「木下黄太のブログ」 ジャーナリストで著述家、木下黄太のブログ。

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「パニック」を言い訳にして、情報を隠してはいけない。

2011-04-04 15:51:18 | 福島第一原発と放射能

とにかく、このような事態で情報の開示を、政府機関が全て行うことは、最も大切なことです。ニュースの外周でようやくこうしたニュースが取り扱われだしたことは歓迎したいと思います(全く中心ではありませんが)。つまり、いろんなデータの中で、危険を認識させるデータを積極的に出そうとはしていないことは間違いないと思ってしまいます。これが、官邸から一元的な指示の下で、機械的になされているのであれば、大問題ですし、そうでなくて各々が勝手に自粛しているとしたならば(その可能性の方が高いと考えます)、危険と言うことについてきちんと思考しない人々が、政府機関の中に多く存在することに許せない思いばかりです。何度も言いますが、適正に情報を提供しないと、「パニック」は起こりやすいのです。「パニック」を言い訳にして、情報開示を怠ってはなりません。知りうる限りの情報で、きちんとしたものは、公にするべきです。放射性物質の拡散についての情報は、人々が最も知りたい情報です。なぜ自国のデータでなく、ヨーロッパの気象庁のデータで判断しなければならないのか、僕には理解できません。ドイツ以外にもオーストリアや ノルウェイー気象研究所でも拡散予測は出ています。もちろん予測ですから実際とは異なりますが、あすから数日は、風向きにより、西日本まで拡散する可能性があるようです。ただ、現在の放射性物質の放出は減少傾向ですから、異変が起きない限り、遠距離になれば拡散しますので、神経質になる話ではないと思います。もちろん、大規模な水蒸気爆発など、異変が起きた場合は違いますが。ドイツのページはリンクを出しておきます。なぜ外国の気象庁データを参照せねばならないのか、極めて微妙な話ではありますが。

http://www.dwd.de/
ドイツ気象庁 (+8h日本時間) 
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日本で公表されない気象庁の放射性物質拡散予測(読売新聞) - goo ニュース

2011年4月4日(月)14:30

 東京電力福島第一原子力発電所の事故で、気象庁が同原発から出た放射性物質の拡散予測を連日行っているにもかかわらず、政府が公開していないことが4日、明らかになった。

 ドイツやノルウェーなど欧州の一部の国の気象機関は日本の気象庁などの観測データに基づいて独自に予測し、放射性物質が拡散する様子を連日、天気予報サイトで公開している。日本政府が公開しないことについて内外の専門家からは批判が上がっており、政府の原発事故に関する情報開示の在り方が改めて問われている。

 気象庁の予測は、国際原子力機関(IAEA)の要請に基づくもの。国境を越える放射性物質汚染が心配されるときに、各国の気象機関が協力して拡散予測を行う。

 同庁では、東日本大震災当日の3月11日から毎日1~2回、拡散予測を計算している。具体的には、IAEAから送られてきた放射性物質の放出開始時間や継続期間、どれくらいの高さまで上ったかを、風向きや天候など同庁の観測データを加えた上で、スーパーコンピューターに入力し、放射性物質の飛ぶ方向や広がりを予測している。

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国 放射性物質の予測公表せず

NHK  4月4日 4時15分 

福島第一原子力発電所の事故で、国は、爆発が起きた翌日の先月16日、原発の北西にある福島県飯舘村などに放射性物質が多く流れると予測したコンピューターシミュレーションの報告を受けましたが、「データが正確でない」として公表を見送っていました。こうした予測データの公表の在り方を巡ってはさまざまな意見があり、今後検討の対象になりそうです。

この予測は、先月14日から15日にかけて、福島第一原発で爆発などが相次いだことを受け、国の委託を受けた分析機関が翌日の16日に「SPEEDI」というコンピューターシステムを使い、計算されました。このシステムは、原子炉の温度や圧力などさまざまなデータを基に、原発から放出された放射性物質の量を見積もり、気象データなどから放射性物質の広がりを予測するものです。分析機関では、震災で原子炉のデータが十分に得られないため、その時点で公表されているデータなどを基に、放射性物質の放出量を仮定し、15日の午前0時から24時間にわたって放出されたと想定しました。その結果、放射性物質は南西の方向に加えて飯舘村など北西の方向にも帯状に流れ、こうした地域では屋外で24時間過ごした場合に、乳幼児が受ける甲状腺の内部被ばくの量が人体に影響が出る可能性があるとされる100ミリシーベルトを超える所があるとしていました。SPEEDIは、原子力事故が起きた際に放射性物質の広がりを予測し、政府が避難や屋内退避の指示などを決める際の判断材料にするために作られたものですが、この予測は公表が見送られました。これについて国の原子力安全委員会は「その時点では、放射性物質が放出された場所や量などが特定できておらず、データが正確ではないため公表しなかった」としています。一方、被ばく医療に詳しい長崎大学の長瀧重信名誉教授は「国は、どれぐらいの被ばくが予想され、どれぐらいの危険があるかをもっと公表し、住民と共に避難などの対策を決めるべきだ」と話すなど、今回のような予測データの公表の在り方を巡ってはさまざまな意見があり、今後検討の対象になりそうです。

