seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

フロスト×ニクソン

2009-05-27 | 映画
 以前から観たいと思っていたロン・ハワード監督の映画「フロスト×ニクソン」をようやく観ることができた。
 本作は、1977年、コメディアン出身のテレビ司会者デビッド・フロストが、ウォーターゲート事件によってホワイトハウスを去った元アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンにインタビューを挑み、アメリカのテレビ史上最高の視聴率をはじき出した伝説的な番組の舞台裏を描いた作品である。
 このインタビューを足がかりに全米進出を果たそうという野望に燃える若いフロストと、政界復帰への望みを託す老練なニクソン。
 それぞれのブレーンをセコンド役に従え、テレビカメラの前で言葉のボクシングを戦わす二人の姿は4500万人の国民を釘づけにした、と言われる。

 「アメリカの歴史上、自ら辞任した初の大統領」という不名誉をまとい、ヘリコプターに乗ってホワイトハウスを飛び立つニクソン。その光景をテレビで見たことがフロストの野望に火をつける。まさにテレビ屋の本能を刺激されたのだ。
 フロストはエージェントを通してニクソンに交渉を仕掛ける一方、番組のスポンサー探しに奔走しながら、ついには自ら借金してまで制作費を捻出する羽目となり、次第に窮地に追い込まれていく。
 かたやニクソンも失地回復を図るとともに政界への復帰というチャンスをこのインタビューによって獲得しようともくろんでいた。さらには自らの弁護費用や医療費の支払いによって生じた財政的問題を法外なギャラによって解決したいという事情もあったのだ。
 そうした裏も表も入り交じった心理戦はいやがうえにもこのドラマの劇的緊張を高めていく。

 もともと舞台劇だったというだけあって、言葉の応酬による心理の駆け引きはまさにボクシングの試合を見るように面白い。
 ニクソンを単なる悪役として造形せず、人間としての厚みと幅をもたせ、複雑で魅力ある人間像を描き出したフランク・ランジェラの役者ぶりが素晴らしい。

 それにしてもこうした政治ネタがしっかりとしたエンターテインメント作品として成立するところが彼我の違いなのだろうなあとの感慨しきり。
 これを日本に置き換えたとしたらどうだろう。さしずめ、「ニュースステーション」に転進以前のチャラチャラ感の強かった頃の久米宏が退陣直後の田中角栄に挑んで、その本音と国民への謝罪を引き出すといったような図が思い浮かぶけれど・・・。
 と、そんなことを考えていたら、テレビの報道番組では麻生総理と民主党の鳩山代表の党首討論の映像を映し出している。
 どちらも映画や舞台劇の登場人物として魅力あるキャラクターとは到底思えない。これは幸福なことだろうか。

 今年、この作品はわが国でも舞台版が日本人俳優によって上演されるそうだ。
 どうなるか。

おくるひと おくられるひと

2009-02-09 | 映画
 映画「おくりびと」を観た。監督:滝田洋二郎、脚本:小山薫堂。ご存知のとおり、米アカデミー賞外国語映画賞ノミネートということで映画館は賑わっていたが、昨年9月の公開作品を今頃になって観るのは申し訳ない気もする。
 でも、映画は完成してからもこうして作品は残り、一人歩きして成長しさえする。「保存」のできない演劇と引き比べていつも羨ましいと感じてしまうのだが、昨今の日本映画の健闘は喜ばしい限りだ。
 それにしても、「死」という人間の根源に関わるテーマを扱いながら、ユーモアと普遍性、娯楽性を持たせつつ高い水準を獲得しているこの作品は本当に素晴らしい。

 オーケストラに所属していたチェリストの主人公が、突然楽団が解散になったのを機に実家のある山形に帰り、ひょんなことから納棺師になる。それを妻に言い出せずにいたところがある日妻の知るところとなり葛藤が生まれる。
 この妻役は、ともすれば埋もれてしまいかねない役どころだけに、難しかったのではないかと思うのだが、広末涼子はその存在感をよく出していた。本人はもちろん監督の成果だろう。
 ただ、映画の設定上仕方のないこととはいえ、納棺師という仕事を人に言えないような仕事、けがらわしい仕事として強調しすぎているのはやや違和感が残る。そうしないと確かに劇としての葛藤も生まれないのだけれど。

