山口果林著「安部公房とわたし」(講談社)を読んだ。
いささかセンセーショナルな捉え方をされがちな本であり、ある種の暴露本的な興味本位の読み方をする向きもないではないだろう。
しかし、そうした先入観を極力排してこの本に向き合うなら、これがいかに重要な意義を持ち、かついかにインテリジェンスにあふれた文章によって綴られているかということに驚かされるに違いない。
本書は、1966年3月の桐朋学園大学短期大学部演劇科への第1期受験生だった著者と安部公房の、受験生と面接官としての初めての出会いから、やがて女優となり、安部公房の演劇活動における重要な同志の一人として活躍するとともに、かつ私生活においてもその多くの時間を共にし、とりわけ1980年4月以降、作家が家族と別居してからは実質的なパートナーとして、1993年1月の最期の時に至るまで作家を支え続けながら、いつしか「透明人間」のように作家の公式記録からはかき消されてしまった一人の女性の存在証明としての半生記であり、さらには、安部公房の表現活動における演劇の重要性を改めて掘り起こす貴重な証言であるといえるだろう。
さて、個人的な話をすると、私が高校生だった1970年頃、まだまだ大学紛争の盛んな時期であったが、大学浪人生だった年長の従兄の影響で安部公房の「砂の女」や「他人の顔」「燃えつきた地図」といった書下ろし長編小説を立て続けに読んでいた。
当時、安部公房はNHK教育テレビの「若い広場」といった番組にも時おり出演していて若者たちとの対話にも積極的だった記憶がある。
思えばちょうどその頃、1970年11月上旬、本書の著者である山口果林がNHK連続テレビ小説「繭子ひとり」の主役に決定したとのニュースが流れ、テレビ欄にその芸名の名付け親が作家の安部公房だと紹介されていたのを思い出す。同月25日には作家の三島由紀夫が割腹自殺をするという衝撃的な事件があった。そんな時代だった。
「安部公房スタジオ」の設立が発表されたのは1973年1月11日のこと。
俳優座の主要メンバーだった井川比佐志、仲代達矢、田中邦衛、新克利らのほか、山口果林をはじめとする安部公房の教え子たちが参加した劇団であるが、その記者発表のニュースを私はラジオで聞いた。その頃の私は唐十郎らのアングラ演劇の影響をもろに受けていた時期だったし、ちょうど、つかこうへいが華々しく活躍を始めていた時期とも重なり、安部スタジオのニュースには、新劇の俳優たちが何を始めるのかとやや冷やかに首を傾げていたものだ。
不明を恥じなければならないが、「安部公房スタジオ」はわずか7年足らずの活動ながら、数々の実験的な舞台を作り、特に海外公演では大きな成功を収めたばかりか、大きな影響も与えている。その成果はもっともっと再認識、分析評価されてしかるべきだろう。
小説「箱男」が刊行されたのは1973年3月のこと。安部公房は著者に対し、君へのラブレターだと語ったそうだが、その執筆時期は、作家が女優である著者と付き合いはじめ、自分の劇団の構想が膨らみ始めた時期とぴったり重なるのである。
後年、安部スタジオの仕事を振り返るなかで、著者は、スタジオ上演の舞台作品である「愛の眼鏡は色ガラス」、「緑色のストッキング」、「イメージの展覧会」の要素がすべて「箱男」の中に入っていることに改めて驚いている。
こうした文学と演劇の相関関係、とりわけ安部公房の創造性に及ぼした演劇の影響といった観点からの再評価や批評も私としては待望するところだ。
1979年5月から安部公房スタジオはアメリカ公演を行い、大成功を収める。しかし、安部夫人もスタッフとして同行したその公演は、著者にとってのちのちまでトラウマとなるほどに苦く辛い緊張を強いるものだった。日本での凱旋公演を終えた女優はそれ以降の安部スタジオの舞台に立つことを諦める。その直後、安部公房はスタジオの休眠状態に入ることを発表する。
こうして見ると、結果として安部公房スタジオは、女優・山口果林のための劇団だったのではないかとも思える。その後、彼女は仕事の軸足をテレビの世界に移行するのだが、私たちは重要な舞台女優を失ったと言えるだろう。さらに言えば、安部公房がスタジオメンバーとの共同作業による創造活動に新たな可能性を見出していたことを思うと、もしスタジオがその後も存続し得ていたならば、その小説世界にも新たな展開が見られたかも知れないと思うのである。
2003年、作家の従姉妹である渡辺三子が発行する郷土誌「あさひかわ」455号に安部公房の没後10年を記念して著者が寄稿した「安部公房と旭川」が本書の中で紹介されている。
短い文章ながら、安部公房と北海道との関わりやルーツ話、安部スタジオにおける稽古の様子、その演劇活動の意味などが過不足なく書かれていて素晴らしい。
