『カズイスチカ』という短編の主人公、若い大学出の医師・花房は、
市井の開業医である父の仕事を手伝ううちに感じ始める。
「自分が遠い向こうに或物を望んで、
目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、
父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注している」と。
「カズイスチカ」とは臨床報告といった意味らしいが、
鴎外の言葉で言い換えれば、「日の要求」であろう。
生きているということは、この世に生 . . . 本文を読む
大正五年(1916)四月、五十四歳になる鴎外は、
陸軍軍医総監、陸軍省医務局長等の官職を退いている。
同年は、十二月に漱石が没する年でもあるが、
以後鴎外は、『高瀬舟』や『寒山拾得』他、
『渋江抽斎』や『伊沢蘭軒』という史伝の執筆に専念する。
この時期、退職後の心境を語ったとされる書き物に、
『空車』(むなぐるま)という短い随筆がある。
空車とは、馬に引かせて街中を往く大きな荷車であるが、
文字 . . . 本文を読む
高瀬舟は、京都の高瀬川を上下する小舟であり、
徳川時代、遠島される罪人を運び、大阪に廻したそうである。
夏の暮れ方、夜舟は、静かな川面の水を掻き分けひっそり進む。
小舟に揺られているのは、町奉行同心・羽田庄兵衛と
住所不定で三十歳になる、蒼白く痩せた罪人の喜助である。
庄兵衛は、大勢の罪人の護送役を務めてきた役人である。
喜助が弟殺しの科にある罪人であることは知っていたが、
黙って月を仰いでい . . . 本文を読む
鴎外は人間を、価値システムの中を回転し、
かつ心理的細部のメカニズムで動くものとして、
その機微を捉えつつ、構造的把握で眺めているようにみえる。
また、「生」の苦悩を主題とした夏目漱石に比べると、
鴎外の文学は、「死」を巡るような対照を成している。
『阿部一族』、『興津弥五右衛門の遺書』、『堺事件』において、
彼が武士の殉死に見るものは、
自死者が代償を求める程度・意思に差異はあるものの、
命と . . . 本文を読む
『雁』という作品は、不思議な読み物である。
筋が単純なので読み易いが、一方でかなり意図的に、
寓意だか象徴が散りばめられているようにも読める。
深読みすれば、
人生とは何なのか、「偶然と必然」とは何なのか等、
そんな形而上の問いに、軽い物語作品で応えているかのようでもある。
作者は、何故、この作品に「雁」と題名をつけたのだろうか?
鳥の雁が作中に登場するのは、
池に居る雁に、遠くから投げた石が . . . 本文を読む
女には、「娼妓」か「母」の二つのタイプしかない。
『青年』の大村は、ワイニンゲルという厭世思想家の
女性観を引合いに出し、純一と問答している。
「なる程。そこで恋愛はどうなるのですか。
母の型の女を対象にしては恋愛の満足は出来ないでしょうし、
娼妓の型の女を対象にしたら、それは堕落ではないでしょうか。」
「そうです。
だから恋愛の希望を前途に持っているという君なんぞの為めには、
ワイニ . . . 本文を読む
半熟の柿の木に
風が吹くと
カサコソと葉っぱが鳴る。
暑がり屋の母親も
扇風機を仕舞い始めた。
私はどうやら風邪らしい。
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鴎外という人は、
天空を飛翔する鷹のような眼を持ちながらも、
己が地上の身の丈を、着実に生き抜いた人物である。
鴎外は壮語を以って吐き出した力で、
自身を高みに押し上げることがない。
「世界」に対して背後に身を置き、
それへと静かに肩をたたくような、隔てた親しさを持つ。
彼の見え過ぎる眼は、超越的でないことによる。
眼は、現実を縦に眺めるより、横に連なる流れとして受け止めている。
この流れに覚 . . . 本文を読む
鴎外の『余興』という小品は、同郷人の懇親会の席での話である。
内容は薄いが、鴎外の人品を窺わせる処があり、採り上げたい。
主人公の「私」は、余興に赤穂浪士の浪花節を聴かせられる。
これが、ひどくヘタクソで聴くに耐えない。
だが、先輩諸氏の手前、退席するわけにもいかない。
物語が終わるや「私」は「鎖を断たれた囚人の歓喜を以て」、
一同に打ち交じって拍手をする。
その後に、顔見知りの芸者が「私」に . . . 本文を読む
鴎外は、阿部弥一右衛門に
主体をもつ個人の姿を描いているようにもみえる。
それは、彼が君主から外され、武家社会という世間からも弾き出されて、
行き着いた最後の場所としてである。
彼の自刃は、反世間、反君主的であり、その死の意味は反措定的に、
彼自身にのみ帰属する処となるだけのものである。
君主・忠利が、弥一右衛門だけに何故、殉死を認めなかったのか。
鴎外は、その明確な理由を記さず、両者のエピソ . . . 本文を読む