seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

新聞記事から

2021-10-13 | 演劇
 最近の新聞記事で気になったものを二本、メモしておきたい。

 一本は10月1日(金)付の毎日新聞朝刊で、「芸術界のジェンダー不均衡」と題した3人の論客の意見が載っている。
 その中の1人、劇作家・演出家の谷賢一氏の寄稿を興味深く読んだ。
 最近、谷氏は、「丘の上、ねむのき産婦人科」という、身近だが遠い他者で異性の、しかも妊娠という最も性差が顕著になる瞬間を選んで芝居を書き、上演したばかりなのだ。
 氏らは、大半の俳優たちが妊娠経験のないなか、役を演じるためにひたすら想像する。さらに、異性を想像するため、女性が男性を演じ、男性が女性を演じるという男女逆転上演にもチャレンジしている。その過程で、自身の視点からだけでは気づけない、さまざまなことを発見するのだ。
 すなわち、性差だけではなく、社会的・経済的な差がその人の振る舞い=演技を決定している、ということだ。それは俳優が演じるうえでのことだけではなく、女性もこの困難な社会を生き延びるために女性という役を演じている、あるいは、演じさせられている、という気づきである。

 演劇的アプローチが社会の抱える矛盾や病理を炙り出しにする好例であると思う。

 次の一本は、10月11日(月)付の毎日新聞夕刊で、トピックスとして「日本女性2人が率いる『世界演劇祭』」というタイトルの記事が載っている。
 これは、欧州における重要な国際演劇祭の一つ、ドイツの「世界演劇祭2023」のキュレーションを、日本の2人の女性が担うことになった、というもの。その2人とはNPO法人「芸術公社」の相馬千秋、岩城京子両氏のことである。
 相馬千秋さんは、私も関わりのあったNPO法人「アート・ネットワーク・ジャパン」のメンバーでもあった人で、「フェスティバル/トーキョー」の初代のプログラム・ディレクターとして数多くの記憶に残る舞台、パフォーマンス等を企画実施している。

 今回、40年の歴史ある世界演劇祭の歴史で初めてディレクターが公募され、30カ国から70を超える応募があったそうで、アジア人女性チームがディレクションを担うのも初めてとのこと。
 以下、記事から引用すると、「コロナ禍によって、多くの人々の心と体がさいなまれている中、2人は『悲劇的事象のトラウマはつねに遅れてやってくる』と警鐘を鳴らした上で、『協同するアーティストとともに、あらゆる存在がケアを享受し、キュア(治療)を施されるような、新しくやわらかな世界を描きたい』と意気込んでいる」という。

 ウイルスに対する決定的な特効薬がない中、コロナ禍は社会的にも個人レベルでも多くの分断と差別を助長し、得体の知れない不安と怒りが世界全体を覆ってしまった。こうした事態を解きほぐすための演劇的アプローチとして、《ケアとキュア》に光を当てたというのは卓越した提案であると思う。
 得たいの知れなさや先の見えない不安はさまざまな隠喩をまとい、神話や物語となって、ともすれば人々をさらに惑わせてしまう。
 そうではなく、いつの間にか纏ってしまった意味=隠喩をていねいに剥ぎ取り、事実と情報を整理し直しながら、進むべき方向を提示することが、キュア(治療)のための第一歩なのだ。
 そのケアとキュアのためのアプローチとして2人が示したのが、領域横断性と多様性に焦点を当て、複雑で多岐にわたるコミュニティとの芸術的対話を目指す多面的な提案ということだ。

 そう言えば、キュアとキュレーションは語源として同一の根っこを持った考え方なのだと改めて感じる。この世界演劇祭をキュレーションする2人のチャレンジが、世界をキュアするための取り組みになればと願う。
 期待したい。


