映画を早送りで観る人たちが増えているそうだ。
ずばりそのもののタイトルの新書が話題を集めているという記事を何か月か前の新聞で読んだのだが、ことほどさように映画を1.5倍速や2倍速で視聴する人が増えているということなのだ。
そうした人たちの中には、映画やドラマの結末に関係なさそうな会話部分を飛ばしたり、事前にネタバレサイトなどをチェックしておいて重要な場面だけを部分的に見たりする人もいるらしい。
そう言われれば、ネットで不正投稿されている(らしい)のだが、1本の映画を解説とあらすじを20分間くらいの短縮動画にして紹介しているものがあって私もうっかり見てしまったことがある。著作権法上問題があるだけでなく、これを見てしまうともう本編を観なくても観たような気分になるという点で害悪としか言いようがない。
ここでキーワードになるのが「コストパフォーマンス」であり、時間を重要視する「タイムパフォーマンス」であるという。
昨今のお金にも時間にも余裕がない生活環境の先に、早送りという効率主義が広がったということなのだ。
しかし、映画は「時間芸術」という言い方があるように、作り手は冒頭から終わりまで1分1秒もゆるがせにせず、計算を尽くして映像を作っている。それを勝手に改編したり、省略したり、速度を変えて視聴するのは作品に対する冒涜でしかないだろう。
だが、それ以上に怖いのは、こうした鑑賞方法が当たり前になっていく風潮の中で、映画やドラマの制作者が逆影響を受けて、作品の質そのものが変わっていってしまうことだ。
このテンポじゃゆっくりし過ぎて視聴者が退屈するとか、よく練られたショットも余計だからカットしてもっと事件やアクションを増やそう、といった感じで視、聴者におもねった作品づくりが跋扈していってしまう。
これはとても恐ろしいことではないだろうか。
映画は作られたとおりの速度で、出来れば映画館で鑑賞するのが望ましい、芝居は配信や録画ではなく生の舞台で観劇するのが望ましいというのが、一応の本稿の結論なのだが、ここで少し逆張りになりそうなことを考えてみよう。
そんなこと、似たようなことはこれまでにも散々行われて来たのではないかという視点で考えてみるのだ。
例えば音楽でいえば、ポップスや歌謡曲のサビの部分だけを聴いたり、イントロだけ、あるいは歌詞の一番だけを聴いて次々に曲を変えて楽しむというやり方はありがちな方法だ。
クラシック音楽でもアダージョ楽章だけを集めたものや、第二楽章だけを収録したCDが売られていたりする。クラシックバレエの音楽の名場面集なんてものも一般的だろう。
歌舞伎でも通し狂言を上演するのではなく、忠臣蔵ならそのうちの人気のある場面だけを上演し、他の演目や舞踊と組み合わせて見せるのもごく一般的である。これは浪曲や落語でも行われている。
また文学の世界でも、詩集でいえば、いろいろな詩集からいくつかの作品をピックアップして編纂したものがある。
長編小説ではプルーストの「失われた時を求めて」のような長大な作品を抄訳という形で部分訳とあらすじ・解説を組み合わせて読ませる方法も昔からあるようだ。
出来るだけ多くの本を読むための「速読術」なるものがビジネスパーソンにとって必要なスキルとして認知されているのも、タイムパフォーマンスを重要視する現代の価値観においては当然のことなのだろう。
このようにいかに時間をかけず、手っ取り早く楽しむという方法は昔から様々に工夫されて現在に至っていると言えるのではないだろうか。
好むと好まざるに関わらず、技術の進歩や価値観の変化に伴って、芸術作品の楽しみ方も変化せざるを得ないのかも知れない。
生まれ落ちた時から片手にスマホを持ち、サブスクで音楽や映画を楽しむのが当たり前という世代が大人になる頃には、今では想像も出来ない鑑賞方法が一般化しているのだろう。
さて、ここでひとつ最後に触れておきたいのが、能楽についてである。
ご存知のとおり、能楽は今から600年も昔に世阿弥をはじめとする能楽師によって大成された舞台芸術であるが、その草創期の室町時代には今のような幽玄で荘厳な、ゆったりとしたテンポで謡われるものとはまるで違っていたと言われる。
猿楽や曲芸のようなものをルーツに持つ能楽は、その昔にはもっとテンポよく、時には観衆の笑いを呼ぶようなものであったらしい。
それがある時期、おそらくは徳川時代を境として忽然と上演形態が変わってしまったらしいのだ。
その理由がその時代の要請であったのかどうか、様々な理由があるのだろうが、現代の単にタイムパフォーマンスを重視する考えとは逆行する変化があったという事実は実に興味深いものと思えるのだ。
