seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

今そこにあるもの

2011-04-09 | 雑感
 「盛岡では、大きな書店が最近まで営業を休止していて、演劇やコンサートは数カ月先まで中止です。それに対し、誰一人不満の声をあげないのがショックでした。文化に携わってきた者として、芸術の役割って何だろうと突き付けられた感じです。平和で、心にゆとりのあるときの暇つぶしにすぎないのかと…」と、ある新聞のインタビュー記事で盛岡在住の作家・高橋克彦氏が語っている。

 3・11後、あらゆる人々の活動や考え方に大きな楔が打ち込まれたようだ。
 それは人々を否応なく行動に駆り立て、あるいは立ちすくませ、身動きすら叶わないものとする。
 それを前提とせずには何も語れなくなったのだ。
 それに対して、どのようなふるまいや行動をなすべきなのか、誰もが苦悩しつつ模索している。
 7日夜半の大きな余震がまたもや大きな不安と被害をもたらしたように、まぎれもなく震災は進行中であり、インフラの復旧すらままならない状態が続いている。そうした中での自身の生き様を私たちは問われているのだ。
 飢えた子どもの前で文学は有効か?という例の問いが胸に逼る。私に答えはない。
 いま目の前で直接的な助けを必要とする人を前に、アートは、演劇は、何を与えられるのか……。
 この場合、与える、という言葉自体が不遜な気がしてならない。これは設問が間違っているのだろう。

 先月末の3日間、池袋駅周辺の何箇所かで行われた地域団体の人々による被災者支援のための義捐金の募金活動に携わった。こう書くこと自体、何やらアリバイづくりのようで自己嫌悪に陥るけれど、予想外に多くの若い人たちが募金に協力してくれたことに救われたような気がする。
 一人ひとりが、どんなに小さな行動でもよい、自分のできることを、自分の仕事をとおして、少しずつ前に推し進めることが大切なのだ、と思う。
 何かをしなければいけない、何かをしたい、という気持ちが重要なのだ。
 その気持ち、自らを突き動かすものに従って行動するなら、それは表現になり、あらゆる営為は、アートと呼ばれることになるのだろう。