seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

アナザー・ストーリーズを見ながら考えた

2021-02-23 | 舞台芸術
 先日、テレビ番組の話を書いたついでにもう一つ書いておきたいのが、2月17日(水)にNHKのBSプレミアムの「アナザー・ストーリーズ 運命の分岐点」で放映された「越境する紅テント~唐十郎の大冒険」で、とても面白く見た。
 唐十郎率いる状況劇場の発足時から1970年代後半までの軌跡を関係者の証言や映像資料を交えて紹介するとともに、故・十八代目中村勘三郎が19歳の時に初めて見た紅テントの舞台に衝撃を受け、後年、仮設の芝居小屋である平成中村座での歌舞伎上演に挑む姿を描いた部分で構成され、実に見応えがあった。

 この番組で取り上げられた出来事や事件の多くは従前からの唐十郎ファンにはすでに周知のことばかりだろうし、唐や状況劇場に関する著作物の中でも詳しく書かれたものがあるのだが、それをテレビならではの切り口で、関係者の証言や当時のニュース、若いころの唐自身がテレビ番組に出演してインタビューに答える様子、さらには実際の舞台映像や写真を駆使しながら立体的に描き出す手法が新鮮であったと感じる。
 とりわけ3部構成のうちの二つ目の視点「越境する紅テント」で取り上げた、1972年の軍政下の韓国での「二都物語」上演に至る経緯とこれを支援した詩人・劇作家金芝河と唐の出会いと友情、さらには翌73年のバングラデシュでの「ベンガルの虎」の上演、74年のパレスチナ難民キャンプでの「唐版 風の又三郎」の上演は、アジアの周縁を経巡るテント芝居のありようを描いて圧巻だった。そればかりか、45年以上も前のパレスチナでのその芝居を実際に見たという現地の人を探し出してインタビューするなど、番組独自の取材には大きな拍手を送りたい。

 この番組を見て改めて考えたのは、当時の写真を含む映像資料の発掘と保存の必要性であり、戯曲の原稿や創作ノート、演出ノート、舞台美術・音響・照明プラン、さらには広報宣伝に関する資料、俳優一人ひとりの演技プラン等に関する資料など、演劇公演に関わるあらゆる資料をアーカイブ化し、保存・研究することの重要性についてであった。
 他ジャンルの芸術である小説や詩などでは、作家の生原稿や創作メモ・ノートなどから、作品が完成するまでのプロセスや作家の思索の変遷を研究するといった批評の方法があるけれども、こと演劇批評に関してはまだまだ未成熟の感が拭えないのだ。アーカイブの保存とともに、それらを活用した批評の方法がもっと深掘りされてよいのではないかと思うのだが、どうだろう。
 別の観点では、この数年、昔の唐作品が若い世代の演劇人によって再上演される機会が多くなっているのだが、そうした《再上演》は、まさに作品の読み直し、読み替えであり、再解釈という批評行為にほかならない。そうした際に、アーカイブの存在は有効に機能するに違いないのである。

 さて、これはまた別のテレビ番組だが、2019年11月にの放映されたNHK Eテレの「SWITCHインタビュー」で俳優・ダンサーの森山未來氏が広告クリエイターの菅野薫氏と対談していたのだが、その中で森山氏が作品アーカイブスの大切さを強調していたように記憶している。
 例えば、一つのダンス作品を創る過程で、複数のダンサーの共同作業やインプロビゼーションによって様々なアイデアやシーンが生まれるが、作品が形を成し、上演されるまでにその大半が取捨選択され、消えてしまうことになる。それはあまりにもったいないことであり、後々のためにも作品創造の全体を記録しておくことが大切である、というのがその時の森山氏の発言であったと思う。
 当時、森山氏は暗黒舞踏の祖・土方巽の弟子が書き残した舞踏譜に基づく作品の再現に取り組んでおり、ことさらその必要性を感じていたのかも知れない。作品を過去の伝説の中に閉じ込めておくのではなく、現在形のものとして解き放ち、再解釈しながら再創造(リクリエイション)することの重要性を彼は訴えていた。
 森山氏は自身のカンパニーのサイトで、作品創りの過程を記録した映像や写真、言語としてのブログ等を公開しているが、それ自体がまた一つの作品になっているのだと感じる。
 
 あらゆる舞台芸術作品をアーカイブ化するという取り組みは、唐十郎と紅テントがアジアの周縁を旅した半世紀前とは比べものにならない程に映像技術や複製技術、SNS等の発達した今だからこそ可能なのではないだろうか。
 現在、こうした舞台芸術作品のデジタルアーカイブ化や有料配信の取り組みは、すでに早稲田大学演劇博物館などが中心となって進められているようだが、今後、法的な課題をクリアしつつ、公共、民間を問わず国内外の劇場が連携して、上演された作品のアーカイブ化を進め、共有の財産として活用することが出来るようになれば、それは素晴らしいことだと思う。


変わらないもの

2017-01-10 | 舞台芸術
 今年の成人は平成8年生まれだそうだから、その前年に発生した阪神淡路大震災の記憶はまったくない世代ということになる。同じく前年に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件もリアルタイムでは知らないわけで、隔世の感というよりは、もうそんな時間が過ぎたのかという感慨がある。
 加えて言えば、今年の成人はいわゆるガラケーを知らない最初の世代なのだとか。災害時緊急通報のために、公衆電話の使い方を教えなくては、なんていう議論があるくらいだから、この世代間ギャップには驚嘆するしかない。

 私が関わっている「池袋演劇祭」は、平成元年にその第1回が開催され、昨年、第28回目を迎えた。
 「池袋演劇祭」は、その前年の1988年(昭和!である)に池袋を中心に開催された「第1回東京国際演劇祭」がきっかけとなって、「“池袋”と“演劇”のイメージの結びつきを強固」にして「演劇の街・池袋」を定着させようと企画されたものだった。
 それはそれとして、この間、四半世紀という歳月を経るなかで、社会の動向は大きく変化した。平成元年当時は、まだパソコンも携帯電話も世の中には出回っておらず、オフィスではようやくワードプロセッサーが有用な事務機器として活用され始めていた時代である。
 舞台やテレビドラマに小道具として登場する通信手段もアナログな電話器や公衆電話が当たり前で、そうした連絡手段の不自由さが、すれ違いや行き違いといったドラマを生む要素ともなっていた。

