seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

科学と逡巡

2011-05-30 | 雑感
 26日、G8サミット議長国・フランスのサルコジ大統領が記者会見し、原発問題について「G8に参加した多くの国が原子力以外に(当面)代替エネルギーはないと判断した」と述べ、最大限の安全対策に配慮しつつも先進国が原発に依存せざるを得ないとの考えを示した、と27日付の新聞夕刊が報じている。

 同じ日の毎日新聞夕刊に、文芸評論家・吉本隆明氏のインタビュー記事が載っていて興味深い。
 吉本氏は1982年、文学者らによる反核運動を批判する「『反核』異論」を出版してもいる。吉本氏は語る。
 「原子力は核分裂の時、莫大なエネルギーを放出する。原理は実に簡単で、問題点はいかに放射性物質を遮断するかに尽きる。ただ今回は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。防御装置は本来、原発装置と同じくらい金をかけて、多様で完全なものにしないといけない。原子炉が緻密で高度になれば、同じレベルの防御装置が必要で、防御装置を発達させないといけない」
 指摘のとおり、その防御に対する考え方や対策が実に杜撰で甘いものであったということが今明らかになりつつある。まさに人災といわれる所以である。
 一方で吉本氏はこうも語るのだ。
 「動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。今のところ、事故を防ぐ技術を発達させるしかないと思います」
 知識や科学技術は元に戻すことができない。どれほど退廃的であろうが否定はできない。だからそれ以上のものを作るとか、考え出すことしか超える道はない、というのが吉本氏の基本的スタンスだ。

 この発言をどのように捉え、考えればよいのだろうか。

 一方、24日発売の朝日ジャーナル誌では、作家の広瀬隆氏が「電力不足は起こらない 原発は即刻、止められる」と題した文章を寄せている。
 広瀬氏は、急いで、真剣に原発を止めることを考えるなら、太陽光では間に合わない、安定的なガス火力をエースにして、最大の電力を消費している産業界を味方につけるのが、先進国の実効ある針路である、加えて日本は、この分野で世界トップクラスの優れた技術力を持っている、と述べている。
 (今後)海外からのビジネス客、観光客がともに減ることは、放射能の危険がある限り避けられない。
 こうした世界の厳しい目にもっともさらされ、大きな被害を受けているのが産業界であり、戦後何十年にもわたって築き上げてきた「日本というブランド」から安全のイメージを奪った原発を、産業界が支える意味はもう完全に消滅した、というのだ。

 29日朝のテレビ番組でも、ソフトバンクの孫正義社長が27の県知事と連携して発表した、全国の休耕地や廃田の2割を太陽光発電基地に転用することで原発50基分の電力をまかなうという構想が話題となっていた。
 その一方、あくまで太陽光発電はコストがかかりすぎて問題にならない、原発の優位性は変わらないと主張するどこかの知事もいる。

 上記の恣意的な部分引用や中途半端な論拠では議論のとっかかりにもならないだろうが、何よりもいま求められるのが、正確で明確な情報に基づく冷静で科学的な議論であることは間違いないだろう。
 身内の閣僚に事前の相談もなく、根拠のない数値目標を公約としてぶち上げることがリーダーシップなのではなく、また、代替策や工程に関する十分な議論もなくやみくもに不安を煽るような報道や行動が必要なのでもない。
 これまで蓄積された知見と現状の課題を統合しながら、世界の潮流に戦略的に対処しつつ、科学の力によって安全かつプラスの方向に技術を転換するための知恵が何よりも求められている。

今そこにあるもの

2011-04-09 | 雑感
 「盛岡では、大きな書店が最近まで営業を休止していて、演劇やコンサートは数カ月先まで中止です。それに対し、誰一人不満の声をあげないのがショックでした。文化に携わってきた者として、芸術の役割って何だろうと突き付けられた感じです。平和で、心にゆとりのあるときの暇つぶしにすぎないのかと…」と、ある新聞のインタビュー記事で盛岡在住の作家・高橋克彦氏が語っている。

 3・11後、あらゆる人々の活動や考え方に大きな楔が打ち込まれたようだ。
 それは人々を否応なく行動に駆り立て、あるいは立ちすくませ、身動きすら叶わないものとする。
 それを前提とせずには何も語れなくなったのだ。
 それに対して、どのようなふるまいや行動をなすべきなのか、誰もが苦悩しつつ模索している。
 7日夜半の大きな余震がまたもや大きな不安と被害をもたらしたように、まぎれもなく震災は進行中であり、インフラの復旧すらままならない状態が続いている。そうした中での自身の生き様を私たちは問われているのだ。
 飢えた子どもの前で文学は有効か?という例の問いが胸に逼る。私に答えはない。
 いま目の前で直接的な助けを必要とする人を前に、アートは、演劇は、何を与えられるのか……。
 この場合、与える、という言葉自体が不遜な気がしてならない。これは設問が間違っているのだろう。

 先月末の3日間、池袋駅周辺の何箇所かで行われた地域団体の人々による被災者支援のための義捐金の募金活動に携わった。こう書くこと自体、何やらアリバイづくりのようで自己嫌悪に陥るけれど、予想外に多くの若い人たちが募金に協力してくれたことに救われたような気がする。
 一人ひとりが、どんなに小さな行動でもよい、自分のできることを、自分の仕事をとおして、少しずつ前に推し進めることが大切なのだ、と思う。
 何かをしなければいけない、何かをしたい、という気持ちが重要なのだ。
 その気持ち、自らを突き動かすものに従って行動するなら、それは表現になり、あらゆる営為は、アートと呼ばれることになるのだろう。

