seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

書棚を抜け出した資本論

2009-02-28 | 演劇
 《フェスティバル/トーキョー09春》のオープニング作品である、ドイツのアートプロジェクト・ユニット、リミニ・プロトコルによる「カール・マルクス:資本論、第一巻」を「にしすがも創造舎」で観た。
 作品紹介の詳細はフェスティバル/トーキョーのホームページに載っているので省略するとして、ここでは感想だけを簡単に書いておくことにする。

 リミニ・プロトコルの「ムネモ・パーク」を昨年の《東京国際芸術祭2008》で初めて観て、その素晴らしさに驚いたものだが、今回もその卓抜な視点、作品コンセプトと独特のユーモアのまぶし方に魅了されてしまった。
 リミニ・プロトコルの作品の特長は、何と言ってもプロの俳優が出演していないことで、舞台上で演じるのは、その作品のテーマに関して特別な知識や経験を持っている一般の人たちなのである。
 「ムネモ・パーク」では、鉄道模型マニアの老人たちが、舞台全面に設えた巨大なジオラマの間を走る鉄道模型について嬉々として説明し、自分の人生を語り、歌い、踊る。小型カメラや映像技術を駆使しながらスイスの山中を走る列車を老人たちとともに追ううちに、観客は出演者たちの人生をともに振り返りながら、まるで世界全体をも俯瞰して見ているような不思議な感覚に捉われる。私には、その老人たちが空の高みから人間世界を見下ろす天使たちのようにも思えたものだった。
 
 今回の「カール・マルクス:資本論、第一巻」は、文字どおり資本論というテキストそのものがテーマとなった舞台である。
 開演20分前の客入れとともに、客席に入った私たちは、舞台正面全体に造り込まれた巨大な書棚に鎮座して観客を見下ろす登場人物たちにまず驚かされる。この舞台美術を見た瞬間に私たちはその世界に引き込まれてしまうのだ。
 舞台上の人々は、元大学教授や経済史家、大学院生、経営コンサルタント、あるいは歴史家、映画作家、翻訳家、通訳、革命家、元ギャンブラーなどなど、いずれもその実人生においてマルクスの資本論と関わりのあった人たちである。
 その一人ひとりの人生や思想が、時代時代の出来事や映像、音楽とともに語られていくのだが、そのコラージュや編集のセンスがなんとも言えず魅力的だ。
 途中、書棚から引き出された文庫本サイズで3分冊の資本論が次々と観客全員に手渡される。出演者の指示によって、ページを繰り、マークされた箇所を読み解くという作業が観客に課せられる。
 現在の世界的な経済状況を予見したような言葉もあって客席からは「おー!」という感嘆の声も上がるが、いつの間にか、劇場全体が資本論というテキストに包み込まれてしまったような錯覚に捉われた瞬間でもあった。
 
 「新しいリアルへ」というのがフェスティバル全体を貫くコンセプトであるが、プロの俳優ではない人々が現実のこととして語る歴史や人生を通して、この舞台は、異なる視点から見つめ直した世界=新たな現実感を私たちに提示する。
 おそらくこの舞台を見たすべての人がそれぞれの感想を持つだろう。そうしてテキストは世界へと増殖していくのである。

 追記すると、今回のこの舞台では何人かの日本人が登場する。リミニ・プロトコルはフェスティバル参加にあたって日本バージョンを創ったということなのだろうが、そうした創造という作業がこのフェスティバルに組み込まれていることが本当に素晴らしい。
 スタッフの努力に敬意を表したい。

挑発する建築家

2009-02-26 | 読書
 「建築家 安藤忠雄」は勇気づけられる本だ。 
 私はこの本を2冊買った。1冊は自分のため、もう1冊は私が心の底から応援しているある人へのプレゼントとして。
 タイトルどおり建築家の安藤忠雄による自伝であるが、凡百のビジネス本や自己啓発本より何倍も心に沁みる。

