seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

語る歌/歌う言葉

2013-02-10 | 言葉
 映画「レ・ミゼラブル」を観てから、言葉と音楽の関係についてもっと考えなければと感じたのだが、脳神経科医で「レナードの朝」の作家として知られるオリバー・サックスは「知の逆転」の中で次のように語っている。
 ……言語能力をなくした失語症の患者でも、本人にとっても驚きであるが、(言葉を失っても)歌を歌うことができる。患者に接する医師(この場合はサックス)がまず歌い始めると彼らも一緒にあわせて歌ってくる。歌っているうちにメロディーだけでなく言葉が思い出されてきて、これを取っ掛かりとして、新たに言語を呼び戻したり、言語野がないほうの脳で言語的な発達を促すこともできる。
 アルツハイマー病患者の場合も、古い歌、昔の歌など知っている音楽に対してうつろだったり興奮している患者も静かに聞き耳を立て始め、涙を流したり微笑んだりする。音楽が、昔それを聴いていたときの感情や情景の記憶を呼び覚ますからと思われる。
 個別の記憶やエピソード記憶は失われてしまっても、音楽は残っている。
 音楽の力は、一般的にも多かれ少なかれ病気によって侵食されず残っているのである。……

 言語と音楽が不即不離の関係にあることの何よりの証左であるが、最近こんな話も聞いた。
 障害者のグループホームなどを運営するNPO法人の代表者で、障害者の音楽活動に熱心に取り組み、今年はカーネギー・ホールでのベートーヴェンの第九演奏会に挑戦するというUさんの話だ。
 成人近い年齢まで日本で育ち、その後アメリカなどに移民として渡った人々が、何十年を経るうちに英語を覚え、不自由なく生活できるようになって、いつしか日本語を忘れてしまう。
 ところが老齢になってやや認知症も疑われるようになったとき、英語での会話が次第に覚束なくなり、それとともに今度は忘れていたはずの日本語を話し始めるというのだ。
 「そういう人たちは子どもの頃に覚えた日本唱歌や民謡を歌ってあげると本当に喜んでくれるのよ」というわけだ。
 こんなエピソードからも言語と音楽の関係について様々に考えを巡らすことができるだろう。

 さて、オリバー・サックスによれば、「ロリータ」で知られる作家ナボコフは音楽を理解することができない音楽不能症だったそうだ。前頭葉のある部分の結合が欠けていたと思われる。ナボコフにとって音楽とはイライラする音の連続に過ぎなかった、というのだが実に興味深い。
 たしかカフカも音楽を雑音としか認識しなかったという話を聞いた覚えがあるが、こうした作家の書くものには何か共通する特質があるのだろうか。
 一方で執筆中は何か音楽がかかっていないと書けないという作家もいるし、例えばSF作家のP・K・ディックはヘッドホンを耳にハードロックを大音量でガンガンに響かせながら書いたという。
 ロシア革命によって移民したナボコフは、母語ではない、習得した言語である英語を使って難解な魔術的文体と称される数々の小説を書いた。
 そこに何らかの秘密があるのだろうか。興味深い話だ。

レ・ミゼラブルを観て考える

2013-02-10 | 映画
 映画「レ・ミゼラブル」が公開からひと月以上を経てなお多くの観客を集めているようだ。今さらながらにこのミュージカルの作品としての力強さに感嘆する。
 映画そのものは、どうだろう。様々な評価があるだろうが、映画ゆえに成し得たこともあれば、舞台でなければ味わえないものもあったというところか。
 個人的には、登場人物のクローズアップの多用やCG処理した映像がやや趣味に合わない、というか違和感を覚えてしまったし、やはり群集の劇としての力強さは舞台でしか味わえないものだとの感を強くした。
 それはともあれ、俳優たちの微細な感情を歌にのせて語る演技力には瞠目せざるを得ない。これはなかなか日本人の俳優にはかなわないのではないかと思ってしまったのだ。劇団四季ふうのといっては誠に失礼だが、わが国のミュージカル俳優の歌唱はどうしてものっぺりとした感じがして、生活感や感情の襞の彫り込みが薄っぺらに思えてしまう。
 これは欧米の作曲家が創った楽曲に合わせて日本語で歌うことに起因しているのかもしれないのだが、言葉はすなわち文化そのものであり、言葉と音楽が不即不離のものとしてある以上、仕方のないことかもしれない。
 これは輸入ミュージカルの宿命と言えなくもないのだろう。

 一方で別の見方をするならば、いわゆるリアリズム演技なるものの弊害がここにはあるように思えるのだ。
 よく「歌は語るように、台詞は歌うように」などと言われるけれど、新劇出身の演出家のダメ出しには「台詞を歌うな」というのがよくあって、この国のリアリズム演劇の世界では「歌う」ことはご法度なのだなとよく思ったものだ。
 もっとも高校などの演劇部出身の若い俳優にありがちなのが、いわゆるこの「歌い台詞」で、表現の稚拙が重なった場合には誠に申し訳ないが聞いていられない仕儀となる。

 しかし、である。わが国の古くからある芸能では、能狂言にしろ、文楽にしろ、歌舞伎にしろ、台詞はいずれも音曲とともに謡われてきたのである。
 今は多様なジャンル出身の俳優たちによるコラボレーションも珍しくはなくなってきたから、闇雲なリアリズム信仰はもう過去のもののようにも思えるが、長い歴史を経て培われてきた財産をもう一度見直し、言葉と音楽の関係について再構築する必要があるのではないだろうか。