毎日が日曜日・でも多忙です!

おかげさまで、毎日を元気に楽しく過ごしています。普段の出来事、思いつくことなどフリーの立場で記録したいと思います。

映画「それでも夜が明ける」を観て

2014-04-30 21:42:54 | 日記

大型連休はサラリーマンの特権かな。毎日が日曜日の老人たちには、いつもと変わらぬ退屈な日が待っている。

テレビでは各地の賑う様子と混雑の状況が報じられているが、何か他人事のように思える。出国ラッシュに湧く成田空港からのLIVE。沢山の人が映っている。みんな楽しそう。満面から笑みがこぼれている。

憂さ晴らしといっては何だが、暇つぶしに「映画を観に行こう」と我が家の奥さまに提案したところ大賛成。すぐに上映中の映画を探したが、なんだか老人向きでない映画ばかり。

あれこれ探して、やっとのことでこれはと思う映画を2本見つけた。

「それでも夜が明ける」「あなたを抱きしめるまで」。奥さまはどちらも見たいねという。同じ日に2本を見るのは無理。どちらにしようか迷ってしまう。最後はよくわからないがPCの「口こみ」に頼り「それでも夜は明ける」を観ることに決めた。

 チケット売り場でシニア料金1人1000円、2人だから2千円を差し出したところ「すみませんお客様、2200円いただきます」と。そうだ4月から消費税が増税になっていたこと迂闊にも忘れていた。

「それでも夜は明ける」は奴隷制度が広がっていた1841年、アメリカ。ニューヨークで家族とともに暮らす自由黒人で音楽家のソロモンが、突如誘拐され、奴隷としてアメリカ南部のニューオーリンズへ売り飛ばされるところから始まる。実話だという。

映画は奴隷商人の取引場面。鞭打ちの拷問。残酷な虐待場面が終わるまで続き、最初は目をそむけたくなった。

だが、主人公ソロモンが、農園での過酷な労働を強いられながらも、決して人としての尊厳を失うまいと心に決め、いつかまた家族と再会できる日が来ることを信じ続けて耐え忍ぶ姿に感動が涌いた。

12年もの歳月がながれ、奴隷制度撤廃を唱えるカナダ人労働者と出会い「自由黒人」であることが証明され解放される。

ソロモンは「自由黒人」だから救いがあったけれど、生まれながらの奴隷であったら、どうなっていたのだろう。正直、単一民族の日本人には到底理解が得られない。

人間をモノとしか考えず、財産とみなす奴隷制度、過酷な労働を強い、意にそわぬ者には魅せしめの鞭を振るう。こんな時代が過去にあったとは想像も出来なかった。映画を観終わりその非情さに憤りさえ感じた。

そして、形は違うにしてもこのようなことが世界のどこかで今も起こっているのではなかろうかとふと考えた。

「自由黒人」というのも初めて知った。この映画、人としての権利の大切さを教えてくれた。いくつになっても学ぶことは沢山あることも教えてくれた。

 

 


京都からの宅急便

2014-04-29 13:13:26 | 日記

サラリーマンの待ちに待った大型連休。「毎日が日曜日」年金生活の老人夫婦。今日行く(教育)・今日用がある(教養)もいつもと変わらず少し退屈。

この4月夫婦ともに転勤となった娘たち。新しい職場にもずいぶん慣れてきたようだ。連休が始まると同時に京都の大学で暮らす孫のところへ出かけたようだ。娘夫婦が京都へ出かけたことなど知る由もない老人夫婦。

簡単なメールが届いて初めて知った。メールには2枚の写真と「お天気に恵まれ楽しかったです。」「珍しいものが見れました。だけど、量が多くてお腹いっぱいです。」とある。

写真では孫も元気で勉強とアルバイトに精を出していることがうかがえる。

その日午後、京都から宅急便が届いた。娘夫婦からの京土産だろうか、百万遍かぎやの「黄蘗」と「ときわ木」、左京区にある鎰屋の「野菊」。3種類の京菓子が入っていた。“うちの奥さま”大喜び。雅やかさと、落ち着いた色あい、それにいかにも美味しそうな京菓子には、いつも奥さま憧れていたようだ。

