seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

「銀河鉄道の夜」とケア

2021-11-06 | 読書
 時たま思い立っては読み返したくなる小説や童話がある。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」もそうした作品の一つである。普段は文庫本で読むことが多いのだが、私の書棚の奥には1980年代のはじめに出た筑摩書房の「新修 宮沢賢治全集」があって、今回はそれを引っ張り出し、収載されている「銀河鉄道の夜」の異稿(初期形)を比べながら読んだ。

 すでにネット上ではこのことに言及している意見が散見されるが、この作品は、昨今社会問題となっているヤングケアラーの話ではないかということを改めて感じる。
 ジョバンニの姉は彼と母親との会話に出てくるだけで、実際に姿を現すことはないのだが、病弱でどうやら寝たきりになっているらしい母親の面倒や家事を担っていて、おそらくは外に働きに出ているということが想像できる。
 ジョバンニもまた、学校の帰りに活版所で活字を拾う仕事をし、わずかな日銭を稼いでは母親のために牛乳に入れる角砂糖やパンを買ったりする。
 異稿では、母親が働きづめに働いて身体の具合が悪くなる様子やジョバンニが朝早く起きて新聞配達の仕事をする様子が彼の独白の形で描かれている。ジョバンニは子どもらしい遊びの時間や睡眠を削って働き、そのために友だちもなく孤独で、授業中は頭がぼんやりとして眠くて仕方がないのだ。

 「ぼくはおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする」というのは、一緒に銀河鉄道に乗り込んだカンパネルラの独白だが、これはジョバンニの心情にも共通するもので、作品全体に通底するトーンとなっている。
 これは誰かの幸いのために自らが犠牲になるという作品のテーマに直結した設定でもあるのだが、これを今どう捉えればよいのか。批判的に見るか、肯定するのか深く考える必要があるだろう。
 さらに異稿では、カンパネルラの家庭と比較して、ジョバンニの家庭の暮らしの貧しさも描かれる。こうしたことから賢治は、現代において問題が顕わになっている社会的、経済的な格差をはじめ、いじめといった問題をも視野に作品を構想していたのではないかと推測されるのだ。
 異稿に書かれたこれらの事柄の多くは、今私たちが目にする最終形においては入念に省かれ、描写の奥底に見え隠れするだけなのだが、そのことによって作品は普遍性を獲得し、より象徴の純度を高めていると感じる。

 一方、ラストシーンでは、カンパネルラの犠牲的な死が衝撃的に知らされるが、同時にカンパネルラの父親の博士からは、ジョバンニの父が近く帰還することが伝えられる。
 ジョバンニは胸がいっぱいになりながら、「母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと」一目散に河原を街の方へ走ってゆくところでこの物語は終わっている。
 このラストはジョバンニの境遇にかすかな希望をもたらすものと捉えればよいのだろうか。しかし、友人の死がパラレルに描かれているために、読者はこれを素直には受容することが出来ないのだ。
 おそらくはジョバンニの家庭の苦境の多くが「父の不在」によってもたらされたと考えれば、「父の帰還」はジョバンニが抱える問題や鬱屈の多くを解決に導いてくれる要素にはなり得るだろう。だが、父の存在=父権の確立がそのまま子どもや家庭の幸せに直結していると読み取られかねない一面を見てしまうと、この物語のラストにはより複雑な感情を呼び起こされてしまう。

 私自身はこれまでごくありきたりな一般的な読者として賢治の詩や童話を読んできたに過ぎないのだが、もっと深く読み込み、読解する必要のある作品なのだと今さらながらに思う。


「忘れないこと」と「記憶すること」

2021-08-17 | 読書
 群像9月号に載っているジョン・フリーマンの五篇の詩と訳者である柴田元幸氏の解説を読んだ。
公の「場」である「公園」をテーマにした詩である。公園といってもうちの近所にあるような、休日に親子でにぎわうような長閑な公園ではない。ホームレス、難民など、輻輳する多様な視点から見、見られた公園。しかし、私たちの身近にある公園にも実は同じ問題はひそんでいるはずなのだ。
 「現実の公園ではさまざまな形で排除の力がはたらく」のである。
 公園という公共の場に親子連れも老人もホームレスも集うのだが、そこでは互いの視点が交わされることはない。

 同じく群像9月号の「[芥川賞受賞記念]石沢麻依への15の問い」を読んだ。
 「貝に続く場所にて」で第165回芥川賞を受賞した石沢麻依氏へのインタビュー記事である。作品もさることながら、すごい人が出てきたなあという印象。
 「貝に続く場所にて」は、語り手の「私」が留学するドイツ・ゲッティンゲンの街に、東日本大震災で行方不明となった友人・野宮の幽霊が訪ねてくるところから始まる寓話的設定の小説である。震災からの年月とゲッティンゲンの街の歴史や時間が交錯し、聖女の洗礼名を持つ現地で知り合った女性たちの抱える悲しみと、帰る場を失くした友人の霊が呼応しながら、記憶が多層的に塗り重ねられた絵画を紡ぎだすような世界が描かれる。「私」をワキ方として、登場人物たちの魂を鎮めようとする夢幻能の構造を持った小説として読んだ。知的で濃密な文体によって構築された傑作である。

 当のインタビューの中で、石沢氏がこの小説を書くことを後押ししてくれた作品として、内田百閒の短編「長春香」、寺田寅彦の「天災と国防」、W・G・ゼーバルトの「アウステルリッツ」などをあげている。これらの作品には、「忘れないこと」ではなく、「記憶すること」への強く静かな姿勢が表されていると氏は言うのである。
 この「忘れないこと」と「記憶すること」という二つの言葉=態度は、本作を読み解く重要なキーワードである。
 これについて、石沢氏は8月4日付の毎日新聞夕刊掲載の寄稿「芥川賞を受賞して『記憶へ向かう旅』」でも言及している。以下、引用する。
 ……「忘れない」というのは一定の枠組みに収まった過去を、すでに作られた印象を共有することである。ある意味、それは受け身としての覚え方なのかもしれない。それに対し、「記憶すること」は、ひとりひとりが、見たり読んだり聞いたり調べたりしたことを通して、独自のやり方である物事の観点を作り上げ、磨きぬいてゆくことなのだろう。その行為を通して得たものは、簡単に壊れることなく自分の中に残り続ける。(中略)受動的なものは忘れられやすいが、能動的に向き合って得たものはいつまでも消えることはない。……
 石沢氏の執筆を突き動かしたものや作品のテーマにこの「記憶する」という態度を選ぼうとする姿勢があることは言うまでもない。

 この「記憶すること」は、先の大戦の記憶をどのように繋いでいくかということとも深く連なる問題である。群像誌のインタビューの中で石沢氏が語っている。
 ……ドイツでは、第二次世界大戦の記憶をいかに繋いでゆくか、ということについて非常に積極的に議論が行われています。様々な街を訪れ、そこを案内してもらう機会があると、その記憶のモニュメントを示してくれるのです。そこから、過去に対する態度、そしてそれを現在にどう繋げてゆくか、ということを考えるようになりました。……

 翻ってわが国はどうか、ということを考えずにはいられない。今月になって、8月6日の広島平和記念式典、8月9日の長崎平和祈念式典、8月15日の全国戦没者追悼式と、複数回にわたって私たちはこの国の政権を担う立場の人の言葉を耳にしたわけだが、そこに「記憶すること」への真摯な態度は見られただろうか。そうは思えなかった、というのが大方の率直な感想だろうと思う。
 とりわけ近年顕著になっているのが、見たいものだけを見ようとし、過去に向き合って学ぶことをやめ、能動的に「記憶すること」を放擲しようとする姿勢である。そこから発せられる言葉は空疎でしかない。

友情 山中伸弥と平尾誠二「最後の約束」

2021-03-10 | 読書
 ラグビー界のスーパースター、故・平尾誠二氏が語ったという「人を叱るときの四つの心得」は、あまりにも有名だが、改めて心に刻みたいと思う言葉だ。曰く、
 ――プレーは叱っても人格は責めない。
 ――あとで必ずフォローする。
 ――他人と比較しない。
 ――長時間叱らない。

 素晴らしいと思うと同時に、わが身を振り返り、あるいは周りの上司、あるいはリーダー的ポジションにいる人たちの言動を見るに、これがいかに至難の心得であるかということに思い至るのだ。
 フォローするどころか、他人と引き比べ、お前はなあ、などといつまでもネチネチと小言を繰り返す御仁のいかに多いことか。これ、絶対的に逆効果な叱り方なのだが、どうにもやめられないらしい。挙げ句、何年も前の事を持ち出してきて、それをネタにまた愚痴とも小言とも言えない繰り言を延々と開陳される身にとっては最悪の時間の無駄遣いである。