3・11

2011-03-25 | 雑感
 あの瞬間からすでに2週間近い時間が過ぎてしまった。あの日、3月11日の午後2時46分という日付と時刻を私たち日本人は忘れることはできないだろう。わが国の歴史上最大規模の地震と想像をはるかに超えた津波、そして原発からの放射能漏れという安全神話を根底から覆す事態は私たちの胸に深い傷となって刻印されたのだ。
 だが、そうしたある種の文学的クサミのある言い回しはどうでもよいことなのであって、問題は、今この瞬間にも被災状態は進行しているということ、組織的な支援の手が及びさえすれば確実に助かる命があるのだということ、逆に言えば、支援が届かないばかりに失われていくものがそこにはあるという事実なのだ。
 今ほど、私たち一人ひとりの行動や考え方、生き方やものごとへの対処の仕方が問われている時はないように思える。

 私はいまも四六時中、めまいでも起こしたように自分の身体が揺れているような感覚に捉われることがあるけれど、そうした思いは他の多くの人も感じているようだ。
 おまけにあれ以来、身体の一部に異常が生じてそれは今も癒えない。その身体の一部分がセンサーの役目を果たしているように、言葉にできない何かを感じているのだろうか。
 
 被災地の方々の思いはいかばかりだろう。

 いまこの瞬間、様々な言葉が飛び交っている。それは人々を勇気づけ、癒しもするけれど、時にはトゲのように、あるいは鋭利な刃物のように人の心に踏み入って深い傷を負わせたりもする。
 メディアの言説、無策な政権への批判、垂れ流される信頼できない情報、風評、失言、暴言・・・・・・。それらもまた言葉によって象られる。
 そうした言葉は否応なく耳に入り込んで私の中の黒々としたものを大きくする。
 耳を塞ぐべきなのかも知れない。よき言葉、人を励まし、力づけるような言葉こそが望まれる。
 私たちはなにをする? アートに,演劇になにができる?

時代の変化

2011-02-10 | 雑感
 先日、テレビで往年の角川映画で、薬師丸ひろ子、松田優作主演の「探偵物語」を放映していて、思わず見入ってしまった。この二人はやはり得難い俳優なのだということを再認識した。特に薬師丸ひろ子のような独特の空気感を出せる若い女優はなかなかいるものではない。
 それはそうと私が興味を惹かれたのは、そう言えば、この映画が作られた1983年頃にはまだ携帯電話なんてものはなく、主人公たちの連絡手段として公衆電話が大活躍していたということであった。
 今ならさしずめ携帯電話やメールで簡単に連絡を取り合うところだが、相手の居場所が分からず連絡がなかなか取れなかったり、すれ違ったりと、このやきもきとする不便さがドラマを生んでくれていたのだ。
 時代の変化で仕方のないことなのだけれど、おそらく30年以上前のミステリーや恋愛ドラマの多くが、今だったらあり得ない設定となっているのではないだろうか。
 それはある意味で味気ないことでもあるだろう。
 ちなみに、この映画が作られた2年後の1985年にNTTが肩から下げる大型の携帯電話、ショルダーホンを発売している。
 この頃は手紙も原稿書きももちろん手書きが主流だった。ようやく仕事場のオフィスにワープロ機が何台か導入された頃ではなかったか。
 
 前回、阪神淡路大震災からすでに16年が経ったということに触れたのだが、世の中の変化ということを考えるとき、この1995(平成7)年が一つの転換点であったという気がする。
 この震災をきっかけとして、携帯電話が非常時に役立つということがクローズアップされたため、家族を口説いて購入するインセンティブとなったのだ。
 同年7月にはPHSがサービスを開始、9月時点の携帯電話の普及は650万台であったという。また、この年にはウィンドウズ95が発売され、パソコンが一般家庭にも浸透しはじめたように思う。
 翌1996年、ヤフー株式会社がアメリカのヤフー・コーポレーションと日本のソフトバンク株式会社によって共同設立され、Yahoo!JAPANが商用の検索エンジンとしてサービスを開始している。
 2000年には携帯電話の加入台数が5000万台を超え、固定電話を上回った。2007年にはそれが1億台を突破している。
 同じく2000年にISDNの定額制サービスが登場し、インターネット人口は以後増加の一途を辿ることになる。
 Yahoo!JAPANがサービスを開始した1996年から2年間の総ページビュー数は1000万PVだったそうだが、2009年時点でのそれは何と月間で約480億PVにも及んでいるという。
 まさにこうした携帯機器やインターネットサービスの普及は、人々の生活から仕事のあり方まで何もかもを暴力的なまでに大きく変えてしまったようだ。

 今ではツイッターが世界を変えつつある。
 若者がツイッター上で行った政権への退陣要求がエジプトでの国民的な運動に広がったと言われるように、この小さなつぶやきが実に大きな力を持つに至ったのだ。
 とは言え、考えてみれば1年ちょっと前まで、このツイッターはまだそれほど普及してはいなかったはずだ。それが今では、映画・演劇・展覧会の評判はもとより、政治ネタ、商品の口コミ宣伝等への反映、育児から介護までの様々な情報が飛び交うなど、そのつぶやきは世界中に満ち溢れるようになっている。

 こうした情報コミュニケーション技術の発達とともに私たちの生活が本当に豊かになったのかどうか、自問してみたい。
 コミュニケーションのための道具の発展とともに、まさにコミュニケーションの希薄化が始まったという気がしているのは、私ばかりではないだろう。

 先日、ある劇団の稽古場を覗いた時、出番のない若い役者たちがみな携帯のメールチェックにいそしんでいるのを見て唖然とした。
 口うるさく言うつもりはないけれど、これでは集中も何もあったものではない。
 稽古場から携帯を追放せよと叫びたい。