毎朝食事の前にお茶を戴くのが我が家の行事。美味しいお茶菓子は欠かせない。ときにはチョコレートやお饅頭になる日もある。明日からは娘たちの心ずくし、京都のお菓子が賑わせてくれることだろう。楽しみだ。少し退屈気味の連休を京都のお菓子が楽しくしてくれることだろう。

お菓子の裏書を見る。「賞味期限はいつまで」。どのお菓子から戴くかな。賞味期限が近いほうから先に戴くことにしよう。と夫婦の会話がはずむ。京都のお菓子の思わぬ効果が出てきた。

すぐにお礼の電話をかけた。「ありがとう」と。

孫のアルバイト先はタイ料理の店だという。

勤めぶりを見たくて夫婦でその料理店に行ったそうだ。テキパキと働いているので安心したというが、丁度その時入ってきた客の一人がまだ片付かないテーブルを見て「早くかたずけろ」と強い口調で孫に言ったそうだ。

娘は腹が立った。自分がかたずけてやりたくなった。涙が出たと話してくれた。

話を聞いていて、いつも離れ離れに暮らす娘一家の絆というか、息子思いというか和やかな家庭の雰囲気をひしひしと感じながら、京都のお菓子を戴いた。 

 

 


富岡製糸場・世界文化遺産へ

2014-04-28 14:02:10 | 日記

明日から大型連休が始まる。毎日を仕事に追われるサラリーマンにとっては待望の連休だろう。

期間中人の動きは活発になる。海外旅行とまでは言わないが、毎年連休期間中に有田陶器市に出かけるのが我が家の恒例行事だった。だが、昨年4月、愛車のローバーを廃車してからは遠出が出来なくなった。連休中は少し衰えの目立ちつつある足に頼りながらの、市内見物に精を出すこととしようかな。

連休にあわせるかのように、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に政府が推薦していた「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)が登録される見通しとなった。6月15日からカタールで開かれる世界遺産登録委員会で登録が決まれば、国内では18件目の世界遺産となる。大変うれしいニュースだ。

26日未明にユネスコの諮問機関が「登録が適当」と勧告した効果は絶大、ニュースを知った沢山の観光客が製糸場を訪れたそうだ。入場者は4972人、過去最高だった3446人を大幅に更新した。製糸場周辺の道路整備や環境整備に市は頭を痛めているようだ。

製糸場と聞いてすぐに思い出したのは、1968年に発表された山本茂美のノンフィクション「あ々野麦峠」。同名で映画化もされている。

明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、飛騨の女性(多くは10代の少女)が女工として働くためにこの峠を越えた。「製糸業というと『ああ野麦峠』に代表される『女工哀史』の世界」。明治から大正にかけての民間紡績会社では、粗末な食事と低賃金で過酷な長時間労働を強いられていた。だが、富岡製糸は全く違う。とても先進的で労働条件にも配慮されていた。『女工哀史』とは無縁と地元の人は言う。

本当ですか!世界遺産に登録されても過去の歴史を振り返る謙虚さはいつまでも求められます。

富士山が「信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録されたのは2013年6月22日、登録にあたり景観などについて幾つかの問題が指摘されていた。先に登録された屋久島では登山者が大幅に増え“し尿処理”が課題となっている。登録された世界遺産それぞれに課題があるようだ。

世界遺産に登録されると景観や環境の保全が義務づけられ、さらに、保全状況を6年ごとに報告し、世界遺産委員会での再審査を受ける必要がある。日本の世界遺産、指摘された課題の解消はもちろん、景観や環境の保全を怠ることのないよう、ますますの努力を望みたい。


 

 


公園の草取り会話が弾む

2014-04-27 15:20:50 | 日記

午前5時、ホトトギスの鳴声で目がさめた。外はすっかり明るくなっている。うぐいすの声も聞こえてくる。

今朝は町内自治会の早朝草取り。団地内にある南と北の2つの公園の掃除を団地の住人総出で行う日。掃除が終わると年に1度の防災訓練。

昭和48年オイルショックの年に我が家の建つ団地は造成された。工事を行ったのは当時勤めていた会社の子会社。

そのため宅地の分譲は社員を対象に抽選が行われ、最終的にその土地を購入したのは同じ会社に勤める同僚かOBばかりとなった。

造成された土地は約100戸分、またたくまに家が建てられ新しいコミュニティーが誕生した。その雰囲気はまさに職場の延長だった。

その後の40年は少子高齢化の時代。入居時は現役バリバリだった団地の方々にも高齢化の波が押し寄せ、団地の雰囲気を激変させた。何人かの高齢となられた方が団地を去り、変わって若い部外の方が入ってきた。空家もいくぶん増えつつある。

