seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ありし世に

2010-02-27 | 日記
 私の仕事仲間のKさんが亡くなった。私と同い年である。急逝としか言いようがない死なのだが、いまだにどうにも信じることができないでいる。
 今週の火曜、大事な仕事の場に姿を見せなかった。職場の部下たちが携帯電話で何度連絡をとっても応答がない。これまでそんなことはなかった。心配した彼らが自宅に駆け付けて異変を発見した。
 どうして・・・という思いは尽きないが、皆の話を総合するとここに至るシグナルはたくさんあったような気がしてならない。残念でならないのはそんな状態でも彼が病院に行くのをかたくなに避けていたことだ。

 一見、取っ付きが悪く、頑固な彼だったが、その彼を多くの人が慕っていた。クマさんのような風貌と懐の深い温かさで若い女性たちにもファンが多かった。私の下で働いていた女性があることで心ない連中から非難された時も何かと庇ってくれていたのを思い出す。

 山登りが好きだった彼は、仲間たちと出かける時も入念な下調べを怠らなかった。さまざまな資料を駆使して事細かにコースを下検分し、アクシデントの際の対応策まで考えていたという。
 その彼が、自分自身の健康には無頓着だったのは何故なのか・・・。

 ごく限られた近親者の方々と一緒にその最後の姿を目にとどめた私には、彼のことをいつまでも忘れないでいる義務があるような気がしている。
 私自身がいつまでこの世にいるかは分からないのだけれど。合掌。

  あはれとも心に思ふほどばかりいはれぬべくは問ひこそはせめ    西行法師

  ありし世にしばしも見ではなかりしをあはれとばかりいひてやみぬる  藤原兼房朝臣

  あるはなくなきは数添ふ世の中にあはれいづれの日まで歎かむ    小野小町

国際母語デー

2010-02-21 | 言葉
 今朝早く、私は池袋西口の公園にいた。
 今日、2月21日はユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が1999年11月17日に制定した「国際母語デー」なのである。
 言語と文化の多様性、多言語の使用、そしてそれぞれの母語を尊重することの推進を目的としている。
 これは、1952年のこの日、バングラデシュ(当時はパキスタンの一部)のダッカで、ベンガル語を公用語として認めるように求めるデモ隊に警官隊が発砲し、4人の死者が出たことに因んでいるとのことだ。
 バングラデシュでは、独立運動の中の重要な事件の一つとしてこの日を「言語運動記念日」としていたのである。
 
 さて、その母語の日の恒久的記念碑である殉難者顕彰碑ショヒド・ミナールが池袋の西口公園に建立されていることはあまり知られてはいないだろう。
 今日は朝の8時前から150人ほどの在日バングラデシュの人々が集まり、駐日バングラデシュ大使も出席しての記念碑への献花式が行われ、私も縁あって一緒に参列したのだった。
 足元から寒さのしみ込んでくるこの真冬の早朝にも関わらず、歌を唄い、プラカードを持ち、花束を掲げ持った人々を見ていると、自分たちの母語を守りぬくことに誇りを持つことの素晴らしさ、力強さを感じないわけにはいかない。

 ふと、作家アゴタ・クリストフの言葉を思い出す。
 「悪童日記」ほかの作品で世界的に著名になった彼女だが、1956年、ハンガリー動乱の折、乳飲み子を抱えて夫とともに祖国を脱出、難民としてスイスに亡命した。その後、時計工場で働きながらフランス語を習得し、小説を書き始めたのである。
 アゴタ・クリストフは「母語と敵語」というエッセイのなかで次のように書いている。

 「わたしはフランス語を30年以上前から話している。20年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。
 そんな理由から、わたしはフランス語をもまた敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、私のなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。」

 私たちは果たして日本語というものをどれだけ大切に思っているだろう。当たり前のように日本語を読み、書き、話すことの奇跡のような素晴らしさ、不思議さを改めて思わないわけにはいかない。