そこには、安部公房の目指したものとして、ドキュメントな会話の再現があったことや、スタジオにおいて、オリジナルな表現の発掘、開発のために、俳優たちがアイデアを互いに出し合い、安部公房の厳しい審査を経てそれらを取捨選択しながら舞台に乗せていったプロセスなども描かれ、実に興味深い。
安部スタジオの後期、創立当初の主要メンバーが離れ、文字通り若手だけのチームとなっていったが、むしろそのことによって安部公房の目指す演劇表現がより明確化し、先鋭化するとともにそれが舞台上に現出した時期でもあった。しかしながら、それらの舞台の戯曲は完成形としては存在せず、役者達の覚え書き程度のものが残っているだけだという。
「ぼくはしだいに自分の舞台を、舞台によってしか語れなくなりはじめている。考えてみると、小説の場合もやはり同じことなのだ」と作家は「水中都市」の上演パンフレットに書いている。
また、ある時のエチュードでは、「あなたは白い紙を持っている、役者として与えられた時間を使いなさい」という課題が出された。思い悩むメンバーを前に、難しかったかなと呟きながら安部公房は次のように語ったという。
「物を創造するというのは、本気で、真っ白な紙に向き合うことなんだ。安易に使い古された表現に逃げずに、真っ向から向き合って耐えることなんだ。言葉に詰まり、悪戦苦闘する処からしか、新しいオリジナルな表現は生まれない。そのことを体感してほしかったんだけどね。」
その文章の最後に著者はこう書いている。
「最近、現役で活躍している演劇人から九州で観た『イメージの展覧会』に衝撃を受けたという感想を聞いた。うれしかった。安部さんの創造活動の一端を共有できたことは、わたしの財産だ。いまも、わたしの血と肉になって生きつづけている。」
著者が本書を通じて言いたかったことは、まさにここに集約されているのだろうと思う。
安部公房に関わった人の立場によって感想は異なるだろうが、作家の人生と創作の新たな一面を再発見したという意味でも、一人の女性の半生を描きだしたという意味においても、読み応えのある一冊である。
いささかセンセーショナルな捉え方をされがちな本であり、ある種の暴露本的な興味本位の読み方をする向きもないではないだろう。
しかし、そうした先入観を極力排してこの本に向き合うなら、これがいかに重要な意義を持ち、かついかにインテリジェンスにあふれた文章によって綴られているかということに驚かされるに違いない。
本書は、1966年3月の桐朋学園大学短期大学部演劇科への第1期受験生だった著者と安部公房の、受験生と面接官としての初めての出会いから、やがて女優となり、安部公房の演劇活動における重要な同志の一人として活躍するとともに、かつ私生活においてもその多くの時間を共にし、とりわけ1980年4月以降、作家が家族と別居してからは実質的なパートナーとして、1993年1月の最期の時に至るまで作家を支え続けながら、いつしか「透明人間」のように作家の公式記録からはかき消されてしまった一人の女性の存在証明としての半生記であり、さらには、安部公房の表現活動における演劇の重要性を改めて掘り起こす貴重な証言であるといえるだろう。
さて、個人的な話をすると、私が高校生だった1970年頃、まだまだ大学紛争の盛んな時期であったが、大学浪人生だった年長の従兄の影響で安部公房の「砂の女」や「他人の顔」「燃えつきた地図」といった書下ろし長編小説を立て続けに読んでいた。
当時、安部公房はNHK教育テレビの「若い広場」といった番組にも時おり出演していて若者たちとの対話にも積極的だった記憶がある。
思えばちょうどその頃、1970年11月上旬、本書の著者である山口果林がNHK連続テレビ小説「繭子ひとり」の主役に決定したとのニュースが流れ、テレビ欄にその芸名の名付け親が作家の安部公房だと紹介されていたのを思い出す。同月25日には作家の三島由紀夫が割腹自殺をするという衝撃的な事件があった。そんな時代だった。
「安部公房スタジオ」の設立が発表されたのは1973年1月11日のこと。
俳優座の主要メンバーだった井川比佐志、仲代達矢、田中邦衛、新克利らのほか、山口果林をはじめとする安部公房の教え子たちが参加した劇団であるが、その記者発表のニュースを私はラジオで聞いた。その頃の私は唐十郎らのアングラ演劇の影響をもろに受けていた時期だったし、ちょうど、つかこうへいが華々しく活躍を始めていた時期とも重なり、安部スタジオのニュースには、新劇の俳優たちが何を始めるのかとやや冷やかに首を傾げていたものだ。
不明を恥じなければならないが、「安部公房スタジオ」はわずか7年足らずの活動ながら、数々の実験的な舞台を作り、特に海外公演では大きな成功を収めたばかりか、大きな影響も与えている。その成果はもっともっと再認識、分析評価されてしかるべきだろう。
