今年は、一言でいうと素晴らしい年でした。
昨年は最悪の年でした。傘寿と金婚式を同時に迎え、記念のお祝い行事を計画したのですが、当日は持病の十二指腸潰瘍で下血し、救急車で緊急入院。出血多量で生死の境をさまよいました。100歳を超えた伯母が1月に、義父が5月、ただ一人の兄が12月に亡くなりました。
それに引き換え、今年は素晴らしい思い出と新しい友が沢山できた年です。
2月に娘夫婦と大学生の孫が、昨年できなかった金婚式と傘寿のお祝いを、遅くなりましたと断りながら京都で開いてくれました。新幹線に乗るのは久しぶりのこと。何度も訪れたことのある京都ですが、嬉しさが込み上げ、これまでとは違った京都を体験することができました。
昭和26年に中学を卒業すると同時に、モールス音響通信の訓練を受けるため電気通信省(のちの電電公社)熊本電気通信学園に入学しました。全寮制で研修期間は9か月。九州各地からの入学生は170人。食料難の時代でした。お腹を空かせながらトン・ツーの習得に、寝る時間も惜しみながら、毎日頭を悩ましたものです。
モールス信号は「トン」と「ツー」の短点と長点を組み合わせた通信信号です。危険をつげるSOSは「トン、トン、トン、ツー、ツー、ツー、トン、トン、トン」と叩きます。
いつのころからか2年ごとに九州各地で同窓会が開かれています。学園を卒業してから65年、傘寿を迎える今年の同窓会の当番は熊本でした。みんなの年を考えると最後の同窓会となるかもしれません。その責任の重さに何度か固辞したのですが、はからずも世話役を務める羽目となってしまいました。
開催する日を9月8日と決め、6月下旬に案内状を、すでに亡くなられた方と連絡の取れない方を除いて107人の方に発送しました。出席と連絡いただいた方は41名ですが、何せ同窓生はみなご高齢。開催までの短い間に4人の方が亡くなられました。最終的に出席されたのは35人。東京、埼玉、神奈川など遠くからも出席されました。
会は、物故者の黙祷にはじまり、自己紹介、近況報告、学園時代の思い出話など、熊本の美酒を肴に素晴らしい夜を過ごすことができました。懐かしの寮歌も一同声をそろえて歌いました。
最後となった傘寿の同窓会の世話人として十分なお世話ができたとはいえないにしても、世話人として精いっぱいやり遂げることができたと大満足。終わってみると、同窓会をお世話することで、今年最高の贈り物をいただくことができたと感謝の念で一杯でした。
その後、出席された方々から、絵手紙やはがき、または電話やメールで「お世話になりました」「ありがとう」と沢山のお礼の言葉をいただきました。世話人だった仲間からも慰労の会を開いていただきました。長い間疎遠となっていた方々との友情も復活しました。新しい友の誕生です。欠席された方々からのお礼の手紙もいただきました。感謝、感謝です。
余談になりますが、卒業生のほとんどが電電公社の職員となりサラリーマン生活を無事に終えることとなりましたが、それに飽き足らず別の世界に進み活躍されている同窓生がいたことを知りました。また、欠かさず勉強されている方をこの同窓会で知りました。
大塚和徳さん。1か月前に出版された「コースが語る世界のゴルフ史」「世界ゴルフ見聞録」などの著者です。その人なりをインターネットで探すと「大塚和徳 (おおつか かずのり)、 ゴルフ歴史家。1934年、大分県生まれ、東京大学経済学部卒業後、第一銀行を経て帝人に入社 。フルブライト留学生としてベンシルバニア大学ウォートンスクールで学びMBA取得。」とあります。あれあれ学園のことは何も記述がないぞとびっくりです。同窓会名簿の近況欄に「電気通信学園卒業後、福岡電報局勤務となったが、しばらくして針路を大きく変更、1年遅れで大分日田高校に入り、約30年間は縁があってゴルフ関係の仕事を続けています」とあります。世界のベストコース450以上でプレーしているそうです。
大野徹さん。学園卒業後長崎国際電報局に配属され、その後、大阪外国語大学ビルマ語学科を卒業されました。大阪外国語大学教授として35年間勤められ、27年春の叙勲では「瑞宝中授章」を授与されたそうです。主な著書に『知られざるビルマ』『ビルマの仏塔』ほかにも多数の著書があります。
増田博治さん。同窓会が終わってからブログを始められたそうです。「モールス音響機」で検索すると、明治の初めから100年間、わが国の通信インフラだったモールス音響通信(有線・無線) の記録が詳しく書かれていました。限りなき研究の成果でしょう。投稿されるたびに、興味津々、読ませていただいています。
最後になりましたが、みなさま良いお正月をお迎えください。