ロシアによるウクライナへの侵攻が始まってからすでに4か月半が過ぎようとしている。その情勢は日々報じられるけれど、そうした情報の何を信じればよいのか分からなくなることがある。
戦場における人権侵害と思われる事象が頻発し、それをウクライナ側は非難し、西側諸国の報道もそれに同調し、ロシアの非道ぶりを糾弾する。これに対しロシア側は即座に反論、これはウクライナ側が自らの犯罪を押し隠すための情報操作だと主張したりする。
もとより侵攻を仕掛けたロシアに非があるのは明らかであり、心情的にもウクライナ側の情報を信じたくなるのは道理だが、果たしてどこに真実があるのか、それを真摯に見極めることを諦めてはならないのだろう。
どちらかが100%正しく、どちらかには1%の真実もないと軽々に断定するのは、それこそ真実を見誤ることになってしまうのかも知れないのだ。
人の数だけ真実があると、したり顔でいう識者のいるのも事実だし、すべての情報は操作されていると真面目な顔で陰謀論まがいの意見を言う人もいる。
しかし、人の数だけ真実があると言ってしまった瞬間に私たちは思考停止の罠に落ち込んでしまっているのではないだろうか。
開高健の長編小説「夏の闇」が刊行されたのは1972(昭和47)年3月で、今からちょうど50年前のことだ。
著者自身が第2の処女作という本作は、ベトナム戦争で信ずべき自己を見失った小説家の主人公が、ただ眠り、貪欲に食べ、性に溺れる泥沼のような日々の中から、やがてベトナムの戦場に回帰しようとするまでを描いた作品である。
半世紀前のこの年は、冬季札幌オリンピックがあり、米国ニクソン大統領の電撃的な中国訪問があり、連合赤軍によるあさま山荘事件が起き、沖縄が日本に返還された年である。
冷戦のさなかでドイツは東西に分断され、その象徴たる「ベルリンの壁」は厳然とそびえていた。そして、その翌年にアメリカが撤退することになるとはいえベトナム戦争はいまだ終結の見通しがなかった頃だ。
その時代、情報を手に入れる手段は極めて限られていた。今とは隔世の感がある。そうしたなか、小説の終盤近くに主人公は滞在先の街にある通信社の支局を訪ね、かつてベトナムで記者の仕事をしていた伝手で記録ファイルを見せてもらったりしながら戦争の情勢を知ろうとするのだ。
以下、主人公の独白部分を一部引用する。
「……壁の東側にいる人間でなければつかめない現実があるだろうし、西にいる人間でなければつかめない現実もあるだろう。どちらもそれを唯一の本質といいたがる。けれど、壁の上にいる人間でなければつかめない現実というものもあるはずじゃないか。それも本質だ。おれには唯一の本質など、ないね。眼のふれるもの、ことごとく本質だね。もし生きのびられておれが何か書いたらどちらの側もめいめいに都合のいい部分だけをぬきとって自分たちの正しさの証明に使うだろうね。使えないとわかれば嘲笑、罵倒、または黙殺だね。使えるあいだはどちらかからか、どちらからもか、歓迎してくれるだろうが、あとはポイだな。……」
「……二十四日間の攻防戦のうちに反政府側は“臨時政府”樹立を宣言し、大学教授を省長に任命し、人民裁判を開いたと伝えられる。反政府側は数千人殺され、アメリカ兵が数百人殺され、政府側兵士が数百人殺され、市民は約二千五百人殺されたと伝えられる。こういう数字は“数千人”を“数百人”としていいかもしれず、“数百人”を“数千人”としていいかもしれない。あるいはいっさい数字をあげないで、市民は逃げつつ殺され、アメリカ兵はたたかいつつ殺され、反政府兵はたたかいつつ殺され、政府兵は逃げつつ暴行略奪しつつたたかいつつ殺されたといったほうがいいかもしれない。……」
以上、ほんの一部の引用だが、これを読むと50年も前のこととは思えない。言葉を少し入れ替えるだけで、まるで今目の前で起こりつつあることのように思える。
この半世紀の間に、情報網は驚くほどの進展を見せ、平和を維持するための国際的な枠組みも強化されてきたはずなのに、人間の本質は根本のところで何も変わってはいないということなのだろうか。
では、私たちが今起こりつつあることから目を背けず、真実に近づくための手段は何なのだろうか。
ここで「夏の闇」からさらに30年ほども遡った時代、作家トーマス・マンがナチス・ドイツの手から逃れた亡命先でいかに情報を得ようとしていたかを思い出して胸が熱くなる。
以下、池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」からの引用である。
「……新聞やラジオの報道によりつつ、もとより半分もうのみにしない。とりわけドイツからの報道が、どれだけ操作され、かたよったものであるか、存分に知っていた。真実に一歩でも近づくためには、さしあたりここにあるものを手がかりにして、ここにないものを思わなくてはならない。……」