  人を育て、組織を動かすとはどういうことか
  独りで学ぶとはどういうことか
  建築とは何か、アートとは何か
  ものを創るとは、挑戦するとはどういうことか

 これらについて、この本は読む者を挑発し、鼓舞し、力を与えてくれる。

 「彫刻家や画家といったアーティストと、建築家との違いは何か。
 その一つは、建築家は活動のための組織を持たなければならないという点だ。
 仕事の規模が大きくなり、手がける数も増えてくると、能力的にも社会的にも、ある程度の組織力がないと立ちゆかなくなってしまう。
 しかし、組織は肥大化する。建築家個人が組織に飲み込まれるようになっては、その建築家は終わりだ。」

 アーティストの中には、劇団や映画のように組織も資金もなければ成り立たない分野で活動する人もある。そうした人にとっては、その表現にとって必要なあるべき組織の規模やマネジメントは重要な要素である。
 その組織を力として駆使するか、呑み込まれてしまうのか、最後に残るのは表現者として独り立つという覚悟なのかも知れない。

 恐怖感で教育するとも言われる安藤忠雄だが、人を育てることについては独特の優しい視点を持っているようにも思える。

 「われわれは、一人の指揮官と、その命に従う兵隊からなる「軍隊」ではない。共通の理想をかかげ、信念と責務を持った個人が、我が身を賭して生きる「ゲリラ」の集まりである。
 自分で状況を判断し、道筋を定め、試行錯誤しながら前に進んでいく、一人ひとりが責任を果たす覚悟をもてる、そんな力強い個の集まりでありたい。」
「人の真似をするな! 新しいことをやれ! すべてのものから自由であれ!」

 この本の表参道ヒルズのプロジェクトや直島の地中美術館建設の項を読みながら、その仕事に関わった人々が、安藤忠雄を中心として、妥協によって調和するのではなく、挑戦しながら共生する道を模索し続け、さらなる高みへと向かおうとする姿勢に深く感動させられる。

 建築は竣工までに何年もの月日を要し、出来上がってからも、そこに住まい、生活し、行き来する人々の記憶や時間を塗りこめながら、ゆっくりと完成に向かう「作品」なのだということを改めて考えさせられる。
 かたや「演劇」は「保存」できないと言われ、私もそう言ってきたが、そうではないのだ。
 それを観た人や作品づくりに関わった人々の記憶に刻まれることでその作品は生き続け、それぞれの人生に深く根付きながらゆっくりとエンディングに向かう。
 一人ひとりの想像力によって、作品は世界中に満ち溢れ、増幅されていくのだ。
 そんな作品に出会うことができたら、どんなに幸せだろう。

寄り添うチェーホフ

2009-02-22 | 読書
 この数年、何度も何度も折りにふれて読み返しているのがチェーホフの短編小説「中二階のある家」である。
 それはたいていの場合、気力が弱った時だったり、忙しすぎて物を考える暇もないと泣き言を口にしたり、あるいはむかし愛したある人のことを思い出しては何も手につかないという時に何気なく手にするのだけれど、そんな自分にそっと寄り添って囁きかけてくれるような気のする作品なのだ。
 小説の最後、遠く離れてしまったひとのことを思い出しながら、こうして思い続けていると向こうでも自分を思い出してくれ、いつかきっと会えるのではないかという独白が胸を打つ。
 
 100年前の小説がこんなにも身近に感じられるのは何故なのか。
 郵便はもちろん、電話やメールなど、通信手段の飛躍的に発達した現代にいながら、この「相手を思いやる」という気持ちは100年前も今も変わりはない。
 いや、千年前の源氏物語の頃からだって変わりはないし、逆に言えば、小説を書くという行為の動機も手法も昔から少しも変わっていないのに違いないのだろう。

 原文を読めない私は翻訳に頼るしかないのだけれど、いま、おそらく4種類ぐらいは手にすることのできる本のなかで一番しっくりくるのは原卓也の訳かなあ。
 以下、引用して満足することにしよう。

 わたしはそろそろ、中二階のある家のことを忘れかけているが、ごくたまに、絵を描いている時や本を読んでいる時など、ふと、あの窓に映った緑色の灯とか、恋する身であったわたしが、家にかえって行きながら、寒さに手をすり合わせた、あの夜ふけの野にひびき渡ったわたしの足音などを、何とはなしに思いだすことがある。それ以上に時たまのことではあるが、孤独が胸をかみ、淋しくてならぬ時など、おぼろげに思い返しているうちに、なぜか次第に、向こうでもわたしを思い出し、待っていてくれ、そのうちにまた会えるに違いない、という気がしてくることさえある……。
 ミシュス、君は今どこにいるのだ?