 それからほぼ30年。情報技術の進展はめざましく、今やSNSの活用によって、誰もが世界中の人とつながる時代となった。アニメやゲームを題材とした演劇やミュージカルが数多く上演されるようになり、劇場においてもコンピューター技術を駆使した演出が見られるようになった。
 いずれは、人工知能によって書かれた戯曲をロボットの俳優が演じるなどという時代が到来するのかも知れない。

 その一方、生身の俳優が観客の目の前で同じ空間を共有しながら演じるという、「演劇」が本来的に持っているシンプルな魅力や醍醐味は、いつの時代であろうと不変のものではないかとも思える。
 フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「広場のまんなかに花で飾った一本の杭を立てなさい、そこに民衆を集めなさい、そうすれば楽しいことが見られるのです」(「演劇について―ダランベールへの手紙―」今野一雄訳、岩波文庫)という言葉を残しているそうだが、思えば、まさに能楽も歌舞伎もそのように「広場」の中で民衆によって観られ、その嗜好や批評に磨かれることで発展してきたのである。

 科学や情報技術の発展が人々の生活や世界観に変化をもたらしたとしても、人間が本来的に持つ芸術への情動や欲求には不変のものがあるに違いない。
 そう信じながら、優れた俳優、演出家と観客の共同作業によって生まれる素晴らしい舞台の出現を年頭の夢として書いておくことにする。

春の便り

2015-11-13 | 舞台芸術
 11月11日、現代美術家の杉本博司が作・構成・演出・出演する『春の便り ~能「巣鴨塚」より~』を観た。(於:あうるすぽっと)
 シンプルな能舞台にシテ方と囃子方が座する中、舞台を挟んで対峙する2人の朗読者(杉本博司・余貴美子)から発せられる言霊が朗々と響き渡る…。

 会場で配布された公演概要から引用すると、杉本博司は自身の書き下ろし作品として、修羅能『巣鴨塚』を『新潮』2013年1月号に発表、その後、将来的な能公演の実現のために、その制作途上の一連の創作活動を「巣鴨塚プロジェクト」と位置付け、現在さまざまな取り組みを進行しているとのこと。今回の公演は、その一環として、テキストのリーディング公演を行うというものである。

 修羅能『巣鴨塚』は、極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯であった板垣征四郎が、巣鴨プリズン収監中に自叙を吟じた漢詩を元にしており、2014年12月23日未明(刑が執行されたと思しき同日時に)、杉本博司は、故人への慰霊として、自らの作品の朗読を実際の刑死場跡(東池袋中央公園)で行った。
 劇場「あうるすぽっと」は、その刑死場跡にその後の日本の繁栄の象徴のように建設されたサンシャインシティから程近く、この場所で公演を行うということそのものにそれなりの意味が込められているだろう。
 冒頭、舞台上のスクリーンに東京裁判の記録映像や未明に行われた朗読の様子が映し出されたのち、観客はいつしか能空間のしじまへと誘われる。
 敗戦70年の節目の年、杉本博司による「開戦の詔勅」「終戦の詔勅」の全文朗読、余貴美子による板垣征四郎の自叙吟などを通して、観客は亡くなった者たちの修羅の心根に耳を傾けるのだ。

 なぜ『巣鴨塚』なのか、なぜ板垣征四郎なのか。
 語りえぬことには沈黙せざるを得ないが、あまりにも大きな悲劇、生々しい歴史、今なお論争を呼ぶ出来事から70年の時を経て、そこだけ黒々とした能舞台の空間に目には見えない物語の立ち上がるのを観客は目撃する…。

身体の声

2014-10-10 | 舞台芸術
 もう2週間も前になる。先月26日のこと、ご案内をいただいて「2014時代を創る現代舞踊公演」(渋谷区文化総合センター大和田さくらホール)を観に行った。文化庁の新進芸術家育成事業に位置付けられ、24日から3日間にわたって何組もの踊りが繰り広げられるというもの。私が観に行ったこの日は、7組の演目が展開されて、ある種のショーケースのようだった。
 ところで私は舞踊については全くの門外漢なので現代舞踊の何たるかを言葉にすることができない。
 たとえばモダンダンスとモダンバレエ、コンテンポラリーダンスの違いをきちんと定義づけよと言われると口ごもってしまう。
 そう考えると、世の中にはきちんと定義づけないままに語られる物事のいかに多いことか、と改めて思うのである。
 この日の演目を観る私には、踊り手たちのその技量のほどを図る術はなく、批評する言葉も持たないのだが、素人なりにその良し悪しを勝手に云々するのは他の観客と同じことだ。むしろ素人の方が辛辣なことを言いかねない。

 評論家の渡辺保氏はその著書「日本の舞踊」(岩波新書)の中で、何年も前のある日のこと、昼間、歌舞伎座で中村歌右衛門60歳の「京鹿子娘道成寺」の千秋楽の舞台を見、その夜、新宿厚生年金ホールでモーリス・ベジャールの「われらのファウスト」を見た時、その踊り手たち紡ぎだす舞踊の一連の動きの中から、声とも言えない声のようなものが聞こえたと感じた、その経験から、「舞踊の定義は、私にとって、あの身体の声を聞くことに他ならなかった。舞踊を見るたのしみとは、あの身体の声を聞く楽しみであった。」と言っている。
 もう少し引用しておこう。
 「…人間は、言葉以外の言葉をしゃべる動物なのである。人間の身体は、言葉よりも豊かな声なき声をもっていて、言葉とはまったく違う、もう一つの世界を空間に刻むことができる。身体が空間にむかって開かれたとき、全く別な世界があらわれる。そこで語られる世界が、『身体の声』と私がいうものである。」
 「…少なくとも舞踊が身体の声であるという点から見れば、私には、日本の舞踊はむろんバレエもモダンダンスも前衛舞踊も、舞踊というものはたった一つ、身体の声の聞こえてくるものであって、そのかぎりにおいて世界の領域が確定する。」

 「身体の声」は果たしてどこから生じるものなのだろう。
 素人なりに考えれば、それは踊り手の身体がある「形状」を示し、そこから異なる形状、異相へと移行する、その一連の動作の連なりの「間」にひそんでいるものと言えるのではないか。
 俳優の発する台詞が、1音、1音がつながって言葉となり、それが連なることで意味を帯びるように、またさらには、ピアニストの指先がピアノの鍵盤を叩き、そこから発せられる1音、1音が連なることではじめて美しい音楽が生み出されるように。
 無論そこには稚拙な台詞回ししかできない俳優や、聞くに堪えない騒音を奏でるピアノ奏者がいるように、ただのぎくしゃくとした体操としか見えないダンサーもいることだろう。
 だが、本当に「身体の声」が聞こえるためには単なる舞踊技術の巧拙を超えた何か……、秘密があると渡辺保氏は言っているようだ。
 「…どんなしなやかな身体も、それが声を上げ、身体の声を語らないかぎり石のように堅く見える。その石であることを知らずに踊りつづけている舞踊家がいかに多いことか。」

