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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ぼくのエリ

2010-07-31 | 映画
 いつの間にか7月も最後の日になってしまった。この1ヶ月に間に自分がどんな仕事をしてどんな成果をあげたのかと振り返ると、記録的な猛暑続きの日々だというのにいささか背筋が寒くなってくる。
 なにもビールばかりを飲んでばかりいたわけではなく、あちらこちらに出かけていたのだから記憶しておくべき事柄は今もしっかりと胸の拍動となって息づいているはずなのだ。

 もう2週間ほども前に観たスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」のことを書いておかなくてはならない。
 公開直後の新聞の映画評がこぞって大絶賛していたので是非観なければと思って出かけたのだった。
 その感想としては、映画史に残る大傑作かというと決してそんなことはないのだが、いつまでも心の奥底で疼くような感情をしっかりと刻み込む、忘れ難い初恋のような味わいの映画である、とでも言っておこうか。
 監督はトーマス・アルフレッドソン。原作・脚本は、スウェーデンのスティーヴン・キングと評されるヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト。
 
 この映画の紹介はかなり難しい。
 うっかりするとネタばれになりかねないし、多様な側面を持った映画なので、簡単な感想だけでは語り尽くすことなど到底できない。結果、ありきたりのことしか書けなくなって情けなくなる。
 「孤独な少年が初めての恋に落ちた。恋の相手は謎めいた少女。だが彼女は12歳のまま、時を超えて生き続けるヴァンパイアだった……」
 こんな惹句がプログラムには書かれていて、まあ、そのとおりなのだが、この映画を傑作たらしめているのは、何と言っても丹念に積み重ねられたシーンの一場面一場面であり、主役となる二人の12歳の息づかいや肌触りを写し撮った映像の素晴らしさなのである。
 さらには、萩尾望都の「ポーの一族」に世過ぎ身過ぎの生活感や血の匂い、肉の発する生臭さを加味した「現実」の物語といった側面もある。
 二人の初恋は自らを投げ打って相手を護ろうとする愛へと昇華し、同時に、獲得されたその永遠性は残酷さとなって観客の胸を打つ。
 もっともこんなことを書いても何も語ったことにならないのは百も承知なのだけれど・・・・・・。

 原作は「モールス」というタイトルの小説だが、原題は「Let the Right One in」(正しき者を中に入れよ)というのらしい。
 いずれも映画を観ればなるほどという含意を持った意味深いタイトルだ。これは異なる世界と時間を生きる孤独な者同士のコミュニケーションの物語でもあるのだ。

 いま大阪で起こった育児放棄による幼児の放置死事件が大きく報道されている。
 いたいけな幼児2人が、かばい合うようにして食べるものもない部屋の中で孤独に死んでいった状況は、到底受け容れることはできないし、理解もできない。語る言葉さえない。
 そんな悲惨な状況下にいる子どもたちがまだどこかにいるのではないか。
 そうした彼らからの「信号」を察知する手段を私たちはどうすれば持つことができるのだろう。


世論と娯楽

2010-07-13 | 日記
 選挙が終わって、またぞろ責任論やら首のすげかえやらこの何年かすっかり見馴れたどたばたの議論が沸き起こりつつある。
 マスコミが面白おかしくまき散らす世論調査や支持率などという訳の分からない数字に人々は引き摺り回される。政権は一向に安定せず、それがどれほど本当に国民のためなのか分からない足の引っ張り合いを人々は胡乱な目つきでただ眺めるだけである。

 「世論はつねに私刑である。私刑はつねに娯楽である。」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)という言葉を最近何度か目にした。
 たしかに昨今の政治ショーはそんな様相を呈している。
 私たちもそんな娯楽から一時も早く目をそむけ、まともな議論を始めなければならない。 必要なのはそのための真実の情報である。

 そんな選挙騒動のなか、劇作家・演出家のつかこうへい氏逝去の報が流れた。まだまだ若い62歳である。間違いなく一つの時代を創った才能がまた消えた。
 実に多くの俳優を育て、後に続くあまたの劇作家や演出家に影響を与えた人だから、新聞各紙にも著名人のコメントがたくさん掲載されている。