あらゆるものを疑いつつも、目の前にあるものを手がかりとして、見えないものを想像する自身の力を鍛え、信じることが何より大切なのかも知れない。
戦場における人権侵害と思われる事象が頻発し、それをウクライナ側は非難し、西側諸国の報道もそれに同調し、ロシアの非道ぶりを糾弾する。これに対しロシア側は即座に反論、これはウクライナ側が自らの犯罪を押し隠すための情報操作だと主張したりする。
もとより侵攻を仕掛けたロシアに非があるのは明らかであり、心情的にもウクライナ側の情報を信じたくなるのは道理だが、果たしてどこに真実があるのか、それを真摯に見極めることを諦めてはならないのだろう。
どちらかが100%正しく、どちらかには1%の真実もないと軽々に断定するのは、それこそ真実を見誤ることになってしまうのかも知れないのだ。
人の数だけ真実があると、したり顔でいう識者のいるのも事実だし、すべての情報は操作されていると真面目な顔で陰謀論まがいの意見を言う人もいる。
しかし、人の数だけ真実があると言ってしまった瞬間に私たちは思考停止の罠に落ち込んでしまっているのではないだろうか。
開高健の長編小説「夏の闇」が刊行されたのは1972(昭和47)年3月で、今からちょうど50年前のことだ。
著者自身が第2の処女作という本作は、ベトナム戦争で信ずべき自己を見失った小説家の主人公が、ただ眠り、貪欲に食べ、性に溺れる泥沼のような日々の中から、やがてベトナムの戦場に回帰しようとするまでを描いた作品である。
半世紀前のこの年は、冬季札幌オリンピックがあり、米国ニクソン大統領の電撃的な中国訪問があり、連合赤軍によるあさま山荘事件が起き、沖縄が日本に返還された年である。
冷戦のさなかでドイツは東西に分断され、その象徴たる「ベルリンの壁」は厳然とそびえていた。そして、その翌年にアメリカが撤退することになるとはいえベトナム戦争はいまだ終結の見通しがなかった頃だ。
その時代、情報を手に入れる手段は極めて限られていた。今とは隔世の感がある。そうしたなか、小説の終盤近くに主人公は滞在先の街にある通信社の支局を訪ね、かつてベトナムで記者の仕事をしていた伝手で記録ファイルを見せてもらったりしながら戦争の情勢を知ろうとするのだ。
以下、主人公の独白部分を一部引用する。
「……壁の東側にいる人間でなければつかめない現実があるだろうし、西にいる人間でなければつかめない現実もあるだろう。どちらもそれを唯一の本質といいたがる。けれど、壁の上にいる人間でなければつかめない現実というものもあるはずじゃないか。それも本質だ。おれには唯一の本質など、ないね。眼のふれるもの、ことごとく本質だね。もし生きのびられておれが何か書いたらどちらの側もめいめいに都合のいい部分だけをぬきとって自分たちの正しさの証明に使うだろうね。使えないとわかれば嘲笑、罵倒、または黙殺だね。使えるあいだはどちらかからか、どちらからもか、歓迎してくれるだろうが、あとはポイだな。……」
「……二十四日間の攻防戦のうちに反政府側は“臨時政府”樹立を宣言し、大学教授を省長に任命し、人民裁判を開いたと伝えられる。反政府側は数千人殺され、アメリカ兵が数百人殺され、政府側兵士が数百人殺され、市民は約二千五百人殺されたと伝えられる。こういう数字は“数千人”を“数百人”としていいかもしれず、“数百人”を“数千人”としていいかもしれない。あるいはいっさい数字をあげないで、市民は逃げつつ殺され、アメリカ兵はたたかいつつ殺され、反政府兵はたたかいつつ殺され、政府兵は逃げつつ暴行略奪しつつたたかいつつ殺されたといったほうがいいかもしれない。……」
以上、ほんの一部の引用だが、これを読むと50年も前のこととは思えない。言葉を少し入れ替えるだけで、まるで今目の前で起こりつつあることのように思える。
この半世紀の間に、情報網は驚くほどの進展を見せ、平和を維持するための国際的な枠組みも強化されてきたはずなのに、人間の本質は根本のところで何も変わってはいないということなのだろうか。
では、私たちが今起こりつつあることから目を背けず、真実に近づくための手段は何なのだろうか。
ここで「夏の闇」からさらに30年ほども遡った時代、作家トーマス・マンがナチス・ドイツの手から逃れた亡命先でいかに情報を得ようとしていたかを思い出して胸が熱くなる。
以下、池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」からの引用である。
「……新聞やラジオの報道によりつつ、もとより半分もうのみにしない。とりわけドイツからの報道が、どれだけ操作され、かたよったものであるか、存分に知っていた。真実に一歩でも近づくためには、さしあたりここにあるものを手がかりにして、ここにないものを思わなくてはならない。……」
あらゆるものを疑いつつも、目の前にあるものを手がかりとして、見えないものを想像する自身の力を鍛え、信じることが何より大切なのかも知れない。