 この日、はたして私は「身体の声」を聞いただろうか。
 それは言わぬが花としておくが、記憶に残る、楽しむことのできた作品のあったことは記録しておきたい。

 

DAH-DAH-SKO-DAH-DAH

2012-12-11 | 舞台芸術
 先月23日、舞踊公演「DAH-DAH-SKO-DAH-DAH」を観たことを忘れないようにメモしておきたい。
 演出・振付・美術・照明・出演:勅使川原三郎、主催:フェスティバル/トーキョー、KARAS、会場:東京芸術劇場プレイハウス。F/T12の最後を飾る演目である。

 会場で配られたパンフレットに収載の桂真菜氏(舞踊・演劇評論家)の文章「小さな身体から無限の宇宙へ~宮澤賢治の鼓動を、勅使川原三郎が伝える!」がこの舞台の意義や可能性を過不足なく伝えて素晴らしい。
 これを読みながら、様々なことを思い出したり、気づかされたりしたのだが、本作は今から21年前、1991年に発表された作品を再創造したものだ。
 宮澤賢治の心象スケッチ「原体剣舞連」をモティーフに作られた作品は、91年、湘南台文化センター市民シアターで初演、国内外で上演を重ねた。
 私は同年の東京グローブ座での公演を観たのだったが、ダンス・グループKARASのほか、特別出演した岩手県江刺で実際に「原体剣舞」を継承する12歳の少年の姿が強く印象に残っている。
 桂真菜氏の文章によれば、この少年が出演したのは東京グローブ座だけだったとのことだから、私がその舞台を観ることができたのはまさに僥倖としか言えないのだが、そのイメージの断片はその後の私自身の思考や心のありようを象るものとなっている。
 あの頃の私はまだ若く、当時まだ少年だった彼はいま、当時の私の年齢に近い年頃となっているはずだ……。

 そう言いながら、すっかり忘れているシーンもあって、そういえばあの時にはジャズサックス奏者の梅津和時も出演していて、その奏でる強烈な音と勅使川原のダンスが異相の空間を創り上げていたのだったが、そのことはいつの間にか記憶からすっぽりと抜け落ちていた。
 そのことを今回の舞台を観ることで思い出したのだが、同時に、グローブ座の舞台の少し前に、西荻窪の小さなライブハウスで汗みどろになりながら梅津和時のサックスを初めて生で聞いて感動したことも合わせて思い出した。
 その当時、鬱々としてつらかった様々な出来事や人との別れといったこともまた。

 勅使川原は(以前創作した)その中に行きつづけているものを生き返らせ、新たな生命を作品に与えたかった、と書いているが、その意味において本作は単なる再演やリメイクではない、まさにリ・クリエイトされた舞台である。
 それは、「蒸し返したり誤魔化したり気取り屋の逃げ場所にな」ることと最も遠い挑戦なのだ。
 舞台上の勅使川原のダンスは21年前のそれを上回る強度と鋭さを加えてさらに新たな地平を切り開く。21年前にはいなかった佐東利穂子ほかのダンサーたちの魅力ある動きもまた私には得難いものとして記憶にしっかりと刻みこまれた。

天鼓/蝸牛/紅葉狩

2011-09-19 | 舞台芸術
 8日、サンシャイン劇場で観た「としま能の会」のことを記録しておこう。
 いつもながらの解説役は、能楽評論家で横浜能楽堂館長の山崎有一郎氏。御歳99歳とのことであるが、かくしゃくとしていらっしゃるのは能という芸術の賜物だろうか。
 能組は、宝生流舞囃子「天鼓」、和泉流狂言「蝸牛」、観世流能「紅葉狩―鬼揃」の3本である。私のような初心者にも分かりやすい、視覚的にも楽しめる演目である。

 「天鼓」は、古代中国の話。帝の命に背いて鼓を隠した少年は、その罪を咎められ、呂水に沈められる。その鼓は父親にしか音を出せない。子を思う父性愛に帝は哀れを催し、少年を回向する。舞囃子は、能の後半、水上にその少年の霊が現れ、愛器の鼓に戯れ、初秋の夜を楽しく舞う・・・・・・。
 シテ(天鼓):水上輝和。

 「蝸牛」は、蝸牛(かたつむり)を食べると長生きをするという言い伝えに基づく話。主人の祖父のために太郎冠者が蝸牛を探しに行く。蝸牛を見たこともない太郎冠者は、藪の中で寝ている山伏を蝸牛と思い込むところから、この狂言は意外な方向に転じていく・・・・・・。
 シテ(山伏):野村萬、アド(主):野村扇丞、小アド(太郎冠者):野村万蔵。

 「紅葉狩―鬼揃」は、信濃国戸隠山の秋の夕暮、貴女達が紅葉狩の宴を開いている側を、鹿狩りの平維茂と従者が通りかかるところから始まる。女達の酒宴を不審に思い名を尋ねるが答えないので、維茂は彼女らの興をそがぬように通り過ぎようとする。女達はその心遣いに感じ、彼を引きとめ酒宴の席へと誘う。維茂も杯を重ね、睡魔におそわれる。女達はそれを見て鬼の本性をあらわし、山中に姿を消す。そこへ八幡宮末社ノ神が現れ、彼に神剣を授け、鬼退治を命じる。維茂は我に返り身支度をして待つうち、鬼女集団が現れ襲いかかるが、維茂は神剣を揮いこれを退治する・・・・・・。
 シテ(貴女・鬼女):観世喜正、ワキ(平維茂):宝生欣哉 他。

 さて、これらの演目を3・11の震災に引き付けて観ることは、あまりに強引に過ぎるかも知れないのだが、たとえば「天鼓」では、抗うことのできない運命の力によって引き離されたわが子を思う父性愛と、それに応えるかのように現れ舞う少年の霊の姿が、今は失われてしまった人々への尽きることのない思いを滲ませ、観る者を粛然とさせずにはおかない。