 もう一つ、平尾誠二氏が言ったという、「ボスザルの三つの条件」があるそうなのだ。曰く、
 ――親の愛情を受けて育った。
 ――雌ザル子ザルに人気がある。
 ――離れザルになるなどの逆境を経験している。

 これまた考えさせられる「条件」である。自分が「雌ザル子ザルに人気がある」とは到底思えないし、仕事に行き詰まって辞表を胸に臨んだことはあるにしても、それを逆境とまで言えるのかどうか。さらに、母子家庭で育った私には、母親の愛情は感じたかも知れないが、父親の味はついに分からないまま歳を重ねてしまった。
 もっとも、ボスザルになることを望んだこともないのだから、別にこの条件を満たす必要などないのだが、もしそうした良き友人や上司に恵まれたなら、この人生もまんざらではないと思えたかも知れない、とは思うのだ。
 そう考えると、まさに平尾誠二氏こそ、その条件を十二分に備えた人物だったのではないだろうか。
 
 最近、文庫化されたのを機に読んだのが、「友情 平尾誠二と山中伸弥『最後の約束』」である。先ほどの四つの心得も三つの条件もこの本の中で紹介されているのだ。
 本書は、iPS細胞の研究により、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥氏と平尾誠二氏が、2010年9月に週刊誌の対談企画で初めて出会い、以降、友情と絆を深めた6年間の記録である。さらに、2015年9月に平尾が喀血し、検査で癌と診断されてから、ともに寄り添いながら、家族とともに病と闘った13か月間の記録でもある。
 第1章が山中氏の手記、第2章が平尾誠二夫人である惠子さんの手記、第3章が平尾、山中両氏の対談の採録という三部構成のこの本からは、人が人を思いやることの美しさであったり、大切な人をついに救うことが出来なかった無念さであったり、掛け替えのない人を失った悲しみなど、様々な感情が尽きることなく溢れ出てくるのを止めることが出来ない。
 それ以上に、この本を読んだ人々は、直接には平尾誠二氏と触れ合ったことがなかったとしても、人間としてのその奥深い魅力を知るに違いないのだ。彼と身近に関わった人々の記憶に残るばかりでなく、その行動や発言を伴う鮮やかな姿は、いつまでも褪せることなく生き生きとした輝きを放ち続けている。

 一方、この本からは、冒頭で紹介した平尾氏の言葉ばかりでなく、様々な気づきや学びを得ることが出来るだろう。
 リーダー論、組織論などはもちろんビジネスや教育の現場など、幅広い分野に応用可能だろうが、それ以上に私は、癌を告知されてからの病との向き合い方であったり、山中氏を信じ、文字通り二人三脚で病に対し闘い抜こうとする姿勢に感動するとともに、そうした過酷な中でも失うことのない氏の明るさ、強さが私たちを勇気づけ、鼓舞してくれるのを感じる。
 加えて、山中氏の手記では、治療方法を選択するにあたっての考え方や、その時々で癌がどのように進行し、体内で何が起こっているのかといったことなどが、初心者にも理解できるように書かれていて参考になる。
 また、最も身近にいてその闘病の過程をつぶさに見ていた妻・惠子さんの手記はさらに痛切でもあるのだが、冷静な筆致によって浮かび上がる平尾誠二の姿は、あくまでも明るく爽やかである。
 もちろん、彼の内面は傍目からは窺い知ることの出来ない葛藤や鬱屈を抱えていた筈だが、それを気取られぬばかりか、むしろ周囲を思いやるような優しさと強さが彼にはあったのだ。

 誰もが平尾誠二になれるわけではない。しかし、この本を通して彼の人間性に触れた人は誰でも、自身の内側から湧き起こる変化の力を感じることだろう。癌サバイバーの私もまた、この本を読むことで多くのことを感じ、力を得た一人である。


「リサ伯母さん」「弓浦市」

2021-03-07 | 読書
 人間は記憶する生き物であると、まず簡単に定義づけることは出来るだろう。記憶によって人間は学習し、膨大な知識やデータを蓄積し、それを活用し発展させることで現在ある世界を構築してきたのだと、ひとまず言うことも出来るだろう。
 一方、その記憶というものが極めて曖昧で捉えどころがなく、頼りがいのないものであることもまた確かなのだ。底知れぬほどに深い無意識の海のなかで、得体の知れない記憶が思いもよらぬものに変容して、私たちをがんじがらめにする様を想像して身の竦む思いをした人は少なくないのではないだろうか。

 とまあ、そんな大仰な話ではなく、ごく最近あった記憶にまつわる出来事なのだが、引越をしたついでに家の中にあった写真のアルバムを整理していて、自分が20歳前後の頃、友人たちと旅行に行った時に撮った写真を見つけたのだ。その昔を懐かしむ思いもあって、それを接写したデータをそこに写っている何人かの友人にメールで送ったのだった。
 その反応は様々で、そこにいた別の友人の名前を確認したり、消息を問うものや、自身の現在と引き比べ、あの頃は髪の毛があったなあなどと嘆く声もあったりしたのだが、そのうちの一人の反応が意外だった。
 まず、そこに写っているのはもしかして自分なのか、そもそもこんな顔かたちの人物に覚えがないし、写真にあるような旅行先に行った記憶もないと言うのだ。
 私にしてみれば、その時の旅行は、鮮明な記憶として残り、折に触れ写真を見直すことで、大切な思い出として深く心に刻んできたものなのだ。それをまったく覚えてもいないというのはどういうことなのか。
 聞けば、彼は大学時代に実家を出た際に、そういったアルバムの類いは全て置いてきてしまい、以来それを見ることも思い出すこともなかったのだという。彼のなかでその時の記憶は欠落したまま、更新されることも補完されることもなかったということなのだ。
 それにしても、この彼我の差は一体どういうことなのか、遙か昔のささやかな旅行という小さな思い出にせよ、それをずっと心に抱えてきた者と、まったく顧みるどころか、欠片も記憶にとどめることなく今に至った者と、良し悪しの問題ではなく、その不思議にしばし呆然とする思いだった。

 そんな時、思い出した小説が山田稔の「リサ伯母さん」と川端康成の「弓浦市」である。いずれも短篇ながら深い印象を残す小説であり、記憶がテーマとなっている。

 「リサ伯母さん」は、老年となり、妻が骨折して入院したことにより、一人暮らしとなった主人公が、子どもの頃に憧れていたリサ伯母さんのことを思い出す話である。
 自分を産んで間もなく母は亡くなり、父と手伝いの女性との暮らしの中で、母の姉にあたる美しい伯母さんの来訪とその交流は何よりも美しい思い出だった。
 しかし、入院中の妻からそんな伯母さんのことなど聞いたこともないと存在そのものを否定された主人公は動揺する。そればかりか、日頃の物忘れの多くなっていることを指摘され、さらに若くして事故で亡くなった長男の思い出に拘泥する妻とのすれ違いが彼の心をより混乱させ、不安に陥れるようなのだ。
 その存在証明を示すべく手を尽くすのだが、リサ伯母さんの写真もなく、手紙もない。存在も証明してくれる人も物もないのだ。リサ伯母さんは彼の記憶の中にしか存在しない。そう気づいたとき、彼の不安は焦慮に変わる……。

 一方、「弓浦市」は、作家の香住のところに、九州の弓浦市で30年ほど前にお会いしたという婦人客が訪ねてきて、その弓浦市で邂逅した時の香住との思い出を語るのだが、彼にはその記憶がまったくない、という話。
 そればかりか、弓浦市でその女性の部屋を訪ねた香住が彼女に結婚を申し込んだというのだが、彼にはその過去が消え失せてなくなっている。
 どうやら幸せではなかったらしいその生涯を、香住の追憶によって慰めてもいるらしいその婦人客が帰ったあと、日本の詳しい地図と全国市町村名から、ちょうど同席していた三人の客にも探してもらったが、弓浦という地名の市は、九州のどこにも見あたらない。
 三人の客はその婦人客の幻想か妄想か、頭がおかしいと笑うのだが、香住自身は、自分の頭もおかしいと思わないではいられない。
 弓浦市という町さえなかったものの、香住自身には忘却して存在しないが、他人に記憶されている香住の過去はどれほどあるか知れないのだ……。
 