二十年後

2011-01-30 | 雑感
 O・ヘンリーの有名な短篇小説に「二十年後」という作品がある。
 二人の青年が、ニューヨークの街角で20年後のこの日、この時刻に再会しようと約束して別れる。一人は一旗あげるために西部に旅立ち、片やそのままニューヨークに残る。
 20年後、二人はそれぞれ警察官とお尋ね者の悪党になっていた、という話だ。

 20年という月日はそれほどの変化をもたらす時間の長さなのだろうか。
 時間という感覚はそれこそ千差万別、時と場合によって実に不思議な変容をみせてくれるものだ。同じ時代に起こった出来事が、つい最近のことのようにも、大昔の事件のようにも思えてしまう。

 阪神淡路大震災は平成7年1月の出来事で、同じ年の3月には例の地下鉄サリン事件も起きている。あれから16年の歳月が過ぎたわけだが、関わりの深い人々にとってはつい昨日の出来事のように忘れがたいものであるに違いない。一方で、時の流れとともに多くの人がその教訓を忘れるという風化現象が懸念されてもいるのだ。

 村上春樹の「ノルウェイの森」が映画化されて話題になっている。単行本は累計1千万部ともいわれるほどの大ベストセラーで、文庫本も映画化に伴って100万部を超える売れ行きという。
 そのせいかそれほど昔のものという気がしないのだが、作品が書かれたのは今から24年も前のことだし、小説の中で回想される出来事の多くは40年前の1970年前後のことなのである。
 三島由紀夫の自決事件のあった年でもある。ビートルズはその前年に解散していたが、浅間山荘事件の起こる前で、まだ学生運動の余韻は十分に残っていた。
 当時、高校生だった私は太宰治を愛読していたが、太宰はその22年前の1948年に亡くなっている。自分の生まれる前のことでもあり、その太宰の死を私は遠い昔のことと感じていたと思う。

 私が生まれた1950年代、そのわずか10年足らず前に日本は太平洋戦争の渦中にあったのだが、私自身は親世代から戦争の話を聞きながらも自分の身の回りの日常に戦争の惨禍を感じることはなく、のっぺりとした平和のなかにあった。
 今からほぼ70年前にその戦争は始まり、さらにその70年前、日本は明治維新の最中にあった。
 私が生まれて50数年が過ぎてしまったが、私の生まれた年の50年前は日露戦争勃発前でチェーホフもトルストイも森鴎外も生きていたのだ。実に不思議な感覚に捉われるではないか。

 私が住む今の町に引っ越してきたのは12年ほど前なのだが、今近所では大手スーパーマーケットの解体工事が進み、マンションに建て替わるという。中学校は廃校になり、大手自動車メーカーの販売所兼整備工場の解体も始まった。
 日々少しずつ進め町の変化のなかではつい見過ごしてしまいがちだが、今の町の様子を10年前と比べてみたらあまりの変貌ぶりに驚いてしまうに違いない。
 わずか10年間ですらそうなのだ。
 この100年の時間の積み重ねが私たちにもたらしたものの大きさや重さを思うとき、粛然とした気持ちにならざるを得ない。
 多くの錯誤や錯覚、フィクションによる加工や変容を幾層にも塗り重ねながらも、100年前と現在の時間はしっかりと結ばれているのである。

 今から20年後、100年後の世界はどのように変化していることだろう。

舞踊 和のエッセンス

2011-01-09 | 雑感
 新年会にお招きいただいて顔を出す機会が多い。今日はとある舞踊関係の集まりにご招待をいただいた。日本舞踊の、といっても新舞踊あるいは歌謡舞踊と呼ばれるジャンルの皆さんである。
 この機会に舞踊の知識を少しでも頭に入れておこうとしたのだが、付け焼刃の一夜漬けではお里が知れてしまう。
 演劇史を勉強した皆さんには常識なのだろうが、「舞踊」という言葉が西洋のダンスに対応する言葉として、明治37年、坪内逍遥と福地源一郎(桜痴)が「新楽劇論」の中で和訳したものだということを今回初めて知った。お恥ずかしい限り。
 舞踊は、文字どおり「舞」と「踊り」が合体したものだが、舞踊にはもう1つ「振り」という要素がある。
 「舞」は奈良・平安の頃から舞楽、神楽、田楽など宮廷や民間での祭礼の際に奉納され、披露されるものとして発達した。
 それから200年後の鎌倉時代に猿楽となり、さらに200年後の室町時代には舞台演劇化した能楽として集大成されていった。同じように「踊り」では念仏踊り、盆踊りなどが民衆の娯楽として広まっていったのである。
 そのまた200年後の江戸開府の頃、出雲阿国によって歌舞伎が生まれたのはよく知られている。
 「振り」はその歌舞伎や人形浄瑠璃の発達によって派生したが、舞・踊・振りの3要素が融合した歌舞伎踊りへの発展は、出雲阿国からおおよそ200年後の文化・文政の頃、4世西川扇蔵やその弟子で花柳流を興した1世花柳寿輔らによってひとつの頂点を迎える。
 極めて大ざっぱなまとめだが、こうしてみると、舞踊は奈良時代以降、200年をワンサイクルとして変容・発展していったわけである。(これはかなり強引なこじつけだけれどね)
 舞踊には、日本文化のエッセンスが凝縮されているといってよいのである。

 ちなみに日本舞踊という言葉は、西洋のダンスと区別し、対比するための造語であったようだ。
 その後、坪内逍遥、小山内薫らによる演劇改良運動と相まって舞踊の改良運動も興り、大正期に新舞踊が生まれる。これに伴い、歌舞伎役者ばかりではなく、舞踊の専門家が人前で演じる、すなわち公演する形が定着し、今の隆盛に繋がっているのである。
 ちなみに今、日本舞踊には200を超える流派が存在するそうだ。