 一方の「紅葉狩―鬼揃」は、見目麗しい貴女と思えた女達が一転本性を現し、凄まじい鬼女の群れとなって平維茂に襲い掛かるのであるが、これまた、平和利用の象徴として安全神話にくるまれた原発が実はたとえようもない怖ろしいものであったことを想起させる。
 ついでにいえば、狂言「蝸牛」もまた、よく知りもしないものを探しに行った太郎冠者=人間が、山伏を蝸牛と思い込むところから繰り広げられる滑稽譚であるが、その寸鉄人を刺す風刺の力はあらためて言うまでもなく強烈である。

 以上はまあこのたびの演目を現実を映す鏡と見立てた感想なのだが、それにしても能・狂言という古典芸術の持つ象徴性には今さらのように驚かされる。これらこそは最も現代的な前衛的センスと先鋭性を備えたアートではないかと感じるのだ。
 舞台の上で一場の夢を現出させ、曲の終わりとともに舞台奥へと去っていく演者たちの素っ気なさもまたいつもながらに潔く好ましい。

感想と批評/キュレーションの時代

2011-08-16 | 舞台芸術
 こんなふうにブログという形で個人的なメモや感想を書き込みながらこんなことをいうのは自己矛盾の何ものでもないようだが、ネット上には芝居にしろ、映画にしろ、刊行された小説にしろ、それらに対する感想文の類が氾濫している。
 自分の文章が人様にどんなふうに読まれているのか分からないけれど、時には言葉足らずの表現が関係者の皆様をひどく傷つけているのではないかと不安になることがないではない。
 そのことは、自分が当事者となっている舞台の感想を読んでしまったときの居心地の悪さからも容易に推し量ることができる。
 いつの頃からか、劇評サイトなるものがあって、自分の出演した舞台の感想が☆いくつという評価とともにその日のうちにネット上に書き込まれるようになっている。
 励まされるような温かい言葉も中にはあるけれど、時には悪意を含んだとしか思われない感想があって、それが作品そのものの出来や創作の意図に由来するものならまだしも、単にどの役者が台詞を何回とちったとか、声をつぶして台詞が聞き取れなかったとか、着物の着付けがなっていないとか、殺陣が下手だとか踊りの振りをどの役者が間違ったといったことをあげつらうのに終始している文章を読むとムナクソが悪くなって仕方がない。
 それらが役者個人の責任に帰する部分であることは十分承知しながらもあえて言いたいのは、そうした感想(=批評ではない)なるものの大半が、対象物の欠点やその日の出来不出来をことさらに強調し、貶めることによって、評者たる自分を高みに置こうとする臭気に満ちており、そういった精神のありように何ともいやなものを感じるからなのだ。
 それらの感想が、劇場で配られるアンケート用紙に書かれたものならば罪はないが、ネット上に配信されたとたん、それは一種の公共性と暴力性を帯びることを書き手たる私たちは自覚しなければならないだろう。
 さて、これは余談だが、そうした劇評サイトに載った人様の感想をもとに翌日の舞台前にダメだしする演出家がいたとしたら・・・・・・、その舞台の成果は推して知るべしではないか。私の身近にも実際にそんな演出家がいるので困ってしまう。

 と、ここで考えるのだが、感想と批評はどう違うのだろう。
 感想とは、その人が感じた想念、感慨を単に綴ったもの、と言ってよいかもしれない。
 これに対して、批評は、表現されたもの(=演劇に限らない)をその論者の視点から捉え直し、解釈し、意味を新たに付与しながら、歴史的時間軸や社会的空間軸のなかに位置づけ、価値づける行為、と言えるのではないだろうか。
 そうした批評といえるものこそ劇評というに値するのだろう。
 これを「キュレーション」という言葉に置き換えてもよいのではないかと私は思っている。

 佐々木俊尚氏は、その著書「キュレーションの時代―『つながり』の情報革命が始まる」(ちくま新書)のなかで「キュレーション」について次のように書いている。

 ――「美術館やギャラリー、あるいは街中の倉庫など、場所を問わず、展覧会などの企画を立てて実現させる人の総称がキュレーターです。形式も展覧会に限らず、パフォーマンスなどのイベントや出版物という形を取ることもあります。『作品を選び、それを何らかの方法で他者に見せる場を生み出す行為』を通じて、アートをめぐる新たな意味や解釈、『物語』を作り出す語り手であると言えるでしょう」(「美術手帖」2007年12月号)
 これは情報のノイズの海からあるコンテキストに沿って情報を拾い上げ、クチコミのようにしてソーシャルメディア上で流通させるような行いと非常に通底している。だから、キュレーターということばは美術展の枠からはみ出て、いまや情報を司る存在という意味にも使われるようになってきているのです。――

 批評、キュレーションもまたひとつの表現行為にほかならないのである。
 私が尊敬する劇作家・演出家の故・金杉忠男はよく「批評される作品を創らなければいけない」と言っていたが、これは、そうした批評行為を促すような、挑発するような、批評に値する舞台を創れということだったのだ。

 一方、もう一人、私が敬愛してやまない演劇評論家でシェイクスピア全作品の翻訳者として知られる小田島雄志氏は、「僕は評論家じゃないよ。ボクの書くのはただの感想」と言ってはばからない。
 そうかなあ、とは思うけれど、氏の書く「感想」が素晴らしいのは、それが「芸」にまで昇華されているからである。劇評サイトの凡百の感想とはまったく別種別物なのだ。
 その視線はあくまで温かく、かつプロフェッショナルな奥深さを有している。

 その小田島氏が先月7月の日本経済新聞に連載していた「私の履歴書」の第1回目にこんなことをお書きになっていた。

 「そのように芝居のおかげで人間を見つめ、人間を好きになってきたぼくは、演劇評論家とも呼ばれるようになった。だが、ほんの数年間だが文学座の文芸部に在籍したとき、スタッフ、キャストが30日、40日と血の汗流して創り上げた舞台を一晩見ただけで、ダメとかヘタとか言えなくなってしまった。(中略)
 たまたまイギリス演劇界の大御所で、演出家という仕事を独立させたゴードン・クレイグが、90歳をすぎてのインタビューに答えて、『自分はいい観客(グッド・オーディエンス)の一人、そう言ってよければ最良の観客の一人だった、と思いたい』と言ったのを知って、ぼくも評論家や批評家ではなく、いい観客の一人になるぞ、と宣言した。」

 氏が言う「感想」にはこんな背景があったのだ。
 その言葉には覚悟があり、懐の広さがある。芝居に対する愛情と励ましに満ちている。
 もちろん、その背後には人知れず激しい批評精神がひそんでいることを私は知っているのだけれど。