 「リサ伯母さん」が、自分の記憶に深く刻まれ、美しい思い出として増殖していった女性を巡り、自身の存在そのものの危うさを問いかける小説であるとすれば、「弓浦市」は、見も知らぬ他人の記憶の中で夢見られる自分とは何者なのかという問題を突きつける。
 いずれも深い余韻とともに、脆く儚い記憶の海に揺曳する人間存在のありようを私たちに提示する作品である。
 これまで折にふれて幾度となく読み返してきた二つの小説だが、物忘れの顕著になってきたこの年頃になって改めて読み直すと、わが身に引き寄せながらより複雑な心境を呼び起こされるようだ。

 「実際に起こらなかったことも歴史のうちである」と言ったのは寺山修司だった。
 妄想あるいは幻想であると、いかように名付けられようが、その人の記憶の中に長い時間をかけて沈殿し、根づき、息づく数々の思い出は、それがいかに歪み、変形したものであろうとも、その人生を形づくる掛け替えのないものだ。そのことに間違いはないのである。

ジョン・グリシャムを読む

2020-12-04 | 読書
 ジョン・グリシャム著「『グレート・ギャツビー』を追え」を読んだ。
 グリシャムの作品で、プリンストン大学の図書館から強奪されたフィッツジェラルドの直筆原稿の行方を追うというストーリーで、村上春樹の翻訳と聞けば読まないわけにはいかない。
 これは売れるだろうし、映画化もされるだろうし、大方の読者を満足させるだろうという仕掛けがふんだんにある。ここまで仕組まれると期待値がこのうえなく高まってしまうと同時に、いくぶん斜に構えながら読んでしまう部分もあるのだが、世のミステリー読み巧者の皆さんはどう感じただろう。

 奪われた直筆原稿の捜査線上に浮かんだブルース・ケーブルというフロリダで独立系書店を営む書店主を中心に、辣腕の調査官やFBIによって捜査の網は徐々に絞られていくのだが、果たして原稿は奪還できるのか、というのがこの作品の肝である。
 その過程で描かれる稀覯本の世界や書店経営の裏側、ブルース・ケーブルの周りに集まる作家たちの生態などが興味深く面白い。探偵役の主人公であるスランプに陥った若い女性作家マーサー・マンの成長物語という側面もあって、彼女とブルースの交情にもついつい感情移入してしまうのだが、実はそこがこのミステリーの目くらましになっているようなのが、何とも癪に障るとも言える。

 まあ、十分に楽しませていただきました。

新聞書評を読む

2020-11-18 | 読書
 私は新聞の読書欄や書評を毎週楽しみに読む者の一人だが、それはどの評者がどのような本を選び、どのような切り口でそれを読み取り、読者に紹介するのか、その切れ味を味わうのが楽しみだからである。
 そこで紹介される本の数々は、この時代の実相を反映するとともに、現代社会の奥底に潜む様々な問題をあぶり出している。評者は当該の書物を紹介しながら、そこで浮き彫りになった課題を提示し、その本を読むことの意義を示してくれるのだ。
 毎週、多くの書物が複数の評者によって紹介されるのだが、それが個別のものでありながら、一つのまとまりとなることで新聞各紙の特色となり、社会への批評や主張となっているのが面白い。
 それらの本すべてを読むことが出来ればそれに越したことがないのはもちろんのことではあるけれど。

 11月7日付朝日新聞では、慶応大学の坂井豊貴教授(経済学)が「Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔」(アイリス・チュウ、鄭仲嵐著)を紹介している。わが国でもよく知られるようになった台湾の若きIT大臣オードリー・タンの評伝である。
 オードリー・タン氏の魅力はさることながら、評者がこの本の中から引用しつつ紹介しているオードリーの考え方や生き方に興味を惹かれる。
 例えば、コロナ禍のマスク不足において、オードリーが在庫マップのアプリを数日で完成させたことは広く知られているが、アプリは一人で作ったわけではない。「大勢の人のために行うことは、大勢の人の助けを借りる」というオードリーは様々な人や組織をつなぎ合わせる役割を担う。設計は専門家に頼み、民営の政治サイトで仲間を募り、自身は政府から承認や協力を引き出す。大臣ではあるが、「政府のためではなく、政府と共に」働くのである。
 さらに、オードリーは活動の全てに「ラディカルな透明性」を実施している。日々のスケジュール、会議での発言、インタビュー内容、訪問者との会話などは、全てサイトに公開する。透明性を重視するのは、余計な衝突や誤解を減らすためと、相互理解を促すためだという。
 また、オードリーは、多様な人々が公共の決定に参加して、衆知が集まることを重視する。参加そのものの価値を重んじるからというよりは、有益な意見を政府に吸収させるためだ。

 以上、書評からの引用が長くなってしまったが、これだけでもオードリー・タンの考え方がいかに魅力的かが分かる。と同時に、私たちの置かれている政治的・社会的状況への批評がそこに込められていることに暗澹たる思いを抱かざるを得ない。わが国の政権のありようが、オードリーの示す政府のあり方と真逆であることに今さらながら驚かされるのである。

 同じ紙面では、東京大学の須藤靖教授(宇宙物理学)が小田嶋隆著「日本語を、取り戻す。」を紹介している。本書は、著者が今まで発信してきたコラム33編からなるもので、政治家の発言と、それを巡る新聞社に代表される報道機関の記事が、いずれも理解できないほど劣化しているにもかかわらず、社会がそれに慣れっこになってしまった現状を、一貫してややシニカルにしかし論理的に憂えている、とのこと。
 須藤教授は、本書のタイトルは「科学的であれ」と同義だと解釈したうえで、科学を次のように定義する。
 科学とは、専門家が難しげな知識を振りかざして、勝手な結論を押し付けるものではない。仮に自分にとって自明であろうと、誰もが納得できるような証拠を提示し、論理的にその結論を導く過程こそが科学。
 そのうえで、本書の文章を引用しながら次のように述べる。
 ……「日本語が意味を喪失し、行政文書が紙ゴミに変貌」「国民に対して、起こっていることをまともに説明しようとしない」は、非科学的姿勢の典型例だ。残念ながら、その体質は現政権でも踏襲されたままらしい。……

 以上の2冊の書評の言葉をこうして書き写すだけで、それらが時の政権への痛烈な批判にも皮肉にもなっていることは伝わってくるが、ではこうした空気を変えることは可能なのだろうか。

 同じ11月7日付の毎日新聞のコラム欄では、専門記者の伊藤智永氏が「三島事件50年の軍と大衆」という文章を載せている。気になった部分を引用する。
 ……三島の不信は、政治を皮膚感覚でとらえる民衆へ向けられる。「皮膚は敏感だが盲目的で、小さなニヒリストを忌避しているうちに大きなニヒリストを受け入れる危険がある。岸が何となく嫌いという心理は、容易に誰それが何となく好きという心理に移行する。もっとも危険なものをつかむ」というのだ。……

 ここでの三島の言葉は、(1960年の)新安保条約自然承認の夜、三島が数万人の群衆を見物し、6月25日付毎日新聞に寄稿した文章の一部である。
 作家の直感は時代の転落を先取りしていたのだろうか。

 三島の言う「皮膚感覚」を「空気」と読み替えてもよいのかも知れない。
 政権のありようを言葉によって批判することは出来ても、民衆の間に蔓延する空気を入れ換えることは容易ではない。そのことを誰よりも最もよく知っているのが時の政権ということなのかも知れないのである。
 民衆心理を知り尽くしているがゆえに、科学的な議論を極力避け、報道メディアをあらゆる手を使って手なずけ、情報の公開や透明性を回避し、問われたことに答えない姿勢を徹底しながら、論理ではなく空気の醸成に血道を上げる。まさに彼らこそが怪物化したニヒリストの姿なのだ。

 注意の喚起ではなく、空気の換気こそが必要なのだが、そのためにはどうすれば良いのだろうと考えてしまう。
 大逆転を促す手立てなどないと考えて、事実に基づきながら、論理的に、徹底して愚直に議論していくという姿勢を貫くしかないのだろう。各紙(誌)の書評で紹介される本の数々はそうした方向づけの道しるべになるものなのだ。

ブック・オフ

2020-08-02 | 読書
 書棚の整理をしていて、おそらくもう読み返すことはないけれど、ゴミに出すには忍びないと思う本を14冊ほど選んで近所のブック・オフに持って行ったのだが、査定額は291円だった。100円以上の値がついたのはそのうちの2冊だけで、1冊は30円、残る11冊はそれぞれ1円の値付けである。
 いろいろと考えさせられる。
 1円の値がついた本は、誰もが知っている著名作家のベストセラー本なのだが、つまりそれだけ多くの人が手に取って読んだ結果、買い取りを行う店舗に持ち込まれ古書として出回る割合も高くなり、市場においてはもう飽和状態となっていることを示しているのだろう。
 値は希少なものにこそ微笑むのだ。