ゴッホが夢見た共同体

2009-02-19 | 雑感
 さて、前稿で「協同労働の協同組合」について紹介しながら私が考えたかったのは、役者をはじめ、アーティストや芸術を志す人たちの「働く場」ということである。
 無論、めざす表現の領域で「食える」ことができればそれにこしたことはないのだ。しかし、現実においてその割合は1%に過ぎないといわれる厳しい状況のなか、何とか表現活動と日々の生活をともに成り立たせる方法はないのだろうかと思い悩むのである。

 私は単純な人間だから、クラシック音楽の演奏者をめざす若者が、例えば音楽酒場のような場で酔客を相手に楽器を演奏したり、歌を唄ったりして糊口を凌ぐことに何ら拘りを持ってはいない。
 これに対し、今年75歳になる指揮者宇宿允人の言葉は私の浅慮をえぐって胸を衝く。
 以下、昨年11月の毎日新聞のインタビュー記事から一部引用。

 そば屋で働いている演奏家がいる。バーでバイオリンを弾いている女の子もいる。「おい、ねえちゃん弾いてみな」。酔客に言われ、だんだん惨めになって、才能のある子がやめていく。自分の音楽を安売りしちゃいけない。「君たち、楽な仕事しちゃだめだ。駅のトイレ掃除とかビル掃除をやれ。帰ってから手を洗い、オーボエ吹いたり、ホルン磨いたりするんだ」
 切ないですね。
 「切ないですよ」
(中略)拍手喝采が鳴りやまない客席に孤高の指揮者は語りかけた。「年金もらってぬくぬくしているなら死んだ方がいい。倒れるまで、死ぬまで、私は闘います。どうかこのオーケストラを育ててください」

 いつだったか、私は芸術家コロニーならぬ役者やアーティストたちによる協同労働体を秘かに構想したことがある。
 商業的に成功した劇団やテレビや映像で稼ぐことのできるタレントを多数抱える劇団は別にして、多くの場合、公演活動で黒字を出して「食える」のはまだまだ希少な例といってよいだろう。
 たとえば、そんな3つほどの食えない劇団、あるいは個々の役者が集まって協同体をつくるのだ。それぞれの集団は公演時期をずらし、1つの劇団が公演中は他の2つの劇団が仕事を請け負って収益をあげ、公演中の彼らのために生活費を稼ぐという、支え合いの仕組みである。
 役者をはじめ、劇団の人間はいわば職人集団でもある。大工仕事はもちろん、電気、塗装、家具修理、運送、清掃、植木の剪定、印刷デザイン、ペットの世話、話し相手、本や新聞の読み聞かせ、ヨガのインストラクター、マッサージ師などなど、ありとあらゆることに対応することができる。
 いま、地域社会が疲弊し、人と人とのつながりが希薄化しているなかで、営利を優先する企業体では対応できない地域ニーズに応えるコミュニティビジネスの芽はそれこそ数え切れないくらいにあるのではないか。
 アーティストとしてではなく、アルチザンとして地域社会に貢献しつつ、表現者としての道を生きる。そんな生き方は果たして絵空事に過ぎないのだろうか・・・。
 
 アルル時代の画家ゴッホは「黄色い家」を拠点として芸術家コロニーをつくろうと夢見ていた。
 その構想による共同体がどれほど現実的なものだったかは分からないが、ゴッホとゴーギャンの二人の共同生活は、強烈な個性と自我のぶつかり合いが焼けつくような心理の葛藤となって、例のあまりに有名な「耳切り事件」を惹き起こす。

