すでに2か月も前に観た舞台なのだが、その感動を忘れられずにいる「ピーター・ブルック『ザ・スーツ』」(11月14日:パルコ劇場40周年記念公演)について書いておきたい。
最近の私はまったく気力を失ってしまい、書くことにも観ることにも読むことにも出歩くことにも興味を失くしてしまっているのだが、この芝居はそんな私をもそっと迎え入れてくれるような大きな包容力に満ちていた。
私がこの舞台について書きつけることに何ほどの意味もないだろうが、それでものちほど引用するピーター・ブルックの言葉は少なくとも記憶しておく価値のあるものだ。その言葉に導かれて私もまた小さな一歩を踏み出せそうな気持になる。
本作は、キャン・センバの短編小説「ザ・スーツ」に題材を採った芝居:キャン・センバ、モトビ・マトローツ、バーニー・サイモン作「ザ・スーツ」に基づく舞台である。
演出・翻案・音楽は、ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ、フランク・クラウクチェック。はじめはフランス語での上演により各国で大きな反響を得たが、さまざまな文化的背景を持ったより多くの観客に向けた作品を創るべきとの考えから、国際的な言語である英語での上演にシフトしたとのこと。
舞台は1950年代のアパルトヘイト下の南アフリカ・ヨハネスブルグ西のソフィアタウンという黒人居住区における一組の夫婦とその愛人の間に起こった悲劇を描く。
いわばアパルトヘイト版「人形の家」とでもいうべき物語である。
最悪の生活環境にありながら、白人弁護士の有能な秘書として働くフィレモンは美しい妻マチルダを得て満ち足りた生活を送っていた。フィレモンから女王のように扱われるマチルダ。しかし、彼女はその代償として何よりも好きだった聴衆の前で歌うことと、本当に愛する人と生きることを諦めざるを得なかった。
そうした抑圧の中、マチルダは愛人との逢瀬を重ねていたが、友人からの告げ口によって疑いを持ったフィレモンにその現場を見られてしまう。
フィレモンの急な帰宅に驚いた愛人は着ていたスーツもそのままに逃げ去ってしまう。
フィレモンは、スーツのかかった椅子を引き寄せ、彼女に向ってそのスーツを大切な客人としてもてなすことを命じるのだった。
表向きは何事もないような生活を送りながら、陰湿で執拗な罰を夫は妻に与え、彼女の自尊心を傷つけ続ける。
マチルダは町の文化的な活動に参加し、善行を積むことで良心の呵責から逃れようとする。その活動に中で次第に喜びを見出し、自尊心を取り戻しかけた彼女にフィレモンはさらなる罰を課し、やがてそれは取り返しのつかない結末を呼び寄せる……。
この悲劇を、4人の俳優、3人のミュージシャンによって演じられるこの舞台は、どこまでも軽やかに、客席をも巻き込んだ祝祭感と音楽性に満ちたものとして描き出す。
上演時、新聞各紙の劇評には「洗練の極み」といった見出しが躍っていたが、この物語をこれほどシンプルに、心躍る楽しさとともに観客の心に届ける力は一体どこから来るのだろうか。素晴らしいとしか言いようがない。
声高に訴える政治性や思想、力の入った熱演や先端的な演劇性とはまったく異なる手法で、あくまで軽やかに、肩の力を抜いた演技やマイム、音楽、歌唱によって、この芝居で表現しようとした核のようなものは確かに観客のもとに届けられる。
舞台上から余計なもの、過剰なものをとことん引き算していったその果てに、舞台を観ることでしか感得できない「表現」だけが残った、そういえばよいだろうか。
以下、上演パンフレットに掲載されたピーター・ブルックの言葉を引用しておこう。それらは折に触れ、私を勇気づけ、励ましてくれるようだ。
……ますます残酷さを増す人間生活の一面に対し、もし今日の演劇がなにかをする責任があるとすれば、それは、残酷さを絶望の淵に沈み、喉をかっ切って自殺する理由として描くことではない。逆にそこから、希望や勇気に真の意味が見えてくるということ。それを観客一人ひとりに示さなければならない……。
……演劇に責任があるとすれば、つまりそれは「観客が劇場に来るのは、患者が医者に診察してもらいに行くのと同じことだ。診察を終え病院を去るときは、来たときより元気になって帰らなければならない。そうでなければその医者はヤブに違いない」ということなのです。
……演劇の無力さを感じるというのは最悪の状況といえるでしょう。むしろ、演劇が世界を変えられないと思ってしまうときほど、「小さなスケール、少ない人々が小さな一滴を創り出すことができる。そこからなにかしら、他の人々にとっての希望を創り出すことができる」と信じるべきです。その雫の一滴一滴に、すべて価値があると信じることが重要なのです。