再び、「標的家族」について

2010-02-14 | 演劇
 雑誌「世界」3月号に同志社大学大学院教授の浜矩子氏が「死に至るデフレ」という論考を寄せている。その一部を引用する。

 「経済環境が厳しくなればなるほど、あらゆるレベルで我が身かわいさが先行する。もとより、いずれも止むを得ざる自己防衛反応だ。個別的にみれば、しごく当然の選択である。だが、誰もがその道を選んでしまえば、どうしてもお互いにお互いの首を絞めることになっていく。自分さえよければ病に人々が集団感染した時、結局は、そこに勝者なしである。自分さえよければ病にかかったもの同士が、こうして不毛な闘いを繰り広げる。」
 「誰も、決して我欲に走って自分のことだけを考えているわけではない。止むなき自己防衛行動がお互いを追い込んで行く。この流れを逆転させることが、どうすれば出来るか。」
 「(これらの病のいずれも)元をたどれば、発生源は一つだ。それは地球経済を覆う大きくて本質的な不均衡問題だ。」

 上記の文章は、リーマンショック後の地球経済の健康状態を診断した結果の症状に関する分析なのだが、これを「標的家族」の登場人物たちに当てはめて考えても驚くほどぴったりと当てはまることに気がつくだろう。
 この悪循環を断ち切り、流れを逆転させるために、私たちはどう考え、どう行動しなければならないのか。
 そうした問題のあり様を提示し、考えさせるのが演劇という芸術の力であり、その表現を生み出すための基盤となるのが「劇団」であると言えるのではないか。

 さて、「標的家族」の「劇場」(Space早稲田)で配布されたパンフレットに芸術監督:流山児祥氏のあいさつが載っている。気にかかった箇所を引用する。

 「2010年に入って日本の文化行政のあり方が大きく変わろうとしています。舞台芸術を取り巻く状況がドラスティックに、それも気になる方向に変化する(「公共」という名の大政翼賛会的意思が見え隠れする)いやな気配です。「劇団:ヒト」から公共=「劇場:ハコ」へ! とならないように演劇人は今こそ、発言・行動すべき時代である。コンクリートからヒトへ!」

 これは、日本芸能実演家団体協議会が昨年3月に発表した劇場法(仮称)の提言をはじめとする一連の動きを示しているのだろうと思われる。
 これについては2009年11月28日付の日本経済新聞に詳しく報じられていた。
 いわく、専門家が参加して地域の芸術、教育活動を活性化することをうたったもので、これ自体に異を唱えるものはいないだろう。
 ただ、劇場法の推進者の一人で、内閣官房参与となった劇作家:平田オリザ氏の次の発言を聞くと、若干の懸念がないとは言えないのだ。
 「創造する劇場と鑑賞する劇場をきちんと分けたい。30から50の拠点劇場で舞台を作る。それを鑑賞のための劇場に回す。拠点劇場は観光にも役立つ」
 11月25日の文化芸術推進フォーラムには鈴木文部科学副大臣も出席し、介護や医療など対人コミュニケーションに付加価値をつける産業が雇用を生むとの見方を示し、「劇場法はコミュニケーション教育と車の両輪」と語ったという。

 もちろん新聞報道は発言のごく一部でしかないし、真意を十全に伝えているとも思えない。鈴木副大臣の発言は政府=行政の立場からむべなるかなと思わないでもないのだが、それでも平田氏の話にはおいおい本当かよという危惧が拭えない。
 劇場の仕分けを一体誰が行うのか。それは公共劇場を中心に据えたものなのか、中小の民間劇場は対象から外れてしまうのか。創造する劇場には誰がどれだけの予算を配分し、その演目は誰が決定するのか。このことは舞台芸術の世界に意図せざる不均衡をもたらすのではないか・・・。

