。
小説を批評的に読むか、自分の人生に重ね合わせるように読むか、それは人それぞれ、その時々によって異なるだろうが、いずれにせよ、普遍寄りの観念的な読みではなく、身体的・精神的な苦痛や病状を基盤として「当事者批評」的に読むことで、文学・芸術をより深く切実に多様に読むことが出来る……

と、これは、文芸誌「文學界3月号」の“ケアをめぐって”という特集の中で、頭木弘樹、斎藤環、横道誠の三氏による「『当事者批評』のはじまり」という鼎談のテーマでもあるのだが、三氏の話に刺激を受けながら、当事者としての視点から文学作品を読むことの重要性といったことを考えたのだった。

その中で、斎藤環氏が頭木氏の著作「食べることと出すこと」を引用しながら次のような話をしていて、なるほどと思ったものだ。
「……健康な人の身体って透明なんですよね。特に健康な男性は、自分の身体をほとんど意識することがない。女性は月経のほか、便秘、頭痛といった不定愁訴を頻繁に抱えているので身体意識が高いんですが、健康な男性ほど身体は透明化している……」

この「透明化している云々」という言葉に、つくづく思い当たる節があるなあと思ったのだが、若く健康であった頃、たしかに自分の身体は透明であったし、さらに言えば重力すら感じてはいなかった。つまり意識してはいなかった。肉体のどこにも痛みなど感じることはなく、あるとすればたまにトレーニングのやり過ぎで筋肉に脹れやしこりが生じた時くらいなのだが、そんな痛みは一晩眠れば消えてなくなっていたのだ。身体はあくまで軽く、駅やビルの階段など、二段飛ばし、三段飛ばしで駆け上がって息切れすらしなかった。
まさに軽薄そのものなのだが、身体的《無意識過剰》状態だったのであり、そのぶん他人の痛みにも無頓着で同情がなかったのである。

それが次第に年齢を重ね、うかうかするうちに老いのけはいといったものを感じるようになると、筋肉の回復は遅くなり、身体の節々に痛みを抱えることが日常的になる。身体全体に重みを感じるようになり、さらに病を得て、治療に伴う痛みすら抱え込むようになると、否が応でも自分の身体に絶えず向き合うことを余儀なくされる。

これを「身体の意識化」と言ってもよいのかも知れないが、ここに至ってようやく私≒私たちは、こうあるべきはずと思い描く自分と現実の自分とのギャップに気づくのである。
このギャップあるいは落差、差異を意識化することが、文学や芸術作品を読み、感受し、批評する時の一つの拠り所になるかも知れない、というのが、鼎談「『当事者批評』のはじまり」を読んでの素朴な感想である。
もちろん読み方や感じ方、批評のあり方も様々な視点があることは当然なのであるが。

このほか鼎談では、カフカの「変身」のほか、大江健三郎の初期作品「鳥」や中期の「新しい人よ眼ざめよ」、村田紗耶香「コンビニ人間」等についての言及があり、「当事者」の視点からの読み方などが紹介されている。
実に興味深く、刺激的な論点に満ちた鼎談であると感じた。