 労働と芸術は決して折り合うことのできない永遠のテーマなのかも知れない。ゴッホはこの問題をどう考えていたのだろうか。まさか、パトロンたる弟テオへの依存を当然視していたわけではないと思うのだが。
 それゆえの焦燥や煩悶があの傑作群を生んだとも考えられるけれど、この問題への決着がつかない限り、アーティストによる「協同組合」も挑戦し甲斐のあるテーマではありながら、彼方にある夢に過ぎないのかも知れない。

協同労働という働き方

2009-02-19 | 雑感
 アルル時代の画家ゴッホは孤独のなかで仲間たちとの共同体をつくることを熱望していた。「黄色い家」を拠点として芸術家たちが集まり、共同生活をしながら創作に没頭できる場をつくろうとしたのだ。

 そんなことを思い出しながら、働く場をつくる、ということについて考えた。

 「協同労働の協同組合」という考え方を知ったのはつい最近のことだ。ひょんなことから、この「協同労働の協同組合」法制化市民会議の勉強会に参加する機会があったのだ。
 何のことかと思われるかも知れないが、簡単にいえば「みんなが労働者で、みんなで出資してみんなで経営する仕組み」のことである。
 過日、日本経済新聞のコラムでも紹介されていたが、介護、子育てなどをはじめとする様々な分野で、すでにこの「協同労働の協同組合」の理念のもと、3万人を超える人々が働いているとのことである。
 ただし、今は法的根拠がなく、法人格が持てないために自治体が行う請負契約の競争入札に参加できないなど、活動が大きく制限されている。
 そのため、NPO法人等の形をとって活動している組合が多いのだが、NPOはその性格上収益金を配当できないといった制約がある。
 そうした制約を打破するためにも「協同労働」の法制化が必要とされ、その実現を目指す活動が活発化しているのである。国会議員のなかにも多数の賛同者がいて、超党派での議員連盟も作られているという。坂口力元厚生労働大臣を会長とし、与野党を問わずそれぞれの代表が副会長を務めるという布陣である。
 すでに法案も出来上がりつつあると言われているが、一部保守系議員の中に慎重論があることや現下のねじれた国会情勢においてこれからどうなるのか、先行きは不透明である。

 今の労働法規が労使関係を前提にしているように、私たちは職を求める「求職」や「就職」という考え方にとらわれがちだ。そうした働き方ではなく、仕事をつくり、職を担う「創職」「担職」が必要になってきたというのが、この法制化を進める市民会議会長で前連合会長の笹森清氏の考えである。
 協同労働の可能性は地域の活性化にもつながる第一次産業において大きい。また、限界集落化している地域でも、協同労働なら働く場をつくれる、と言うのだ。

 雇用情勢が悪化の一途をたどり、雇用と求職のミスマッチが問題となっている今だからこそ、「雇い・雇われる」という働き方ではない「協同労働の協同組合」の法制化が求められていると言えるのではないだろうか。

パラダイス一座を観る

2009-02-16 | 演劇
 下北沢本多劇場でパラダイス一座最終公演「続々オールド・バンチ~カルメン戦場に帰る」を観た。(作・山元清多、演出・流山児祥、音楽・林光、美術・妹尾河童)
 演劇界の最長老・92歳の戌井市郎を筆頭に、瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太、岩淵達治(映像出演)、ふじたあさや、二瓶鮫一など、出演人の平均年齢が80歳にもなろうという、まさに後期高齢者軍団が、捨て身の傾(かぶ)き方で歌い、踊り、芝居する楽しくも痛切かつ痛烈な祝祭の場を創り上げた。

 確かにその表現は脂の乗り切った「時代の花」には程遠いかも知れないが、老いたるがゆえの「時分の花」「真の花」が舞台には見える。それは美しい花である。
 そして何より伝わるのだ。彼らの息遣いが。気持ちが。

 このパラダイス一座を企画し、演出した流山児祥は、「いつまでも演劇の原点である《運動》=出会いにこそこだわりたい」と書いているが、まさにそれぞれ活動のジャンルを超えて出会った表現者たちがその生き様を曝しながら演劇という「解放区」を現出させる場に立ち会うということは私たち観客にとっても一つの「事件」であるのに違いない。