 


「思想としての反原子力」を考えてみる(まだ序の口)。

2011-04-04 02:14:35 | 福島第一原発と放射能

 先ほど孫正義氏や元原子力技術者らの対談がネット上で流れていましたが、基本的な感覚は僕の書いている内容と似ているなあと思いました。孫氏はこの事態で、「言うべき人がいないようなこの社会はおかしくなる」と述べて、現在の危険を適切に伝える人が必要であるとしきりに述べていました。避難圏に対しても、非常に感覚が似ていて、「何故大きく構えないのか」「自主避難は政府が決断をしないのはおかしい」という主張をなされていました。彼は個人として100億円を寄付するそうですし、人としての判断が、適格だなあと僕は思います。原子炉に関しての見立ても現在の情勢がやや落ち着いているものの、今後の展開は予断を許さないと言う点でも同じだと思います。こうした内容を恐らく今のテレビの中で放送することはできないだろうと話していましたが、僕も全く同意します。パニックを起こさないための「思考停止」である今のテレビは、どこの局でも、ここまで放送するのは無理でしょう。自分にも、危険があるということを、そのまま見ることのできる人は、特に立場のある人々には、ほぼいないんだなあという現実を毎日かみ締めながら、生きている僕にとっては、もうマスメディアに対しては、あきらめの心境がつよいです。その意味では、孫氏がやっていることは、現況では無条件で賛同したいと思います。

 このネットの放送の中で、原子炉についての見立てが出ていたのと同じように、午前中に細野補佐官も「若干の落ち着きを取り戻している」というワードを使っていました。僕は、メーカーで、数年、福島第一原発を担当していた技術者のある友人がいるのですが、この友人と「若干の落ち着き」をどういうふうに考えるのか話しました(本人は、有名な専門家ではないですが、この福島第一原発に関しての仕事を実際にやっていて、しかも極めて優秀な人物。彼が僕の数少ない友人であることは、僕が自分の見立てを考えていく上で大きな力になっています。推進派の専門家よりも実際の場所も実務も知っていて、本音で喋る人が身近に偶然にもいる事が、今回の僕の判断に手助けとなっています)。彼が言うには「木下さあ、悪化する坂の流れとか、速さは変わっていないんだよ。突然早く転がり落ちているわけではないけど、その速さは変わらないまま落ちているだけだから。速さが数日変わらないことは、確かに若干の落ち着きとか小康状態ともいえるけれども、事態が正常化の方向に向けて好転しているとか、坂の流れが止まったとか言うレベルの話ではないよ。そのままの速度で落ちているだけだから。早まっていないだけで。落ちることには変わんないし、落ちた結果がどうなるのかは、おきてみないと分からないのは前から言っている通りだろ。安心なんて話とは、ほど遠いんだよ。その瞬間の微分がどうであっても、積分したらどうなるのかなんだから」とも。要は、「お前が気を抜くな。事態の危険度に変化はない」ということです。やはり、シビアな話です。

 後は、午後の官房長官会見でまず甲状腺ガンのスクリーニングで異常がないと言う報告がありました。異常がないのは喜ばしいですが、そういうスクリーニングをする必要がある環境に子どもを置き続けることに、私はものすごく異議申し立てをいたします。子どもは僕らの未来そのものです。極論言うと、大人がガンになろうがどうしようが、最後は自己判断ができたのか、できていないかだけです。自分が悪いのです。危険に気づかないのだから。しかし、子どもは違います。スクリーニングが必要な場所に子ども置き続ける必要性は本質的にはありません。今回の震災でも多くの子どもたちが亡くなっています。これ以上、子どもたちに苛酷な責めを負わせてよいと僕は全くおもえません。このため、子どもだけでも避難地域の拡大をするべきです(全体の避難が不可能なら、究極的には、戦前の疎開と言う概念でも良いと思います。一定線量以上の地域の子どもに対策を急ぐべきです)。会見でも「安全性の観点から、大気中の放射性物質や土壌の放射性物質などを総合的に分析し、分析を踏まえて精査する」という言い方で、避難地域について何か考えていることを匂わせる発言がありました。もし何か考えているのなら、少しはうれしく思います。僕自身は、菅直人氏は個人的には嫌いですが、いろんないきさつもあって、親しい官邸のスタッフにペーパーは複数渡しています。本人が読んでもいると聞いています。読んでも改善される保証は皆無ですが、作業は続けるしかありません。ドン・キホーテの良いところはあきらめないということです。あきらめずに、やりつづけることが、僕という馬鹿の良いところだと自分で勝手に納得しています。