最近の私はまったく気力を失ってしまい、書くことにも観ることにも読むことにも出歩くことにも興味を失くしてしまっているのだが、この芝居はそんな私をもそっと迎え入れてくれるような大きな包容力に満ちていた。
私がこの舞台について書きつけることに何ほどの意味もないだろうが、それでものちほど引用するピーター・ブルックの言葉は少なくとも記憶しておく価値のあるものだ。その言葉に導かれて私もまた小さな一歩を踏み出せそうな気持になる。
本作は、キャン・センバの短編小説「ザ・スーツ」に題材を採った芝居:キャン・センバ、モトビ・マトローツ、バーニー・サイモン作「ザ・スーツ」に基づく舞台である。
演出・翻案・音楽は、ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ、フランク・クラウクチェック。はじめはフランス語での上演により各国で大きな反響を得たが、さまざまな文化的背景を持ったより多くの観客に向けた作品を創るべきとの考えから、国際的な言語である英語での上演にシフトしたとのこと。
舞台は1950年代のアパルトヘイト下の南アフリカ・ヨハネスブルグ西のソフィアタウンという黒人居住区における一組の夫婦とその愛人の間に起こった悲劇を描く。
いわばアパルトヘイト版「人形の家」とでもいうべき物語である。
最悪の生活環境にありながら、白人弁護士の有能な秘書として働くフィレモンは美しい妻マチルダを得て満ち足りた生活を送っていた。フィレモンから女王のように扱われるマチルダ。しかし、彼女はその代償として何よりも好きだった聴衆の前で歌うことと、本当に愛する人と生きることを諦めざるを得なかった。
そうした抑圧の中、マチルダは愛人との逢瀬を重ねていたが、友人からの告げ口によって疑いを持ったフィレモンにその現場を見られてしまう。
フィレモンの急な帰宅に驚いた愛人は着ていたスーツもそのままに逃げ去ってしまう。
フィレモンは、スーツのかかった椅子を引き寄せ、彼女に向ってそのスーツを大切な客人としてもてなすことを命じるのだった。
表向きは何事もないような生活を送りながら、陰湿で執拗な罰を夫は妻に与え、彼女の自尊心を傷つけ続ける。
マチルダは町の文化的な活動に参加し、善行を積むことで良心の呵責から逃れようとする。その活動に中で次第に喜びを見出し、自尊心を取り戻しかけた彼女にフィレモンはさらなる罰を課し、やがてそれは取り返しのつかない結末を呼び寄せる……。
この悲劇を、4人の俳優、3人のミュージシャンによって演じられるこの舞台は、どこまでも軽やかに、客席をも巻き込んだ祝祭感と音楽性に満ちたものとして描き出す。
上演時、新聞各紙の劇評には「洗練の極み」といった見出しが躍っていたが、この物語をこれほどシンプルに、心躍る楽しさとともに観客の心に届ける力は一体どこから来るのだろうか。素晴らしいとしか言いようがない。
声高に訴える政治性や思想、力の入った熱演や先端的な演劇性とはまったく異なる手法で、あくまで軽やかに、肩の力を抜いた演技やマイム、音楽、歌唱によって、この芝居で表現しようとした核のようなものは確かに観客のもとに届けられる。
舞台上から余計なもの、過剰なものをとことん引き算していったその果てに、舞台を観ることでしか感得できない「表現」だけが残った、そういえばよいだろうか。
以下、上演パンフレットに掲載されたピーター・ブルックの言葉を引用しておこう。それらは折に触れ、私を勇気づけ、励ましてくれるようだ。
……ますます残酷さを増す人間生活の一面に対し、もし今日の演劇がなにかをする責任があるとすれば、それは、残酷さを絶望の淵に沈み、喉をかっ切って自殺する理由として描くことではない。逆にそこから、希望や勇気に真の意味が見えてくるということ。それを観客一人ひとりに示さなければならない……。
……演劇に責任があるとすれば、つまりそれは「観客が劇場に来るのは、患者が医者に診察してもらいに行くのと同じことだ。診察を終え病院を去るときは、来たときより元気になって帰らなければならない。そうでなければその医者はヤブに違いない」ということなのです。
……演劇の無力さを感じるというのは最悪の状況といえるでしょう。むしろ、演劇が世界を変えられないと思ってしまうときほど、「小さなスケール、少ない人々が小さな一滴を創り出すことができる。そこからなにかしら、他の人々にとっての希望を創り出すことができる」と信じるべきです。その雫の一滴一滴に、すべて価値があると信じることが重要なのです。