 私は遅れてきたアングラ世代の俳優であり、ある種の固定観念に縛られて物事をよく見ようとしなかったという反省があるのだが、アングラが一種の《運動》である以上、そこには運動体相互のぶつかり合いや出会いがあったはずで、反作用もあれば融合や同調もあったであろうし、化学反応も拒否反応もあったのである。
 アングラであろうが、アンチ新劇であろうが、新劇そのものであろうが構わないが、そうした運動の中で様々な交流が行われ醸成されたものが時代を創っていったはずなのである。私はその点を見落としていたのではないか。
 パラダイス一座の舞台を観て、私はそのことを学び直さなければならないと思った。

 流山児祥が取り組もうとしているのは、そうした《運動》を意図的に引き起こす仕掛けであり、万人に伝えようとする熱いメッセージであり、ダイナミズムなのだ。
 60歳を超えたわが師匠、《運動》する流山児祥からいま目が離せない。

8×8の宇宙を泳ぐ

2009-02-16 | 読書
 小川洋子著「猫を抱いて象と泳ぐ」を読む。昨年の夏、雑誌「文學界」に3か月にわたって連載されていた頃から単行本になるのを待ちかねていた作品である。
 「博士の愛した数式」でとてつもない感動をもたらしてくれた作者が、今度はチェスを題材に選んだのはさすがに慧眼というしかないが、思えばチェスはこれまでも多くの映画や小説を彩るものとして様々に扱われてきているのである。
 ルイス・キャロルの諸作品はもとより、エドガ―・アラン・ポー、ボルヘス、ナボコフの小説群をすぐに思い浮かべることができるが、映画ではサタジット・レイの「チェスをする人」、監督名は忘れたけれど「ボビー・フィッシャーを探して」はチェスそのものが主人公のような映画だった。
 何年か前にリメークされた映画「探偵(スルース)」でもチェスのシーンがあったような気がするし、私立探偵フィリップ・マーローにとってチェスはなくてはならない心の友だ。最近のテレビドラマでは水谷豊演じる「相棒」の杉下右京が推理の合間にチェスの駒を動かしている。
 このようにチェスは絵になりやすいのだろう。あの駒それぞれの造形は本当に見飽きることがない。私も東急ハンズに立ち寄るたびにチェスのコーナーに並んだ数々の駒を眺めてはいつもうっとりしてしまう。

 かたや将棋はどうか。まず思い浮かぶのは映画や舞台劇にもなった坂田三吉の「王将」であるが、すぐに村田英雄の歌声が聞こえて来そうでいささか湿度が高すぎる。もちろん、わが国の推理小説には将棋をテーマにしたものもあるのだが、チェスほどには広汎に愛されていないように感じるのは私の偏見か。
 私が一番好きなのは寺山修司の映画「田園に死す」のワンシーン、青森県の田んぼのただ中で、主人公が記憶の中の自分である少年と将棋を指しながら会話を交わすところである。
 そういえば、寺山修司は普通のチェスのようにキングを詰めるのではなく、クイーンを詰める、すなわち人妻を奪うと勝ちになるというチェスを考案している。
 そんなチェスがあったら私も指してみたいと思うけれど、そのゲームではクイーンを守るためにキングは犠牲になるのだから、終盤、双方のキングが死んでしまった場合、相手の人妻を寝取るのはクイーンということになる。話がややこしくなるのではないだろうかなどといらぬことを考えてしまう。

 さて、「猫を抱いて象と泳ぐ」だが、美しい寓話のような小説である。11歳の身体のまま成長することをやめ、チェス人形「リトル・アリョーヒン」の中に身を潜めて詩のような棋譜を残し、盤上の詩人と評された実在のグランドマスター、アレクサンドル・アリョーヒンにちなみ、「盤下の詩人」と呼ばれるようになった少年の話である。
 具体的な地名も人名も出てこない抽象性の高い作品だから、読後の感動も結晶の純度が高くなる。それを詩的な傑作と評価するか、物足りないと感じるか、どう捉えるかは読む人それぞれの個性であり、特権でもあるだろう。