 映画の本筋とはまるで関係のない感想なのだが、余貴美子と吉行和子は世代が異なるけれど、キャラというか柄がよく似ているなあと改めて思った。どちらも好きな女優さんなので余計そう感じるのかも知れないが、そう思ってみると顔も声もよく似ているのだ。
 山努はやはり伊丹十三監督の「お葬式」を思い出す。厚みのある演技で映画のリアリティを支えていた。

 公開中ゆえ、未見の人にネタバレしないように気をつけなければいけないが、この映画は、「いしぶみ」という自分の気持ちに似た形の石を相手におくるという風習が重要なモチーフになっている。
 「おくりびと」は「おくられびと」でもあるのだ。主人公は死者の尊厳を最大に保ちながら儀礼を尽くして見送りつつ、大切なものを次の世代に伝えようとする。
 私ごとになるが、主人公とその父親の関係は私自身の経験と重なっていて身につまされた。ある事情から私は父親の死を看取ることができない立場だったので、なおさらなのだが、この映画を観て癒されたし、救われたような気がする。
 誰もがそんなふうに自分の人生と重ね合わせて観ることのできる佳品である。

大都映画のスター

2009-01-27 | 映画
 大都映画撮影所では実に魅力的な俳優達がまさに綺羅星のごとく活躍していた。その多くは他の映画会社や劇団で食い詰めた半端者だったかもしれないし、あるいは河合徳三郎独特の強引さで他社から引き抜かれてきた文字どおりのスターたちであったかもしれない。
 その一端は、前述の本庄慧一郎著「幻のB級!大都映画がゆく」を読んで偲ぶことができる。
 殊に男優陣の魅力は圧倒的だ。ハヤフサヒデトはもちろん、杉狂児、ギョロ目の山吹徳二郎、黒澤明の映画でもおなじみの山本礼三郎、伴淳三郎、阿部九洲男、藤田まことの父君である藤間林太郎、戦後も数多くの映画で活躍した二枚目水島道太郎、松方弘樹、目黒祐樹の父君でテレビシリーズ「素浪人月影兵庫」でも大人気を博した近衛十四郎などなど。
 女優では私の個人的な好みで大河百々代が筆頭だが、実は初代美空ひばりが大都映画にいたということを今回初めて知った。
 さらに特筆すべきは大山デブ子の存在だ。彼女は、ハヤフサヒデト監督・主演の「争闘阿修羅街」にも悪漢に誘拐される令嬢宅の女中役で出演している。当時23歳くらいだったはずだ。
 彼女の名前を私たちの多くは寺山修司の戯曲「大山デブ子の犯罪」で耳にしているかも知れない。演劇実験室天井桟敷の第2回公演として、1967年9月1日から7日まで新宿末広亭で上演。演出・東由多加、美術・横尾忠則、井上洋介、音楽・和田誠、出演・新高恵子、大山デブ子、萩原朔美。
 彼女は寺山修司の舞台に出ていたのだ。その時たしか52歳。まだまだ現役だったのだ。
 大山デブ子が河合=大都映画入りしたのは12歳の時。大岡怪童とのデブデブコンビとギョロ目の山吹徳二郎とのトリオのコメディ路線は老若男女を問わない大人気で抜群の観客動員を誇ったという。
 寺山修司はそんな大山デブ子の映画を故郷の青森県の映画館の舞台裏で垣間見ていたのだろうか。後年の映画「田園に死す」にも登場するサーカス団員の空気女など、彼女へのオマージュを感じさせる。

 それにしても戦前におけるこの豊島区という街は本当に興味深い。
 長崎村地域にはアトリエ村が群れを成して多くの若い美術家・芸術家を輩出し、池袋モンパルナスと呼ばれる文化圏を形成した。目白では赤い鳥を中心とした童話童謡文化が花開き、巣鴨では映画産業が時代の寵児となって大衆の娯楽を提供していた。
 これらが同じ時代、わずか3、4キロ四方の狭い地域に集積していたのである。
 それぞれ分野ごとに語られがちなこれらの歴史であるが、こうした絵描き、彫刻家、詩人、小説家、俳優、学生たちがあちらこちらで交流しなかったわけがないのだ。
 ぜひとも、そうした観点からの文化史に光をあててみたいものだと思う。

英国王給仕人に乾杯!

