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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

変わらないもの

2017-01-10 | 舞台芸術
 今年の成人は平成8年生まれだそうだから、その前年に発生した阪神淡路大震災の記憶はまったくない世代ということになる。同じく前年に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件もリアルタイムでは知らないわけで、隔世の感というよりは、もうそんな時間が過ぎたのかという感慨がある。
 加えて言えば、今年の成人はいわゆるガラケーを知らない最初の世代なのだとか。災害時緊急通報のために、公衆電話の使い方を教えなくては、なんていう議論があるくらいだから、この世代間ギャップには驚嘆するしかない。

 私が関わっている「池袋演劇祭」は、平成元年にその第1回が開催され、昨年、第28回目を迎えた。
 「池袋演劇祭」は、その前年の1988年(昭和!である)に池袋を中心に開催された「第1回東京国際演劇祭」がきっかけとなって、「“池袋”と“演劇”のイメージの結びつきを強固」にして「演劇の街・池袋」を定着させようと企画されたものだった。
 それはそれとして、この間、四半世紀という歳月を経るなかで、社会の動向は大きく変化した。平成元年当時は、まだパソコンも携帯電話も世の中には出回っておらず、オフィスではようやくワードプロセッサーが有用な事務機器として活用され始めていた時代である。
 舞台やテレビドラマに小道具として登場する通信手段もアナログな電話器や公衆電話が当たり前で、そうした連絡手段の不自由さが、すれ違いや行き違いといったドラマを生む要素ともなっていた。

 それからほぼ30年。情報技術の進展はめざましく、今やSNSの活用によって、誰もが世界中の人とつながる時代となった。アニメやゲームを題材とした演劇やミュージカルが数多く上演されるようになり、劇場においてもコンピューター技術を駆使した演出が見られるようになった。
 いずれは、人工知能によって書かれた戯曲をロボットの俳優が演じるなどという時代が到来するのかも知れない。

 その一方、生身の俳優が観客の目の前で同じ空間を共有しながら演じるという、「演劇」が本来的に持っているシンプルな魅力や醍醐味は、いつの時代であろうと不変のものではないかとも思える。
 フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「広場のまんなかに花で飾った一本の杭を立てなさい、そこに民衆を集めなさい、そうすれば楽しいことが見られるのです」(「演劇について―ダランベールへの手紙―」今野一雄訳、岩波文庫)という言葉を残しているそうだが、思えば、まさに能楽も歌舞伎もそのように「広場」の中で民衆によって観られ、その嗜好や批評に磨かれることで発展してきたのである。

 科学や情報技術の発展が人々の生活や世界観に変化をもたらしたとしても、人間が本来的に持つ芸術への情動や欲求には不変のものがあるに違いない。
 そう信じながら、優れた俳優、演出家と観客の共同作業によって生まれる素晴らしい舞台の出現を年頭の夢として書いておくことにする。