おくるひと おくられるひと

2009-02-09 | 映画
 映画「おくりびと」を観た。監督:滝田洋二郎、脚本:小山薫堂。ご存知のとおり、米アカデミー賞外国語映画賞ノミネートということで映画館は賑わっていたが、昨年9月の公開作品を今頃になって観るのは申し訳ない気もする。
 でも、映画は完成してからもこうして作品は残り、一人歩きして成長しさえする。「保存」のできない演劇と引き比べていつも羨ましいと感じてしまうのだが、昨今の日本映画の健闘は喜ばしい限りだ。
 それにしても、「死」という人間の根源に関わるテーマを扱いながら、ユーモアと普遍性、娯楽性を持たせつつ高い水準を獲得しているこの作品は本当に素晴らしい。

 オーケストラに所属していたチェリストの主人公が、突然楽団が解散になったのを機に実家のある山形に帰り、ひょんなことから納棺師になる。それを妻に言い出せずにいたところがある日妻の知るところとなり葛藤が生まれる。
 この妻役は、ともすれば埋もれてしまいかねない役どころだけに、難しかったのではないかと思うのだが、広末涼子はその存在感をよく出していた。本人はもちろん監督の成果だろう。
 ただ、映画の設定上仕方のないこととはいえ、納棺師という仕事を人に言えないような仕事、けがらわしい仕事として強調しすぎているのはやや違和感が残る。そうしないと確かに劇としての葛藤も生まれないのだけれど。

 映画の本筋とはまるで関係のない感想なのだが、余貴美子と吉行和子は世代が異なるけれど、キャラというか柄がよく似ているなあと改めて思った。どちらも好きな女優さんなので余計そう感じるのかも知れないが、そう思ってみると顔も声もよく似ているのだ。
 山努はやはり伊丹十三監督の「お葬式」を思い出す。厚みのある演技で映画のリアリティを支えていた。

 公開中ゆえ、未見の人にネタバレしないように気をつけなければいけないが、この映画は、「いしぶみ」という自分の気持ちに似た形の石を相手におくるという風習が重要なモチーフになっている。
 「おくりびと」は「おくられびと」でもあるのだ。主人公は死者の尊厳を最大に保ちながら儀礼を尽くして見送りつつ、大切なものを次の世代に伝えようとする。
 私ごとになるが、主人公とその父親の関係は私自身の経験と重なっていて身につまされた。ある事情から私は父親の死を看取ることができない立場だったので、なおさらなのだが、この映画を観て癒されたし、救われたような気がする。
 誰もがそんなふうに自分の人生と重ね合わせて観ることのできる佳品である。

遮那王と弁慶

2009-02-08 | 演劇
 パラノイアエイジの公演「義経記異聞―遮那王と弁慶」を観た。すでに先月末のことであるが記録しておきたい。何せ、私はこの集団の座友に名を連ねているのだ。すでに舞台裏に隠棲して何年も経った身ではあるのだけれど・・・。
 作品は司馬遼太郎の原作「義経」を佐藤伸之が脚色・演出、義経は女だったという設定で物語を再構築し、美しい舞台を作り上げた。新宿モリエールにて1月28日から2月1日まで上演。

 思えば「勧進帳」である。面白くないわけがない。義経と弁慶をめぐる物語には日本人の心を熱くする要素がごった煮のように詰め込まれている。
 「勧進帳」は歌舞伎十八番の人気投票でも常にトップを争う人気演目である。
 今回の舞台でも、勧進帳読み上げ、富樫との山伏問答、義経と弁慶の主従の絆など、見所は外さずに盛り込まれている。
 古典には珍しいともいえる心理描写の見せ所が満載の作品でもあるのだが、佐藤氏の演出はそうした心理の掘り下げに拘泥しない。むしろ、一筆書きのようなスピード感で場面を次から次へと展開する。