2009-01-04 | 映画
 チェコの映画作家イジー・メンツェル監督作品「英国王給仕人に乾杯!」(原題:私は英国王に給仕した)を観た。今年の映画初めは日比谷のシャンテ・シネで観たこの作品だ。
 原作は、ミラン・クンデラが「われらの今日の最高の書き手」と評したボフミル・フラバルが1971年に書いた小説。当時、地下出版でひそかに読まれ、外国で出版された後、チェコで公に出版されたのは1989年、欧米では重版を重ねる人気作でありながら、日本では未刊である、とパンフレットで紹介されている。
 簡単に言えばこの作品は、1930年代から63年頃のチェコを舞台に、小柄な主人公ヤンが、駅のホットドック売りからレストランのビール注ぎ、そしてホテルの給仕人となり、百万長者のホテル王に登りつめたのもつかの間、政治体制の変化に伴って収監され、15年の刑期を経て、ズデーテン地方の山中の廃村に住み着き、人生を回顧するというもの。
 その間、ナチスの台頭、共産主義への移行といった政治と歴史に翻弄されながらも、やたらと女性にもてるこの小男の艶笑譚的遍歴がビッグ・フィッシュな大ぼらと実に軽妙な語り口によって展開される。もちろん底には冷徹な視点と辛らつなユーモアを湛えながら。

 一言でいって、素晴らしい作品だ。こうした映画を観ると、芸術の持つ力を感じて心底から幸福を感じる。
 主人公ヤンは若いヤン、老ヤンと二人の俳優が演じていて、若いヤンを演じるのはブルガリア人のイヴァン・バルネフ。チャプリンを思わせる演技が絶賛されたとのことだが、映画そのものもチャプリンはじめ、ジャン・ルノワール、フェリーニ、無声映画など、先行する映画へのオマージュに満ちている。
 映画を観る楽しさと表現することへの愉悦を満喫した映画館での120分。

下妻物語に魅せられて

2009-01-03 | 映画
 中島哲也監督の映画「下妻物語」(2004年製作)を観た。ここでいう映画とは映画館で観た作品に限ることを基本にしたいのだが、私はこれを年末の深夜、テレビで見て、あまりの面白さにぶっとんだ挙句、DVDを借りてもう一度観た。ファンの皆様には本当に申し訳ないが、これまでご縁のなかったことを詫びつつ、少しばかりふれておきたい。
 とは言え、私は本作の重要な素材であるロリータ・ファッションにもヤンキーにも興味はなく、造詣もない。それなのにこれほど興奮してしまうのは、この作品に満ちている映画的快感のためだろう。そこには中島監督の感性とそれを形にする才能と力量が横溢しているのだ。
 全体を通じて感じるのがリズム感の心地よさである。それはなにも奇を衒ったものではない。もちろん展開の意外性は以下に示す原則にしたがって随所に散りばめられているのだが、それ自体がリズムを刻むように精神の躍動を伝えるのだ。それは古来、能楽にいう序破急のリズムである。
(もちろん2年後の作品「嫌われ松子の一生」にも同様に見られるのだが、「下妻物語」において典型的に表わされていると感じる。)

問。能に、序破急をば、何とか定むべきや。
答。これ、易き定め也。一切の事に序破急あれば、申楽もこれ同じ。能の風情をもて、定むべし。

 全編の構成はもとより、1つのシークエンス、1つのシーンにもこの序破急のリズムは満ちており、それは時にずらし、反復し、緩急の差をつけながら増幅される。
 凡百の映画においていかにこのリズムを無視した結果、退屈をもたらす作品の多いことか。

