いつの間にか、もう師走である。
最近、頭がボーッとしていて、地下鉄に乗っても慣れたルートで
乗り換え駅や出口を間違えたりする。
ブログの更新にも、意欲が湧かないのである。
昨日は、近所にある名ばかりの「自然公園」で午前中散歩をした。
真っ赤に紅葉したもみじが目に鮮やかで、綺麗だなと思った。
池では、でっかい白鳥が二羽、くっきりとした白さで浮かんでいた。
夕方はワード(中級)の講習会で訓練校に行 . . . 本文を読む
「未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。復員軍人は闇屋となれ。
堕落自体は悪いことにきまっているが、
モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。
表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、
血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。
(中略)
道義頽廃、混乱せよ、血を流し、毒にまみれよ。
まず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。」
. . . 本文を読む
かの戦争や敗戦を語る場合、
かの時代に生/死を生きた人の姿形に様々あるだろう。
前線の兵隊だけが、戦争をしていたというものでもない。
特攻隊の兵士でさえ、誰もが、強いられた戦争の中を、
生き抜けようとして死んで往ったのではなかろうか。
闇米を背負い、憲兵に叩かれ、それでも人は生きようとした。
昭和30年代生まれの私に、もちろん、その体験はない。
体験がないから語れないのでも、その資格がないのでも . . . 本文を読む
ふるさと。
人はこの言葉に懐かしみの情景を思い浮かべる。
だが、人間の「ふるさと」とは、何だろうか?
安吾のいう「ふるさと」も、戦争や破壊だのとのみ、
背中合わせに考えるべきものではないのだろう。
それは誰もが「直立二足歩行」を始めて以来、
自然と失われざるを得ない風景だったのだ。
だが時に、誰の平凡な日常にも、それへの隙間がフッと開くことがある。
それは、闇の中で見出され、光の中で見失われる . . . 本文を読む
もも、根源的にはから発している。
とはである。
「いやらしさ」のような安手のまがいモノ、
規制と馴れ合う共犯の遊戯ではない。
敢えて欲情を作り出し、それを望ませる慾望は、
文字が目配せするように、心を上から押し潰すものだ。
(人は慾に対して自由であり、慾を超えるように自由であるべきだ。)
とは、肚の底から昇り立ち、喉元に突きつけられる力だ。
口から吐くことで、「言葉」で汚すには気高すぎる。
そ . . . 本文を読む
「日本二千年の歴史を覆すこの戦争と敗北が
果して人間の歴史に何の関係があったであろうか」
作者は、物語りの流れをぶった斬るように独白する。
だが、この詠嘆には、作者の作品動機が込められている。
本来嘆くのなら、戦争を、焼け野原に行き着いた敗戦をでも
嘆くべき処で、安吾という作家は、自身が主人公を抑え、
原稿用紙の余白から顔を突き出し、時代を超えて詠嘆する。
詠嘆は現実離れした超然の姿ではな . . . 本文を読む
『白痴』の主人公・伊沢は、見聞きした町の風俗の有り様に、
これが、戦争で荒んだ人心というものか、と訝るが、
仕立屋は「このへんじゃ、先からこんなものでしたねえ」と
「哲学者のような面持で静かに」応じる。
伊沢の隣家には、
三十歳の「気違い」と白痴で年下の妻が住んでおり、
「気違い」は屋根の上で演説したり、
仕立屋との垣根を、我が物顔で越えて来ては、
家鴨に石をぶつけたり、豚を突っつき廻している。 . . . 本文を読む
戦後、焼け跡に拡がる混沌の中で、
坂口安吾は、昭和21年『新潮』6月号に『白痴』を発表した。
この作品は、焼け野原からの復興を目指す敗戦直後の現在から、
敗戦直前の軍国日本、廃墟と化しつつある日本に想いを交差させながらも、
誰が何に負けようが相も変らぬ、生活の路地裏噺から筆が起こされている。
「その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、
まったく、住む建物も各々の食事も殆ど変っていやし . . . 本文を読む
人は日々、生の荷車を引く。
荷の中身やその価値が問題なのではない。
車に付いている社名やら、
引く者の肩書きなど、尚更問題ではない。
無名な人間が引くカラッポの荷車であれ、
無心に懸命に引いている姿だけが、真実なのである。
人生に、カラも荷も、否定も肯定も無い。
生きている、その手応えで常に満ちていれば、
余計に何かを求めようとする自分はないのだろう。
求めることが起こらず、常に足りている心 . . . 本文を読む