 私がようやく20歳で自分たちの劇団を作った頃、つかさんは若干25歳で「熱海殺人事件」により岸田戯曲賞を受賞して時の人となっていた。
 その影響力は実に大きくて、その頃雨後のタケノコのように生まれた劇団の役者たちの演技がみなどれも平田満や三浦洋一の演技の物真似のようだったのに辟易した覚えがある。
 それでも青山のVAN99ホールで観た「ストリッパー物語」や紀伊国屋ホールで観た加藤健一が入団後の「熱海殺人事件」には新しい時代の熱気や息吹を感じたものだ。
 それも今は昔の話である。

 つかさんの芝居づくりには、役者を育てる機能がたしかにあると感じる。小手先の器用さを求めるのではなく、その人間の生きざまなどといういささか時代錯誤的な言葉を背景にした感情表白を否応なく強いる部分がそれであり、役者というものは成長の過程で一度はそこを通り抜ける必要があると今でも私は思っている。
 もっとも、そこから次のステップに進んでいけるかどうかはその役者自身の努力や天分が答えを出す領域なのでもある。

 つかこうへいの芝居が今の時代にどういう意味を持つのか、その評価は難しい。
 その言葉や俳優の身体から放射される熱が今も昔のように観客の心に響くとは限らないからだ。
 時代はあまりに変わってしまった。
 

今日もあちらこちら

2010-07-11 | 日記
 ミュージカル「ひめゆり」を観た話は前回書いたばかりだが、上演会場の劇場「シアター1010」にはその建築途中に見学をさせていただいた思い出があり、なつかしく感じた。
 あれはもう5年以上も前になるのか。当時、ある劇場の建設にスタッフの一人として関わっていたことから、再開発手法による建築のあり方やら他のテナントとの合築による方法やら勉強する必要があったのだ。
 オープニングセレモニーにも顔を出させていただいたのだが、あれからいろいろなことがあったのだなあと改めて感じてしまった。
 劇場の床の傷にもすでに歴史が刻まれているのを見て、過ぎ行く時の酷薄さを感じたものだ。

 さて、昨日、7月10日は選挙戦の最終日。
 池袋東口駅頭でどこやらの党首が大演説をぶちあげているのを横目に、ノンフィクション作家で地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人である森まゆみさんの話を聞く少人数の会に参加した。
 あしかけ27年続いたという「谷中・根津・千駄木」は昨秋終刊となったが、「終わったのではなく、違った形で進んでいく」のだとのこと。
 文庫にもなっている著書「谷根千の冒険」を読むと、地域雑誌というフィールドや仲間とのコラボレーションが一人の女性を作家として鍛え上げていく基盤となっていたことがよく分かる。
 プライド・オブ・プレイス(町の誇り)を取り戻すための戦いの記録でもあるこの著作は、町おこしや文化政策をめざすあらゆる人々にとって必読の教科書になり得るものだと思う。

 さて、投票日となった今日のこと、その谷根千の根津とは無関係ながら、南青山の根津美術館に「いのりのかたち~八十一尊曼荼羅と仏教美術の名品」展を観に行った。
 美術館の持つ公共的役割については改めていうまでもないことなのだけれど、こうした私的コレクションの厚みや建築物としての美術館の素晴らしさをまざまざと見るにつけ、「公」の担い手のあり方について深く考えざるを得ない。
 事業仕分けに伴う一連の騒動や、政権が不安定になることによる文化政策の方向性への影響等を考えると、いっそ国や自治体は文化行政から潔く手を引くべきなのではないだろうかとさえ思えるのだ。
 もともとそこには、明確な方向性などなかったのかも知れないのだが。