 さらに感じるのが、人を惹きつけるための工夫が原則どおりに展開され、作品のなかで発展していることだ。このことは中島監督が長年CMフィルムの世界でしのぎを削ってきたことと無縁ではないだろう。
 私はたまたま「アイデアのちから」という、スタンフォード大学教授チップ・ハースと経営コンサルタントで編集者のダン・ハースという兄弟の書いたビジネス書を読んでいるのだが、人の興味を引きつけ、記憶に焼きつかせることをテーマとしたこの本では以下の原則が示されている。

1.単純明快であること
2.意外性があること
3.具体的であること
4.信頼性があること
5.感情に訴えること
6.物語性があること
 その一つひとつを詳細に立証したい誘惑に駆られるが、大まかにこの映画からは以下の特徴を示すことができるだろう。

 ロリータ・ファッションに身を包んだ桃子とヤンキーガールであるイチコの友情物語という単純明快さ。
 桃子はその外見に似合わず自己中心的であり、信念を曲げない。一方イチコは友情に篤く涙もろい育ちのよい面があるという性格設定、さらに、二人の育った生活環境といまの姿のギャップは意外性に満ちている。
 二人を結びつけるのは、刺繍である。ロリータ・ファッションと特攻服への刺繍には具体的かつ組み合わせの意外性がある。
 下妻や代官山という地名、ロリータや暴走族はイメージとして具体的であると同時に、ある種ブランド的な信頼性を有している。
 二人の友情は滑稽でありながら感情を揺り動かす。
 映画はラスト近くで東映の仁侠映画のような物語性を発揮するとともに、ところどころ挿入されるアニメによって語られる伝説の暴走クイーンのような、いわゆる都市伝説が映画を通低する物語として魅力を放っている。

 こうしたツボを外さない作劇術のうえに立って、ビッグ・フィッシュ的な語り口が観る者を惹きつけるとともに、主役の深田恭子、土屋アンナという魅力的なことこのうえない二人の女優がその物語を豊かに肉付けする。
 この映画はそうした原則に忠実であるがゆえに、必然的に成功したのである。

ポニョと漱石

2009-01-03 | 映画
 「崖の上のポニョ」を製作中の宮崎駿氏が夏目漱石を読んでいたことはよく知られている。私の行きつけの書店では、ポニョ人気にあてこんで、漱石の文庫本を並べ、特に「門」のところには書店員の書いたと思われる「崖の下の宗助と千代の物語」なんていうポップが踊っていたりしたものだ。
 それにしても「ポニョ」がこれほど国民的人気をさらった理由は何なのだろう。観客動員は1200万人を超えたとかで、日本人の10人に1人がこの作品を観たということになるのだが、自分の事を棚に上げて言えば、たしかにこの数字はいささか多すぎるような気もする。
 大衆の志向性が偏りすぎるのは危険な兆候であるといわれるが、しかしこれは政治ではない、アニメの話である。
 人々はポニョの世界に何を観たがっているのだろう。それはこの何ものをも信じきれない時代にあって、ひたすら「ポニョ、宗介が大好き!」を貫くピュアな姿だろうか。
 宮崎駿によれば、これは「海に棲むさかなの子のポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我侭をつらぬき通す物語」なのである。
 そして、ポニョが宗介と一緒に生きるためには人間にならなければならず、そのために必要なのは、ポニョに対する宗介の純粋な愛情だけなのだ。

 一方、漱石の「門」は、主人公の宗助が、親友の妻だった御米と不倫の恋をし、親友を破滅させた挙句、世間から逃れるようにひっそりと生きる物語である。「崖の下」の家は、陰気で、ひっそりとして、雨が降ると雨漏りがするというように、世間に背いた二人の未来のない生活感覚を暗示するものとして描かれる。
 あまりに対照的な崖の上と下の二つの世界。