 劇作家である内閣官房参与が首相の演説に関与し、国民にその声をより的確に伝えようと努めることについては、むしろ私は評価する考えだった。
 しかし、「表現」の領域が政治に接近し、それを積極的に利用する・あるいは利用されるかも知れない懸念のある動きについてはより慎重に疑いをもって対処すべきだろう。
 「表現」はあくまで《個》を基盤としたものであり、一つの方向に一斉に大同団結するような時代の潮流には常に疑問符をつきつけるものでなければならないと思うからだ。

標的家族

2010-02-13 | 演劇
 10日、Space早稲田にて「標的家族」を観た。
 作:佃典彦、演出:小林七緒、音楽:諏訪創、美術:小林岳郎、芸術監督:流山児祥、制作:流山児事務所。
 社団法人日本劇団協議会が主催する次世代を担う演劇人育成公演である。

 現代においてイジメの標的となった「家族」とそれを取り巻く状況をシニカルな視点で描いた好作品だ。
 小林七緒の演出は、Space早稲田という天井の低い限られた空間をうまく使い、他者=外部=社会から理由も意味もなく圧迫される人間の心理を乾いた視点で抉り出す。
 決して感傷に堕することなく、悲惨を通り越してもう笑うしかないという滑稽味すら醸し出しながら、イジメられる側、イジメる側、それを傍観する側の三者をそれぞれ等間隔に見つめる演出家の眼差しは冷静でいながらも温かさを感じさせる。観終わって、絶望的状況の中にもそれとなく希望を感じるのはそのためだろう。

 今回の育成対象者は俳優の小暮拓矢と音楽、美術の3人なのだが、この集団において、次世代の演出家もまた着実に育っていると感じさせられた。

 さて、現代のイジメを格差社会がもたらした人間関係のヒズミと言ってしまうのは簡単だが、問題はそれが社会のあらゆる層に降り積もる塵となってどのように腑分けしようとも排除できない病根となっていることだ。
 その根本を絶ち、治療するのはすでに不可能であるようにさえ思えてしまう。
 最近の子どもの自殺にはある種ゲーム感覚に似たところがあり、負けが決まった途端にリセットするようなものだという意見を聞いたことがある。リセットすることでやり直せると考えるのはゲーム感覚としても、その手段が自殺でしかないというのはやはりやりきれない。
 
 本作の登場人物たちもまたイジメの標的という状況をゲーム感覚のものとして受容しているように思われる。
 どうせ逃れようのない状況であるのなら、いっそゲームとしてででも受け容れるしかないという絶望である。
 演劇の効用は、そうした状況を俯瞰しながら、イジメられる者の痴れものめいた無表情、イジメる側に立った者のことさらに賢しらな表情、傍観する者の残忍さといった三者の顔を具体的に描き出すことだ。
 そのうえで絶望的な状況を笑い飛ばし、それでも明日はあるということを信じさせる力が演劇という表現には備わっているのだと思う。これはあまりに楽観=ナイーブに過ぎる感覚だろうか。

 この舞台を観ながら、私は安部公房の一連の家族の物語や別役実の初期作品の味わいを感じていたが、そうした先行作品へのオマージュが本作には秘められているのだろうか。

 安部公房は「明日のない希望よりも、絶望の明日を」と書いた。
 リセットするのはゲームや芝居の世界でシミュレーションすればよいことだ。
 とにかく明日のあることを演劇=表現=アートを通して伝えたい。考えたい。
 いま切実にそう思う。

山本周五郎を読むこと

2010-02-12 | 読書
 久しくまとまった読書から遠ざかっていたので最近はなにかというと近所の書店に入り浸ってそのたびに本を買い漁ってくる。それはよいのだが時間のやり繰りがずぼらな私はそれらの本を読み終わらないうちに新しい本が次々と机に積み上げられる態でため息ばかりつく破目になる。