そのため触れ合いの機会がだんだんと少なくなってきた。それにあわせるかのように会話の機会も少なくなっている。

午前6時30分草取りが開始された。青空の見えるよい天気。気分は爽快。

草取りは年に3度行うと決めてあるが、日ごろ顔を合わす機会の少ない団地の方々が集まる絶好の機会。だが参加される方はほとんどが高齢の方ばかり。若い方はあまり出たがらないようだ。

みんながわき目も振らず草取りに夢中になっていたとき、「おたがいよぼよぼになったな」とふたりのお年寄りが大きな声で話している。多分、作業しているみんなに聞こえたことだろう。愉快な方たちとにっこりほほ笑んだ方もいらっしゃるのでは、とたんにその場の雰囲気が明るくなった。

早朝草取りは団地の住人の数少ない触れ合いの場、日ごろ不足がちとなる会話を補うことのできる大切な場所。

これからも大切に「元気で参加できるよう」健康に留意しなければと、改めて思った草取りだった。

 

 

 

 


川内原発再稼働に反対の声を

2014-04-26 16:49:41 | 日記

「原発0」のうねりが、永田町や国会周辺を取り囲んだのはつい最近。

だが、時の流れとともに風化したのだろうか。原発再稼動の強い声に押され「原発0」の声はだんだんと小さくなってきており衰退の感はいなめない。

安倍政権はエネルギー基本法の中で原発をベースロード電源と位置付け、基本計画では、原子力規制委員会で規制基準に適合すると認められた場合には、その判断を尊重し原発の再稼働を進める、と再稼働ありきの姿勢を明確にされた。

それを受けてのことか原子力規制委員会は3月13日、鹿児島の川内原発1・2号機が、新しい規制基準に適合しているかについて優先的に審査することを決めた。早ければ今夏にも再稼働になるのではという。

娘が原発の町、川内に転勤になって約1月。川内市の職場いるときに原発事故が起きたとすればどうなるのだろうかと。人ごとではなく心配でならない。新幹線は多分停止するだろう。交通機関も途絶、避難誘導は大丈夫だろうか。避難場所はどこに。想像するだけでも怖くなる。戸惑う娘の姿がしばし目に浮かぶ。

福島第一原発の事故後、国は原発から30キロの地域防災計画の見直しを義務付けており、住民の避難先や移動方法などを詳細に定めた避難計画の策定を市町村に求めている。だが、この避難計画の有無は、原子力規制委員会による審査対象には含まれていない。

先月16日、脱原発を訴える市民集会が鹿児島市で約6千人が参加して開かれた。鹿児島県内での反原発集会としては過去最大規模だという。地元川内では再稼働反対を訴える集会が連日のように開かれている。

4月24日、鹿児島県は川内市で事故を想定した「川内原発で鹿児島県と周辺市町村による避難計画」の説明会を開いた。優先的に審査することが決まってから県が住民の声を聞く始めての機会。計画には渋滞予測などが反映されておらず、住民からは懸念を示す声が噴出し、議論はかみ合わなかったという。

これまでは「原発0も再稼働」も人ごとのように思っていた自分。娘が転勤し川内が身近になったことから「原発0」を真剣こ考えるなんて、なんと身勝手。自分が恥ずかしくなった。

原発事故はあり得ないという安全神話は福島原発事故でもろくも崩れた。あってはならないがまたもし事故が起きたと仮定すればその被害は底知れない。「原発0・再稼働反対」の声を、ささやかであっても上げなければならない。

先に行われた東京都知事選の前に「原発反対」を明確にされた2人の元首相。マスコミに「ロートルの迷いごと」とまで言われ意気消沈なさっておられるのではと心配したが、先日のニュース、原発廃止を目的とした社会法人を設立されるとあった。

力にはなれないと思いますが、力一杯応援させていただきます。