メモリー

2010-12-22 | 舞台芸術
 今週の「エコノミスト」誌に中国人ジャーナリスト、安替(アンティ)氏のインタビュー記事が載っている。 
 安替氏は中国語ツイッターにおける影響力測定で4位にランキングされているジャーナリストで、国際交流基金の招きで10月から12月にかけて日本を訪れていたそうだ。
 彼によれば、中国のニュースサイトやブログは政府の検閲下にあるので、しばしば言葉を削除されるが、ツイッターは運営会社が米国にサーバーを置いているため、言葉を削除されることがないという。
 そのため、特に社会的にセンシティブな問題について発言する時に有効なのだとのこと。

 4億人いるという中国のネット利用者に比して、ツイッターを介して情報発信したり、アクセスしたりする人は10万人ほどだということだ。
 この数字は驚くほど小さいが、彼らは情報に極めて敏感であり、ネット利用者のなかでも精鋭であることから、議論を構築する力を持っているのである。
 安替氏自身も反日教育を受けて育ったため、中国で起きている悪いことはすべて日本による侵略のせいだと信じ込んでいたが、ネットでさまざまな情報に触れ、詳細な文書や裏付け資料を読むうちに情報のバランスがとれてきたのだという。

 必要なのは情報である。なのに、日本から中国に向けて発信される情報のほとんどがそれを必要とする人のもとには届いていないという現実がある。
 文化としての情報戦略をもっと本気で考え直す必要があるのだろう。

 そんな雑誌の記事を読みながら、すでに3週間ほども前に観た舞台のことが忘れられないでいる。
 フェスティバル/トーキョーの演目の一つ、生活舞踏工作室の「メモリー」である。振付:ウェン・ホイ(文慧)、ドラマトゥルク・映像:ウー・ウェングアン(呉文光)。会場:にしすがも創造舎。
 演劇とドキュメンタリー映像をクロスさせた作品で、舞台上に張られた薄い布地の天幕の中で母と娘の会話が交わされる。
 天幕をスクリーンとして、文化大革命をめぐるニュース映像やアニメーションが映し出される。と同時に、母と娘はゆったりとしたトーンで60年代、70年代の記憶をたどりながら、その時代を回想する会話を重ねていく。
 その間、母親はミシンで繕いものをしたり、洗い桶で衣服を洗濯したりする。その水音が舞台に響き渡る。そのなかを娘は極めて緩慢というか、極度にスローモーにデフォルメされた動きで舞台を縦断するのだ。
 まるで長い時を刻んで滴り落ちる水滴を遡ることで記憶の闇を辿るかのようにそれは思える。

 この舞台には、上演時間の長短で2種類のバージョンがある。私が観たのは1時間のショートバージョンだったのだが、もう一つ、8時間のロングバージョンも上演されていた。彼ら自身の体験したことを十全に表現するにはそれだけの時間が必要ということなのだろう。
 私自身の言葉が鈍磨しているために、この舞台の感想やら印象やらを的確に書くことができない。
 そのため今日まで何も書けないままにきたような気もするけれど、あの空気感、水音、ささやくような二人の会話、その緩慢な動きのリズム、挿入される映像は今も私の脳裏にありありと残っている。
 この作品を記憶するということと、歴史を記憶し回想するという行為の重なりの部分にこの舞台の魅力や意味合いがあるのかも知れない。

 生活舞踏工作室は、ウェン・ホイ、ウー・ウェングアンらが主宰するインディペンデントのカンパニーであるが、彼らはまた創作・発表の拠点として北京の草場地という村に「草場地(ツァチャンディー)ワークステーション」を設立し活動している。
 国内外のアーティストの交流の場でもあるこのワークステーションでは、春と秋の年2回、コンテンポラリーダンスとフィジカルシアターのフェスティバルが開催され、海外の関係者との交流も密に行われるという。
 中国という超巨大な国の中における、まことに小さな微小とさえいえる場所ではあるが、受発信する情報の深さにおいて、広さにおいて、その鋭敏さにおいて突出しているということなのだろう。
 それは小さなつぶやきこそが力を持ち得るという、この国におけるツイッターの位置づけと共通しているのかも知れない。

 内閣府が18日に発表した「外交に関する世論調査」で、中国に親しみを感じないとした回答が77.8%にのぼり、対中国感情が過去最悪になったとのことだ。
 この結果には、例の尖閣諸島をめぐる問題の数々や北朝鮮への対応など、様々な要素があると思われるが、一方で、経済的にも社会的にも、中国という国の存在はわが国にとってすでに不可欠のものになっているという現実がある。
 「メモリー」はまことに小さな作品ではあるが、いま私たちが感知しなければならない声の在り処というものを教えてくれる重要な舞台であったと言えるだろう。

夏の嵐/わたしのすがた

2010-11-14 | 舞台芸術
 昨日、今日の2日間、久しぶりに風邪を引いてしまったのか、熱っぽく頭痛がして、どうにも身体が衰弱したようでベッドに臥せってばかりいた。
 途中、必要があって買い物に出かけたのだったが、人だかりの中を電化製品の売り場を歩いている時に足元の荷物置き場に気がつかずに足を引っ掛けて転んでしまった。
 その瞬間、あ、転んでしまう、という意識は確かにあって、態勢を維持するために近くにあった棚か何かにしがみつこうと手を伸ばしたのだが、それはどうやら台車に製品の箱を積み上げたものだったようで、そのままずるずると体重を預けたまま床に身体を投げ出す恰好で倒れこんでしまったのだ。
 それだけ身体感覚が正常ではなかったということなのだが、そうした一部始終を自分なりに覚えていて、と言うか、それをどこか遠くから眺めているもう一人の自分がいる、という感覚にとらわれて、どこか他人事のようにその状態を楽しんでいたのだ。
 それは、衰弱した肉体のダンスのようでもあった。

 私はその瞬間、数日前に観た土方巽の舞踏公演の様子を映画化した「夏の嵐」のワンシーンを思い出していた。それは今月いっぱい、池袋・西巣鴨を中心に展開されている舞台芸術の祭典「フェスティバル/トーキョー」の一環として上映されたもので、今手元にパンフレットがないので記憶だけで書くと、たしか1973年に京都大学西部講堂での上演の様子を8ミリフィルムで撮影されたものを映画として再編集した作品である。
 その公演は、土方が観客の前で踊った最後の姿でもあった。