 本の価値とは何だろうか、と改めて思う。
 蔵書やコレクションは、それを保有している人にとってこそ価値があるというのが基本だと思うのだが、しばしばそれらが驚くほどの高値で取り引きされるのは、それに市場価値という別の要素が付加されるからだろう。著名な作家の稀覯本などにはとんと縁がなく、興味もない私にとっては、書物がそのように市場に流通し、取り引きの対象となること自体に理解が及ばないのだが、それは単に私が無知だからなのだろう。
 美術品や骨董品のオークションの世界はもとより、それらを鑑定する業が成り立ち、それに人生を賭するような人たちが多くいるという現実を考えれば、それは不思議でも何でもない自明の世界なのだ。
 そのうえで、あえて私にとっての本の価値とは何かと言うならば、それはそこに書かれていることが私の興味を喚起する度合いであり、かつ、私がその本を手にして読むことそのものを享受し、そのことを「快」と感じる瞬間の価値であると言えるかもしれない。
 さらに言うなら、私の貧しい書棚に並ぶ書物たちは、私がいずれそれらを手にして読むことを享受するだろうという「期待」の大きさによって価値づけられている、と規定することもできるだろう。そしてその「期待」は、市場原理とは相反するものであるがゆえに、私にとってはよりかけがえのないものだと言えるのではないか。

 私自身が廃棄することを選択したそれらの本に1円という値がつけられたこと自体には、私自身の「期待」値がそうであったように異論はなく、受け入れるしかない。ただ、それらの本を重い思いをして運んで行った《労力と時間》に見合うかと言われれば、どうかな、と嘆息するしかない。それだけのことだ。

 最後に付け加えるなら、私が持ち込んだそれらの本への評価はあくまで私個人のものであり、本の内容そのものを価値づけるものでないことは言うまでもない。
 願わくば、その本たちがゴミ箱の片隅で不当な待遇を受けるのではなく、より良い読者と出会い、その手に取られることを「期待」する。
 私の支払った《労力と時間》は、その「期待」が実現することによって十分に報われるのだから……。

正岡子規のこと

2020-07-13 | 読書
 大江健三郎は「日本語全体に関わる革新者」(「子規はわれらの同時代人」昭和55年)として正岡子規を高く評価した。また、書生の兄貴として子規を慕った司馬遼太郎は、文章日本語を作ろうとした子規の仕事にとりわけ共感を示した(「文章日本語の成立と子規」昭和51年)。
 以上は、以前にも触れたことのある坪内稔典著「正岡子規 言葉と生きる」(岩波新書)からの引用だが、この本をたまたま読んで子規のことがより身近な存在になったのは確かで、もっともっと子規のことを知りたいと思うようになった。ということで、坪内氏の著作をもとに、少しばかり子規のことをメモしておくことにする。

 正岡子規は、俳句・短歌・文章における文学上の革新者であり、ジャーナリストとしてスケールの大きい行動の人でもあった。明治という時代にあって、与謝蕪村や万葉集を再発見し、それらを高く評価するとともに、自らが新聞記者を務める新聞紙上においてその価値を広く発信した。さらに、文学革新を後世に継ぐ多くの後継者を育てた教育者でもあった。
 当時、蕪村の作品集そのものが見つからず、懸賞をかけて「蕪村句集」を探すことにしたという。子規は、明治30年4月から11月にかけて「俳人蕪村」を新聞「日本」に連載したが、その中の文章に「百年間空しく瓦礫とともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす。」という一節がある。これは句集も手に入らないくらい世間から忘れられていた、ということであるが、とても面白いエピソードだ。

 さて、明治22年5月9日の夜、突然に血を吐いた子規は、翌日医師から肺病と診断された。その深夜、時鳥という題で四、五十句の俳句を吐いたという。その年の9月に書かれた「啼血始末」にその一部が載っている。
 「卯の花をめがけてきたか時鳥」
 「卯の花の散るまで鳴くか子規」
 卯年生まれの子規は自らをこの句に詠み込んでいるのだが、坪内氏によれば、この字義どおりの意味のほか、この句にはもう一つの意味があって、それは自分に肺病がとりついた、ということだという。さらに、2番目の句には、卯の花の散る、すなわち自分が死ぬまで肺病は活動する、という意味が裏にある。
 明治になって急増した肺病は、当時不治の病であった。
 「子規という名も此時から始まりました」と彼は「啼血始末」の中で告げているが、子規は、明治22年5月10日の深夜、この世界に登場した。これ以降、子規は10年の余命を意識して生きることになるのである。
 子規の最初の喀血は21歳の時であり、亡くなったのは34歳であったから、子規としての活動は13年に及ぶのだが、明治29年、28歳の時には臥辱の日が多くなったといい、およそ活動期の半分は病床においてなされたものだ。病状の悪化や一時重体に陥りながらも、子規の重要な業績の多くがこの病床から生まれたことは驚くべきことである。

 子規といえば、夏目漱石との交友関係がよく知られているが、二人の書簡をまとめた「漱石・子規往復書簡集」(岩波文庫)を読むと、その出会いとその濃密な友情はまさに奇跡と言いたくなるほどだ。
 漱石と子規の出会いは明治22年1月で、最初の喀血の4か月前のことになる。5月13日に漱石は友人と子規の病床を見舞い、その足で医師のもとを訪ね、子規の病状や療養法を問うている。そして帰宅後に子規宛の最初の書簡を投函しているのである。漱石が詠んだ最初の俳句である2句を添え、只今は一大事の時と、入院加療を力説した内容である。
 漱石は5月25日にも子規の病床を見舞い、子規の「七草集」に「評」を付して返却しているが、同評に初めて「漱石」と署名している。つまり、二人の交友が始まった明治22年は、子規と漱石が誕生した年でもあったのである。
 この往復書簡に見られるように漱石と子規の交友は、単に厚い友情というだけではなかった。ある時は相手を痛罵するかのような批判を投げかけ、また別の時には寸鉄人を刺すような批評を書簡において展開した。当然、その根底に相手に対する深い信頼と愛情があればこそなのだが、勢い、二人の関係はより深まり、より濃密なものとなっていったのだろう。
 明治34年11月6日、子規は漱石宛の最後の手紙を書いている。漱石はその前年の秋からロンドンに留学していた。
 「僕ハモーダメニナッテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手紙ヲカク。」
 これはその手紙の書き出し部分であるが、何とも胸に迫るものがある。坪内稔典氏は、この手紙を読むたびに泣いてしまうそうだが、ロンドンの漱石はこれをどのような思いで読んだことだろう。

 さて、子規は子規山脈と称せられるような自身を頂点とする多彩な人間関係を築き上げたが、それは子規自身の人たらしともいうべき人間的魅力によるところが大きいのだろうが、何よりも自分の余命を限った覚悟のようなものがある種の執念となって、文学上の改革を次の時代に継承していく人材を見つけ、育てていこうとする力になっていたと思える。
 司馬遼太郎の対談集「八人との対話」に大江健三郎との対談「師弟の風景」が収載されている。正岡子規と吉田松陰の二人をとりあげて、教育者としての二人について考えるという趣旨の対談なのだが、その中で紹介されている高浜虚子の文章が面白い。
 子規は自分の生の短さを知って、自分がやろうとしている俳句についての革新が頓挫することを怖れ、その仕事を弟分である虚子に押しつけようとするのだが、文士になること夢見る虚子は逃げ回るのである。
 「余はいつも其事を思ひ出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考へずにはゐられるぬのである。たとへば其は母が子を愛するやうなものである。」
 
 しかし、師弟関係というものは一方的な片思いでは成立しないものだろう。師からの呼びかけなり執着に応える弟子もまた何らかの影響を師にもたらすのではないだろうか。その双方向の関係を築く基になるのが対話であり、そこから醸成される愛情や友情にも似た精神的絆というものなのかも知れない。
 「松陰は新しい時代そのものを創ろうと思っていたでしょうし、子規は文学を改革しなければならないと考えていた。そのために若い人と一緒に、それも友人のような関係をたもちながら、対話しつつ彼らを教育していく。そういうタイプの人が、子規であり松陰であったはずだと思うんです。(大江)」