 そうした新刊本を尻目にこの何日か読みふけったのが山本周五郎の短編小説だ。書棚の奥で紙の色が茶色く変色したような昔読んだ文庫本なのだが、大いに癒された。
 私が読んだのは黒澤明監督作品「椿三十郎」の原作でもある「日日平安」を表題作とする短編集で「しじみ河岸」「ほたる放生」「末っ子」「屏風はたたまれた」「橋の下」「若き日の摂津守」「失蝶記」などいずれも心にしみ込んでくる名品ばかりだ。
 山本周五郎の文章はなぜこんなにも心に響くのか。半世紀も前のそれも時代小説なのになぜその文体や手法がこんなにも新しく感じるのか。
 開高健はわが国の小説家で真にハードボイルドの文体を持っているのは山本周五郎だと言っていた。
 山本自身は海外小説をよく読んだようだし、理屈をこねる批評家は毛嫌いしたそうだが、若手の作家では大江健三郎や山口瞳を認めていた。
 そう思いながら改めてその小説を読み返すと、山本の文体にはヘミングウェイの短編小説や大江健三郎の初期の小説の文体と通じるものがあるようにも感じられる。
 「樅ノ木は残った」の冒頭の緊迫したシーンの積み重ねなど、ハードボイルドのお手本と言ってよいほどだろう。

 今回、私が初めて読んだのは「失蝶記」だ。事故で聴力を失った青年武士が、裏切った仲間の罠にかかって親友を切ってしまう悲劇で、その青年自身の語りと友人の許婚者の女性に宛てた書簡によって成り立っている。
 物語の背景に、奥羽同盟の中にあって仙台藩の圧力を感じながら王政復古派と佐幕派に二分した幕末の小藩という事情があり、先日私が関わった芝居の舞台とも重なって余計に興味深く感じられた。
 折に触れ、生きる力を与えてくれるその小説は汲めども尽きない魅力に満ちている。

次の初日

2010-02-09 | 日記
 私の舞台を観にきてくれた知人のお母様が逝去され、そのお通夜に参列するため関越道を通ってI市まで行くことになった。帰り、練馬インターから目白通りを経て環七に入ったのだが、その辺りでなぜか急に胸がいっぱいになってしまった。
 なんのことはない、その付近は先月の舞台で共演したH君やSちゃんと稽古帰りによく車で通った場所なのだった。あの楽しかった日々を思い出して懐かしくなったという訳だ。
 いい年をしてセンチメンタルになったのは恥ずかしい限りだが、毎度のことながら、一つの舞台を創るために四六時中ずっと一緒だった仲間が、公演の終了とともにピタッと会わなくなるというのは実に不思議なものである。

 そんなことを考えていたら、当のSちゃんをはじめ、この間の舞台に出ていた女優たち3人が今週から新しく始まる公演にそろって出演するという案内が舞い込んだ。
 千秋楽からその初日までは10日ほどしかない、皆の稽古スケジュールは一体どうなっているのか、などと考えるのも莫迦らしいほど彼らのそのバイタリティは爽快である。過ぎた時間を懐かしんで胸をいっぱいにするなどというのはおそらく老人の仕事なのだろう。
 私も次の里程標をめがけて歩きださなければいけない時期なのだと肝に銘じよう。
 多分、私の次の初日は舞台の上ではないのかも知れないけれど・・・。

 別の話を書いておく。世の中はせまいというよくある話だ。
 特に芝居の世界はとりわけ狭いから、誰それが誰それの知りあいなんてことはしょっちゅうである。
 それにしても、今回、共演したSちゃんが、私の30年来の友人夫妻のそのまた友人の娘さんだったのは驚きだった。
 そんなことはまったく知らず、楽屋では私のヘアメイクをSちゃんにお願いしていて、よもやま話に彼女のお母さんが歌舞伎界でも活躍されている胡弓や箏の奏者であるといった話を伺いながら、友人との関係には気づきもしなかった。
 千秋楽の打ち上げで最終電車に間に合うよう急ぎ先に帰る私に「今度、この演奏会に出ます」といってもらったチラシを帰りの電車の中で開いてみて、ようやくその演奏会の主宰が友人だと気づいたのだった。
 その友人夫妻は二人ともアングラ時代の同じ劇団で、ともに私と共演した仲だった。