 私は土方巽の生の姿を一度も観ていない「遅れてきた世代」の一人なのだが、当時、リアルタイムとしては篠田正浩監督の映画「卑弥呼」に土方とその舞踏集団が出演していたのを新宿アートシアターで観ていて、洩れ聞こえてくる映画の撮影秘話などを耳にしながら大いに残念がっていたものだ。
 いま思い出してみると、当時は芦川羊子と白桃房やアリアドーネの会といった女性ばかりの踊り手による舞踏公演はよく観ていたし、土方が根拠地としていた目黒の「アスベスト館」にはよく通っていたのだけれど。

 さて、西欧のバレエが健康的で伸び上がる姿勢によって天上を志向するものだとすると、土方が創った舞踏は、病んだ身体/衰弱した肉体が大地に引き寄せられるかのように見える。これは世界観を転換するような発見であり、新たな創造なのだ、というようなことを映画の解説をした石井達朗氏が言っていたが、私もまったく同感でそのことはもっとよく考えてみたいと思う。

 さて、もう一つ、私がベッドに臥せって思い出していたのが、同じく「フェスティバル/トーキョー」の演目の一つ、「わたしのすがた」(構成・演出:飴屋法水)である。
 これを「演劇」といってよいのかどうか、様々な意見があるだろうが、少なくとも「演劇的体験」であることは確信を持って言えるだろうと思う。
 観客は、一人ずつ時間を区切りながら出発し、巣鴨・西巣鴨地域のいくつかの場所を示された地図をもとに経巡るのである。それは廃校の校庭に出現した巨大な穴であったり、今は打ち捨てられた廃屋のなかのかつてそこにあったはずの生活の記憶やモノの残滓であったり、ある宗教的な趣のある建物の部屋のなかに浮かぶ得体の知れないモノ、あるいは今は使われなくなった診療所のベッドに並べられた人骨、床に並べられた古着、意味不明のメモ書き、突如現れる土くれであったりする。
 それらと向き合いながら、観客はまさに自分自身と出会うのである。

 誤解を恐れずにいえば、演劇をはじめとする芸術の多くは観る者に受容することを強要する。現代演劇はそこから脱構築しようとして、観客の想像力/創造力を刺激しようと多様な手法を使っているが、それらの体験は観客の立場からは基本的には受容すること・インプットすることである。
 多くの芸術体験においてそのことが拭いがたいそれが不満なのだが、この「わたしのすがた」が素晴らしいのは、その「場」に身をさらすことによって自然にアウトプットが湧き出してくるような「体験」を観客にもたらすことではないだろうか。
 目の前にあるものが目的なのでも問題なのでもない。
 個々の観客のなかに姿をあらわす何ものか、それこそがここでの「表現」である、と言えるのではないか。そう感じるのだ。
 そこには創り手も演じ手も観客もいない。「表現されたもの」だけがある。

 朦朧とした夢とともにベッドに寝そべる私のなかには、私が訪れた廃屋のじめじめとした暗い部屋の朽ちた箪笥の傍らで蹲り踊る土方巽の姿があった、と言えば、それはあまりに話をまとめすぎだと笑われるだろうか。

読み聞かせ、朗読の面白さ

2010-06-04 | 舞台芸術
 先月30日の日曜日、池袋にある「みらい館大明」で開催されていた「プチ演劇祭」を覘いてきた。
 「みらい館大明」は閉校となった旧大明小学校の施設を転用し、地域住民によって組織されたNPO法人が市民のための生涯学習の場として運営する施設である。
 肩ひじの張らない趣味のサークルからちょっと真面目な学習会やパソコン教室、外国人のための日本語教室、さらには著名な劇団の稽古場と、実に幅広い利用者でにぎわっている。
 私が観たのは、JOKO演劇学校の三期生有志による宮沢賢治作「銀河鉄道の夜」の朗読劇である。
 3人の女優(のタマゴ?)が役割分担しながら、地の文も含めて読み進めていく。部屋の蛍光灯を消したり点けたりといった簡単な照明と小さなスピーカーから流れる効果音楽だけという簡素なステージなのだが、それなりに楽しめた。
 もちろん素材のよさ、ということはあるのだが、3人の出演者が衒いのない素直な発声と演技で淡々と読み進めていったのがよかったのだろう。
 朗読するうえでの面白さ、同時に難しさでもあるのだろうが、それは言葉をどうやって聴き手に伝えていくかということの困難さにあるのだろう。素材となった作品の言葉を届けるには素材の味を損なってはいけない。
 私など大いにその傾向があるのだが、いたずらに感情を込め過ぎたり、面白おかしく表現したりしようとする中途半端な技術はかえって邪魔なのである。

 さて、今、朗読はある意味でブームといえるような活況を呈しているように思える。
 朗読教室などで受講生を募集するとたくさんの人が集まるし、あちらこちらで朗読サークルがさまざまな活動を行っている。プロの俳優でも朗読劇をライフワークにしている人をたくさん見かけるようになった。
 これは自己表現の手段としての手軽さが受けているというだけの話ではあるまい、というのが私の感想である。朗読にはなかなか一言ではいえないような魅力が潜んでいるのに違いないのだ。
 だが、それらの活動は未だ点在しているに過ぎない、というのが次に感じるところでもある。
 これを何とか大きなムーブメントにできないだろうかと私は数年前から考えているのだが、なかなか実現できないでいる。
 頭で考えてばかりいないで、行動するに如くはない。明日からでも取り掛かるべきではないか。

 イノベーションはコラボレーションからしか生まれない。必要なのは、点在する個々の活動、個々の表現を結びつけ、一覧にしながら攪拌することである。そうすることで交流が生まれ、摩擦とともに熱が生まれる。そうした化学反応のなかから新たな創造も生まれるのに違いない。

 私はひとつのリーディング(朗読)・フェスティバルを夢想する。もちろんプロのスタッフワークによって設えられた舞台である。
 その舞台上では、わが国トップクラスの舞台俳優から役者の卵、ミュージシャン、詩人、政治家、商店主、会社の重役、新入社員、学生、学校の教室で子どもに読み聞かせをやっているような若い母親から児童書担当の図書館員、老人から文字を覚えたての小さな子どもたちまでもが一同に会して朗読し、群読や紙芝居、ドラマ・リーディングに挑戦する。
 同時に、図書館の片隅や児童館、高齢者施設、病院のホールやベッド脇、商店街の軒先や広場など、町中のいたるところで大きな輪、小さな輪ができて読み聞かせが展開され、人々が耳を傾ける。
 会議室では、朗読=リーディングの意義や実際的な技術論についてさまざまな意見が交わされ、実践され、そのなかからさらに新たなアイデアが生まれる・・・。