小説「箱男」が刊行されたのは1973年3月のこと。安部公房は著者に対し、君へのラブレターだと語ったそうだが、その執筆時期は、作家が女優である著者と付き合いはじめ、自分の劇団の構想が膨らみ始めた時期とぴったり重なるのである。
後年、安部スタジオの仕事を振り返るなかで、著者は、スタジオ上演の舞台作品である「愛の眼鏡は色ガラス」、「緑色のストッキング」、「イメージの展覧会」の要素がすべて「箱男」の中に入っていることに改めて驚いている。
こうした文学と演劇の相関関係、とりわけ安部公房の創造性に及ぼした演劇の影響といった観点からの再評価や批評も私としては待望するところだ。
1979年5月から安部公房スタジオはアメリカ公演を行い、大成功を収める。しかし、安部夫人もスタッフとして同行したその公演は、著者にとってのちのちまでトラウマとなるほどに苦く辛い緊張を強いるものだった。日本での凱旋公演を終えた女優はそれ以降の安部スタジオの舞台に立つことを諦める。その直後、安部公房はスタジオの休眠状態に入ることを発表する。
こうして見ると、結果として安部公房スタジオは、女優・山口果林のための劇団だったのではないかとも思える。その後、彼女は仕事の軸足をテレビの世界に移行するのだが、私たちは重要な舞台女優を失ったと言えるだろう。さらに言えば、安部公房がスタジオメンバーとの共同作業による創造活動に新たな可能性を見出していたことを思うと、もしスタジオがその後も存続し得ていたならば、その小説世界にも新たな展開が見られたかも知れないと思うのである。
2003年、作家の従姉妹である渡辺三子が発行する郷土誌「あさひかわ」455号に安部公房の没後10年を記念して著者が寄稿した「安部公房と旭川」が本書の中で紹介されている。
短い文章ながら、安部公房と北海道との関わりやルーツ話、安部スタジオにおける稽古の様子、その演劇活動の意味などが過不足なく書かれていて素晴らしい。
そこには、安部公房の目指したものとして、ドキュメントな会話の再現があったことや、スタジオにおいて、オリジナルな表現の発掘、開発のために、俳優たちがアイデアを互いに出し合い、安部公房の厳しい審査を経てそれらを取捨選択しながら舞台に乗せていったプロセスなども描かれ、実に興味深い。
安部スタジオの後期、創立当初の主要メンバーが離れ、文字通り若手だけのチームとなっていったが、むしろそのことによって安部公房の目指す演劇表現がより明確化し、先鋭化するとともにそれが舞台上に現出した時期でもあった。しかしながら、それらの舞台の戯曲は完成形としては存在せず、役者達の覚え書き程度のものが残っているだけだという。
「ぼくはしだいに自分の舞台を、舞台によってしか語れなくなりはじめている。考えてみると、小説の場合もやはり同じことなのだ」と作家は「水中都市」の上演パンフレットに書いている。
また、ある時のエチュードでは、「あなたは白い紙を持っている、役者として与えられた時間を使いなさい」という課題が出された。思い悩むメンバーを前に、難しかったかなと呟きながら安部公房は次のように語ったという。
「物を創造するというのは、本気で、真っ白な紙に向き合うことなんだ。安易に使い古された表現に逃げずに、真っ向から向き合って耐えることなんだ。言葉に詰まり、悪戦苦闘する処からしか、新しいオリジナルな表現は生まれない。そのことを体感してほしかったんだけどね。」
その文章の最後に著者はこう書いている。
「最近、現役で活躍している演劇人から九州で観た『イメージの展覧会』に衝撃を受けたという感想を聞いた。うれしかった。安部さんの創造活動の一端を共有できたことは、わたしの財産だ。いまも、わたしの血と肉になって生きつづけている。」
著者が本書を通じて言いたかったことは、まさにここに集約されているのだろうと思う。
安部公房に関わった人の立場によって感想は異なるだろうが、作家の人生と創作の新たな一面を再発見したという意味でも、一人の女性の半生を描きだしたという意味においても、読み応えのある一冊である。
しかし、そんな美少女にも年月は容赦なく積み重なって、最近のケータイ電話のコマーシャルのような顔になってしまうのか、と思っていたものでしたが…。
「安部公房とわたし」を読んで理解しましたが、あの顔は、何か重大なものを抱え必死で守ろうとしている人間が、必然的に持たざるを得ない仮面の顔だったんですね。彼女のキラキラの若いころの写真を久しぶりに見て、そう思いました。
それとともに、基本的に浮気者ではない安部公房氏が妻ではなく彼女と一緒に生きなければならなかったということ、また、彼女もその秘密を受け入れ、ともに生き、その結果、社会的には仮面の顔で生きざるを得なかったということに、いろんなことを思わされました。