 さて、自分のことはさておき、和の文化、所作といったものが日常生活から希薄になって久しい。
 夏の花火シーズンには浴衣姿の若いカップルをよく見かけるようになったけれど、特に男子の着付けがなっていないのがさびしい。帯を腰周りではなくウェストラインに巻いているものだから、まるで子どものように見えてしまうのだ。

 先ごろ、コミックの「大奥」が映画化されてイケメンの人気男優たちが大勢出演していたけれど、江戸城の廊下を長袴をはいて歩くシーンで皆が皆、身体を左右に揺らせながら歩いていたのは見映えのよいものではなかった。あれは状態を安定させ、すり足で歩く訓練が出来ていないからなのだ。
 このように現代人の日常から消えていった和の所作は、実は目に見えないところで深い影響を及ぼしているに違いないのである。

高慢と偏見

2010-11-18 | 雑感
 芸術やアートの存在意義は何だろう。
 そんなことを始終考えながら日常を過ごしているわけではまったくないのだが、昨今、いわゆる「事業仕分け」流行りでそもそも芸術文化支援に公費を投入する意義は何なのかなどと賢しらに議論される世上だからウカウカともしていられない。
 けれども、国の事業仕分けでは「それは国の仕事ではない。自治体や地域のNPOに任せるべきだ」と言われ、かたや自治体の仕分けで「それは自治体の仕事ではない」と切り捨てられる「芸術文化」とは何なのだろう。

 そういえば杉並区の外部評価委員会が区の事業の必要性を評価する杉並版「事業仕分け」を行ったとの新聞報道があった。
 「アニメ産業の育成・支援」について、外部委員が「区として行う必要があるのか」などと指摘。事業に含まれる「杉並アニメーションミュージアム」やアニメ製作会社の人材育成を支援する「匠塾」など4つの個別策すべてについて「廃止を含め抜本的に見直すべき」としたとのことだ。

 内実を知らないので軽々にモノ申すのは慎まなければならないだろうが、それでも杉並区はアニメ産業の集積地であるはずだ。
 これだけクール・ジャパンなどと持て囃される一方で、海外への技術流出や若い担い手が育っていないことや劣悪な労働環境などが問題となっている状況から、これを公的に支援しようとする杉並区の政策には一定の意義があると思うのだがどうだろう。
 「国立マンガ喫茶」などと揶揄された例の施設の問題がいまもって多くの人々のトラウマになっているのだろうか。
 それとも、公的に手を差し伸べなければ衰退してしまうような産業は放っておけということなのか。
 それならば、商店街への支援はどうなのか。中小企業や公衆浴場への公的助成はどう評価されるのだろうか。誰も「自治体の仕事ではない」などとは言わないだろう。この差異はいかなる理由によるものなのか。

 某前総務大臣が事業仕分けなるものに対して「かつては失望だったのが、いまや憎しみに変わりつつある」と言ったとか言わなかったとか。
 私も半ば同感である。
 もっとも今の政権はすでに学級崩壊の様相を呈しているとの声も多い。
 そう言えば、美人で頭のいい学級委員の女子にズケズケとした物言いでやり込められているサエナイ男の子たちの姿が思い浮かんで微笑ましい。
 けどなあ、いくら正論で論理的だろうが納得できないことだってある。
 英語の発音が少しくらい間違っていたっていいじゃない。あなたはどう思う?

親と子のいる情景

2010-08-13 | 雑感
 いつの間にか夏休みの真っ最中なのだが、そんな気分にならないまま時間ばかりが過ぎていく。子どもの頃は、夏休みも8月の声を聞くと、何だかもう休みが半分以上もなくなってしまったようで妙なさびしさを覚えたものだった。

 さて8月になって、おなじみ「にしすがも創造舎」での「アート夏まつり」が始まった。
 すでに2週間も前のことになるけれど、その初日イベントである「畑@校庭まるごと体感デー」のことを少し書いておこう。
 かつて中学校だった校庭の一部が今はとても素敵な畑になっていて、その「グリグリ・プロジェクト」が楽しい。
 グリグリ・プロジェクトというのは、「グリーン(植物)+アート」をテーマに、畑づくりを通じて多世代の人が出会い、多様なコミュニケーションと、新しいコミュニティの形成を目指す地域交流型プロジェクトとのこと。
 ちょっと難しそうだが、要は、100人ほどの親子連れや様々な年齢の人々が畑づくりを通して触れあい、そこにアーティストが加わって楽しいことをみんなで企てようということなのだ。
 畑の一角にある《石がま》で焼いたピザの販売や、子どもも楽しめるちいさな畑づくり体験、集めた葉っぱでのお絵描き、絵本の読み聞かせなどなど、様々なプロジェクトが展開されている。
 このほかトイポップ集団「ヒネモス」のぷちライブ、無農薬や有機栽培でがんばる農家の皆さん、手作りの加工品生産者による「アースデイマーケット」、校舎の昇降口をリノベーションしたカモ・カフェなど、猛暑の中を子どもたちの元気な声が響き渡っている。
 そんな子どもたちの姿を眺めながら、さまざまな親子のかたちというものをぼんやりと考えていた。

 同じ日、東京芸術劇場5階の展示ギャラリーに顔を出した。
 池袋西口一体で繰り拡げられている「まちかど回遊美術館」の関連イベントとしてギャラリー・トークが開催されていた。
 「父 吉井忠の旅」というタイトルで、画家の吉井爽子さんが娘の視点から池袋モンパルナスゆかりの画家・吉井忠の生涯を語るというものだ。
 吉井忠は、1908(明治41)年福島県に生まれ、1999(平成11)年、91歳で亡くなった。
 30歳で東京豊島区長崎のアトリエ村に移り住み、戦後も池袋谷端川沿いにアトリエを建てて終の棲家とした人である。
 28歳の頃、2・26事件のあった年に渡欧し、アンドレ・ブルトンのグラディバ画廊を訪ねたのをはじめとして、樺太島、中国のほか、地中海、西アジア、インド、メキシコ、キューバ、敦煌、トルファン等々、その画業は生涯を通して常に旅とともにあったのである。
 娘の爽子さんはそんな忠氏の晩年、一緒にスケッチ旅行をしたそうだ。
 絵になりそうな場所を見つけ、その場に座り込むやいなや、もう画帳に鉛筆を走らせていたという父の姿を語るその口調は愛情に満ち溢れている。
 
