seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

彼の地/北九州芸術劇場プロデュース

2014-03-16 | 演劇
 すでに一週間前のことになるが、3月9日に観た北九州芸術劇場プロデュース公演「彼の地」が素晴らしい舞台だった。
 作・演出は、自ら主宰する劇団KAKUTAにおける作品で岸田戯曲賞にノミネートされ、「ピーターパン」など商業演劇の演出や他劇団への出演などで注目を集める桑原裕子。会場:東池袋・あうるすぽっと。
 北九州芸術劇場がプロデュースするこのシリーズのコンセプトは、第一線で活躍する演劇人が、北九州に約1か月半滞在し、地元の俳優やスタッフと作品を創るということだ。どこか北九州をイメージさせる内容の作品という条件が付与されていて、本作もソーントン・ワイルダー作で知られる「わが町」の北九州版といってよい作品になっている。
 大小さまざまなエピソードやドラマが絡まりあい、入り組みながら全体を通して観た時に、この土地や町そのものが、登場人物たちの記憶や願望、愛着や憎しみといった感情を通して浮かび上がってくる……。

 母の死が心の傷となり、居場所を失くして、町のあちらこちらを寝泊まりしながら彷徨い続ける少年。
 彼に思いを寄せながらも素直に打ち明けられない少女。
 東京から結婚のためにこの町にやって来ながら思い惑う花嫁と、わざと気づかぬふりを続けながら傷つく婚約者。
 花嫁の友人でその婚約者に密かな恋心を抱えた女性。
 アルコール中毒で精神に異常をきたしつつある兄と、その面倒を見るチンピラの弟と母。
 弟の兄貴分で、行方知れずになった野良猫に執着して探し続けるヤクザ。その同じ猫を可愛がっていた赴任間もないサラリーマン。
 結婚生活に堪え切れず東京からこの町に逃げ帰ってきたストリッパー。その妻にストーカーのように付きまとう男。
 東京の大学を出て、この町の工場に就職し40年を過ごして定年を迎えた男とその娘。
 ベトナムから出稼ぎに来て何故か居続けている男……、などなど。

 こうした19人に及ぶ登場人物たちの物語が巧みに組み合わされ、積み重なって、全体を通して観た時に、舞台となった北九州小倉という町が、彼らの人生を丸ごと包み込む掛け替えのない場所として描き出されるのだ。
 それも単にいま現在そこにある場所というだけではない、様々な視点によって切り取られた場面、感情、距離感の複雑なコラージュと、40年という時間が舞台に奥行きを与えて、実に陰影に富んだ世界が浮かび上がる。
 それを可能にしたのが桑原裕子の素晴らしい演出力なのだが、その具体化にあたって大きく寄与したに違いない田中敏恵の舞台美術は特筆に値する。

 舞台を活気づけていたのが、行方知れずとなった猫を探し回るヤクザとサラリーマンの奇妙な友情なのだが、その笑いを誘うほどに必死な姿は、母を失い、父親とも折り合いのつかないまま町を彷徨うナカヤマという少年の姿や、居場所を見つけようとあがく登場人物たちの姿と次第にオーバーラップしてくる。やがて観客は粛然とした思いに捉われつつも彼らを愛おしく思うだろう。
 「彼の地」とは、遠く離れながら心に迫りくる故郷であり、何とか自分のものにしたいと願うあこがれの場所であり、忘れたいと思う憎悪の対象であり、かつて愛した死者たちの住む「彼岸」でもあるのだ。

 この舞台が東京で上演されたのはわずか3日間だけで、若い才能たちの表現に立ち会えた幸福を喜ぶしかないのだけれど、終わってしまえば人々の記憶の中にとどめるしかない演劇という芸術の儚さを改めて感じてしまう。
 得がたい思いの残る素晴らしい舞台だった。

換算とご破算 その2

2014-03-09 | アート
 アート、文化芸術の価値というものについて考えさせられる事件、報道が相次いでいる。
 全聾で現代のベートーヴェンともてはやされた作曲家・佐村河内守氏の作品が実は別の人間の手になるものだったという事件。
 これには当人の障害そのものが虚偽ではないかとの疑いも浮上し、人々の善意の眼差しや信頼を裏切った行為に多くの非難が寄せられた。