 「(松陰も子規も)二人とも死期を知っている人間で、その切迫感がまわりに集まってきた連中から何かを引き出していく。(司馬)」という面は確かにあったろうが、師を頂点として形成された濃密な人間関係の”場”そのものの魅力が多くの人材を惹きつけたのに違いない。
 私自身はそうした他人との関係に極めて淡泊なたちで、人から何かを教わるのも嫌いだし、友情にも一定の距離をおこうとするイヤなタイプの人間なのだが、一方で、子規を中心とした”場”には抗しがたい吸引力を感じてしまう。それこそが正岡子規の魅力なのかも知れないのだが。

 子規が正岡子規として誕生したとき、彼自身は自らの余命を10年と見定め、自分に与えられた残り時間を常に意識しながらも、明るく、大らかに生き抜き、その生を燃焼し尽くした。病を手枷足枷とし、痛みに耐えながらも達成した業績の大きさには驚嘆するしかない。
 もし、身体が頑健で病を得ていなければ、彼には別の夢があり、進みたいと願う道があったはずで、子規は私たちの知る子規ではなかったかも知れない。病が子規に人生の時間を区切り、行動範囲や可能な活動の条件を限ったなかで、子規自身のやむなく選び取ったのが、俳句・短歌・文章の改革だったことは、後世の私たちにとって僥倖だったというしかないのだけれど。

 個人的なことだが、私自身、思いもかけない病を得て、自分に残された時間というものをいやでも意識するようになった。当然、やりたい仕事や実現したい夢もあるのだが、それが叶わない現状のなかで、ともすれば絶望的になりがちな精神状態を制御しつつ、今の自分に出来る何かを探るという作業はそう容易いことではない。
 その意味においても、子規はモデルとなる先行例であり、彼が残した作品群は、時に私をなぐさめ、時に鼓舞してくれるカンフル剤なのである。

 最後に一つ。
 子規は進取の気性に富み、さまざまなアイデアを思いついては実行した。「墨汁一滴」という文章の新形式もその一つで、これを思いついたのは明治34年1月13日のことだった。
 「墨汁一滴」とは、一行以上二十行以下の文章、つまり、筆に一度だけ墨をつけて、それで書ける長さの文章ということで、長い文章を自分で書く体力を失った仰臥の子規が編み出した独自の文章の形式なのである。
 子規はこの「墨汁一滴」を「わらべめきたるもの」と表したそうだが、「…一行以上二十行以下のこの形式は、意外にもどんなものでも描けたのではないか。…多様な対象を描くことが可能な文章、それを子規は手にしているのだ(坪内)。」
 「墨汁一滴」は、明治34年1月16日から7月2日まで日本新聞紙上に連載されたが、その内容をみると、俳句や短歌論、作品評、自作の俳句や短歌、社会批判、自分の病状や暮らしぶりなど、実に多様な対象を柔軟に描いている。

 「墨汁一滴」は、今で言えばまさにTwitterをはじめとするSNSそのものではないだろうか。
 正岡子規が現代に生きていたらどうだったろうということをよく考えるけれど、今のこの世相を斜めに見た彼がSNSや最新の情報ツールを駆使してどんな声を発信したか、それを想像するだけで胸が躍るのはおそらく私だけではないはずである。

銀河鉄道の父/教師 宮沢賢治のしごと

2020-07-01 | 読書
 もう何日か前のこと、門井慶喜氏の直木賞受賞作「銀河鉄道の父」を寝っ転がるようなだらしない格好で読んでいたのだったが、途中からふと思い立っていわゆる黙読を音読に切り替えてみた。次第に自分でも調子が良くなって、そのうちそれが朗読のようなものに変わっていったようだ。言うなれば、目の前に仮想の観客がいるようなつもりになって、その人たちに対して読み聞かせるような読み方に気持ちも声量もシフトチェンジしたわけなのだが、これが実に楽しかったのだ。あっという間に1時間が過ぎ、それからさらに30分が過ぎてなお飽きるということがなかった。
 コロナウイルスの影響による緊急事態宣言が解除になる前のことで、家にこもってばかりで声を出すことも憚られるような気がして遠慮がちになっていた頃だ。たまたまその日、家にいるのが自分一人というタイミングもあったのだが、久しぶりに声を発することの感覚を味わうことが出来たように思う。それは単に発声するというだけのことではなく、文字に書かれたものを自分の身体を通して異なるものに変換することの楽しさといってよい感覚である。
 それを表現などということはとても面映ゆくてできないが、それでも俳優が俳優であろうとする時のメカニズムについて考えるきっかけにはなるかもしれない。今度じっくり考えてみようと思う。

 さて、当の小説「銀河鉄道の父」は、宮沢賢治の父、政次郎を主人公にした小説で、さまざまに葛藤しながらも結果的にそれこそ我が身を投げ捨てるかのように息子を溺愛してしまい、そのまた父の喜助からは「お前は父であり過ぎる」と評されるような男を描いた作品である。
 着眼点が面白く功を奏した小説だが、父親の視点から描いた分、宮沢賢治がもどかしいほどにいつまでも子どもで、わがままで頼りなくいささか矮小化されているようにも感じてしまう。ま、親から見れば子どもはいつまで経っても子どもなのだけれど…。

 「銀河鉄道の父」を読んだ後、賢治像の再確認ではないけれど畑山博著「教師 宮沢賢治のしごと」を読み返した。この本が発行されたのは1988(昭和63)年、今から32年前のことだが、当時はまだ賢治の教え子だった方たちが高齢ながらまだ存命で、そうした方々の証言と作家の推理をもとにこの本は書かれた。
 畑山氏が、「私が、この今の人生を全部投げ出してでも、生徒になって習いたかった先生でした。」という教師・賢治の姿にはこちらの心を強く鷲づかみにするような力がある。
 後記に書かれているように、「…賢治は、今でいう○×式の授業法に真っ向から反対し、イメージと、ゆとりと個性を尊重する、はじけるように生き生きとした授業を実践」したのである。
 それらの証言をもとに再現された授業の様子は感動的で、私はいつも読むたびに涙ぐんでしまう。
 私自身は相当なひねくれもので、人からものを習うのが大嫌いだし、師と仰ぐ人もいないに等しいのだが、こうした授業なら何を投げ打ってでも受けたいと思う。書かれたばかりの「風野又三郎」や「銀河鉄道の夜」を作者自身が読み聞かせてくれる授業なんて、何物にも代えがたい奇跡としか思えないではないか。

 もっともその賢治も教師に成り立ての頃は苦労したようだ。書簡の中で「授業がまずいので生徒に嫌がられて居りまする」と自身も書いているが、初めは慣れないせいか早口で生硬な授業しかできなかったとの証言もある。
 つまり、そうした反省をもとに賢治自身も授業のあり方や臨む姿勢そのものを大きくシフトチェンジしたということなのだろう。このように自らも学び成長していく教師を身近に感じることのできた教え子は幸せである。

 賢治が稗貫群立稗貫農学校教諭になったのは1921(大正10)年のこと。来年でちょうど100年になるのである。

「こことよそ」のこと

2020-05-26 | 読書
保坂和志氏の小説「こことよそ」(「ハレルヤ」所収)を読んだ。これで4回目になるのか。最初に雑誌「新潮」に載った時と、本作が第44回川端康成文学賞を受賞した時にも読んだし、単行本が出てすぐと今回ということになる。
今回読んだのは、ずっと気になる作品ということはもちろんなのだが、その語り口というか、小説の流れをもう一度味わいたかったからだ。
それにしても、もしこの小説を外国語に翻訳するとして、翻訳者はこの文章をどのように処理するのだろう、思い悩むだろうというような文章が頻出する。

ずっと前、私がまだ組織に所属していた頃、一人前の顔をして後輩の昇任試験の小論文にアドバイスしたことがあるが、そうした採点される文章でまず気をつけなければならないのが「文のねじれ」というやつだ。
文章の中で主語と述語の関係が対応せず、意味的におかしくなる現象だが、保坂氏はこの「文のねじれ」を意図的に使っているか、あるいは自動筆記のように無意識に出てきたこの現象を小説の面白さに転用しているように思うのだ。
一例を引くと、単行本の107ページに次のような文章がある。

「私は会以来、ずっと尾崎を思い浮かべながら『異端者の悲しみ』を読んだ、死ぬというのは他の出来事と置き換えられないが誰かが死んだらいつもこんなに思いつづけるわけではないのは私は年が改まると尾崎よりずっと身近でつき合いがひんぱんだった知り合いが二人死んだが私は尾崎のことだけを思っていた。」

