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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

複製芸術とロボット

2010-09-08 | アート
 「マン・レイ展 知られざる創作の秘密」(国立新美術館)では、作品の美的要素よりも、アイデアや概念の表現を重視する作家の姿勢を垣間見ることができる。
 マン・レイと言えば写真家というイメージが強いが、もともとは画家であり、自分の絵画作品を「記録」するために写真技術を覚えたのだという。
 マン・レイは晩年、自作の複製や再生産、量産を繰り返した。
 それは「限定エディション」などというマーケティング的考え方とは対照的な立場で、「複製」という、ともすれば否定されがちな「作品の在り方」を積極的な方向に転換し、価値づけるものだ。
 作品それぞれの物質的価値は低下する。だが、希少性を自ら否定することで、浮かび上がってくるものがある。彼は大量の複製品によって、自分のアイデアが世界中に広まり受け入れられることを願ったのだ。
 展覧会の監修者である京都造形芸術大学教授:福のり子氏によれば、「ものとしての作品よりも、コンセプトやアイデアを大事にする態度は、20世紀の美術界に大きな影響を与えた」ということだが、それはたしかに後の芸術家の姿勢や作品の在り様を先駆けするものである。

 さて、「複製芸術」の最たるものは何かと言えば、それは音楽ではないかと思う。
 なかでもポピュラー音楽はCDやラジオ、テレビ、インターネットをはじめとする様々なメディアを通じて世界中に広まっていく。
 その音楽シーンに極めて大きな影響をもたらしたのがザ・ビートルズであるということにさほど異論はないと思うけれど、そのメンバーの一人、ジョン・レノン関連の展示を行っていたジョン・レノン・ミュージアム(さいたま副都心)が今月末をもって閉館になるということで先日、初めて足を運んだ。

 印象的だったのは、レノンのパートナーだったオノ・ヨーコのアーティストとしての業績が思っていた以上にしっかりと紹介されているということだった。
 ジョン・レノンはかつて彼女のことを「世界で最も有名な無名アーティスト。誰もが彼女の名前を知っているが誰も彼女のしていることを知らない。」と語っていたということだが、改めて彼女のコンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アート、様々な実験映画等の仕事を振り返ってみると、そのコンセプトやアイデアの革新性、面白さは今もその鮮度を失ってはいない。
 昨今の若いアーティストによる美術や先端的な舞台芸術のコンセプトが彼女のアイデアに何らかの影響を受け、恩恵を蒙っていることは確かだろうと思えるのだ。
 もっとも前衛的で無名なアーティストの才能が、もっともポピュラーな音楽の才能と出会うことで生まれたものは、いまもはかりしれない魅力を放っている。

 さて、ジョン・レノンが射殺された30年前のその年、音楽の世界で異彩を放ったのがYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)である。
 その大きな特質、インパクトはシンセサイザーを活用した音楽演奏にある。
 シンセサイザーを駆使することで、特別な演奏技術を持っていなくても作曲されたスコアの再現が可能になること、これは音楽の歴史上特筆されることなのではないか。ちょうど、カメラ技術の登場が絵画の世界に大きな異変を起こしたように・・・。
 YMOの彼らはもちろん優れた演奏家たちなのだが、シンセサイザーの活用は、アイデアやコンセプトをより重視した音楽表現をこの世界にもたらし、その宇宙大の広がりと伝播を容易にしたと言えるのだ。
 このことは、あたかもマン・レイの芸術作品への態度と考え方をよりポップな形で実現させたものとして興味深い。

 最近、「ロボット演劇」なるものが話題を呼んでいる。
 文字どおりロボットが舞台上で演じるのだが、このロボット俳優の出現がシンセサイザーの登場並みに舞台芸術の世界に革命を起こすものかどうかは未知数だろう。
 ロボット俳優の登場が演劇の複製芸術化への一歩となるかどうかは分からない。
 そもそも演劇こそは「複製」という概念からもっとも遠い芸術形式であると思われるからである。

 ただ、やたらズボンのポケットに手を突っ込みたがったり、タバコを手にしなければ演技ができないという俳優、涙を流すのに何時間も前から気持ちを作らなければできないと訴える女優、この台詞は感情にそぐわないと食ってかかる役者連中にに日頃から手を焼いている演出家や劇作家にとっては朗報なのではないか。
 創り手のアイデアやコンセプトを重視し、表現する手段として、ロボット俳優の出現は一つの波紋を投じるニュースなのである。

 

チェーホフの現在(いま)

2010-09-06 | 演劇
 8月27日、池袋の劇場「あうるすぽっと」で開催されている「チェーホフフェスティバル2010」の一環として上演されたM&Oplaysプロデュース「伝統の現在‘8」を観た。
 狂言の茂山正邦、宗彦、逸平の3人がチェーホフの「結婚申込」を脚色した「ぷろぽおず」と女狂言「鎌腹」を併せて上演したものだ。
 チェーホフの笑劇と狂言がこれほど相性よく、互換性があるということが新たな発見であり、驚きでもある。
 これには上方の茂山家の芸風も大きく寄与しているのだと思われる。その軽い味わいや滑稽味は彼らに特有のものであり、他の流派にはないものだからだ。