 慌ててSちゃんには携帯電話で話をした。翌日には友人夫妻とも話をしたのだが、Sちゃんのお母様は私も出席した友人の結婚式で箏の演奏をされていたらしい。お互いの子どもの年齢が近いので家族でのお付き合いも深いとのこと。そんな話を聞いていたら、急にSちゃんが親戚のうちの子どものように思えてきてしまった。

 あるプロジェクトのためにたまたま集まった俳優である私と彼女だが、その舞台を創るまでに長い長い時間をかけてそれぞれの時代を通り抜けてようやく出会った、それも気づきもせずに、なんてことが妙な実感とともに感得されるようで得難い感慨にひととき浸ったものだった。

 こんなプロセスも含めておそらくは「演劇」なのだといってよいのだろう。多分。

感想

2010-02-04 | 演劇
 私がお付き合いさせていただいているM先生から舞台の感想を頂戴した。
私の演技に対する評価は身贔屓の過大なものとしても、全体を語るうえでことさら私があれこれ話すよりも芝居の本質を捉えているように思うので紹介させていただくことにする。
 先生には了解を得ていないのだけれど、お許しいただけるものと思う。
 以下、引用。

 鄙見ですが、この劇で流野さんの家老腹心役は、ホンの展開に応じて、主役にもなり、脇役にもなり、解説者にもなる難しいキーパースン、作者佐藤伸之さんの苦心の人物造型で、流野さんの才知と演技力に頼ってセリフをつくり、本読みや立稽古、ゲネプロ各段階で、流野さんと話し合いを続け、セリフ回しや仕草など細かく打ち合わせて役づくりを高め深めていたのではないかと存じます。殺し確認の合図手についてお尋ねしましたのはその思いからです。

 当時庄内藩は会津と並んで官軍の標的化し刻々情勢変化する危機状況のなかで、家老腹心は、戦上手の猛将酒井主水(現実には酒井玄蕃がモデル?)の出先砦突出の危険性や厄介者化する元新選組二人の存在、跳ね上がろうとする玄武隊士衆、それを廻る民衆の気分の総体を正確に把握し、藩にとって何が状況的に最善かを考え抜く。作者演出家はその複雑な性格を描き、孤独にして苦悩し時に冷徹な智謀者の存在を造型し、劇の要所要所で独り舞台演技をさせた。そのこと自体、佐藤さんの鋭い才覚であるし、役のうえでそれを実現した流野さんの演技力共々高く評価致します。

 流野さんの腹心役は、声が良く通り、或る時は緊迫感を盛り上げ、或る時はゆっくりと冷厳なセリフ回しで、家老への進言、部下への指示と恫喝、人間としてのモノローグ、観客への政治状況の説明と、四つの局面を見事に表現しました。動きの少ない役柄でセリフが命の難役でしたが、実にドラマティックでユニークな存在感を表出しました。佐藤さんは立ち回り役、主水之介の動きの激しさと対比して、「動」の主役と「静」の主役と好一対となり、ドラマの立体感を盛りたてました。

