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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

伝える言葉

2020-12-16 | 言葉
 ナンシー・デュアルテ著「プレゼンテーション~人を動かすストーリーテリングの技法」からのメモを少し引用させていただくと、あのリンカーンのゲティスバーグの演説は278語で構成され、時間にしてわずか2分あまりのものだった、という。歴史上最も短い演説でありながら、最も偉大な演説の一つとして知られている。
 リンカーンがその短い演説のために長大な時間をかけて推敲に推敲を重ねたことは有名だ。彼は常にスピーチ原稿やメモを持ち歩き、時間さえあればそれに手を加えていたという。
 さらに、第28代アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンの言葉――。
 「もし、私が10分のスピーチをするなら、準備に一週間は必要だ。15分なら3日、30分なら2日。だが、1時間のスピーチならもう準備はできている。」

 世の名演説家とされる人々は、自分の考えを、いかに簡潔に、分かりやすい言葉を使って、かつ印象深く伝えるかということに意を尽くしたのだ。

 言うまでもなく、その大前提となるのは、自分が信念をもって伝えたいビジョンをしっかり持っていることだろう。何を言いたいのか意味不明であるばかりか、訊かれたことには答えず、壊れたテープレコーダーのように的外れな言葉を空疎に繰り返し、時間を空費する為政者……。そんな現実を目の当たりにすると絶望的な気分に陥るが、だからこそ、言葉を吟味し、批評する力を私たち一人ひとりが育てていかなければならないのである。

 Twitterは、限られた文字数での発信という制約があるがゆえに、簡潔でインパクトのある言葉の鍛錬と発信に適しているとも思えるのだが、かの国の現大統領のツイートを思い出すまでもなく、実状は、誹謗中傷、デマやウソ、ささくれだった言葉の応酬によって思いもよらぬディストピアの様相を呈している。

 今は、真っ当であること、正直であること、真面目であること、真剣であること、一生懸命であるといったことを、ともすれば揶揄し、嘲弄することで自身を優位な立場におこうとするかのごとき風潮がはびこる時代である。
 しかし、そうした態度からは何も生まれないだろう、と思うのだ。
 私たちに必要なのは、人々に否定でも皮肉でもなく、肯定的なふるまいと勇気をもたらし、手を携えながら真摯に議論を深め、対話し、社会が抱える問題の本質に切り込み、その解決を促すような言葉に愚直に耳を傾けることである。もちろん、そうした言葉のつむぎ手となることが、私たち自身に求められていることは言うまでもない。
 そのような言葉こそを聞きたいと思うのだ。

ジョン・グリシャムを読む

2020-12-04 | 読書
 ジョン・グリシャム著「『グレート・ギャツビー』を追え」を読んだ。
 グリシャムの作品で、プリンストン大学の図書館から強奪されたフィッツジェラルドの直筆原稿の行方を追うというストーリーで、村上春樹の翻訳と聞けば読まないわけにはいかない。
 これは売れるだろうし、映画化もされるだろうし、大方の読者を満足させるだろうという仕掛けがふんだんにある。ここまで仕組まれると期待値がこのうえなく高まってしまうと同時に、いくぶん斜に構えながら読んでしまう部分もあるのだが、世のミステリー読み巧者の皆さんはどう感じただろう。

 奪われた直筆原稿の捜査線上に浮かんだブルース・ケーブルというフロリダで独立系書店を営む書店主を中心に、辣腕の調査官やFBIによって捜査の網は徐々に絞られていくのだが、果たして原稿は奪還できるのか、というのがこの作品の肝である。
 その過程で描かれる稀覯本の世界や書店経営の裏側、ブルース・ケーブルの周りに集まる作家たちの生態などが興味深く面白い。探偵役の主人公であるスランプに陥った若い女性作家マーサー・マンの成長物語という側面もあって、彼女とブルースの交情にもついつい感情移入してしまうのだが、実はそこがこのミステリーの目くらましになっているようなのが、何とも癪に障るとも言える。

 まあ、十分に楽しませていただきました。

仮住まい

2020-12-01 | ノート
 事情があって住み慣れた家を離れ、この何か月か仮住まいを続けているこの街は、坂の多い土地だ。いずれ元の場所に戻ることが分かっているからとはいえ、いつまでもどこか居心地の悪さを感じてしまうのは何故だろうか。このことは、人がその土地に愛着を感じるのはいかなる理由によるのかという問いかけにも通じることだろう。
 元来私自身は根無し草であり、その土地で何代も前から住み暮らしてきたという家柄でもなく、これといった縁故もなく、子どもの頃から転居を繰り返して落ち着くということがなかった。それでも、時にはどうしようもなくそこが好きだという場所を見つけることがあるのだ。
 それが何故なのかと問われれば、その街の空気であり、音であり、街並みの光景であり、その土地に刻み込まれた歴史であり、記憶であり、そこに住む人々の醸し出す体温のようなものとでも言うしかないのだが、しかし、それらを身に纏ってその街を歩く時に、それがどれだけ違和感なく身体にしっくりくるかという感覚はとても重要だと感じるのだ。
 
  ゆっくりと歩いて行く道の向こうに陽が沈みかける。
  その刹那、夕陽は輝きを増したようで、ぎらつく光が僕の目を眩ませる。
  それは、少年の胸から放たれた恋の矢であり、
  老人の薄れかけた記憶の中でいつまでも燻りつづける妄執でもある。



  頭上の高速道路を走る車の音が耳をつんざく。
  見知らぬ誰かに突然声をかけられたように不意を突かれて、
  思わず空を見上げたのは、何ものかの視線を感じたからだ。
  出会っていたかも知れない人との交錯とすれ違い、
  永遠に交わることのない時間を冷ややかに見つめ続けるその眼差し。