 そんなフェスティバルの実現に向けて、一緒にプランを練り、行動してくれる人はいないだろうか。

三番叟とライオン

2009-09-09 | 舞台芸術
 8日、「三番叟」を東池袋の劇場「あうるすぽっと」で観た。
 狂言師の九世野村万蔵による「狂言三番叟」とコンドルズの近藤良平による「コンテンポラリー三番叟」の2部構成の舞台である。
 片や「伝統~受け継がれるかたち」、片や「現在~生まれいずるかたち」とあるように両者を同じ囃子方によって結びつつ、並べて展覧することによって観客の目に化学反応を起こそうという試みといってよいのかも知れない。

 三番叟は狂言が生まれる以前からある神事ともいうべき古い芸能である。
 何百年という時のふるいをかけられながら洗練されてきたその「型」はまさにゆるぎのないものだ。
 これに対し、近藤良平は新たな型を生み出そうというのか、あるいは厳然と聳えるような型の前でのたうちまわろうとするのか。
 感想はあえて控えるとして、近藤の繰り出す身体表現はかつて狂言の始原はかくあったであろうと思われるような破天荒かつ人々の耳目を惹きつけずにはおかないリズム感に躍動している。
 これが長い長い時間のなかで削ぎ落とされ研磨されながら「型」となっていくのだろう。

 「伝統は革新の連続のはてに生まれるもの」とはよく言われることだ。亡くなった八世野村万蔵(野村万之丞)氏もよくそう言っていた。
 氏のアジア全域の歴史と空間を見据えた壮大なビジョンというか大風呂敷をなつかしく思い出しながら、この2つ並べた三番叟を観ることで、あたかもそれらが循環しながら新たなものを生み出していく、そのはじまりに立ち会ったような気持ちになった。

 話は変わるけれど、劇場からの帰り、今年閉店となったばかりの池袋三越の前を通った。年内には家電量販店に生まれ代わるとのことで今は改修工事のためのシートに被われている。
 三越のシンボルでもあった青銅のライオン像がいつの間に姿をくらましたのか記憶にないのだが、あれはいったいどこに行ってしまったのだろう。

 ちょうどいま北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」を読んでいて、そのなかに収められている「獅子と地下鉄」にロンドン・トラファルガー広場のライオン像を模して作られたという三越百貨店のライオンの話が出てくるのを思い出した。このミステリーにおける重要なキーワードなのだ。
 小説は昭和10年前後の東京が舞台なのだが、その頃はまだ「三越即ちライオン」といわれるまでにはなっていなかった。
 人間の歴史はたかだか50年で大きく変動する。
 芸術はどうか。芸能はどうか。継承と革新という狭間で人々はそれらを次の世代につなげるために連綿と紡ぎ続ける。

 「鷺と雪」の登場人物たちはよく能を観る。小説の中には関連する話題が詰め込まれていて、そうした薀蓄に耳を傾けるのも北村薫の小説を読む楽しみ方のひとつである。
 帰りの電車に揺られ、ページを繰りながら、三番叟のお囃子が耳の中でリフレインするのを独り噛み締めていた。

能の美しさ

2009-09-08 | 舞台芸術
 先週3日、観世流の能「玉井(たまのい)」を東京芸術劇場中ホールで観る機会があったので記録しておく。
 この作品は、「古事記」「日本書紀」にある海幸山幸の神話を題材に、観世小次郎信光が脇能にしたものとのこと。

 彦火火出見尊は兄の釣針を魚に取られ、剣を崩し針にして返したが許されず、元の釣針を求めて海中に入り、海神の都に着く。竜宮の門前に玉の井と桂の木があるので木の下で様子を見ていると、豊玉姫と玉依姫が水を汲みに現れ、井戸の水に映る尊に気づき、名や理由を尋ねて竜宮に案内する。
 姫の父母は尊の話を聞き、釣針を探す約束をしてもてなすうち3年が過ぎる。
 尊は自分の国に帰ることにし、海路の道を尋ねると豊玉姫は、海中の乗り物は様々あるので安心するようにと言って立ち去る。
 尊が待つところに二人の姫が現れ、潮満玉と潮干玉を捧げ、続いて現れた海王は釣針を探し出して尊に捧げ、二人の姫たちは袖を返して美しく天女之舞を舞い、龍王も厳かに舞ううちに時が移り、尊を五丈(約15メートル)の鰐に乗せると陸に送り届け、龍王も竜宮へ帰って行く。

 以上がおおよその筋立てであるが、そのラスト近く、龍王が舞い、尊を送り届けた後に帰って行く場面は何とも言えない美しさで観るものを圧倒する。それは装束や面、舞手の技量、鼓や笛、地謡が渾然となって生み出される迫力である。
 ちょうど同じ劇場の地下ホールでは、現代能とでも言うべき野田秀樹の「ザ・ダイバー」が上演されていて、そのどちらも海中にかかわる物語である点が共通していて面白い取り合わせだと思う。

 話は少し脇道に逸れるけれど、先日新聞のコラムに、プロの将棋を観戦した志賀直哉が、その感想を画家の梅原龍三郎に伝えた手紙のことが載っていた。志賀は次のように書いている。
 「精コンをあれ程傾けつくして戦い、その本統のところは少数の専門家にしか分からず、しかも一般にこれ程ウケているというのは不思議なものだ」

 能という芸術にもこの言葉は当てはまるのではないかなどと考えてしまう。
 能の継承者がどれ程精コンを傾けつくしてその芸を極めようと日々戦っているか。
 その芸の真髄は少数の人にしか理解はされず、しかも長い歴史という時間のふるいにかけられながらも人々の支持を得て根強く生き抜いてきた芸能・・・。

 それにしても「能」という古典芸能の持つ、観客に決して媚びることのない素っ気なさは見事というしかない。
 一場の舞を幽玄に舞い終わるやいなや拍手の暇も与えず橋掛かりを去ってゆく演者の姿は潔いものだ。これこそ何百年もの伝統に裏打ちされた絶対的な自信の顕れではないかとさえ思えるほどだ。

 私はクラシック音楽も好きでたまにコンサートホールに身を忍ばせることもあるのだけれど、あのカーテンコールのしつこさというか半ば強要しているとしか思えない臆面のなさには時に辟易することがある。
 それに引き換え、わが伝統芸術の何という奥ゆかしさよ、などと比較したり目くじら立てたりするのも大人気ないか。
 こんな他愛もないことをあれこれ考え巡らすのもまた舞台の楽しみ方のひとつなのだろう。

