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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

科学と逡巡

2011-05-30 | 雑感
 26日、G8サミット議長国・フランスのサルコジ大統領が記者会見し、原発問題について「G8に参加した多くの国が原子力以外に(当面)代替エネルギーはないと判断した」と述べ、最大限の安全対策に配慮しつつも先進国が原発に依存せざるを得ないとの考えを示した、と27日付の新聞夕刊が報じている。

 同じ日の毎日新聞夕刊に、文芸評論家・吉本隆明氏のインタビュー記事が載っていて興味深い。
 吉本氏は1982年、文学者らによる反核運動を批判する「『反核』異論」を出版してもいる。吉本氏は語る。
 「原子力は核分裂の時、莫大なエネルギーを放出する。原理は実に簡単で、問題点はいかに放射性物質を遮断するかに尽きる。ただ今回は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。防御装置は本来、原発装置と同じくらい金をかけて、多様で完全なものにしないといけない。原子炉が緻密で高度になれば、同じレベルの防御装置が必要で、防御装置を発達させないといけない」
 指摘のとおり、その防御に対する考え方や対策が実に杜撰で甘いものであったということが今明らかになりつつある。まさに人災といわれる所以である。
 一方で吉本氏はこうも語るのだ。
 「動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。今のところ、事故を防ぐ技術を発達させるしかないと思います」
 知識や科学技術は元に戻すことができない。どれほど退廃的であろうが否定はできない。だからそれ以上のものを作るとか、考え出すことしか超える道はない、というのが吉本氏の基本的スタンスだ。

 この発言をどのように捉え、考えればよいのだろうか。

 一方、24日発売の朝日ジャーナル誌では、作家の広瀬隆氏が「電力不足は起こらない 原発は即刻、止められる」と題した文章を寄せている。
 広瀬氏は、急いで、真剣に原発を止めることを考えるなら、太陽光では間に合わない、安定的なガス火力をエースにして、最大の電力を消費している産業界を味方につけるのが、先進国の実効ある針路である、加えて日本は、この分野で世界トップクラスの優れた技術力を持っている、と述べている。
 (今後)海外からのビジネス客、観光客がともに減ることは、放射能の危険がある限り避けられない。
 こうした世界の厳しい目にもっともさらされ、大きな被害を受けているのが産業界であり、戦後何十年にもわたって築き上げてきた「日本というブランド」から安全のイメージを奪った原発を、産業界が支える意味はもう完全に消滅した、というのだ。

 29日朝のテレビ番組でも、ソフトバンクの孫正義社長が27の県知事と連携して発表した、全国の休耕地や廃田の2割を太陽光発電基地に転用することで原発50基分の電力をまかなうという構想が話題となっていた。
 その一方、あくまで太陽光発電はコストがかかりすぎて問題にならない、原発の優位性は変わらないと主張するどこかの知事もいる。

 上記の恣意的な部分引用や中途半端な論拠では議論のとっかかりにもならないだろうが、何よりもいま求められるのが、正確で明確な情報に基づく冷静で科学的な議論であることは間違いないだろう。
 身内の閣僚に事前の相談もなく、根拠のない数値目標を公約としてぶち上げることがリーダーシップなのではなく、また、代替策や工程に関する十分な議論もなくやみくもに不安を煽るような報道や行動が必要なのでもない。
 これまで蓄積された知見と現状の課題を統合しながら、世界の潮流に戦略的に対処しつつ、科学の力によって安全かつプラスの方向に技術を転換するための知恵が何よりも求められている。

演劇を語ること

2011-05-24 | 演劇
 5月18日と19日の日本経済新聞夕刊に、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、宮城聰という2人の演劇人のインタビューが続けて掲載されていた。
 誤解を怖れずに言うならば、端的に、震災後2カ月経ってようやくそれぞれの表現領域に立脚したアーティストらしい発言が出てきたという感想を持った。
 何かのためにする芸術というもの、被災者の人々を元気づけ、あるいはその傷ついた心を癒やそうという芸術のあり方は素晴らしいし、そういった要素を芸術は本来的に持っているのだから、そうしたあり様は十分に尊重され、活用されなければならないと思うけれど、その一方で、アートが有する別の側面があまりに捨象されているのではないかとの危惧を感じていたのだ。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチは、原発問題に潜む不条理劇的構造に言及し、我々が日に日にカフカの登場人物のような状況に追い込まれているようだと語る。
 今回の震災から原発問題まで、実に様々な人が様々な立場で情報を流し、あるいは論評し、あるいは批判し、ときに謝罪し、とめどもなく言葉を発し続けているのだが、それがいかほどに真実であり、言葉が言葉通りの意味を持っているのかどうか分からない状況のなかで不安ばかりが増幅されている。
 それは芝居で描かれる世界以上に不条理化してしまっている現実の表われにほかならないのだろう。

 一方、宮城聰は、震災後、人々の思考が狭まっていくなかで、演劇の役割は観客が自分の頭で考え、心身を外に開いていく場を提供することだと規定する。
 そのうえで、「最もうち捨てられている人に詩が降りてきて、みずみずしい言葉に変わらないか。俳優が一番弱い存在として舞台に立ちうるか」と自らに問いかける。

 3・11から2か月余りの時間のなかで、私たちはこれまでに経験したことのない価値観の変換や喪失、根本的なものの見方の転換を否応なく受け入れるべく迫られている。
 そうした現実を様々な視点から誠実かつ冷徹に見つめることこそがアートの持つ、大きな役割の一つであるはずだ。
 その先に見えてくるはずの希望というものを、私は信じたいと思う。