 さて、いま読んでいるのが姜尚中氏の著作「在日」(集英社文庫版)である。そこに描かれた親子の絆、とりわけ母の姿は全身全霊をかけたありったけの深い愛情に満ちて読む者の心を揺さぶる。
 昨今のニュースに現れるような、母性本能や親子の情愛といった言葉がすでに死語と化したかのような殺伐とした世相のなかではむしろ奇跡とも思えるけれど、果たしてそれは、差別され、抑圧されたもののみが感じることのできる種類の能力であり、感情なのだろうか。
 猛暑の夜に涙腺を刺激され、汗と涙にまみれて頁を繰りながら、あらためて親子のあり様を考えていた。

 そんな時に、こまつ座の舞台「父と暮らせば」(井上ひさし作、鵜山仁演出)を観たものだから、まるでもう無防備にも涙が流れて仕方がなかった。(於:あうるすぽっと)
 丸谷才一氏はこの芝居を「笑いと涙と、戦後日本の最高の喜劇」と評したそうだが、娘の胸のときめきからその胴体が生まれ、もらしたためいきから手足ができ、その願いから心臓ができたという原爆で死んだはずの父親の言葉は、一人だけ生き残った負い目から絶望し、ひたすら内向しようとする娘へのそれこそ全霊をかけた思いやりと激励に満ちている。
 芝居を観ることの幸せとともに、死者と生者との魂の交感、生きることへの励ましといったことにまで思いを至らせる至福の時間がそこにはあったのである。

トルストイの時間

2010-04-15 | 雑感
 小林秀雄はトルストイに関してこんなことを書いているそうだ。

 「若い人から、何を読んだらいいかと訊ねられると、僕はいつもトルストイを読み給えと答える。すると必ずその他には何を読んだらいいかと言われる。他の何にも読む必要はない。だまされたと思って『戦争と平和』を読み給えと僕は答える」
 「あんまり本が多すぎる。だからこそトルストイを、トルストイだけを読み給え」

 これは先月号の「文学界」に出ていたトルストイの没後百年記念の鼎談「トルストイを復活させる」で紹介されていたものだ。
 このほかにもこの辻原登、沼野充義、山城むつみの3氏の話には面白く引用したいものが多かったのだが、なかでも「コザック」という小説の一節は中村白葉の翻訳が素晴らしく、うっとりするような文章でいつまでも味わっていたいと思わせる。

 私はわずかな読書量とはいえ、ドストエフスキーの「罪と罰」を3回、「カラマーゾフの兄弟」は2回読んでいるというのがささやかな自慢なのだが、そういえばトルストイは「復活」を4分の3まで読んだところで断念し一つも読み通していないのだった。これを機会に挑戦してみるか。

 今年はトルストイの没後100年、チェーホフの生誕150年、ショパンの生誕200年といった記念の年である。
 わが国では二葉亭四迷や彫刻家の荻原守衛が没後100年にあたる。

 こうした感覚は実に面白くて、歴史上の誰かと誰かが同時代人だったという発見は意外とわくわくするものだ。罪のない遊びといってもよいだろう。
 昨年は太宰治や松本清張、中島敦などが生誕100年だったから、彼らの生まれた翌年にトルストイは没したことになるわけだ。
 トルストイの没した年に芥川龍之介は多感な18歳で、その5年後に「羅生門」を発表している。
 夏目漱石が生まれた頃、トルストイはまさに「戦争と平和」の執筆の真っ最中だったし、トルストイの死んだ頃、漱石は「それから」を書いていた。
 彼らはまさに同時代人だったのである。

 さらに、今年はジョン・レノンの生誕70年、没後30年でもある。つまり、ジョン・レノンはトルストイの死んだ30年後に生まれたことになるのだ。
 ジョン・レノンの40年の人生を間に挟んでの30年前と30年後の今。この時間感覚は面白い。
 そういえば、今年は三島由紀夫が割腹自殺してからちょうど40年目でもあるのだった。

テンペスト

2009-10-10 | 雑感
 台風18号は日本列島を縦断し、各地につめ痕を残して去った。この10年間で最大規模との報道もあり、首都圏でも交通機関が近年にない混乱を示した。

 怪我をした方、亡くなられた方、家や農作物に甚大な被害を受けた方々に比べればなんてことはないのだが、私も普段なら電車で10分ほどの距離を移動するのに2時間近くも要してしまい、大事な打ち合わせをすっぽかす事態となった。
 ちょっとしたタイミングで電車に乗り損ね、その後JRはおろか地下鉄まで全線ストップとなる仕儀で、日ごろは閑散としているタクシー乗場も長蛇の列、とにかく目的地に向かって歩くしかない状態だったのだ。

 それにしてもこの台風、どうしてこんなにも狙い済ましたように狭い日本列島を直撃するのか、そのメカニズムが私のような理科オンチにはまるで理解ができない。
 東京ディズニーランドには、「ストームライダー」という、気象コントロールセンターから発進する新型飛行型気象観測ラボを使ってストームを破壊するというアトラクションがあると聞いたことがあるが、もしそれが実現可能なものなら国を挙げて真剣に研究する価値は十分過ぎるほどにあるのじゃないだろうかなどと考えてしまう。