地域発 新作オペラ

2009-08-13 | 舞台芸術
 9日、東京芸術劇場で「ひかりのゆりかご~熊になった男」というオペラの舞台を観た。
 本作は岐阜県発の新作オペラで、昨年の当地における公演の大成功を受け、東京での公演となったものという。
 家庭崩壊や地域社会崩壊に象徴されるような現代の日本人の心の喪失、自然破壊や環境破壊という私たち自身に関わる身近な内容にスポットを当てながら、「家族の絆」「親子の絆」を見つめ直そうというものであると、主催団体の代表者がパンフレットに書いている。

 もちろん、その意気込みに否やはないし、志には心からの賛意を表するけれど、その舞台成果としてはどうだったか。日本語の、それも市民参加でオペラをつくることの難しさばかりが浮き彫りになったように感じてならない。
 私は音楽にはまったくの素人だけれど、オペラ歌手たちに若手の小劇場演劇まがいの設定で演技させても観るほうはまったく乗っていけない。まるで、キャリア官僚が吉本の舞台でお笑いを演じているようで何とも居心地が悪くてしかたがない。
 もっと音楽劇に特化したほうが数段インパクトは高まったように感じる。

 地域発の舞台なのだから、もっと郡上八幡という場に特化した歴史的な物語にするか、あるいは逆により普遍性を持たせた寓話的な設定にしたほうがテーマに迫れたのではないかと思えてならないのだ。

 問題なのはビジョンであり、何を見せ、何を感じさせたいのかということだと思う。
 緻密な構成の現代演劇と異なり、オペラはテーマに素直にまっすぐ迫ることのできる表現形式である。臆することなく物語を創るべきではないだろうか。
 

コウカシタ

2009-03-15 | 舞台芸術
 3月14日、イデビアン・クルー主宰の井手茂太が振付・出演する「コウカシタ」を観た。会場は池袋駅東口からグリーン大通りを護国寺方向に歩き、首都高速道路の高架下をくぐった先にある劇場「あうるすぽっと」。
  本作は、フェスティバル/トーキョーの委嘱により、井手氏が昨年10月にタイに赴いてオーディションを行い選抜した6人のダンサーと、日本人ダンサーによるコラボレーション作品である。

 タイトルの「コウカシタ」は東京にもタイのバンコクにも同様に伸び広がる高架鉄道、高架橋、高架道路を意味する。その一見同じように見える風景のなかに明らかに異なる何かがある。
 それはそこに生活する人々であり、彼らが紡ぎ出す文化にほかならない。

 井手茂太は日常的な動作や身振り、人それぞれが持つ癖=個性を拡大し、ユーモラスな視点でそれらを拡大しながらセンスあるダンスを構築する。
 私が初めて井手茂太の名前を知ったのは、もう何年前になるのか、カフカの小説「失踪者」を舞台化した「アメリカ」(演出:松本修)の劇中のダンスの振付家としてであった。芝居に見事に融合し、ストーリー展開をもリードするその素晴らしい振付にひと目で惹きつけられ、以来注目し続けている。

 今回の舞台では、タイと日本、それぞれのダンサーがお互いの身振りや言語、文化の差異を感じながら、コミュニケートしていく、その過程が拡大され、分解され、攪拌、再構成されながら独特のユーモアセンスによる味付けで作品化されていた。
 おそらくさまざまなワークショップを積み重ねながら、議論や試行錯誤を繰り返すなかで作品は生成されたのであろうが、そんなプロセスを想像するのも芝居好きの人間にとってはこのうえなく興味深いことである。
 心の底から楽しさを感じつつ、ダンサー一人ひとりの動きとそれにマッチした音楽に身を浸した1時間半だった。

Hey Girl!

2009-03-12 | 舞台芸術
 3月10日、ロメオ・カステルッチ演出の「Hey Girl!」をにしすがも創造舎で観た。
 本作は、2006年11月にパリのフェスティバル・ドートンヌの招待作品として、国立オデオン劇場で初演された作品とのこと。
 少女性、女性性を大きな主題として、さまざまなイメージが音楽・美術・映像などを駆使しながら繰り広げられる。

 おそらく本作への評価も好き嫌いも大きく分かれるのではないだろうか。
 
 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)との言葉に従い、今日は記録のみにとどめることにする。

 さて、女性を描くといえば映画監督・溝口健二である。
 先月、日本経済新聞の日曜の名物特集「美の美」では、4週間にわたって溝口健二を特集していた。以下、部分的に引用。

 「溝口の映画には、各瞬間、各ショットに詩があらわれる」とゴダールが賞賛したように、彼はフランスのヌーベルバーグに多大な影響を与えた。
 「修道女」(1966年)の監督ジャック・リベットは書いている。
 「溝口を理解するために学ぶべきなのは、日本語ではなく、この言語、すなわち演出という言語だ。それは共通言語だが、溝口においては、その純粋さはいままで西洋の映画が例外的にしか到達できなかったレベルにまで高められている」(「カイエ・デュ・シネマ」81号)
 ゴダールは答える。「(溝口のワンシーン・ワンショットの手法は)人生を一瞬のまばたきの間にとらえ、生きようとするどん欲な、狂おしい情熱のようなものを思わせる」(山田宏一「友よ映画よ」)
 「ママと娼婦」(1973年)の監督ジャン・ユスターシュは「溝口を見て、俺の運命は決まった」と山田に告白した。「日本的な美が称えられたのではない。これこそは映画だ、俺もこんな映画を撮りたいと思わせた」と山田は語る。

 溝口は西洋の真似をしたのではない。日本独自のものを描き続けるなかで、世界の映画作家に通じる普遍性を獲得したのだ。それを可能にしたのが「演出」という共通言語である。

 映画と舞台芸術における演出の違いは何だろう。
 フレームの切り取り方、空間と時間の処理の違いはあるにしても、本質的に同じではないかと私は考えている。

 いま東京・池袋を中心に繰り広げられているフェスティバル/トーキョーの見どころはまさに舞台芸術における「演出」という共通言語=表現の多様性であろう。
 さまざまな作家がさまざまな手法で「世界=現実」と対峙し、切り取り、把握し、破壊し、再構築しながら、「リアル」を追及しようとしている。

 そこに私たちは何を見ることができるのだろう。