ミュージカル「ひめゆり」を観る

2010-07-11 | 演劇
 以前、舞台でご一緒したuniちゃんからご案内をいただいて、彼女が出演している北千住の劇場シアター1010で上演中のミュージカル「ひめゆり」を観に行った。
 ミュージカル座の創立15周年記念公演、終戦65年特別企画と銘打った作品で、タイトルから分かるとおり、太平洋戦争末期の沖縄で犠牲となった「ひめゆり学徒隊」の悲劇を描いている。
 脚本・作詞・演出・振付:ハマナカトオル、作曲・編曲・音楽監督:山口也、出演:知念里奈、岡幸二郎、井料瑠美、原田優一ほか。

 私はフレッド・アステアのファンを自認しながら、実のところミュージカルの舞台には縁遠いまま今に至ってしまっている。今回の舞台も案内をもらわなければおそらく足を運ぶことはなかったと思うけれど、さすが10年以上にわたって再演を重ねてきた作品だけによく練り上げられていると感じた。
 何よりも、沖縄の人々の目線で戦争の悲劇や日本軍人の非道さも明確に描かれている点は特筆に価するだろう。
 戦争を題材とした作品において、何を描き、何を描かないか、視点をどこにおくかは、常に極めて難しく重要な問題なのだ。

 そこで考えたのが、こうした悲劇を描くのに、ミュージカルという表現形式の持つ特質が意外にも適しているのではないかということだ。

 今回の音楽伴奏は録音によるものだったが、それが生演奏であった場合にも、芝居の進行がスコアのリズムとテンポによって統御されることで、俳優の不必要な情感のために劇が間延びしたり弛緩したりする弊害から免れることに役立っていると思えるのだ。
 たとえば岡幸二郎は、ひめゆり部隊や一般島民とともに逃げ込んだ洞窟のなかで、敵兵に見つかるというだけの理由で泣き止まない赤子を捻り殺したうえ、その母親を射殺する卑劣な兵隊を演じていたが、これがストレートプレイであれば、その俳優は役に感情移入するために相当な努力を要したことだろう。
 ミュージカルの場合には、音符によって導かれた歌唱を通した登場人物の造形を行うことで、不要な役づくりに悩む必要がなく、自身を客体化することが比較的容易にできるのではないかと思えるのだ。

 観客にとっても、そこで観たことによる感情の異物感を沈殿させることなく、音楽によって浄化して劇場をあとにすることができる。しかも、描かれたテーマは結晶化されて心に残る。
 戦争の悲劇を描くのにミュージカルこそ相応しいという発見は新鮮だ。

マネとモダン・パリ展

2010-07-08 | アート
 丸の内に新しくできた三菱一号館美術館で開催されている「マネとモダン・パリ」展を観に行った。
 三菱一号館は、1894年、日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計により建築された洋風事務所建築である。老朽化のため1968年に解体されたのだが、40年余りを経て原設計に基づき復元され、美術館としてよみがえったのだ。
 
 平日の午前中というのに入り口には多くの観客が立ち並び、入館まで25分待ちだという。わが日本はなんという「文化大国」かと誇らしく思う一方、大半が中高年の女性というその光景に何となく屈折した思いも湧いてくる。
 以前、友人の陶芸家RIKIちゃんが新国立美術館にルーシー・リーの展覧会を観に行って、「こりゃ美術館のアウトレットか」「中を歩いている人の7割は女のひとだったな。美術館は今やおばさんの一大リラクゼーション施設か。何となくおじさんは肩身が狭かった」と書いていたのを読んで思わず笑ってしまったことを思い出す。

 今回の展示作品のなかではやはり「死せる闘牛士(死せる男)」がひときわ印象的な実在感を放っている。「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」も美しいし、「花瓶に挿したシャクヤク」や「4個のリンゴ」のような静物画も素晴らしい。
 絵画に関して私はきわめてノーマルで保守的な美術ファンでしかない。
 
 そんな美術館につめかけた沢山の観衆を眺めながら、そこに展示されているマネの作品の多くが、発表当時はまったく相手にもされないか、あるいは嘲笑の対象だったことを思い浮かべると、実に複雑な感慨に捉われる。
 この人たちも、そしてただの愛好家に過ぎないこの私も、その目に映っているのは世俗的に確立した「評価」や「成功」、金銭に換算される「価値」なのであって、作品そのものの「価値」ではないのではないか。
 そもそも作品の「本当の価値」など誰にも分かりはしないし、そんなものが本当にあるかどうかも分かりはしないのである。
 では、私たちは何を見ているのか。

