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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

子どもの幸せ

2010-08-29 | 日記
 阿波踊りといえば、都内でも数多くの場所で祭が開催されているが、私にとっては何と言っても「大塚」である。
 25日にはその前夜祭が、そして26日には今年で38回目を迎えた「大塚阿波踊り」が開催され、私も恥ずかしながら踊り手としてとある「連」に参加してきた。スッピンでそれも人様の前で踊るなど恥ずかしい限りなのだが、そこはそれ、とにかく「踊らにゃソンソン」なのである。

 大塚阿波踊りの良さは「何か」と一言では言い難いのだが、大塚というこの町に特有の地域性や親和性が色濃く出ているところだろうか。
 かつて戦前には三業地として池袋を凌ぐ賑わいをみせたにもかかわらず、いまやその池袋と巣鴨にはさまれて何となく存在感が希薄になっているという危機感から商業祭として始まったこの阿波踊りだが、そのリズムがこの町に実によく似合っていたということだろう。
 前夜祭の行われた南大塚ホールでは地元商店会を中心とする5つほどの連がステージ踊りを披露したが、それこそ就学前の幼児から中学・高校生まで実に多くの子どもたちが同じステージで踊り、またそれを観るために多世代の観客が会場にぎっしりと詰めかけている様子を観ていると、何年にもわたって地域の人々がこの阿波踊りを通じて結びついているということが実感として伝わってくる。
 多くの子どもたちが阿波踊りのリズムとともに育っているといっても良いのかも知れない。
 けれど一方で、その練習場所の確保が年々難しくなっているという話も聞く。その鳴り物の音がうるさいと苦情をいってくる人が最近は増えているのだそうである。
 世知辛いといってしまえばそれまでだが、なかなか難しい問題なのだ。

 話は変わるけれど、関東大震災後に建てられた復興小学校の一つ、中央区立明石小学校の改築を巡って、日本建築学会が同小校舎は「重要文化財に相当」との見解を出し、同会や卒業生らが保存要望書を提出していた問題で、中央区は、「歴史的、文化的な価値も重要だが、子どもの幸せを第一に考えなければならない」として、解体工事を進める考えを示したという記事が27日付の新聞で報じられている。
 つまり、リノベーションによる保存活用も、「安全性の面で万全とは言い切れず、バリアフリー化や教室不足に対応するのは困難」という区側の主張である。
 これについてはどちらの立場も理解できないわけではないだけに判断はより難しい。
 ただ、その解体を進める理由づけに「子どもの幸せが第一」という言葉を持ち出すことには違和感が残る。「子どもの幸せ」の考え方にもさまざまな見方、考え方があるだろう。

 双方が歩み寄るような第3の選択肢はないのだろうか。

論語とダンス

2010-08-24 | 日記
 22日、王子の飛鳥山公園内にある「渋沢史料館」に行った。
 近所に住んでいながらこれまで一度も足を向けたことがなかったのだが、猛暑の夏、家に籠ってばかりいるよりはと思い立ったのだ。
 それに、渋沢栄一の生まれ故郷、埼玉県深谷市血洗島は、私が小学校の中途から高校卒業までを過ごした町のすぐ近くでもある。
 それにしても江戸末期から明治にかけて活躍した人々のスケールの大きさは、昨今の政治家や実業家とは比較にならない。これはどうしたことか。
 加えて、そうした素晴らしい先人たちのことを学校教育ではなかなか教えてもらえない。これもどうしたことか。
 リーマンショック以降、行き過ぎた市場経済の弊害が叫ばれるようになって、渋沢栄一の書いた「論語と算盤」など、道徳と経済の合一説が見直されるようになっている。
 彼が関わった企業や金融機関、社会活動など、その質量を改めて見つめてみると、その業績の巨大さにはまさに瞠目せざるを得ない。

 実は、仏文学者で作家の渋澤龍彦が戦時中に血洗島に疎開していたというのを聞いたことがあって、渋沢栄一との縁故が以前から気になって仕方がなかったのだが、史料館の受付でそのことを聞くと学芸員の方を呼び出してくれた。
 結論としては、直接のつながりはないとのことだった。ただ、あの血洗島(それにしてもすごい地名だ)近辺には、渋沢姓が多く、何代か遡れば血縁関係があるかも知れないとのこと。