 劇の発端で、原田左之助は、日露戦争前線に出兵、大陸で馬賊になったとの設定は、巷間に実しやかの噂から、敗者義経のジンギスカン伝説の小型バリアントとも思えました。謡曲「安宅」・歌舞伎狂言「勧進帳」での義経、弁慶、冨樫左衛門のトライアングル・ドラマが、日本海岸を北上し変形しながら、幕末庄内藩日和見砦で再発したかのごとく想像できました。酒井主水之介が弁慶役、左之助が義経役、全てを判っている冨樫は家老腹心の役、如何に義経を咎めず逃がすのか、そのようなアナロジー劇として読みとれ、娯楽劇ながら大人の観る重厚な伝統劇の深みが出ていました。史実的には原田と永倉は、京都から脱出、東北路を一時同行していましたが、この劇では永倉の個性と役回りの表現が曖昧で、食事の場面などは長すぎた嫌いがあり、中だるみになったと思えます。永倉は強すぎる剣士であり、追われる長旅の惶惑を漂わせながら、明日はどこで勢力を再興するのか、焦燥感がもっと強く表現されてもいいと思いました。それが加わると、左之助像にももっと陰翳深い存在感が出たのではと思えます。

 舞台の場面転換は実にテンポ良く、座長のホンづくりの妙、この劇団芝居の得意の技のようです。プロローグ、日露戦争戦場の場面、エピローグで留守妻まさの幻を追うセリフ顛末は好い。殺陣はイマイチでしたが、概して女優陣には着物の舞台栄えがあり声が通っておりました。役割人数の少ない劇団キャスト、スタッフの皆さん、投入時間はままならずとも、芝居好きな心情熱く創意工夫努力に溢れ、可なりの場面で劇的興趣がひしひしと伝わり、観劇後の充実感を得ました。


千秋楽

2010-02-04 | 演劇
 私が客演した劇団パラノイアエイジの睦月公演「幕末異聞 夢想敗軍記」が1月31日に千秋楽を迎えた。
 この間の経緯についてまめに記録しておけばそれなりの読み物になったとは思うのだけれど、生来のものぐさから結局正月以来この日記から遠ざかってしまった。(それだけ芝居のために使える時間はすべて注ぎ込んだということなのだ)
 11月22日の顔合わせから足掛け3か月、1年の6分の1以上をともに過ごした「仲間たち」とは深い絆が生まれたように思う。楽しい日々であった。
 残念だったのは、楽日の翌日に午前中から会議が設定されていたため、深夜からの打ち上げにほんの少ししか顔を出せなかったことか。もっともっと語り合いたいことがあったという悔いが残る。

 とはいえ、最初の頃はほとんど自分の子ども世代といってよい若いメンバーとどう接したらいいのか手探りの状態でもあった。もっともそんなことは日常生活のなかでいくらでも経験することだ。会社だろうが、商店街だろうが、あらゆる組織は多種多様な人の集合体だ。それをいかに機能させていくかというのは、あらゆる社会の普遍的課題だろう。演劇の効用はそうした課題にどう向き合うかというシミュレーションにもなり得るということだ。
 そしてその課題を劇団主宰で演出の佐藤氏は見事にクリアした。オーディション参加の大半の役者が殺陣にも和服の着付けにも所作にも素人同然であったのをそれなりの見え方に仕立てていくある種強引ともいえる力業には目を瞠らされる。
 結果、この舞台を観た人は幸運、見損なった人には「ザンネンでしたネ」と胸を張っていえる作品になったのではないだろうか。

 もっともこの芝居は私が普段接することの多い斬新なスタイルのアート作品でもなければ、社会的課題を浮き彫りにするような芸術作品でもない。あくまで娯楽活劇であることを謳った時代劇なのだが、そこには日本人の心性に根底から訴えかけるような何かがある。
 このことについてはいつかちゃんと考察してみたいと思うのだが、掛け値なしに終演後、号泣しながら帰っていったお客様が何人もいたし、多くの観客が涙をこらえたことだろう。
 私も出番の終わった楽屋のモニターで舞台の様子を見ながら、毎回胸を熱くしたものだ。こんな経験は初めてである。私の30年来の友人も開口一番「新撰組ってやっぱりいいよねえ」と叫んでいたが、こうしたことは日本人論を考えるうえで興味深い視点を与えてくれているような気がする。
 いつか機会があればちゃんと考えてみたいものだ。