句読点の独特な使用もあって、この文章は主語と述語が交錯し、ねじれながら行き着く先を探っているようだ。
こうした文のねじれはしかし、この小説を書いている作家の現在進行形の思考をライブで覗き見するような感触を読み手にもたらすだろう。それが何とも言えないリズムとグルーブ感となって、何度読んでも飽きることがなく、また読みたいと思わせる魅力になっているように思う。
だが、この書き方は誰にでも許されるわけではない。この書法を真似た新人作家はおそらく大やけどを負うに違いないのだ。

それはそうとこの本の110ページに突然出てくる次の文章に思わず目を瞠った。

「……田中小実昌の面白さに出会うのはこの夕方の一ヶ月後だ、私はある晩、読みたい本がふっつりなくなり、毎月ほとんど読まないくせに買いつづけていた文芸誌の『海』の『ポロポロ』の連作の一つのどれかを読み出したらおかしくてベッドの上で深夜、げらげらげらげら笑いが止まらなくなった。……」

『ポロポロ』の話が出てくるのはここだけで小説の本筋とも関係がないといえばない。さらに言えばこの一節がなくても小説は成り立つのだが、これがあるがゆえにこの小説は面白いのであって、その意味でこのくだりは小説に不可欠だ、という言い方ができるのかも知れない。
さて、私がこの一節に引きつけられたのは、たまたまその直前に文芸誌の「文學界6月号」に掲載されている写真家の神藏美子氏の特別エッセイ「聖(セント)コミマサと奇蹟の父」を読んだからで、このエッセイは作家・田中小実昌とその父君である田中遵聖牧師の関係について書かれたものだが、その中で、田中小実昌氏が雑誌「海」の編集者だった村松友視氏から原稿を依頼され、『ポロポロ』を書いた時のことが色鮮やかに描かれている。
その部分や引用されている小説の文章を読みながら気持ちが高揚するのを私は感じて、すぐにも『ポロポロ』を読みたいと思ったのだが、あいにくわが家にはアンソロジーで編まれた短篇小説のほか、田中小実昌の本が一冊もない。私の住んでいる街の小さな書店には田中小実昌の本がどこにもなく、コロナのおかげで都心の大きな書店まで出かけることもできない、こまった……、という時にちょうど、先ほどの『こことよそ』の一節に出会った、というわけだ。

ただそれだけのことなのだが、こんな読書の楽しみ方もあるのだろう、と思う。
ちなみに『こことよそ』というタイトルだが、今回私ははじめて、ジャン=リュック・ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルが1976年に共同監督した映画に「ヒア&ゼア こことよそ」という作品のあることを知った。
小説の中では直接触れられていないので、その映画とこの小説が関係あるのかどうかは分からないのだが、そんなあれこれについて思いめぐらすのも勝手な楽しみ方である。

浮遊霊とミュージカル

2016-11-21 | 読書
 数日前のこと、天王洲銀河劇場にミュージカル「マーダー・バラッド」を観に行った。
 私の住む埼玉県境の東京城北地域から新宿湘南ラインに乗り、天王洲アイルに向かいながら、この日本でニューヨーク生まれのロック・ミュージカルを観る意味は何なのかなどとぼんやり考えていたのだが、途中、電車の中で読みだした津村記久子の短編小説集「浮遊霊ブラジル」があまりに面白くてそちらに夢中になってしまう。

 「マーダー・バラッド」はニューヨークのとあるバーを舞台に4人の男女が繰り広げる愛と嫉妬と殺人の物語。休憩なし、90分間のノンストップ・ロック・ミュージカルである。
 素晴らしいスタッフ・キャストによる力のこもった舞台には違いないのだが、私の頭のなかは、劇場に着く直前まで読んでいた「浮遊霊ブラジル」所収の「アイトール・ベラスコの新しい妻」のほうに気を取られていて、何とも心もとない。
 最近の私は台詞あるいは歌詞の聞き取り能力が極端に低下していて、そのためかどうか、ミュージカルが描き出そうとする世界観にどうにも入っていけない。そもそも俳優たちに生活感がまるでないのだけれど、これは一体何に由来することなのか。
 You Tubeで垣間見たニューヨーク公演の舞台の俳優たちはいささか太り気味ではあったけれど、そこに暮らしている人間の匂いと鬱屈を放って存在し、生きていた。

 「アイトール・ベラスコの新しい妻」もまた、愛と嫉妬の話ではあるのだが、見事な語り口で、まさに私たちが生活に疲れて暮らすこの街の何気ない光景が一挙に時を遡り、空間を駆け巡って、地球の裏側で起こったサッカー選手の再婚話につながっていく。その自然で闊達な話の展開につい引き込まれてしまう。
 登場人物の一人として語られる女優のいじめを克服し、地球の裏側のアルゼンチンで自分の生き方を発見していく物語にも勇気づけられる。
 このほかの小説も表題の「浮遊霊」にちなんで死んだ人間が語り手となったものが多いのだが、まるで落語の「地獄八景亡者戯」のような面白さに笑いこけながら、ふと人間の在り様を深いところで考えさせられる。
 冒頭に置かれた「給水塔と亀」は、いささか趣が異なる小説だが、定年退職し、生まれ故郷で独り暮らしをすることになった男の日常を淡々と描いて心に沁みる作品だ。
 2013年の川端康成賞を受賞した小説で、当時、雑誌に掲載された時にも読んでいたのだが、主人公の過ごす時間の一コマ一コマの描写が読む者の身にそっと寄り添ってくる。あれからもう3年も経ってしまったのかと今さらながらに驚いてしまったが、折に触れ再読したくなる秀作である。


火花/スクラップ・アンド・ビルド

2015-11-11 | 読書
 又吉直樹の小説「火花」を読んだのは4月下旬のこと。この作品が単行本化されて間もない頃かと思うが、あれからもう半年が経つというのにいまだに話題になり続けているというのは稀有なことだ。それだけインパクトの大きな作品だったということか。
 私自身は、電車の吊り革にぶら下がりながらこの本を読んでいて、その120ページ目、主人公の漫才師が相方からの申し出でコンビの解散を決め、最後のライブに臨むあたりから鼻の奥がつうんと痛くなり、思わず目頭が熱くなって年甲斐もなく慌ててしまったことを覚えている。
 作者の計算というか、仕掛けが功を奏したわけで、それにまんまと嵌ったこちらとしては口惜しくもあるのだが、それもまあ読書の楽しみのうちである。

 この小説の特質は、その描写のすべてが徹頭徹尾、漫才論に貫かれているということである。メタ漫才小説といって良いのかも知れない。
 「人生は笑いである」という一点に最大の価値観を見出した男たちを描いた小説であり、そこに価値を置いたからには、すべての事象は「笑い」に転化されなければならない。
 悩みも貧しさも恋や友情さえもが、いかに笑いになるかという点において価値を持つ。これは、世界全体を「笑い」というフィルターを通して認識しようと足掻く男たちの物語であり、その物語すら、笑いになったかどうかという評価軸によって推し量られるのだ。
 「火花」はそうした特質を持つがゆえに、小説の筋立てにしたがって描写される熱海の温泉街や居酒屋、生計を維持するためのバイト、借金、先輩・神谷の同棲相手の女性など…、それらすべては破天荒な主人公たちの生き方をクローズアップさせるための道具立てとしていつしか後景に追いやられ、小説としてのリアルティは希薄になる。
 むしろ、そんなリアリティや現実感というものを必要としないのがこの小説であり、まさにそのことが、本作を純粋な、得も言われぬ青春小説たらしめているのではないかと思える。

 そして最近になって読んだのが、もう一つの芥川賞受賞作、羽田圭介の小説「スクラップ・アンド・ビルド」である。
 近頃は仕事に追われ、気の滅入る日々のなかで、介護を主題にした小説などよけいに滅入ってしまうのではなかろうかと敬遠気味ではあったのだが、小説を読み進むうちに、むしろこの物語に慰撫されるような気持ちになったのは新鮮な発見だった。

 小説の主人公、28歳の健斗は、5年間勤めたカーディーラーを自己都合で退職、行政書士資格取得に向けた勉強を独学で続けながら、月に1,2度、大手企業の中途採用試験を受け続けている。
 母親と要介護状態となって転がり込んできた87歳の祖父との3人暮らしのなか、「早う死にたか」とぼやき続ける祖父にいつしか殺意を抱く主人公…。あるいはそれは、祖父の思いを遂げてやりたいという愛情の裏返しなのかも知れないのだが、要介護状態が改善し、生きる希望など抱かぬよう、過剰な介護を施すことで安らかな死を迎えられるよう手を尽くすのだ。