 さらには、国内最大の公募美術展「日展」の「書」科で、「入選を有力会派に割り振る不正が行われていた」と、朝日新聞が昨年10月30日付の朝刊で報じ、その後、他のメディアも相次いで報道したことから、日本美術界を揺るがす大スキャンダルとなった。
 報道によると、不正が発覚したのは、石や木などの印材に文字を彫る「篆刻(てんこく)」部門で、2009年の審査の際、「会派別入選数の配分表」が審査員に配られ、その指示通りに入選数が決まっていた。
 それ以後、「書」のすべての部門の審査で理事らが審査前に合議し、入選数を有力会派に割り当ててきたことを認めたという。

 一方、文化庁が後援する書道中心の公募展「全日展」を主催する全日展書法会(東京都)の前会長が、昨年分の16県の知事賞受賞者は架空の人物だとし、「受賞作は私が書きました」と捏造を認めた、との報道があった。報道陣に対し「3年ぐらい前からやっていた。応募がないと、翌年から(知事賞を)もらえなくなる」と説明。今回の問題の責任を取り、2月18日付で会長を辞任したと報告し、「社会的にも書道愛好者、会に対しても信頼を失墜させて大変申しわけなかった」と謝罪したとのこと。

 それぞれ事情は異なるが、これらを文化芸術などに微塵の興味もなく、利害関係の全くない第三者の立場に自分を置いてこれらの事象を眺めてみると、いずれも滑稽な様相を呈していると思えてならない。
 芸術作品にそもそも優劣をつけられるのかという問題はさておき、結果的に音楽演奏やバレエ、美術、映画、文学等々、その分野を問わず各種コンクールの優勝者や受賞者がその後のキャリアの行く末やギャランティに大きなアドバンテージを獲得することは確かだ。
 だからこそ、誰もがその結果に血眼になるのだろうが、今回の日展や全日展のスキャンダルは、それらがいかに空疎なものだったかを白日の下に晒すこととなった。

 日展問題の背後には、審査員への付け届けや「事前指導」なるものへの金銭による謝礼が慣習化し、既得権益となっていたという問題もあり、笑うに笑えない話なのだが、彼らはこの行為によって自らの芸術の価値をその程度のはした金に換算してしまったということだ。本来、金銭的価値には容易に換算しえないところの芸術的価値を審査というシステムに組み込むことで強固なヒエラルキーを構築し、自動的換金のシステムを作り上げたその涙ぐましい努力には驚嘆するしかないが、そうまでして守りたかった彼らの権威や社会的地位とは何なのだろう。
 それより何より、そうした組織の古い体質や慣習に嫌気がさして離れていった若手作家も多いと聞く。芸術的活力の枯渇した組織ばかりが残り、将来ある掛け替えのない若い才能が失われたとすれば、それこそ取り返しのつかない損失であると言うしかない。

 これに比べて「全日展」の問題は少しばかり微笑ましくはあると言ったら顰蹙ものだろうか。
 組織の長による授賞作品のまさに「捏造」なのだが、根底にあるのは、組織の存続を第一義とする小市民的俗物性であり、そこには芸術家の創造性も矜持も皆無だ。誰も利益を得たものがいないうえに明らかな被害者もいないという風変わりなこの事件がもたらした、信頼性の失墜という代償はあまりに大きい。

 さて、最も大きな話題となったのが作曲家・佐村河内氏の事件であるが、彼のまとった物語性があまりに悲劇的で美しく感動的であっただけに、その仮面が引き剥がされた時の失望の度合いが大きかったということかも知れない。
 当事者間の泥仕合には何の興味もないが、ただ、彼の存在に力づけられ、生きる勇気を得ていた無垢で善良な人々がいたわけで、その感情を裏切った罪は深いと言わざるを得ない。
 そんなことを考えていたら、ちょうど2日前の金曜日に佐村河内氏の記者会見の様子がテレビに映し出されていた。最初は誰だか分らなかったのだが、それが髪を切り、髭をそってサングラスを外した彼自身だったので驚いてしまった。
 彼の物語性はその風貌にもあったということをあからさまに見せつけられたようで、何とも考え込んでしまった。
 作品が作品そのものの芸術的価値で評価されるのではなく、あまりに多くの見せかけの物語や神秘性によって粉飾せられていたということなのか。彼の音楽を聴き、CDを購入して感動した人々は、音楽そのものに感動したのではなく、彼の装った人生や宿命に過剰な感情移入をしていたということなのか。
 たしかに、太宰治が品行方正な健康優良児であったり、夏目漱石が鉄のような丈夫な胃袋を持ち、ヘミングウェイが色白の神経質な青年のままで、ローリング・ストーンズが真面目そのものの銀行員のような風貌だったとしたら、それらの作品はまた違った読み方、聴き方がされたかも知れないのだけれど…。
 今回のゴーストライター問題が発覚し、その仮面が剥がされてから、自分は最初から彼のことを怪しいとにらんでいたという人や、曲そのものが大した作品ではないという人が続々と登場して、それはそれでいつものことだとは思うけれど、そうして全てをご破算にするのではなく、作品そのものを純粋に音楽性に絞って批評した報道がないのは残念なことだ。