ずばりそのもののタイトルの新書が話題を集めているという記事を何か月か前の新聞で読んだのだが、ことほどさように映画を1.5倍速や2倍速で視聴する人が増えているということなのだ。
そうした人たちの中には、映画やドラマの結末に関係なさそうな会話部分を飛ばしたり、事前にネタバレサイトなどをチェックしておいて重要な場面だけを部分的に見たりする人もいるらしい。
そう言われれば、ネットで不正投稿されている(らしい)のだが、1本の映画を解説とあらすじを20分間くらいの短縮動画にして紹介しているものがあって私もうっかり見てしまったことがある。著作権法上問題があるだけでなく、これを見てしまうともう本編を観なくても観たような気分になるという点で害悪としか言いようがない。
ここでキーワードになるのが「コストパフォーマンス」であり、時間を重要視する「タイムパフォーマンス」であるという。
昨今のお金にも時間にも余裕がない生活環境の先に、早送りという効率主義が広がったということなのだ。
しかし、映画は「時間芸術」という言い方があるように、作り手は冒頭から終わりまで1分1秒もゆるがせにせず、計算を尽くして映像を作っている。それを勝手に改編したり、省略したり、速度を変えて視聴するのは作品に対する冒涜でしかないだろう。
だが、それ以上に怖いのは、こうした鑑賞方法が当たり前になっていく風潮の中で、映画やドラマの制作者が逆影響を受けて、作品の質そのものが変わっていってしまうことだ。
このテンポじゃゆっくりし過ぎて視聴者が退屈するとか、よく練られたショットも余計だからカットしてもっと事件やアクションを増やそう、といった感じで視、聴者におもねった作品づくりが跋扈していってしまう。
これはとても恐ろしいことではないだろうか。
映画は作られたとおりの速度で、出来れば映画館で鑑賞するのが望ましい、芝居は配信や録画ではなく生の舞台で観劇するのが望ましいというのが、一応の本稿の結論なのだが、ここで少し逆張りになりそうなことを考えてみよう。
そんなこと、似たようなことはこれまでにも散々行われて来たのではないかという視点で考えてみるのだ。
例えば音楽でいえば、ポップスや歌謡曲のサビの部分だけを聴いたり、イントロだけ、あるいは歌詞の一番だけを聴いて次々に曲を変えて楽しむというやり方はありがちな方法だ。
クラシック音楽でもアダージョ楽章だけを集めたものや、第二楽章だけを収録したCDが売られていたりする。クラシックバレエの音楽の名場面集なんてものも一般的だろう。
歌舞伎でも通し狂言を上演するのではなく、忠臣蔵ならそのうちの人気のある場面だけを上演し、他の演目や舞踊と組み合わせて見せるのもごく一般的である。これは浪曲や落語でも行われている。
また文学の世界でも、詩集でいえば、いろいろな詩集からいくつかの作品をピックアップして編纂したものがある。
長編小説ではプルーストの「失われた時を求めて」のような長大な作品を抄訳という形で部分訳とあらすじ・解説を組み合わせて読ませる方法も昔からあるようだ。
出来るだけ多くの本を読むための「速読術」なるものがビジネスパーソンにとって必要なスキルとして認知されているのも、タイムパフォーマンスを重要視する現代の価値観においては当然のことなのだろう。
このようにいかに時間をかけず、手っ取り早く楽しむという方法は昔から様々に工夫されて現在に至っていると言えるのではないだろうか。
好むと好まざるに関わらず、技術の進歩や価値観の変化に伴って、芸術作品の楽しみ方も変化せざるを得ないのかも知れない。
生まれ落ちた時から片手にスマホを持ち、サブスクで音楽や映画を楽しむのが当たり前という世代が大人になる頃には、今では想像も出来ない鑑賞方法が一般化しているのだろう。
さて、ここでひとつ最後に触れておきたいのが、能楽についてである。
ご存知のとおり、能楽は今から600年も昔に世阿弥をはじめとする能楽師によって大成された舞台芸術であるが、その草創期の室町時代には今のような幽玄で荘厳な、ゆったりとしたテンポで謡われるものとはまるで違っていたと言われる。
猿楽や曲芸のようなものをルーツに持つ能楽は、その昔にはもっとテンポよく、時には観衆の笑いを呼ぶようなものであったらしい。
それがある時期、おそらくは徳川時代を境として忽然と上演形態が変わってしまったらしいのだ。
その理由がその時代の要請であったのかどうか、様々な理由があるのだろうが、現代の単にタイムパフォーマンスを重視する考えとは逆行する変化があったという事実は実に興味深いものと思えるのだ。
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