seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

家庭の幸福

2023-10-17 | 日記
前回、アンナ・カレーニナの冒頭に書かれた言葉から人々が思い描く「幸福な家庭像」についていささか脱線気味にお喋りしたのだけれど、最近の報道でもう一度このことを考え直す必要があるなあと思わされた。

それは某県議会の某党議員団が児童虐待禁止条例改正案を提出し、それが一旦は委員会で可決までされたのだが、その内容に対する世の中の反発は強く、提出会派の代表がこの改正案を撤回する仕儀となったのである。
その改正案の中身についてここでは触れないが、それが実際に子どもを持つ保護者にとっては子育ての現場から遊離した非現実的なものであり、むしろ害悪ですらあると考えられたということなのだ。
提案者は記者会見を開き、「私の説明不足」という言い方でこれを撤回したのだったが、条例改正案の考え方自体は間違っていないと今でも言いたいようである。

それにしてもこの提案議員たちが思い描く「幸福な家庭像」とはどのようなものなのだろう。
そんなものにいささかも興味がない、とまでは言わないけれど、それは世に根強くはびこった凡庸な想像力が描き出す「幸福な家庭像」とどこか似かよっているように思われるのだ。

条例改正案に異議申し立てをした人々は当然そこに強い違和感を覚えたのであるが、しかし、そんなステレオタイプの「幸福な家庭像」を単純に信奉するような大多数の人々のいることもまた確かなのである。心の奥底では実はそんなものをいささかも信じてなどいない、にも関わらず。

人々は知っているのである。その「幸福な家庭像」なるものが100年以上も昔からのコケの生えたような古びた価値観によって醸成されたものであることを。
そうした古い価値観が、女性の社会での立ち位置を危ういものにし、社会進出を阻害するどころか抑圧すらするものなって、年々顕著になっている少子化の直接的な要因となっているのではないだろうか。



ここで唐突に太宰治の「家庭の幸福」という小説を思い出す。
そのなかで作者(語り手)は、太宰一流の皮肉と諧謔、韜晦を駆使しながら読者に次のように語りかけるのだ。

「家庭の幸福。家庭の平和。
 人生の最高の栄冠。
 皮肉でも何でも無く、まさしく、うるわしい風景ではあるが、ちょっと待て。
 (中略)家庭の幸福。誰がそれを望まぬ人があろうか。私は、ふざけて言っているのでは無い。家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。最後の勝利かも知れない。
 しかし、それを得るために、彼は私を、口惜し泣きに泣かせた。」
「曰く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」

政治家は家庭の幸福を空想し、精神論で母親や父親など家庭に責任を押し付けるのではなく、より科学的な議論を通じて、児童館や保育園、学校を整備し充実させながら、施設面ばかりでなく実際に従事する人々の配置や働きやすい環境づくりをさらに進展させるほか、職場や地域社会などのあらゆる場所で子育て環境の整備や社会的インフラの積極的な改善などに力を尽くすべきではないだろうか。
考えるべきことは山のようにあるのだ。

夢想に耽るな、考えろ! である。

幸福な家庭について

2023-10-14 | 読書
ヘミングウェイが「パリ・レビュー」誌のジョージ・プリンプトンのインタビューのなかで、原稿をどのくらい書き直すのかと問われ、「『武器よ さらば』の最後のページのところは39回書き直してやっと満足できた」と答えている。
また、トルストイは「アンナ・カレーニナ」の冒頭の部分を17回書き直し、さらに長大な小説の全体を12回にわたって書き直したという。
この「書き直し」というのはいわゆる推敲とは異なり、文字どおり全面的に一から書き直すということなのだろうか。その回数の多寡にはいささか眉に唾して考えたいとつい勘ぐってしまうのだが、ヘミングウェイは毎日、その日に書いた語数を記録していたというから、おそらくはったりなどではない正真正銘の努力の証しなのだろう。
いずれにせよ巨匠たちの作品に注ぎ込む集中力と精力の猛烈さには脱帽しかない。

さて、アンナ・カレーニナの書き出しの文章はとりわけ有名である。
「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」(木村浩訳)というのがそれだが、これには一体どのような意味が込められているのだろう。
ある日、たまたま友人と話をしていて何故だったかこの冒頭の文章についての戯れ言が始まった。
その友人は、こんなのはただのこけ脅かしに過ぎず意味なんかないと断言するのだが、まさか世界文学の最高峰の小説の書き出しに意味がないなどということがあるだろうかと私は大いに反駁したものだが、当の友人の関心はもう別のところに移っていて話のかみ合うどころではないのだ。

それでも食い下がる私に友人の言うには、そもそも「幸福な家庭はすべて互いに似かよったもの」という言い切り型の定義づけそのものがおかしいというのだ。
すべての「家庭の事情」なるものをつぶさに見てきたふうな口ぶりだが、その家庭がはたして幸福かどうかの尺度は結局のところ個々人のあくまで主観でしかない。百歩譲って仮に幸福な家庭が互いに似かよったものだとするなら、それは人々の思い描く「幸福な家庭像」なるものが単純に似かよっているということなのである。
わが身を振り返ってもそうだし、試しに身近にいる誰でもよいのだが、「あなたの家庭は幸福ですか?」と訊いてみるとよい。誰もが、一瞬戸惑ったのちに「はい、幸福です」と羞じらいながら答えるのではないだろうか。
けれど、そこでもう一歩踏み込んで「ではあなたの考える幸福な家庭とはどのような家庭ですか?」と訊いたとしたら人はどう答えるだろう。おそらくは誰もが似たり寄ったりの凡庸な家庭像しか思い浮かべることができないのではないか、というのが友人の言い分なのである。

私はなるほどなあと思いながら、凡庸な想像力が描き出す凡庸で似かよった幸福な家庭、というものを思い浮かべていた。
しかし、わが身を振り返ってみてもそうなのだが、人は誰しも他人に言えない事情を抱えているものである。
その深刻の度合いはさまざまであり、それを不幸と思うかどうかもまた人それぞれであるにしろ、完璧に幸福な人などどこにも存在しないのではないだろうか。
それこそ「不幸のおもむきは異なっている」のである。

と、そこで友人の持ち出したのがチャップリンのよく知られた次の言葉である。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」

芸術、とりわけ小説なんてものは人様の人生やものごとをクローズアップして描くものなのだ。となれば、そこに表現されたものは悲劇の様相を帯びることになる。
結局、アンナ・カレーニナの冒頭の言葉は、これから私はある家庭の不幸の有り様をこと細かに書いて行きますよ、という作家としての「宣言」なのである。
ま、それ以上の意味はないのじゃないか? というのが友人の結論なのだった。

なんだか腑に落ちないながら、私はなるほどなあと頷くしかなかったのである。