換算とご破算

2014-03-06 | 文化政策
 経済学では、単に金銭価値の金銭価値の計算だけでなく、犠牲にされた全ての価値に基づく機会費用の真の額を計算しようとする。
 交通事故で亡くなった人が、仮に生きていたとしたら得られたもの……、所得だけでなく、人生の様々な楽しみや充実した生活……、そうしたことが各種アンケート等に基づいて収集されたデータを統計学的に処理したうえで、人命の損失やケガによる損失の価値が計算される。
 内閣府による計算(2004年時点)では、交通事故による死亡事故ではその損失額は一人当たり2億2600万円、重傷事故では平均8400万円と算定されるとのこと。
 これらの数字を参考にして、現在の道路整備や改良については、精神的なものも含めた人命の価値も含めて費用対分析が行われているのだという。

 さて、経済と言えば、わが国の昨年の貿易赤字は初めて10兆円の大台を突破し、11兆4745億円と前年に比べ約4兆5千億円も増加したと報道された。
 赤字拡大の要因は主に2つだと指摘されている。
 一つが昨今の円安効果を生かし切れず、輸出が伸び悩んだことであり、もう一つが、原発の相次ぐ稼働停止に伴い、火力発電向け燃料の輸入が増えたことである。円安で輸入金額もかさ上げされ、この燃料輸入増によって貿易収支は約2兆6千億円悪化したという。
 このことが原発再稼働を推進しようとする人たちの主張の論拠となっている。原発を止めたままでは日本の経済は益々悪化し、人々の暮らしも悪くなってしまいますよ、というわけだ。

 だが、このレトリックは説得力がありそうに見えて、実は論点が巧妙にずらされているように思える。ことの善し悪しではなく、そもそも比較のできない数字を持ち出して我が田に水を引くような話になっているのではないか。
 貿易赤字の要因の一つとして、原発停止によって賄う必要の生じた燃料費の増大があることは事実だが、この額には、海外から燃料を輸入することによって得られたエネルギーの質量やそれが生み出した価値=人々の得た便益の多寡が反映されていないのだ。

 一方、原発被害者の損失をいかに計ることができるのだろうか。
 復興庁の2月26日付のデータによれば、東日本大震災による全国の避難者数は約26万7千人、そのうち福島県から県外に避難している人は47,995人に及ぶという。
 原発被害によって多くの人々が故郷を離れ、慣れない土地での生活を余儀なくされている。これによって失われた一人一人の幸福や、事故さえなければ人々が享受したはずの家族の団欒や楽しみ、さらには住み慣れた土地で働くことによって得られたはずの様々な価値……、それらは貿易赤字額などとは比較にならない総量となるに違いない。

 自分に都合の良い論理構成のための数値化ではなく、より客観的で精緻な評価基準にもとづく金額換算がもし可能となるのであれば、様々な政策判断や方針の決定に有効な手立てとなることは間違いない。

 一つの例として、釧路市では、生活保護受給者への自立支援によってもたらされる被保護者の自己肯定的な変化(自尊心の回復)に対する客観的評価として「SROI」=Social Return on Investment(社会的投資収益率)という手法に着目し、評価を始めているという。
 詳述は避けるが、ある福祉施策を実施するために要した費用と、その結果、施策の対象者である被保護者が社会的に自立して得るようになった賃金や、当人に関わる地域社会に生じた効果も含めて金銭に換算することでその施策の波及効果を評価しようとするものだ。
 興味深い試みだと思う。

 さて、では私たちのアート、文化芸術の価値を測るものさしはいかなるものなのだろう。
 それは金銭に換算できるものなのだろうか。