 ポニョと生きるために宗介は永遠の愛を誓う。それは幼児の何気ない愛情表現であって、そのことが引き起こす将来の問題を彼が認識しているわけではもちろんないだろう。未来にどんな世界が待ち受けているのか、何も知らないまま重い運命を背負ってしまった男の子の悲哀や、それゆえの戸惑いをそのふとした表情に感じて、私は宗介がいとおしくなる。
 それに対し、ポニョの愛はひたすら我侭であり、それゆえに、強い。そのために津波が起ころうが、月が墜落しようが、世界全体が引っくり返ろうが、海に沈もうが、かまいはしない。ひたすら「宗介、大好き!」を貫きとおす。そうした強い愛に私も呑み込まれたくなる。

 漱石は宗助のことを次のように描く。
 「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」
 閉塞感の充満するこの世界にあって、ポジティブに門を突き破ることの素晴らしさを、嵐の海を突っ切って走るその姿をとおして、ポニョは私たちに教えているようである。
 しかし、それは危ういバランスのうえに立った決断でもある。その愛と引き換えにポニョは人間にならなければならず、魔法の力を失わなければならない。その後の運命を引き受けるのも、切り開くのも「人間」となった彼女自身なのだから。

ポニョと黄金比

2009-01-02 | 映画
 年末の歌番組で大橋のぞみちゃんの歌声を聞いたせいだろうか、今になってポニョのことを書いておきたくなった。
 すでに2ヶ月ほども前のことになるが、昨年、仕事がらみで三鷹市のジブリ美術館に行く機会を得たのは幸運だった。あえて言えば、私はポニョが大好きなのである。
 都合で美術館には1時間足らずしかいられなかったのだが、中でもジブリのスタジオや宮崎駿の仕事場を再現した(実際そのとおりかどうかは知らないのだが)コーナーは、手作り、ものづくりのスピリットにあふれた場所で、一日中でもそこに佇んでいたかった。
 そこにはポニョの手描きのコンテや下書きも多く無造作に壁に貼り出されていたが、このポニョの顔や姿のバランスは本当にかわいらしさの黄金比であると思う。
 当然映画は観ているのだが、そのほかにも私はポニョ関係の本を書店で眺めては思わず買い込んでいる。あの黄金比を見ているだけで私は幸福になり、涙が自然に流れてくる。まったくおかしな話なのであるが・・・。
 ところで、すでによく知られている話だけれど、今回ポニョの製作にあたって、宮崎監督は徹底的に手描きにこだわっている。
 その理由を宮崎監督自身が「文藝春秋」1月号で次のように語っている。
 「・・・CGをつかわず手書きに戻ったのは、そのほうが自由に描けて楽だからなんです。たとえば子どもが歩くところをよく観察すると、足を一定に交互に出したりしない。トテテ、トテ、トテ、とふらふらします。走ってスカートが翻っている様子なんて、もっと複雑です。これまでは時間的、経済的な理由から、同じ画を繰り返して動かしてきたけれど、もう、全部描いちゃえーと。」
 つまり、よりリアルな絵を描きたいという欲求にしたがったということだが、これまでのジブリ作品の成功が、そうした経済的・時間的環境を彼にもたらした、ということなのだろう。

 ちなみにその作画枚数を作品ごとに比較すると次のようになる。
   ・風の谷のナウシカ   56,078枚
   ・となりのトトロ      48,743枚
   ・もののけ姫      144,043枚
   ・千と千尋の神隠し  112,367枚
   ・崖の上のポニョ    170,653枚
 
