脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

鴎外試論(4)

2007年10月15日 19時36分45秒 | 読書・鑑賞雑感
鴎外の『余興』という小品は、同郷人の懇親会の席での話である。
内容は薄いが、鴎外の人品を窺わせる処があり、採り上げたい。

主人公の「私」は、余興に赤穂浪士の浪花節を聴かせられる。
これが、ひどくヘタクソで聴くに耐えない。
だが、先輩諸氏の手前、退席するわけにもいかない。
物語が終わるや「私」は「鎖を断たれた囚人の歓喜を以て」、
一同に打ち交じって拍手をする。

その後に、顔見知りの芸者が「私」に酌をしに来るが、
「面白かったでしょう」
と皮肉な思わせ振りを示され、女が傾ける徳利に、
「私」は、反射的に猪口の手を引っ込めてしまう。
が、一瞬の間を置いて、一旦引いた手を又、女に差し出す。
この一瞬の戸惑いを、「私」は次のように内省する。


「まあ、己はなんと云う未練な、いく地のない人間だろう。
 今己と相対しているのは何者だ。
 あの白粉の仮面の背後に潜む小さな霊が、
 己を浪花節の愛好者だと思ったのがどうしたと云うのだ。

 そう思うなら、そう思わせて置くが好いではないか。
 試みに反対の場合を思ってみろ。
 この霊が己を三味線の調子のわかる人間だと思ってくれたら、
 それが己の喜ぶべき事だろうか。
 己の栄光だろうか。
 
 己はその栄光を担ってどうする。
 それがなんになる。
 己の感情は己の感情である。
 己の思想も己の思想である。

 天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、
 己はそれに安んじなくてはならない。
 それに安んじて恬然としていなくてはならない。」
       (森鴎外『余興』 改行は随時筆者。)


『余興』では「私」と「己」とが使い分けられている。
前者は、酌婦から手を引いた「私」であり、
後者は、引いた手を打ち消させた内省的な「己」である。

『阿部一族』の弥一右衛門も「おれはおれだ。……
主の気に入らぬからといって、立場がなくなるはずがない。」と言い切るが、
自分に篭って、ニヒルに自殺の毒杯をあおってしまう。
『余興』の己は、恬然として自らを突き放つことで、
ニヒリズムを解毒して「私」を中和し、ある「己」を堅持する。

鴎外の小説において「私」とは、秩序という規則性の中で、
諸々の価値を巡って動くからくりの駒である。
自分も他者も、この「世界」でその各自の「私」を生きている。

ニヒリズムならば、「世界」に毒を以って否定し、
超越的な「自己」であろうとする権力意志が表出するが、
鴎外において「己」とは、この「私」の背後に構えながら、
「私」を措定したまま、「私」に追いついては重なり合おうとする。

生きる世界と相通じようと、背後の「己」が表面の現実の「私」に
接近して重なり合う決心が、鴎外のいう「諦念」であろうか。(続)

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