歩いてゆく poetry note No.12

2021-10-06 | ノート
 雑草の生い茂った水辺を散策しながら草いきれのうちに身をゆだねたり、木洩れ日のなかを歩き、樹々をわたる風の音や鳥の鳴き声に耳をすませたりするのと同様に、都市のさまざまな建造物を眺めやり、明滅する光を浴びつつ街の雑踏を歩くことや、人の群れにまぎれてあてどもなく彷徨うことに不思議な安らぎを感じるのは何故だろう。
 息づく自然や動植物の営みと無機質なコンクリートや鉄の固まりといった、一見対極にあると思われがちなそれらの内側には、ある種の共通する波動やリズム、ゆらぎのようなものがあって、それが親和性のある形状の相似となって私たちに居心地の良さを与えているのだろうか。

 「芸術は自然を模倣する」と言ったアリストテレスに対し、オスカー・ワイルドの言った「自然は芸術を模倣する」という言葉はあまりに有名だが、いつしか私たちは自然の本来の姿を見失ってしまい、人の手になる建築や造営物、芸術が新たに見出した「美」を通してしか自然の美を感知できなくなっているのかも知れない。

 そんなことをぼんやりと考えながら私は歩いていたのだ。



 私の頤は船の舳先だ ぐいと突き上げ 背を反らし
 波を切り裂くように 人の群れを漕ぎ分けてゆく
 立ちはだかる闇と霧に向かって 少しずつ 少しずつ 歩いてゆく
 そうすることでしか胸にわだかまる影の消えることはない
 そうすることでしか目の前の黒々としたものの
 何であるかを知ることはないのだと 独り言ちながら





 自然がつくり出す紋様と 人の手によって作られた形がリズムを刻む
 それは波動となって空気をふるわせる そのゆらぎに囚われたのか
 あるいは安息の場所を見つけたという錯覚に目が眩んだのか
 のがれようのない心地よさが わたしの目を蓋い 耳を塞ぎ
 静かな眠りへと引きずり込んでゆく


台風の日

2021-10-06 | ノート
 わくら葉の季節は過ぎて 秋台風のざざめく日

 遠くけぶるビルの輪郭を淡く染め雨かぜの白く疾くざんざめく



 とある事情から都内の病院に一週間ほど入院することになった。いわゆる検査入院なのだが、今回懸念されることとなった病気が、従前から治療を続けているものに由来するものなのか、あるいは別のものなのかを特定するために当該臓器の組織の一部を切除して調べる必要が生じたのである。
 全身麻酔による手術自体はあっという間のことで、それこそ手術台に横たわり、気がついたら終わっていたというくらいの間隔だったのだが、その後の始末の方が厄介だった。点滴の針や導尿カテーテル、酸素マスク、血栓予防のために下半身をマッサージする器具などが装着され、身動きのままならない状態で一昼夜を過ごすのだ。
 その翌日は飲食も可能で歩行することも出来るのだが、船酔いを催したような感じで胃がムカムカし、血の気も引いて気持ちの悪いことこのうえない。
 ちょうどそんな時に台風が日本列島を直撃し、強い風雨が吹き荒れた。
 私のいる高層にある病室からはその風圧や雨量を体感することは出来ないのだが、窓を打つ雨が滝のようになって流れ落ち、街並みの風景を歪ませるのをぼんやりと頼りない意識の中で見ていたのだった。
 巨大な大気の変動と私の身体の中の微細な細胞の変化がどこかでつながっているような思いに捉われながら。



 夜になると関東地方は台風圏域から離れ、雨も止んだようだ。水に洗われた空気を通してあざやかな夜景が目に映る。この厖大な光の一つ一つに人々の人生があり、物語があるというのはいかにもありきたりの感慨でしかないが、高い場所から俯瞰して見るというのはそうした単純な客観視をもたらすのかも知れない。
 チャップリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言ったそうだが、ここで言うロングショットが単純な客観視を意味するのでないことは明らかだ。そこには自在に多様な視点からものを《見る》という意志と意図がある。身動きもならず漫然と高い場所から見下ろすばかりの姿勢とはまったく異なるものなのである。



 翌朝、窓ガラスにカメムシのような昆虫がこびりついていた。こんな高いところになぜやって来たのかは分からないのだが、あるいは早く地べたに下りて来いよと私を誘いに来たのかも知れない。