 岡本太郎がこんなことを言っている。(「ピカソ講義」)
 「ぼくはそういう意味で非常に腹立てたことがあった。戦後しばらくしてからのことだったが、新橋演舞場で三好十郎の『炎の人』という、ゴッホを主人公にした芝居をやったんです。見に行ったら、幕があく前にナレーションがあった。こんなんだった。『私はほとんど憎む。ゴッホが生きていたときにゴッホを認めなかった人たちを』って。それを聞いてカーッとなったね。なんだ、いまゴッホは世界的に有名であり、権威になっている。それに乗っかってドラマ化してる、テメエは何一つしたわけじゃない。お前さんがゴッホが生きて苦しんでいたあの時代にフランスにいたとしたら絶対認めっこなかったじゃないか。しかもいま日本に岡本太郎というゴッホほど悲劇的な人間がいるのに、全然認めやしないじゃないか(笑)」
 最後のオチも含めていかにも岡本太郎らしい。

 先日、ある文化フォーラムに参加した人たちのアンケートを読む機会があったのだが、その中に面白い意見があった。
 もう70歳に手が届こうという女性の方なのだが、ある高名な演劇評論家の講演を聞いた後の感想としてこんなことが書いてあったのだ。
 「そもそも私は演劇などにまったく興味がないので、今日の話は理解できなかった。演劇は感動を与えないし、感動を求めるなら音楽を聞きたい。歌舞伎など見ても面白くないし、衣装はきれいだが、それならどこかに展示された着物を見た方がよっぽどよい」

 決して安くはない受講料を払って聞いた講演の感想として実に面白いと思ったのだがいかがだろう。

 人が何かを観て、感じ、評価する。それはまったくその人、個人のものだ。
 何に感動し、何に関心を持たないか、そのための自由こそ守られなければならないのだろう。
 自分が役者だからといって、万人が演劇を好きだなどと夢にも思ってはならないと肝に銘じよう。
 

ザ・キャラクター

2010-07-04 | 演劇
 3日、池袋西口公園でのイベントに参加したついでに東京芸術劇場中ホールに立ち寄り、運良くキャンセル待ちのチケットが取れたので野田地図(NODA・MAP)の第15回公演「ザ・キャラクター」(作・演出:野田秀樹)を観た。
 思えばかつての私は野田作品、とりわけ「夢の遊眠社」時代の作品に関してはまったくよい観客ではなかった。その理由はいわく言い難いものだが、時代観の相違だったり、言葉遊びへの違和感だったり、不必要にテンポの速いと思われる動きや台詞回しへの愛憎交じり合った反発となって積極的に劇場に足を向けることをしなかったのだ。
 それがこの何年かの仕事振りには、こちらが歳を取って感覚が変わったのか、あちらが歳を取ってテンポがこちらに合ってきたのかは分からないけれど、妙に共感を覚えるようになってきた。
 とりわけ、もう10年以上も前になるけれど、私がある人の批評に傷ついて悩んでいた時期に観た「パンドラの鐘」には大いに勇気づけられた。励まされたといってもよい。それもまたいわく言い難いことなのではあるけれど、そこには自分自身と通低する演技観や世界観があった。それもまた不思議な事だ。

 さて、「ザ・キャラクター」は、例の言葉遊び、人偏のあるさまざまな漢字、「俤」や「儚」といった文字をキーワードにしながら、町の書道教室がオウム真理教や地下鉄サリン事件を思わせるテロと殺戮の舞台へと転換する不気味な世界を描いた作品だ。
 「神」が薄っぺらな「紙」へと誤変換され、ギリシャの紙幣がくしゃくしゃの安っぽい半紙に変容するような価値観の転換が描かれる。それとともに他愛のない幼児性と思われたものが排他的で不寛容な恐怖と支配による暴力性を帯びてゆく。
 これが今回、野田秀樹の提示した日本人論であり世界観であるのは間違いないが、この世界を経ることで彼は何を目指すのか。