 以前は、こうした演出手法について、場の掘り下げや劇の掘り下げが足りないのではないかと不満に思わないでもなかった。しかし今回は違った感想を持った、というか気がついたのだ。下手な心理描写などと現代的視点に囚われない、歴史的時間軸を駆け抜けるドラマトゥルギーの中にこそ美はひそんでいる。
 パラノイアエイジの舞台はあたかも絵巻物を繰り広げるように展開し、歴史のなかに「疾走する悲しみ」を表現することで、私たち観客の心を震わせるのだ。私は観客として、途中3回は涙に胸を熱くした。
 もう一つの美質は殺陣のシーンに顕われる。佐藤氏はあんなにまん丸な身体で舞踊のような美しさで殺陣を操り、集団を統率する。これは特筆すべき才能なのだ。狭い舞台に兵士たちが入り乱れるなか、長刀を華麗にふるう弁慶の舞は必見である。
 コアな劇団員と若い客演陣の演技力の差が目立つほどに集団の力は際立って感じるが、舞台は総合力で評価される。この落差はアンバランスでもある。これからの大きな課題だろう。
 北条政子を演じた秋葉千鶴子さんは静謐な深みと凄みをもった悪女という新境地を見せた。思わず彼女と一緒にマクベスを演じたいと感じたほどである。

 さて、今回の眼目は義経が女である、ということなのだが、そのことの意味については十全に表現しきれていないようにも感じた。
 弁慶の遮那王への純粋な愛情は、別に彼女が「彼」であったとしても同様に描かれたであろう、と思うのだ。この主従の関係はそうしたものだからだ。
 佐藤氏は倫理性の高い演出家だから性愛を想起させる描写は極力排除しているが、例の疑いを晴らすために金剛杖で遮那王を打ち据える有名なシーンなど、ほとんど私の妄想だけれど、相当に淫靡な被虐と加虐、愛憎のねじれた美の極致と映る。
 純粋なだけでなく、一筋縄ではいかない愛の表現があの場には潜んでいたはずなのだ。
 また、女であればこそ、兄頼朝との関係も違って見えたはずだし、政子が彼女に抱く感情もまた嫉妬という衣をまとい、異なる展開を見せたかも知れないとも思う。

 この設定にはそんな深層心理をくすぐる仕掛けがあるように感じるのだが、そんな妄想もケレンも振り払い、物語は劇的時間をひたすらに疾駆する。

日本の文化システム

2009-02-06 | 文化政策
 2月4日、東京芸術劇場中ホールで行われた国際シンポジウム「今日の文化を再考する―米国・フランス・日本の文化システムを巡って」を聴講した。今月末から開催されるフェスティバル/トーキョーのプレ・オープニング企画である。
 このたび「超大国アメリカの文化力」(岩波書店)の邦訳が刊行されたばかりの仏の社会学者フレデリック・マルテル氏と元仏文科相ジャック・ラング氏を招き、詩人・作家の辻井喬氏と劇作家・演出家の平田オリザ氏がパネリストとして参加、外岡秀俊氏が進行、根本長兵衛氏がコーディネーター役を務めた。

 この手のパネルディスカッションではどうしても日本側は旗色がよろしくない。そもそも日本に文化システムなんてあったの?なんて疑問も出てくるほどで、他国の事情を拝聴しながら溜め息を漏らすというのがいつものパターンである。
 平田氏も「このシンポジウムのタイトルはおかしい。米国・フランスの文化システムとシステムレスの日本を巡って、ではないか」と悔し紛れの軽口を放っていた。
 ディスカッションの肝は他国の文化システムは果たして移管できるのか、ということだろう。文化は否応なく他国や異文化の影響を受けながら発展するという性質を持つ。これに対してシステムは、歴史や地域性に根付いたものでなければ発展しない。
 結局、いくらうらやましいと思っても、米国やフランスのシステムをそのまま真似たのでは日本には馴染まないということになる。
 しかし、後進国日本の有利な点は、他国の成功例や失敗例を見てそれを批判的に取り入れることができるということなのである。まだまだ、諦めるには及ばないだろう。

 会場には平日の昼間というのに、熱心な聴衆がいっぱいに詰め掛けていた。その様子を見ながら根本氏が「これだけ文化に関心のある人々がいるのに、政治状況が一向に変わらないのは何故なのか」と問題提起していた。
 政治にはもう期待できないとの声は確かにある。しかし、文化芸術への寄付税制にしろ、教育システムにしろ、最終的には政治に拠らなければ変えることはできない領域である。
 期待するしかないではないか。
 そうした政治状況を変える力を私たちが持てるのかどうかということが、問われているのかも知れないのである。