 9月1日、流山児★事務所の「櫻の園」を観た。
 演出:千葉哲也、ラネーフスカヤを安奈淳が演じている。
 正統派のチェーホフ・・・と言って差し支えないのだと思う。
 執事のエピホードフ、従僕のヤーシャをともに女優が演じ、小間使いドゥニャーシャとの「女同士」の恋の鞘当=三角関係を見せるところ、ダンスシーンの乱痴気騒ぎ、老僕フィールスの造形等々がこの集団ならではの変わったところと言えば言えるのだろうが、全体を通した印象は想像以上に原作に「忠実」な「櫻の園」という印象である。
 もっともエピホードフ、ヤーシャを女優に演じさせたことが成功だったかと問われれば首を傾げざるを得ないだろう。ダンスパーティのシーンも安っぽく見えてしまうのは否めない。(実のところ、幕間の休憩時間の観客同士の会話を耳にしてもあまり芳しい感想は聞こえなかった)

 だが、それ以上に鮮烈に記憶に残るいくつかのシーン、例えば帰還したラネーフスカヤ一家の登場場面、アーニャとペーチャの貧しくも愛らしいラブシーンなどを創り上げたことで私はこの舞台を良として受け入れたいと思う。
 さらに塩野谷正幸のフィールスはこの芝居全体のトーンを支える力を見せたし、安奈淳のラネーフスカヤも受けに徹する抑制された演技に好感が持てた。

 それにしても、想像以上にこの戯曲を実際に演じるのは難しい、厄介なことなのかも知れない。
 これまでの演劇史や文学史が観客=読者の期待値を否応なく必要以上に高めるものだから、その舞台には誰もが失望するということになりかねない。
 10年ほど前、俳優座劇場で某劇団の「櫻の園」を観たことがある。当時の自分の感覚として、「新劇」の老舗といわれるその劇団の実力がこんな程度のものなのかということに逆に驚いたものだった。
 なぜ彼らはこんなにも厭味ったらしい演技しかできないのだろう・・・。
 それに比べると、今回の舞台は、日本人の劇としてしっかり成立していたのではないか。
 何よりも「櫻の園」が、現代の日本の状況、危機的な経済状況を自覚しながらも内輪の権力争いに惑溺して脱け出せない政治家たち、無謀な戦いと知りながら戦争へと突き進んでいった日本人の精神構造といったものを的確に腑分けし観客の前に提示する劇であることを私たちは思い知らされる。
 このテキストが今この時代にこそ求められていることを感得させてくれるのだ。

 さて、「あうるすぽっと」は客席数301の「小ぶり」な中劇場であるが、この劇団の役者の半数がこの規模に対応できていないという感想を持ったのは私だけだろうか。これは通常、小さなスペースでの演技に馴れた小劇場系の役者の問題でもあり、一つの課題だろう。
 一方、多くの場合その過剰な演技がいやが上にも目立ってしまい、ともすれば全体の芝居のバランスを狂わせかねない流山児氏の存在が今回はぴたりとした場を得て光って見えたという皮肉な現象はどう解すればよいのだろう。
 不遜な言い方ではあるが、役者・流山児祥の久々の登場を大先輩のために喜びたいと思う。

ピノッキオ

2010-09-05 | 演劇
 記録づくめの厳しい残暑が続いている。
 この何週間かの間に観た舞台の印象を書いておきたい。
 「にしすがも創造舎」では8月の一ヶ月間、アート夏まつりが開催された。その一環として上演されたのが「子どもに見せたい舞台」シリーズの第4弾「ピノッキオ」である。
 構成・演出:倉迫康史、原作:カルロ・コッローディ「ピノッキオの冒険」(岩波少年文庫)。
 私は17日の初日と28日の2ステージを観る機会があった。
 このシリーズの素晴らしさは何と言っても創り手たちが本気であるということだろう。当たり前といえば当たり前のことなのだが、俳優、演出家は言うに及ばず、美術、音楽、衣装などなどすべてのスタッフが、子ども騙しとお茶を濁すことなどこれっぽっちも考えていないという本気度が舞台からひしひしと伝わってくる。
 1時間40分という上演時間はおそらく子どもの集中度を考えればかなりの冒険と思われるけれど、巧みな演出効果や俳優たちの働きによって見事にたくさんの子どもたちの視線を舞台に惹きつけていた。
 初日の舞台はさすがに手探りの状態がうかがえて、前半もう少しテンポが増せばなあというシーンがなくもなかったのだが、28日にはその懸念もなくなり力のある芝居になっていたと思う。

 冒頭、舞台に登場した一人の少年(女優)が客席の子どもに語りかける。
 「君の名前はなんていうの・・・?その名前借りるね」

 この芝居は、この「名前」というものが一つの大きなテーマであるようにも思える。
 ピノッキオの名付け親たるゼペットは、すなわちピノッキオの創造主でもある。
 名付け親のことをゴッドファーザーというように、これは人間と神の関係性を隠喩として孕んだ物語でもあるのだろう。
 ピノッキオは樫の木の聖女の枝から創られた。いうならば「森」がピノッキオの母体でもあると考えれば、ゼペット=人間と、森=自然との「結婚」から生み出されたのがピノッキオという存在であるとも言えるだろう。
 それはいかにも不自然であり、ピノッキオを「人間」とするために「神」はさまざまな試練を与えた・・・。
 その試練はゼペットにも与えられる。親たるための無償の愛を彼は試される。それはあたかも、自らを創造主になぞらえようとした不遜を神から咎められ、与えられた罰のようでもある。

 これは、私たちが子どもの頃にすりこまれたように、嘘をつくと鼻が伸びたり、怠けてばかりいるとロバになってしまうという教訓童話などではないのだ。
 (ちなみにこの舞台のピノッキオの鼻は伸びないのだが、そこにも製作者のこだわりが見てとれる)
 それにしても人形と人間の関係は実に興味深いテーマではある。これは果たして、人間万能主義を背景に、不完全な存在たる人形が人間になろうと苦難を味わう物語なのだろうか。
 
 そんな話題だけで、おそらく何時間もうまいビールが飲めることだろう。