 しかし、これをいわゆる介護小説として読んでは、この小説としての面白さを読み違えることになるだろう。
 本作は主人公・健斗の物語であり、すべては健斗の目を通して語られる。祖父の姿や言動も、あくまで健斗が認識したものなのであり、その祖父の話も認知症ゆえの錯誤によってどこまでが妄想でなにが真実なのか、それはまさに藪の中なのである。
 そう考えながら読み進むうちに、この物語が果たして本当に孫から見た祖父の姿を描いているのか、ひょっとして、祖父が見守る孫の姿を描いているのではないかなどと思えてくる。
 小説の終盤、就職が決まって家を出て行く健斗を駅まで見送った祖父の姿には大きな包容力やある種の達成感すら感じて、まさにこの小説が主人公・健斗の成長物語であったのだと気づかされるのだ。
 奇妙な構造を持った小説だが、共感も同情も覚えるはずのない主人公たちにいつしか肩入れしたくなる、静かで不思議な感動に満ちた作品である。

安部公房とわたし

2013-08-21 | 読書
 山口果林著「安部公房とわたし」(講談社)を読んだ。
 いささかセンセーショナルな捉え方をされがちな本であり、ある種の暴露本的な興味本位の読み方をする向きもないではないだろう。
 しかし、そうした先入観を極力排してこの本に向き合うなら、これがいかに重要な意義を持ち、かついかにインテリジェンスにあふれた文章によって綴られているかということに驚かされるに違いない。
 本書は、1966年3月の桐朋学園大学短期大学部演劇科への第1期受験生だった著者と安部公房の、受験生と面接官としての初めての出会いから、やがて女優となり、安部公房の演劇活動における重要な同志の一人として活躍するとともに、かつ私生活においてもその多くの時間を共にし、とりわけ1980年4月以降、作家が家族と別居してからは実質的なパートナーとして、1993年1月の最期の時に至るまで作家を支え続けながら、いつしか「透明人間」のように作家の公式記録からはかき消されてしまった一人の女性の存在証明としての半生記であり、さらには、安部公房の表現活動における演劇の重要性を改めて掘り起こす貴重な証言であるといえるだろう。

 さて、個人的な話をすると、私が高校生だった1970年頃、まだまだ大学紛争の盛んな時期であったが、大学浪人生だった年長の従兄の影響で安部公房の「砂の女」や「他人の顔」「燃えつきた地図」といった書下ろし長編小説を立て続けに読んでいた。
 当時、安部公房はNHK教育テレビの「若い広場」といった番組にも時おり出演していて若者たちとの対話にも積極的だった記憶がある。
 思えばちょうどその頃、1970年11月上旬、本書の著者である山口果林がNHK連続テレビ小説「繭子ひとり」の主役に決定したとのニュースが流れ、テレビ欄にその芸名の名付け親が作家の安部公房だと紹介されていたのを思い出す。同月25日には作家の三島由紀夫が割腹自殺をするという衝撃的な事件があった。そんな時代だった。
 「安部公房スタジオ」の設立が発表されたのは1973年1月11日のこと。
 俳優座の主要メンバーだった井川比佐志、仲代達矢、田中邦衛、新克利らのほか、山口果林をはじめとする安部公房の教え子たちが参加した劇団であるが、その記者発表のニュースを私はラジオで聞いた。その頃の私は唐十郎らのアングラ演劇の影響をもろに受けていた時期だったし、ちょうど、つかこうへいが華々しく活躍を始めていた時期とも重なり、安部スタジオのニュースには、新劇の俳優たちが何を始めるのかとやや冷やかに首を傾げていたものだ。
 不明を恥じなければならないが、「安部公房スタジオ」はわずか7年足らずの活動ながら、数々の実験的な舞台を作り、特に海外公演では大きな成功を収めたばかりか、大きな影響も与えている。その成果はもっともっと再認識、分析評価されてしかるべきだろう。

 小説「箱男」が刊行されたのは1973年3月のこと。安部公房は著者に対し、君へのラブレターだと語ったそうだが、その執筆時期は、作家が女優である著者と付き合いはじめ、自分の劇団の構想が膨らみ始めた時期とぴったり重なるのである。
 後年、安部スタジオの仕事を振り返るなかで、著者は、スタジオ上演の舞台作品である「愛の眼鏡は色ガラス」、「緑色のストッキング」、「イメージの展覧会」の要素がすべて「箱男」の中に入っていることに改めて驚いている。
 こうした文学と演劇の相関関係、とりわけ安部公房の創造性に及ぼした演劇の影響といった観点からの再評価や批評も私としては待望するところだ。

 1979年5月から安部公房スタジオはアメリカ公演を行い、大成功を収める。しかし、安部夫人もスタッフとして同行したその公演は、著者にとってのちのちまでトラウマとなるほどに苦く辛い緊張を強いるものだった。日本での凱旋公演を終えた女優はそれ以降の安部スタジオの舞台に立つことを諦める。その直後、安部公房はスタジオの休眠状態に入ることを発表する。
 こうして見ると、結果として安部公房スタジオは、女優・山口果林のための劇団だったのではないかとも思える。その後、彼女は仕事の軸足をテレビの世界に移行するのだが、私たちは重要な舞台女優を失ったと言えるだろう。さらに言えば、安部公房がスタジオメンバーとの共同作業による創造活動に新たな可能性を見出していたことを思うと、もしスタジオがその後も存続し得ていたならば、その小説世界にも新たな展開が見られたかも知れないと思うのである。

 2003年、作家の従姉妹である渡辺三子が発行する郷土誌「あさひかわ」455号に安部公房の没後10年を記念して著者が寄稿した「安部公房と旭川」が本書の中で紹介されている。
 短い文章ながら、安部公房と北海道との関わりやルーツ話、安部スタジオにおける稽古の様子、その演劇活動の意味などが過不足なく書かれていて素晴らしい。
 そこには、安部公房の目指したものとして、ドキュメントな会話の再現があったことや、スタジオにおいて、オリジナルな表現の発掘、開発のために、俳優たちがアイデアを互いに出し合い、安部公房の厳しい審査を経てそれらを取捨選択しながら舞台に乗せていったプロセスなども描かれ、実に興味深い。
 安部スタジオの後期、創立当初の主要メンバーが離れ、文字通り若手だけのチームとなっていったが、むしろそのことによって安部公房の目指す演劇表現がより明確化し、先鋭化するとともにそれが舞台上に現出した時期でもあった。しかしながら、それらの舞台の戯曲は完成形としては存在せず、役者達の覚え書き程度のものが残っているだけだという。
 「ぼくはしだいに自分の舞台を、舞台によってしか語れなくなりはじめている。考えてみると、小説の場合もやはり同じことなのだ」と作家は「水中都市」の上演パンフレットに書いている。
 また、ある時のエチュードでは、「あなたは白い紙を持っている、役者として与えられた時間を使いなさい」という課題が出された。思い悩むメンバーを前に、難しかったかなと呟きながら安部公房は次のように語ったという。
 「物を創造するというのは、本気で、真っ白な紙に向き合うことなんだ。安易に使い古された表現に逃げずに、真っ向から向き合って耐えることなんだ。言葉に詰まり、悪戦苦闘する処からしか、新しいオリジナルな表現は生まれない。そのことを体感してほしかったんだけどね。」

 その文章の最後に著者はこう書いている。
 「最近、現役で活躍している演劇人から九州で観た『イメージの展覧会』に衝撃を受けたという感想を聞いた。うれしかった。安部さんの創造活動の一端を共有できたことは、わたしの財産だ。いまも、わたしの血と肉になって生きつづけている。」

 著者が本書を通じて言いたかったことは、まさにここに集約されているのだろうと思う。
 安部公房に関わった人の立場によって感想は異なるだろうが、作家の人生と創作の新たな一面を再発見したという意味でも、一人の女性の半生を描きだしたという意味においても、読み応えのある一冊である。

さよなら渓谷

2013-08-05 | 読書
 吉田修一著「さよなら渓谷」を読んだ。
 刊行されてからすでに5年が経っているのだが、これまで手に取る機会がなかった。今回読む気になったのはもちろん映画化された作品が話題になり、とりわけ主演の真木よう子の映像の鮮烈さに引き付けられたからである。(要はただのミーハーに過ぎない、ということ)
 そうは言いながら、吉田修一の作品はこの半年に読んだ「悪人」、「路」をはじめ、思い返せば16年前の文學界新人賞受賞作品「最後の息子」、11年前の芥川賞受賞作品「パークライフ」もリアルタイムで読んできた。その成長ぶりを身近に感じてきた作家の一人なのである。
 その作品の多くが映画化、ドラマ化されているように、人々の興味を惹くストーリー展開のうまさ、題材の強烈さなど、映像の撮り手の意欲を掻き立て、刺激する何かを吉田修一の小説は持っているのに違いない。