創造的都市

2009-02-04 | 文化政策
 1月30日、縁あって文化庁長官表彰(文化芸術創造都市部門)記念シンポジウム「創造性をはぐくむ都市へ」を聴講した。会場は国立新美術館講堂。
 この表彰制度は、近年、文化芸術の持つ創造性を活かした産業振興や都市再生の取り組みが、諸外国をはじめ、わが国においても大きな成果を上げていることに鑑み、そうした地方自治体の取り組みを推進するために平成19年度から創設されたもの。
 シンポジウムは、文化芸術の持つ創造性に着目した都市のあり方について討論を行うとともに、アジアをはじめとした国内外の諸都市間での交流・連携の可能性を探るというものである。

 青木保長官のコーディネートのもと建築家の安藤忠雄氏をはじめ、劇作家・演出家の平田オリザ氏、わが国で最初に「創造都市」論を提唱したと言われる大阪市立大学大学院教授の佐々木雅幸氏、「にしすがも創造舎」で活動するNPO法人アートネットワーク・ジャパンの蓮池代表、現代美術家で東北芸術工科大学副学長の宮島達男氏らがパネル・ディスカッションを行った。
 創造都市論やその事例についてはこれまですでに著作を読んだり見聞きしていることが多いので新味はなかったのだが、パネリストは誰もが手馴れた語り手で聴いている者を厭きさせない。
 興味深かったのは、アメリカのオバマ大統領が、人々の創造性を高める教育に文化芸術を活用するなど、環境と文化を重視した政策を積極的に展開しようとしていると紹介されたことである。
 そのオバマ政権がモデルとしているのが英国で、アーツカウンシルの主導のもと芸術家等を学校に派遣し、子どもたちの創造的な能力を養うだけでなく、学校のカリキュラムや教育のあり方そのものをクリエイティブなものに変革することで、生徒たちのコミュニケーション能力や学習態度が向上したと言われている。
 翻ってわが国では「ゆとり教育」責任論が喧しく、学校への芸術家の派遣などとんでもないという風潮であり、事の本質や戦略を欠いた教育論がまかりとおっていると思えなくもない。
 平田氏が教鞭をとる大学の医学部では演劇が必修になっているという話も面白かったが、宮島氏は芸術家を育成する大学では、学生のうち1%の天才が生まれれば大成功で、残る99%は結局芸術家にはなれないという話題で問題提起した。
 毎年多くの美術大学、音楽大学から卒業生が輩出されるが、そうした人材はどのように活動しているのだろう。そうした数多くの専門的な芸術教育を受けた人々をうまく活用することが創造都市には求められているのではないか。
 今、雇用のミスマッチが話題となっている。多くの失業者が職を求めている一方、介護をはじめとする福祉現場では恒常的な人手不足にあえいでいる。
 無駄な公共工事に多額の財源を投入するのではなく、福祉に投資する方がはるかに波及効果が大きいと昔から論じられている事なのに一向にそうならないのは何故なのか。
 創造都市論的には文化政策にこそ投資して、芸術家を雇用あるいは活用すべきなのだろうが、さてさて、そこで気になるのが、アートや芸術はそもそも何かのためにあるのではなく、芸術そのものが目的の筈ではないかという議論である。
 たしかに最近の文化政策のパラダイムの拡大論は、芸術の領域をこれまでになく大きな視野で捉えようとしている。
 そうすることで資金調達の理由付けがしやすくなるという面もあるだろうし、自治体は税を負担する市民への説得がしやすくなる。
 しかし、そこで何か大事なものが失われるなら本末転倒という意見は正論であろう。肯かざるを得ない。行政の謳い文句に「文化による賑わいの創出」などと書いてあるのを見るとたしかにぞっとしてしまうけれど、実はいま私の考えはアート領域拡大論に傾きつつある。
 要はアーティストの目的意識が他領域との接触やコラボレーションとも合致している限り、それはまさしくアートなのだと言えるのではないか。
 相当に言葉足らずであることは十分に自覚しつつ、そう思うのだ。これについてはまた別の機会に考えてみたい。