 史料館の隣にある飛鳥山博物館のカフェで昼食をとり、王子駅から都電で早稲田に出た。
 「高田馬場ラビネスト」という小さなスタジオで行われた「温森NUKUMORI×MENU」のダンス公演を観に行ったのだ。
 以前、といってももう10年以上も前に芝居の振り付けでお世話になった小粥真佐代さんが出演・振付をしている。
 1時間の間に12曲のナンバーが繰り広げられる。その熱くカッコ良い踊りと時たま挟まれる笑いに心をほぐされ、心地よい刺激を受けた。
 メンバーの全員が相当のレベルにあることは間違いないけれど、小粥さんは小柄な身体ながらダントツに素晴らしい。手足、指の先までの神経の張り巡らせかた、身体のひねりのセンスにおいて群を抜いている。

 改めて思ったのだが、彼らのダンス形態と、いわゆるアートに分類される舞踏=ダンスとの本質的な違いは何なのだろう。
 高いレベルに到達した彼らの身体能力や手足の動き、振りにそれほどの差異はないようにも思える。おそらくは、一つの動作や振りに至る発想やアプローチの違いということなのだろうが、それを言葉にしようとすると途端にむなしくなってしまう。
 そんなことを思い巡らせながら、またいつか小粥真佐代さんとは一緒に仕事がしたいなと思ったのだった。
 そんな機会がいつか訪れるだろうか。

美術と演劇

2010-08-23 | アート
 すでに1週間以上も前のことになるけれど、国立新美術館に展覧会を観に行った。
 お目当ては「マン・レイ展~知られざる創作の秘密」だったのだが、ちょうどその日はオルセー美術館の所蔵作品による「ポスト印象派展」の最終日近くということで、平日にも関わらずそちらの展示室には長蛇の列が出来ていた。聞けば1時間半待ちだという。それではやっとの思いで入館したとしてもとてもじっくり作品を観ることなど叶わないだろう。
 そんな有り様をみて思うのは、世の美術愛好家の保守性でもミーハーぶりでもない。ここは素直に「美術」という芸術ジャンルの一般社会への浸透ぶりに改めて驚嘆したと言っておきたい。
 もちろんその度合いは人それぞれであって、オークションで作品を手に入れるほどの愛好家から、作品を投資目的と考える人、単に印象派一辺倒の人、世界中の美術館巡りを楽しむ人、現代美術に造詣の深い人、自ら絵筆をとって公募展に応募する人まで、それこそ千差万別だろう。
 けれど、これを演劇・舞台芸術と比較した場合、人々の受容ぶりにはその深さと広がりにおいて圧倒的な差があると認めざるを得ない。

 いみじくも今月初旬に行われた「フェスティバル・トーキョー2009」の記者発表の冒頭、実行委員長の市村作知雄氏が、「舞台芸術は美術に大きく遅れをとっている」といった趣旨の発言をしていたが、それはより前衛的な作品の創作環境において、さらにはそれらを受け容れる土壌の豊かさにおいて大きな格差があるということでもあるだろう。

 さて、14日付の日経新聞では、瀬戸内海の7つの島々を舞台にした「瀬戸内国際芸術祭2010」が、開会1カ月を待たずに10万人を超える来場客が訪れていると報じている。
 フランスの美術家、クリスチャン・ボルタンスキーの「行くこと自体が難しい。しかし、とても美しい。アートは人々をそんな場所へも導くだろう」という発言が紹介されている。
 そう、美しいということはたしかに大きな要素であるのに違いない。

 同記事の中では、豊島の以前近隣住民が集まった水場近くに鉄の彫刻を置いた青木野枝の「3年後、住民の同意が得られなければ撤去する」という言葉も紹介されている。
 その「場」と「そこに住む人々」への関わり方の繊細さにおいて、その覚悟において、「演劇」が学ぶべきことは多いのではないだろうか。

親と子のいる情景

2010-08-13 | 雑感
 いつの間にか夏休みの真っ最中なのだが、そんな気分にならないまま時間ばかりが過ぎていく。子どもの頃は、夏休みも8月の声を聞くと、何だかもう休みが半分以上もなくなってしまったようで妙なさびしさを覚えたものだった。