 さて、今回の作品は、秋田県で起こった連続児童殺人事件の容疑者を思わせる女性のクローズアップに始まり、それに群がるマスコミ報道の喧騒から、やがてその隣家に住む平凡などこにでもいそうな若い夫婦に焦点があてられ、そのことによって15年前に起こったある事件が浮かび上がるという趣向。
 非常に説明しにくく、自分でも口ごもってしまうという作者の言葉を引用して、すごく乱暴に言ってしまえば、本作は「レイプ事件の加害者と被害者が、15年の歳月を経て、夫婦のように暮らしている日常を描いた小説」なのであり、そこに至る二人の葛藤と苦しみ、そしてこれからの人生の行く末への興味と不安が読む者の心に楔となっていつまでも突き刺さるような作品である。
 文芸誌ではなく、週刊誌に連載された作品ということだから、純文学というよりはむしろエンターテイメント性を意識して書かれた小説であろうとは思うのだが、読後感はずっしりと重く、主人公二人の人生がいとおしくて堪らなくなる。

 それにしても吉田修一はうまい作家になったなあとつくづく思う。
 滑らかなカメラワークを思わせる叙述、カットバックや回想シーンの挿入、登場人物の独白を自在に組み合わせながら物語は展開され、読み手を導いていくのだ。その渓谷へと。
 胸をえぐるような忘れられない言葉のいくつかを引用する。(以下、ネタバレ必須。ご容赦)

 ……電話ボックスのガラス越しに、どれくらい対峙していただろうか。ボックスから出てきた夏美が、「お金、貸して」と小声で言った。
 ……あの日、夏美は千円も持っていなかった。千円も持たずに実家を飛び出していた。すぐに財布を出した。財布に入っているだけの金を差し出した。
 気がつけば、「すいませんでした。ごめん……。ごめんなさい」と何度も謝っていた。
 「……死ねないのよ」
 とつぜん夏美は言った。そう言って涙を堪え、差し出した金をくしゃくしゃにしながら自分の財布に押し込んだ。

 ……あの夜から、いったいどれくらいの月日が流れたのか。
 「なんでもしてくれるって言ったじゃない。そう何度も手紙に書いてたじゃない!」
 銀座の並木道で、夏美は叫んだ。
 「なんでもしてくれるんでしょ! だったら私より不幸になりなさいよ! 私の目の前で苦しんでよ!」
 気がつけば、泣きじゃくる夏美の手を引いて、走ってきたタクシーに乗り込んでいた。
 家へ連れて帰るつもりだったのか。
 二人でどこかへ逃げるつもりだったのか。
 一緒に死のうとでも言うつもりだったのか。

 ……一緒にここで暮らそうと言い出したのは、私からです。
 私は誰かに許してほしかった。あの夜の若い自分の軽率な行動を、誰かに許してほしかった。でも……、でも、いくら頑張っても、誰も許してくれなかった……。
 私は、私を許してくれる人が欲しかった。

 ……銀行から最後の二十万円を引き出してきた尾崎は、「あとは、あなたが決めて下さい」って言いました。私は、「どうしても、あなたが許せない」と言いました。「私が死んで、あなたが幸せになるのなら、私は絶対に死にたくない」と。「あなたが死んで、あなたの苦しみがなくなるのなら、私は決してあなたを死なせない」と。「だから私は死にもしないし、あなたの前から消えない。だって、私がいなくなれば、私は、あなたを許したことになってしまうから」と。

 (思わず長々と引用してしまいました。ご容赦。)
 さて、あなたの前から消えない、と言っていた女は、最後に男の前から突然のように姿を消す。それが、許しを意味することなのかどうか、誰にも分からないまま。
 しかし、男はどんなことをしてでも女を見つけ、探し出そうとするだろう……。
 何故か。それが彼の罪だから、あるいは愛だからなのか。誰からも許してもらえなかった二人が、最後に行き着く場所がお互いのもとでしかないことを男も女も感じ取っているからなのか。
 やがて、長い長い年月が過ぎてゆき、二人の道行きは誰の記憶からも次第に薄れていくのだろう。
 そうしていつしか、「昔、男ありけり」「女ありけり」といった遥か昔むかしの恋物語のように、この二人の運命も語られるようになるのかも知れない……。

 余談。
 ふと思ったのだが、レイプ事件の被害者と加害者という、このあまりに立場の違う二人、違いすぎるが故にそっくりな二人、違いすぎるがゆえにあまりに近しい二人、一緒にいる限り憎むしかない相手、許すためには離れなければならず、愛するためには別れなくてはならない、そんな二人の関係に、最近ことに歴史認識に起因して緊張が高まりつつある近くて遠い国々と私たちの絵姿が映し出されているように感じたのは、まるで見当はずれなことだろうか。

短編小説/3人の作家

2013-08-03 | 読書
 3人の作家の作品を続けて読んだ。
  川上弘美著「なめらかで熱くて甘苦しくて」
  絲山秋子著「忘れられたワルツ」
  津村記久子著「給水塔と亀」

 前2作は短編集、「給水塔と亀」は川端康成文学賞受賞の短編小説である。
 共通するのは3人の作家がともに女性であるということなのだが、これはたまたまそうだったということなのか、今は女性の書くものが面白いということなのか…。

 川上弘美(以下敬称略)の小説にはそれぞれ「水」「土」「空気」「火」の4元素と「宇宙」を意味するタイトルがラテン語によって表記されている。
 これらの作品のテーマは「性」あるいは「性欲」ということなのだが、川上弘美は作者インタビューで次のように語っている。
 「たとえば雑誌の『セックス特集』などで、『性』はそれだけ切り取られて語られがちですが、性欲について書こうと考えるうちに、そのようには語れないと気がつきました。朝目を覚まして1日を送る、その中に、性欲は根を張って取り込まれている。それは宇宙を構成する4元素と同じように、自分を構成している要素のひとつだと思ったんです」

 つまり本作は、いわゆる男女のあれやこれやを描いた心理小説ではなく、恋愛小説でも、ましてや官能小説などではまったくなく、それどころか通常私たちが「現実」と呼ぶこの世界を描いた小説ですらない。
 宇宙を成り立たせているあらゆる要素、その一つである生物としての人間の誕生から死にいたる過程において生起する現象の深い深い根っこにあるものを、性欲を切り口にして描いた詩のようなもの……という言い方があるいはできるかも知れない。
 なかなか言葉にしづらいのだが、私たちは紛れもなく生物であり、細胞や分子の集合体であるということ、その細胞レベルの結合や分裂といった現象の中に愛だの恋だの憎しみだのといった物語がシステムとして組み込まれているのではないか、といったことを考えさせられるのだ。
 そうした生成過程を経るなかで自己複製や増殖が折り重なり、やがて生まれる典型的な「むかし男ありけり」「女ありけり」といった物語となって幾重にも織りなされ、原型となって人々に間に語り継がれていくのではないだろうか、そんなことを想起させられる。

 これと比べて、絲山秋子の「忘れられたワルツ」に収められた作品群は、もう少し身近でより現実的な設えを有している。
 ただ、その現実感が、いずれの作品においても、あの3.11を境にして少し歪んでいたり、ずれていたり、傷んでいたり、別のものに変容してしまっているのだ。
 その何気ない語り口が、この世界が背負い込んでしまった痛みの深さを余計に感じさせる。
まるでいつもと同じ風景なのに、いつの間にかまったく異なる世界に入り込んでしまったような恐怖。何気ないだけにその底深い恐ろしさがそこには描かれている。
 何度も繰り返し読みたくなる、小説の面白さと深さを兼ね備えた素晴らしい作品集である。

 津村記久子の短編「給水塔と亀」はこれらとはまったく趣を異にした、正攻法の、小説らしい小説である。
 会社を定年退職した独身男性が故郷に引っ越す一日を描いた作品で、給水塔や亀、海、たまねぎ畑、うどんといった道具立てがたくみに配置され、何気ない日常が淡々と、しかし揺るぎのない現実感と深みを持って描かれている。
 それが400字詰め原稿用紙でたった20枚ほどのなかに表現されているのだ。その面白さ。凄さ。

 それぞれの作家が違った持ち味で、それぞれ異なるアプローチでこの世界に対峙し表現しようとしている。小説という芸術の多様性や新たな可能性を感じさせてくれる、楽しい読書体験だった。