 思わず息を呑んでしまうが、ものを手でつくるということの素晴らしさと幸福感がそれだけポニョには籠められているのだろう。

オバマとジョンソン

2008-11-12 | 映画
 すでに10日近くも日が経ってしまったが、アメリカの大統領選挙は、「変革」を謳った民主党の若きバラク・オバマ候補が圧倒的な差で共和党のマケイン候補を破り、次期大統領に選ばれた。
 8年間のブッシュ政権に対する嫌悪感がピークに達していたことや、折からの金融危機が選挙戦の行方を左右した感はあるが、それにも増して「変革」を求めるアメリカ国民の願いが強かったということなのだろう。
 それにしても、国政に出てまだ4年ほどに過ぎないオバマ氏が、予備選や本選を勝ち抜き、そしてそれを多くの国民が支持して黒人初の大統領になるという、わが国では到底考えられないような「変革」を成し遂げようとする米国民のパワーには、まだまだあなどれない底力を感じる。
 それを推し進めたのが言葉の持つ力であることは言うまでもない。オバマ氏の演説力を宮崎の東国原知事は「技術論的には普通」と評したそうだが、そうだろうか。役者の目から見て、オバマ氏の演説にあってわが国の政治家にないのは、言葉のリズムであり、ボキャブラリーであり、腹式呼吸による発声であると思えるのだが、この違いは雲泥の差だと思うのだけれどいかが?
 だって、誰とは言わないけれど、日本の政治家の演説は喉発声でどうしても浪花節語りのようになってしまうためか、耳に心地よくないことこのうえないのである。
 母音が先に立つ日本語と違い、英語の発声は喉に負担がないようである。また、「チェンジ!」と言い切ってしまえる単語の簡潔な表現力や韻の踏みやすさなど、英語の特質が演説に活かされているのを見るにつけ、日本語による演説の研究を本気でやるべきではないかと思う今日この頃である。
たとえば、福田恒存訳によるシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」で有名なアントニーの演説など、政治家を志す方は必須のものとして暗誦することにしたらどうだろう、と半ば本気で思っているのだが。
 ・・・話がそれてしまったけれど、次期大統領への期待感がかつてないほど高まっていることは間違いない。そしてこの期待値の高さは、その反動の大きさをも予感させるだけに、次期政権にとっては両刃の剣とも、重荷とも映るに違いない。オバマ演説に希望をもったマイノリティや低所得層の人々をはじめとする国民の期待をいかにつなぎとめることができるのか、困難な道のりはすでに始まっている。
 さらに言えば、米国における保守主義の根深さを指摘する声も一方にはあり、それはそれで確かにそうだと思わせられる。金融危機が顕在化するまで、マケイン陣営が優勢に立った時期もあったのであり、いまだに低所得の白人層はオバマ氏への警戒感を緩めていないと言われているし、黒人層の多くが抱える貧困な状況がすぐに改善するとも思えない。経済政策に明らかな成果を上げられなかった場合、オバマ大統領への期待はすぐさま極端な失望へと塗り替えられてしまう可能性は高いといわざるを得ない。
 「チェンジ!」を掲げたオバマ候補の色褪せたポスターを前に「結局、何も変わらなかったのさ」と若者が気力をなくした声で呟く、といった映画のワンシーンのような光景だけは見たくないものである。

 映画といえば、先日、たまたまCATVの番組で「ジョンソン大統領/ヴェトナム戦争の真実」という映画を観る機会があった。
 これはジョン・フランケンハイマー監督の遺作で、ハリー・ポッターの映画でダンブルドア役のマイケル・ガンボンがジョンソン大統領を演じている。
映画は、37代副大統領だったリンドン・ジョンソンが、ケネディ大統領の暗殺後、かつてない高い支持率のもと第36代米国大統領になった直後のパーティのシーンから始まる。
 ここで描かれるのは、映画「JFK」でケネディ暗殺の黒幕のようだった彼ではなく、理想に燃え、公民権運動にも深い理解を示し、黒人差別解消に情熱を燃やす一人の政治家である。
 その彼が、軍部や国務長官の進言に従い、ヴェトナムへの兵士の増派を続けるなかで次第に泥沼に入り込んでしまう。それは抗し難い時代の空気のようなものであったのかも知れないが、現実は彼の理想を裏切り続ける。
 「福祉や教育に力を注ぎたいのに、18時間の執務時間のうち、12時間がヴェトナムへの対応に費えてしまう」と嘆き、戦争からの撤退を訴えるロバート・ケネディのテレビ画像に向かって「お前たち兄弟が始めた戦争の尻拭いをしているのが誰だと思ってるんだ」と怒りを露わにするジョンソン。その彼のもとから、側近達も次々に去っていく。
 ここで描かれているのは、ある特殊な政治状況下でのた打ち回る人間の姿であり、孤独に苛まれる普遍的な指導者の姿である。
 こうした状況にオバマも呑み込まれるのか、それとも「不屈の希望」によって乗り越えるのか。世界が注視している。