 台風=「あらし」と言えば、シェイクスピアの「テンペスト」を思い出す。
 作者最晩年の作といわれるこの作品は、復讐を経て再生と和解へといたる物語である。
 いま世の中全体が「あらし」を経て「変革」の時を迎えつつある。
 ひとつの「祭り」が終わり、人々はその総括を求めて「反動」の時代が到来するのかも知れない。
 和解と再生の時は果たして訪れるのか。

 テンペストの主人公プロスペローが語る有名な台詞がある。
 「我々は夢と同じ糸で織りなされており、その儚い命は眠りとともに終わる」というものだ。

 夢のあと、祭りのあとには何が残るのだろうか。

伝言ゲーム

2009-09-28 | 雑感
 世の中の仕組みは「伝言ゲーム」によって成り立っているのではないだろうかと思うことがある。
 そのゲームにおいて「情報」は血液のようなものだ。血液がうまく行き渡らなかったり、不足したり、あるいは変形したものであったりすると取り返しのつかないことになる。
 ごく最近のことだが、知っておくべき情報を知らなかったために私はある重大な失敗をしてしまったのだ。それは第三者からみれば取るに足らないことなのかも知れないのだけれど。

 その要因をよくよく考えれば、私の属する組織内のコミュニケーションが不全で、情報が十分に伝達されていなかったということに尽きる。
 けれど、その情報を知らなかったことにより、私は人に対して誤った評価をしてしまい、そのことで巻き添えのようにして必要のない軋轢を生じさせてしまったのだ。
 さらには、そのことを起因として、誰よりも大切な人を傷つけてしまった。そのことがまた私自身をどうしようもなく傷つける。

 世の中はさまざまな伝言ゲームに満ち溢れている。そこでやり取りされるのは「情報」である。
 それは政治の世界でも同様であり、情報こそが力なのだ。
 だから人は情報を血まなこになって集めようとする。持てる情報を隠そうとし、ワザとのように漏洩し、画策しようとする。
 情報をもらえないことで激しく嫉妬し、憎み、情報を得るために懐柔しようとする。

 メディアはさまざまな情報をさまざまな手段で私たちに伝えようとするけれど、本当に大切で必要な情報がそこにあるのかどうかを私たちは自分の力で見極めなければならない。

 いま、政権交代に伴い、八ッ場ダム、川辺川ダムの建設中止を担当大臣が表明したことにより、様々な課題が噴出している。
 目にする報道の多くは、地域住民の困惑や怒りに焦点が向きがちで、大臣との対峙がやや扇情的に報じられる。地元に全国から批判的なメールが数多く寄せられたことなど、そうした報道の影響と言えなくもないだろう。
 重要なのは事実に基づくデータであるが、それは現時点で明確であるとは感じられない。

 建設中止の根拠は何なのか。それは十分納得できるものなのか。
 費用対効果はどのように算出されているのか。ダムに代わる治水や利水の方策はどうなるのか。
 そうした課題の一つひとつを丁寧に伝えることこそがメディアにも為政者にも求められるだろうし、そうした情報の真偽を十分吟味し、判断することが私たちには課せられているのである。

踊るよろこび

2009-08-25 | 雑感
 22日から23日にかけて、山形県村山市で開催された「むらやま徳内まつり」に参加してきた。東京・池袋から現地に招請されて遠征した「東京よさこい」のチームに同道してのことだ。
 とは言っても私は別ルートで先着し、彼らを現地で出迎える立場である。
 「むらやま徳内まつり」は今年15周年を迎えた比較的新しい祭りである。
 徳内ばやしは、村山市出身の江戸時代の北方探検家、最上徳内が建立した神明宮(現在の北海道厚岸神社)に伝わるお囃子が200年の時を経て村山市に伝来し、独自の発展を遂げたものとのこと。
 基本となるお囃子の調子はのどかなものなのだが、現代風の激しいリズムが加わり、生演奏の和太鼓や笛から繰り出される熱気は、老若男女を問わず、1チーム15分間にわたって次々と展開する乱舞と相まって素晴らしい迫力を生む。
 それを山の稜線がくっきりと浮かぶ夜空を背景とした舞台上に眺めることは、日常の中ではなかなか得られない貴重な体験である。
 「東京よさこい」チームの踊りも地元の人たちにさわやかな感動を与えるものだった。
 祭りは、人口2万6千人ほどの村山市にどうしてこれほどの人がと思えるほどの盛り上がりを見せ、県内外を問わず3日間で26万人が集まるという。
 私もステージを離れ、露店が並ぶ小路や御輿のパレードを眺めながらそぞろ歩きをしてみたのだが、祭りらしい祭りを久しぶりに見たという感慨とともに、子どもの頃に帰ったような懐かしさが胸に溢れる思いをしばし味わった。

 さて、同じ23日、東京・池袋の西口公園では、ダンサーの近藤良平が、自ら主宰する「コンドルズ」のメンバーとともに「にゅ~盆踊り」の輪の中にいた。
 これは、劇場「あうるすぽっと」が企画した夏向けの市民参加型の事業で、全国からの公募で集まった人たちと一緒に新しい盆踊りをつくろうというものである。
 この日は村山市から帰ってきたのが夕方で、行こうと思えば行けないことはなかったのだが、少しばかり気が臆したばかりに機会を失してしまった。
 あとから人づてにその盛り上がりの素晴らしかったことを聞いて悔しい思いをしたのだけれど、それこそ後の祭りである。