 さて8月になって、おなじみ「にしすがも創造舎」での「アート夏まつり」が始まった。
 すでに2週間も前のことになるけれど、その初日イベントである「畑@校庭まるごと体感デー」のことを少し書いておこう。
 かつて中学校だった校庭の一部が今はとても素敵な畑になっていて、その「グリグリ・プロジェクト」が楽しい。
 グリグリ・プロジェクトというのは、「グリーン(植物)+アート」をテーマに、畑づくりを通じて多世代の人が出会い、多様なコミュニケーションと、新しいコミュニティの形成を目指す地域交流型プロジェクトとのこと。
 ちょっと難しそうだが、要は、100人ほどの親子連れや様々な年齢の人々が畑づくりを通して触れあい、そこにアーティストが加わって楽しいことをみんなで企てようということなのだ。
 畑の一角にある《石がま》で焼いたピザの販売や、子どもも楽しめるちいさな畑づくり体験、集めた葉っぱでのお絵描き、絵本の読み聞かせなどなど、様々なプロジェクトが展開されている。
 このほかトイポップ集団「ヒネモス」のぷちライブ、無農薬や有機栽培でがんばる農家の皆さん、手作りの加工品生産者による「アースデイマーケット」、校舎の昇降口をリノベーションしたカモ・カフェなど、猛暑の中を子どもたちの元気な声が響き渡っている。
 そんな子どもたちの姿を眺めながら、さまざまな親子のかたちというものをぼんやりと考えていた。

 同じ日、東京芸術劇場5階の展示ギャラリーに顔を出した。
 池袋西口一体で繰り拡げられている「まちかど回遊美術館」の関連イベントとしてギャラリー・トークが開催されていた。
 「父 吉井忠の旅」というタイトルで、画家の吉井爽子さんが娘の視点から池袋モンパルナスゆかりの画家・吉井忠の生涯を語るというものだ。
 吉井忠は、1908(明治41)年福島県に生まれ、1999(平成11)年、91歳で亡くなった。
 30歳で東京豊島区長崎のアトリエ村に移り住み、戦後も池袋谷端川沿いにアトリエを建てて終の棲家とした人である。
 28歳の頃、2・26事件のあった年に渡欧し、アンドレ・ブルトンのグラディバ画廊を訪ねたのをはじめとして、樺太島、中国のほか、地中海、西アジア、インド、メキシコ、キューバ、敦煌、トルファン等々、その画業は生涯を通して常に旅とともにあったのである。
 娘の爽子さんはそんな忠氏の晩年、一緒にスケッチ旅行をしたそうだ。
 絵になりそうな場所を見つけ、その場に座り込むやいなや、もう画帳に鉛筆を走らせていたという父の姿を語るその口調は愛情に満ち溢れている。
 
 さて、いま読んでいるのが姜尚中氏の著作「在日」(集英社文庫版)である。そこに描かれた親子の絆、とりわけ母の姿は全身全霊をかけたありったけの深い愛情に満ちて読む者の心を揺さぶる。
 昨今のニュースに現れるような、母性本能や親子の情愛といった言葉がすでに死語と化したかのような殺伐とした世相のなかではむしろ奇跡とも思えるけれど、果たしてそれは、差別され、抑圧されたもののみが感じることのできる種類の能力であり、感情なのだろうか。
 猛暑の夜に涙腺を刺激され、汗と涙にまみれて頁を繰りながら、あらためて親子のあり様を考えていた。

 そんな時に、こまつ座の舞台「父と暮らせば」(井上ひさし作、鵜山仁演出)を観たものだから、まるでもう無防備にも涙が流れて仕方がなかった。(於:あうるすぽっと)
 丸谷才一氏はこの芝居を「笑いと涙と、戦後日本の最高の喜劇」と評したそうだが、娘の胸のときめきからその胴体が生まれ、もらしたためいきから手足ができ、その願いから心臓ができたという原爆で死んだはずの父親の言葉は、一人だけ生き残った負い目から絶望し、ひたすら内向しようとする娘へのそれこそ全霊をかけた思いやりと激励に満ちている。
 芝居を観ることの幸せとともに、死者と生者との魂の交感、生きることへの励ましといったことにまで思いを至らせる至福の時間がそこにはあったのである。