 ラスト、宮沢りえ演じるマドロミの声が舞台に悲しい余韻を残す。

マドロミ 「こんなコトバを聞きながら、おまえたちは、筆一本で空を突き刺したつもりだったの?・・・・・・死んだ者たちの祈りは、届かなかった。けれども、こうして生きている者たちの祈りは、なおさら届かない。」
アルゴス 「だったら、生きとし生ける者たちは、忘れるために祈るのか?」
オバちゃん・ダプネー 「それとも忘れないために祈るの?」
マドロミ 「もちろん、忘れるために祈るのよ。でもね、それでも忘れきれないものがのこるでしょう。そのことを忘れないために私は祈るしかない、起きたばかりのまどろみの中で。」

 そこに希望はなく、絶望の中でひたすら鎮魂のために祈る声だけが残る。その祈りは、やがて生まれ来るものをひたすら待ち続けるためのものだ。

 雑感。練達の演出を私は大いに楽しんだが、一つ、書かれた漢字=文字の扱いにはもう少し工夫の余地があったように思わないでもない。
 たとえば、ピーター・グリーナウェイやサイモン・マクバーニーのような西洋の映画監督や演出家だったら文字の霊にどのように感応したろうか。
 そんなことを考えるのも舞台を観る楽しみの一つだ。

赤い鳥

2010-07-03 | 言葉
 7月1日、西池袋にある自由学園明日館で「第40回赤い鳥文学賞」、「第28回新美南吉児童文学賞」、「第24回赤い鳥さし絵賞」の贈呈式があり、その会場に顔を出す機会があった。
 この日、7月1日に贈呈式を行うのは、今から104年前、1918年(大正7年)7月1日に作家・鈴木三重吉によって雑誌「赤い鳥」が創刊されたことに因んでいる。
 その「赤い鳥」の足跡を顕彰するとともに後進の作家を世に送り出すという使命感をもって、この文学賞の創設に尽力したのが「びわの実文庫」で知られる作家・坪田譲治である。
 その坪田譲治の旧宅もこの日の会場となった自由学園のすぐ近くにある。

 残念なのは、その「赤い鳥」の名を冠した文学賞も今回をもって幕を閉じることになったということ。いろいろ事情はあるだろうがもったいない、と思うのは部外者の勝手である。
 この賞の運営は坪田譲治先生のお弟子さんたちを中心に行われてきた、その人たちが次第に高齢化して、まだ元気なうちにきちんと仕切りをつけたいということなのだろう。それはそれで潔い考え方だ。

 さて、各賞の受賞者と作品は次のとおり。
 第40回赤い鳥文学賞: 岩崎京子「建具職人の千太郎」(くもん出版)
 第28回新美南吉児童文学賞: 三輪裕子「優しい音」(小峰書店)
 第24回赤い鳥さし絵賞: 田代三善「建具職人の千太郎」(くもん出版)

 ここで紹介するゆとりがなくて残念なのだが、受賞された皆さんのスピーチが素晴らしかった。岩崎さん、田代さんともに米寿ということのようだが、独特のユーモアと絶妙の間で会場を沸かせていた。
 田代さんの挨拶には、今は寝たきりになられた奥様への愛情もこもって胸が熱くなった。
 受賞の報告をすると、意識があるのかないのか定かではないが、奥様はその本をそっと手で撫でたのだそうだ。
 田代さんは今回の自身の作品について、職人を主題にした絵としては「少し色気が足りなかったようだ」と反省の弁を述べておられる。
 「自分は88歳だが、まだ少し時間が残されているようなので、もう少し描いてみようかと思う」との言葉には聞いているこちらが励まされるようだ。

 最近、何となく心のすさむような出来事が多く、鬱屈を抱えたような気分でいたのだったが、きれいな水で洗われたような清々しさをいただいた。