 実は、これに先立つ7月31日、「にゅ~盆踊り」の参加者170人ほどが、巣鴨地蔵通りの納涼盆踊り大会に近藤らコンドルズのメンバーとともにワークショップを兼ねて飛び入り参加したのだが、これを私は見ているのだ。
 それこそ京都や名古屋、静岡から駆けつけた人もいるという参加者は、それゆえのテンションの高さなのか、人の輪に加わることの喜びに満ち溢れた明るい顔をしている。
 もっとも、この時は無条件で地元の人たちに受け入れられたのではないように感じる一幕もあった。
 従来の地元盆踊り大会に闖入してきた若者集団と見慣れない振りの踊りを見ながら、その輪の中に入れず遠巻きに眺めるばかりの地元の人たちの中で、何となく「にゅ~盆踊り」が浮き上がった感じもあったのだ。
 それが、23日の本番では、逆に招待されて池袋にやってきた巣鴨の踊り手たちの輪の中に「にゅ~盆踊り」の若者たちが進んで入り込み、一緒に輪を広げ踊りながらその興奮はいやがうえにも高まったという。大成功である。

 近藤良平氏がバレエやダンスのいわゆる「素人」と付き合う理由として「スポーツなら、基本的に運動神経のいい者が勝つ。でもダンスは違う。表現の豊かさにおいては、10歳も50歳もそれほど差はない」と答えている。
 優れたダンサーである近藤も、一般の人に「負けた」と思う瞬間があるというのだ。

 それは演劇においてもまったく同様だろう。
 「表現」はマニュアルどおりにはいかないし、技術ばかりの問題でもない。理論づけのできない部分にその豊かさの秘密は潜んでいる。
 それゆえにこそ、みな苦しみもし、楽しみもするのだけれど。

マイケルに微笑を

2009-06-28 | 雑感
 誰しも他の人には分かってはもらえないかも知れないが心の中で大事にしている自分だけのアイドルという存在があるのではないだろうか。
 私の知り合いでは、50歳を過ぎていまだに昔のアイドルグループを追いかけているなんて人がいる。こちらもおばさんなら、向こうだって腹が出て頭の薄くなったオジサングループなのだが、当人にとってそんなことはどうでもよいのだ。
 真面目な話、それで人生が少しでも明るく感じられるならそれでよいではないか、と思う。

 昔、私の少し先輩で大学の卒論テーマに美空ひばりを選んだ人がいる。私たちは「何でひばりなんだよ」と大いにバカにしたものだ。私たちにとって「ひばり」はすでに過去の歌謡界を代表する遺物でしかなかったし、ちょうど彼女が実弟の引き起こした不祥事などで全国の公的施設から締め出しを受けるなど、バッシングの嵐の最中でもあった。
 しかし、彼はそんなことをまったく気にも留めず「ひばりは天才だあっ」と断言して憚らなかった。
 いまにして思えば、私たちには何も見えていなかったし、何も聴こえてはいなかった。彼の目(耳)のほうが確かだったのだ。

 さて、私にとってのアイドルは誰かといえば、無声映画時代のチャーリー・チャップリン、フレッド・アステア、ブルース・リー、そして先日その訃報が世界中を駆け巡ったマイケル・ジャクソンであると答えよう。
 皆その身体表現において既存のものとは全く異なる世界を作り出すという独自の才能を発揮した人たちである。彼らの映像を私は何度繰り返して見たことだろう。
 何度見たところで自分が彼らの領域に近づくことなどできっこないのは分かりきっているのだけれど、彼らの動作、手足の動き、その一挙手一投足がかもし出す空間の特有の美しさに私は魅了されたのだ。
 そのうち二人は長寿を全うし、二人は夭折した(といっていいだろう)。

 映画「パリの恋人」のアステアはすでに55歳になっていたけれど、ピンクの靴下を履いてオードリー・ヘップバーンを相手に華麗に踊った。
 アステアのように還暦を過ぎてなおダンサー・俳優としてあくまで現役を通すという生き方をマイケル・ジャクソンに重ね合わせることは難しいように思う。
 50歳という死が早すぎるかどうかは比較の問題だろうが、太宰治の39歳、チェーホフの44歳、夏目漱石、レイモンド・カーヴァーの50歳という享年と引き比べても決して若死にとは言えないかも知れない。
 けれどそこに否応なく夭折の気配が漂うのは、ネバーランドに籠もり、ピーター・パンたろうとした彼がこの10年程は現役のエンターティナーとして姿を見せることが極端になくなっていたことに起因するようにも思う。
 あるいは、ビデオ時代の申し子にふさわしく、80年代の若々しいその姿が鮮烈な映像として私たちの記憶に焼きついているからだろうか。

 その後半生はむしろ無残ですらあった。「リトル・スージー」のような心に響く曲を作った彼が真偽のほどはともあれ児童にたいする性的虐待の罪に問われたという事実はファンならずとも受け入れがたい運命の皮肉というしかない。
 
 今はただその冥福を祈りたいと思う。
 「スマイル」はチャップリンが自ら主演・監督した映画「独裁者」のために書いたテーマ曲だが、これを歌うマイケルの声は限りなくやさしい。
 今夜はその歌声にじっくりと耳を傾けることにしよう。

伝えること 伝わること

2009-06-23 | 雑感
 16日付の毎日新聞夕刊コラムに劇作家・演出家の佐藤信氏が次のように書いている。
 「通りがかりの人の足をとめる。足をとめた人に、一定時間、芸を見つづけさせる。最後に、拍手とともに、足元に置いた帽子の中に、なにがしかのお金を入れてもらう。
 大道芸と呼ばれる路上パフォーマンスは、この三つの構成要素から成り立っている。というか、演劇をはじめ、すべてのライブパフォーマンスもまた、煎じつめれば、この三要素に行きつくのは間違いない。」

 あらゆる商売もまたそうした三要素によって成り立っている。行き交う客の足を引きとめ、商品を手にとってもらい、いくばくかの金銭と交換に受け取ってもらうということ。
 極めて単純なことが、しかし、いかに難しいか。

