外出中の〝うちの奥さま。”雨の降る中を「今日は大事な日」とシャンパンと白ワインを買って帰ってきました。
人それぞれに記念すべき大切な日があります。
私のまた我が家の記念の日の一つが4月10日です。その日は、中学を卒業したばかりの15歳の私が、国家公務員としての人生の第一歩を踏み出した日なのです。
最初に戴いた辞令書には「電気通信省熊本電気通信学園電信業務部訓練生・電気通信省事務員補」とありました。有線通信士を養成するための訓練生として15歳の少年が熊本の地で、9か月間の訓練を受けることとなったのです。
学園は全寮制でした。寮は木造2階建て、20室ある15畳の部屋の1室に、8人の訓練生が一緒の生活を送ることになりました。部屋には大人のような高卒の方2名も一緒でした。食糧難の時代でした。いつもおなかをすかしながら、遠く離れた門司にいる家族のことを思い出していたものです。
英語や国語、数学の授業もありましたが、主となる授業はモールス信号をおぼえることでした。トンツ―、トンツ―。毎日のように試験がありました。朝起きてから寝るまで、深夜布団の中でもトンツ―トンツ―のいろは48文字、それにabcのアルファベット26文字と通信記号のモールス符号をお経のように繰り返し繰り返し暗唱したものです。床に入って見る夢の中でも、はたして1人前の通信士になれるのだろうかと不安が付きまとったものです。
9カ月の訓練を終えたのはその年の12月9日。どうやら落伍せずに修了証書をいただくことができました。幸いなことに配属になったのは家族の住む門司の電報局でした。また家族と一緒に暮らすことができる。その時の感激とうれしさといったらありません。
電報局で通信の第1線に配属にはなったもののいまだ未熟な通信士です。だが1月もたつと当直を命ぜられるようになりました。当直の夜は仮眠時間をのぞいて、各地からの電報を夜を徹して処理しなければなりません。
深夜、毎日新聞社あてに長い新聞電報がはいります。午前1時を過ぎたころにはイギリスの領事館にあてて公電が届きます。大きな船が関門海峡を通過するときは船長でなく水先案内人が指揮を執らなければなりません。海峡の入り口にある六連島近くに船が着くと水先案内人を依頼する電報が入ります。通知が遅くなると大変です。1時間停泊が長くなると当時のお金で35万円と聞いていました。
失敗もあります。当直の夜、睡魔に襲われ案内人宛ての電報を30分遅らせたことがあります。大変でした。直接、電報局長が船会社に謝罪に行き、どうやらおさまったとお聞きしました。
中学を出てすぐに公務員となった学園での厳しい訓練と寮生活、通信士として過ごした門司の電報局。60有余年を過ぎた今も、走馬燈のように思い出は通りすぎてゆきます。
〝うちの奥さま”には、おりにふれ青春時代の思い出としてこの日のことを話していました。いつの日からか、この日は我が家の大事な記念日となったのです。
今夜は、おいしいシャンパンをいただきながら、52年を超える長い結婚生活の思い出や長い人生の出発点となった学園生活など、尽きぬ思い出を語り会う楽しい食事の時間となりました。
※今はすたれてしまったモールス通信ですが、当時は花形で世界中で使われていました。救援信号のSOSは、モールス信号のトン・トン・トン・ツー・ツー・ツー・トン・トン・トンとなります。