《フェスティバル/トーキョー09春》のオープニング作品である、ドイツのアートプロジェクト・ユニット、リミニ・プロトコルによる「カール・マルクス:資本論、第一巻」を「にしすがも創造舎」で観た。
作品紹介の詳細はフェスティバル/トーキョーのホームページに載っているので省略するとして、ここでは感想だけを簡単に書いておくことにする。
リミニ・プロトコルの「ムネモ・パーク」を昨年の《東京国際芸術祭2008》で初めて観て、その素晴らしさに驚いたものだが、今回もその卓抜な視点、作品コンセプトと独特のユーモアのまぶし方に魅了されてしまった。
リミニ・プロトコルの作品の特長は、何と言ってもプロの俳優が出演していないことで、舞台上で演じるのは、その作品のテーマに関して特別な知識や経験を持っている一般の人たちなのである。
「ムネモ・パーク」では、鉄道模型マニアの老人たちが、舞台全面に設えた巨大なジオラマの間を走る鉄道模型について嬉々として説明し、自分の人生を語り、歌い、踊る。小型カメラや映像技術を駆使しながらスイスの山中を走る列車を老人たちとともに追ううちに、観客は出演者たちの人生をともに振り返りながら、まるで世界全体をも俯瞰して見ているような不思議な感覚に捉われる。私には、その老人たちが空の高みから人間世界を見下ろす天使たちのようにも思えたものだった。
今回の「カール・マルクス:資本論、第一巻」は、文字どおり資本論というテキストそのものがテーマとなった舞台である。
開演20分前の客入れとともに、客席に入った私たちは、舞台正面全体に造り込まれた巨大な書棚に鎮座して観客を見下ろす登場人物たちにまず驚かされる。この舞台美術を見た瞬間に私たちはその世界に引き込まれてしまうのだ。
舞台上の人々は、元大学教授や経済史家、大学院生、経営コンサルタント、あるいは歴史家、映画作家、翻訳家、通訳、革命家、元ギャンブラーなどなど、いずれもその実人生においてマルクスの資本論と関わりのあった人たちである。
その一人ひとりの人生や思想が、時代時代の出来事や映像、音楽とともに語られていくのだが、そのコラージュや編集のセンスがなんとも言えず魅力的だ。
途中、書棚から引き出された文庫本サイズで3分冊の資本論が次々と観客全員に手渡される。出演者の指示によって、ページを繰り、マークされた箇所を読み解くという作業が観客に課せられる。
現在の世界的な経済状況を予見したような言葉もあって客席からは「おー!」という感嘆の声も上がるが、いつの間にか、劇場全体が資本論というテキストに包み込まれてしまったような錯覚に捉われた瞬間でもあった。
「新しいリアルへ」というのがフェスティバル全体を貫くコンセプトであるが、プロの俳優ではない人々が現実のこととして語る歴史や人生を通して、この舞台は、異なる視点から見つめ直した世界=新たな現実感を私たちに提示する。
おそらくこの舞台を見たすべての人がそれぞれの感想を持つだろう。そうしてテキストは世界へと増殖していくのである。
追記すると、今回のこの舞台では何人かの日本人が登場する。リミニ・プロトコルはフェスティバル参加にあたって日本バージョンを創ったということなのだろうが、そうした創造という作業がこのフェスティバルに組み込まれていることが本当に素晴らしい。
スタッフの努力に敬意を表したい。
作品紹介の詳細はフェスティバル/トーキョーのホームページに載っているので省略するとして、ここでは感想だけを簡単に書いておくことにする。
リミニ・プロトコルの「ムネモ・パーク」を昨年の《東京国際芸術祭2008》で初めて観て、その素晴らしさに驚いたものだが、今回もその卓抜な視点、作品コンセプトと独特のユーモアのまぶし方に魅了されてしまった。
リミニ・プロトコルの作品の特長は、何と言ってもプロの俳優が出演していないことで、舞台上で演じるのは、その作品のテーマに関して特別な知識や経験を持っている一般の人たちなのである。
「ムネモ・パーク」では、鉄道模型マニアの老人たちが、舞台全面に設えた巨大なジオラマの間を走る鉄道模型について嬉々として説明し、自分の人生を語り、歌い、踊る。小型カメラや映像技術を駆使しながらスイスの山中を走る列車を老人たちとともに追ううちに、観客は出演者たちの人生をともに振り返りながら、まるで世界全体をも俯瞰して見ているような不思議な感覚に捉われる。私には、その老人たちが空の高みから人間世界を見下ろす天使たちのようにも思えたものだった。
今回の「カール・マルクス:資本論、第一巻」は、文字どおり資本論というテキストそのものがテーマとなった舞台である。
開演20分前の客入れとともに、客席に入った私たちは、舞台正面全体に造り込まれた巨大な書棚に鎮座して観客を見下ろす登場人物たちにまず驚かされる。この舞台美術を見た瞬間に私たちはその世界に引き込まれてしまうのだ。
舞台上の人々は、元大学教授や経済史家、大学院生、経営コンサルタント、あるいは歴史家、映画作家、翻訳家、通訳、革命家、元ギャンブラーなどなど、いずれもその実人生においてマルクスの資本論と関わりのあった人たちである。
その一人ひとりの人生や思想が、時代時代の出来事や映像、音楽とともに語られていくのだが、そのコラージュや編集のセンスがなんとも言えず魅力的だ。
途中、書棚から引き出された文庫本サイズで3分冊の資本論が次々と観客全員に手渡される。出演者の指示によって、ページを繰り、マークされた箇所を読み解くという作業が観客に課せられる。
現在の世界的な経済状況を予見したような言葉もあって客席からは「おー!」という感嘆の声も上がるが、いつの間にか、劇場全体が資本論というテキストに包み込まれてしまったような錯覚に捉われた瞬間でもあった。
「新しいリアルへ」というのがフェスティバル全体を貫くコンセプトであるが、プロの俳優ではない人々が現実のこととして語る歴史や人生を通して、この舞台は、異なる視点から見つめ直した世界=新たな現実感を私たちに提示する。
おそらくこの舞台を見たすべての人がそれぞれの感想を持つだろう。そうしてテキストは世界へと増殖していくのである。
追記すると、今回のこの舞台では何人かの日本人が登場する。リミニ・プロトコルはフェスティバル参加にあたって日本バージョンを創ったということなのだろうが、そうした創造という作業がこのフェスティバルに組み込まれていることが本当に素晴らしい。
スタッフの努力に敬意を表したい。