 ある人にとってはとても大切なものが、ある人にとってはまったく関心の埒外にある。あげく、特定の人間の独りよがりなものでしかないなどと揶揄される。「表現」という行為は常にそうした評価にさらされる宿命を背負った、ある種の戦いなのだ。であればこそ勝たなければならないのだが、そのための戦略を描くのはなかなか容易ではない。

 先日、十二代目結城孫三郎さんの話を聞く機会があった。結城座は江戸時代の寛永2年(1635年)に初代結城孫三郎が旗揚げして以来、370年を超える歴史を持つ糸あやつり人形劇団である。
 江戸幕府公認の五座の中で、現在「座」として存続するのは結城座だけだという。
 存続もまた戦いである。糸あやつり人形芝居を人に観てもらい、そのことで生計を維持し、座を存続させるということには言葉に尽くせぬ労苦が積み重なっている。
 孫三郎氏は時には酔客の前で演じることもあったようだ。彼らは舞台上の人形になど興味はない。酒に酔い、女の子のお尻を撫でては嬌声を上げることにしか関心はない。
 そんな酔っ払いの目を舞台に向けさせ、ひと時ではあっても芸を見るようにするという工夫の積み重ねが今の結城孫三郎氏に至る結城座の歴史となって連なっているのだ。それはとてつもなく強いものに思える。

 これもまた先日のこと、ある高名な演出家が韓国の劇作家の作品を素材として高校演劇部の生徒たちを指導したドラマ・リーディングの舞台を観た。会場には、友人たちや保護者と思しき大人たちがいてそこそこ賑わっている。
 申し訳ないことに仕事疲れのあった私は半分ほどの時間を眠ってしまったらしい。小一時間のドラマはそれなりの余韻を残して終わった。急いでいた私はすぐに帰りのエレベーターに乗ったのだが、一緒に乗り込んできた数人の女子学生がいた。彼女らの友人が出演していたのだ。
 「あんなことしてて面白いのかなあ」「いいんじゃん。好きでやってんだし」
あとはお喋り・・・。
 がんばれ、と私は心のなかで舞台上の彼らにエールを送る。

 村上春樹の新作長編が発売2週間足らずでミリオンセラーとなったことが大きく報道された。
 表現されたものが伝わるという、そのことに意味としての違いはないはずだが、その質量において彼我の隔たりはあまりに大きい。言葉を失うほどだ。
 何が伝わり、何が受け止められたのだろう。

輝けるスーザン

2009-04-29 | 雑感
 人を評価する、ということについて考えてみたい。
 一般のサラリーマンにとって、業績評価はある種必要悪のような当然のことと受け止められているのかも知れない。
 数値化された評価によって報酬に差が生まれ、競争意識が高まる。そのことによって組織全体が活性化し、業績が高まる。目標管理や評価といわれるものの目的はそうであるに違いないのだが、数値化することで漏れてしまう何か大切なものがあるのではないか、と思えてならないのである。
 その証拠に、行き過ぎた業績評価の弊害も巷間話題になっているではないか。いわく、職場がギスギスした、コミュニケーションが円滑でなくなった、等々。
 まして、評価を下す相手が信頼できない上司であった場合など・・・。

 あらためて身の回りを見直すとあらゆるものが数値化され、評価対象となっているように思える。
 その代表的なものがスポーツ選手の成績であろう。それはより客観的な数値で分析され、年俸に反映される。それはまたニュース化され、人々の話題にもなる。
 それとは少し違うかも知れないけれど、テレビ番組の視聴率、映画興行ランキング、本のベストセラーランキング、学力テストの市町村別・学校別ランキング、有名レストランの三ツ星評価なんてのもそうだろうか。
 さらには、内閣支持率なんて評価指標もある。そう考えれば選挙は政治/政治家を評価する最大のシステムである、はずなのだ。

 翻って、役者に対する評価とは何だろうか、とふと考える。
 観客の拍手、という答えは美しいが眉唾物である。より大きな拍手を送る人がより正当な見る目を持った評価者とは限らないからだ。

 ある人気タレントが深酒をして不祥事を起こした。それに対し、ある大臣が「最低の人間」というレッテル貼りの評価を下した。
 それに対して今度は多くのファンが猛抗議をし、大臣は発言を修正したと聞く。最低と評価した側の人間の品格が評価されたのである。

 英国人女性スーザン・ボイルのことは様々な媒体で報道され、すでに多くの方がご存知だろう。
 スコットランドの小さな村に住むもうすぐ48歳という小太りで二重あご、ゲジゲジ眉毛の「気のいいおばさん」がまさに一夜にして世界的な有名人になったのだ。
 素人タレント発掘番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」に登場した彼女は、その容姿もあって期待値ゼロ、はじめは審査員もいささか意地悪で馬鹿にしたような質問をし、観客たちも白けた様子だったのが、いったん音楽が流れ、最初のフレーズの歌声を聴いた瞬間、そのあまりの素晴らしさに会場中が電気に打たれたような驚きに包まれ、最後には観客席は満場の拍手でスタンディングオベーション、審査員も大絶賛する有様へと変貌する。
 その一部始終を映した動画がインターネットで世界中に配信され、1週間でなんと4300万回も視聴されるという大人気となったのだ。

 まさにハリウッド調の成功物語を顕現させたようなドラマ性、あるいは見るからにさえない人が、ひとたび歌い始めるや誰にも真似のできないような輝きを放ちはじめるという劇的な意外性が人々を惹きつけたということもあるだろう。
 しかし、何よりも、見た目の先入観や固定観念による一面的な評価を、その表現する力によって一瞬にして覆すという驚きの爽快感が多くの人々を感動させ、その心を鷲づかみにしたのに違いない。

 その感動を味わいたい人はぜひインターネットでご確認ください。