枝野官房長官の記者会見全文〈3日午後〉(朝日新聞) - goo ニュース

 ところで、このところ、「思想としての反原子力」を考えています。僕はどんなことがあっても、日本国内の原子力発電所を最終的には、全て止めなければいけないと、現在は確信しています。このことは、ほとんどの皆さんには「木下はいよいよ頭がおかしい」と言われる話だと思います。僕は元々、原子力に好意をもってはいませんし、東海村の取材でその危険は認識していたつもりでしたが、いわゆる「反原発」の人では僕はありませんでした。脱原発に社会を転換していかなければならないと思ってはいたのですが、そこまで、自分としての確信をもってジャーナリストとして、動いていて居た訳でもないですし、エネルギーと言う問題について、深く思考できていたとは言えないと思います。これは、僕が最も反省すべきことで、東海村の最前線を長期取材しながら、そこを深く入り込まなかった自分の不明を詫びるしかないと思っています。原子力自体、地元に大量のお金をばら撒くことで、国と電力会社の共犯関係で長らく続いてきた不透明なものです。この構造は、昔から、知ってはいたものですから、今回のあいまいな感じでの事態の推移は、長年の「原発村」とでも言うべき特殊な特権社会であることが大きく影響していることなども、以前からきちんと伝える努力をすべきだったと、これもまた反省しています。

 勿論、この事態を目の当たりにして、考え方はさらに大きく転換しています。その上で、今回、事態が起きたときにいろいろな専門家や知識人が、「システムに問題があるのなら、より安全度をあげたシステムを構築して対応すべきだ」という論調を張っているのを聞いて、「???」という思いが強くなっています。システムはある想定で必ず作られます。その想定の中でしか、システムは対応できません。システムは本質的にそういうものです。原子力発電所はその中で、もっとも巨大なシステムの一つと言えます。想定はもちろんなされますが、その想定の安全度をいくらあげても、当然ながら想定と違うことは遅かれ早かれやってきます。何を言っているのかと言うと、全てのおこりうることを想定しきることなど、どのような科学者でも絶対に不可能なことであって、そうなるといずれは、想定外の事柄がおきます。他の巨大システム、例えば飛行機なら乗客乗員が犠牲になることがおきえます。しかしながら、影響はそこでとまります。こうなると、後は利便性と確率を天秤に掛けるかどうかであって、許容することができるかもしれません(飛行機事故のご遺族には許せない発言だと思います。申し訳ありません)。しかしながら、普通に考えて、原子力発電所はそのレベルにはとどまりません。僕らは今まで、チェルノブイリという、共産主義国家で発生当時実態がベールに包まれていた大事故しか、きちんとした経験はありませんでした。そのため、認識が不十分だったと思います。チェルノブイリのことを的確に認識していれば、原子力発電所と言う巨大システムが、何らかの想定外の出来事で、それが天災であれ、ヒューマンエラーであれ、おきたときから周りに与える影響は甚大なものにならざるをえいということです。この被害の甚大さとシステムにおける想定と言うことの本質的な無意味さを重ね合わせると、原子力発電と言うものを継続して続けていくことが、国土の狭いわが国では不可能だということなのです。人間が放射能に勝てるなら、原子力発電所を続けても良いと思います。でも、人間は放射能には勝てません。勝てる相手ではありません。こういう危険をそのまま、放置しておくべきではないと僕は思います。このため、どうしたら全国の原子力発電所を全て廃止できるのか、その代わりとなる新たなエネルギーや新たな社会構造を何らかの形で新しく提案できるのかが、僕の今後の重要な仕事になるかもしれないと思って考え続けています。さきほどのネット放送でも気になったのですが、孫さん自身も安全度をさらに高めればなんとからないのかという質問をしていました。「安全度を高めれば、万が一を想定すれば」とどんな人でも思うことなのでしょう。しかし、万が一の結果で被害が極めて甚大になる場合、この思考そのものが、意味をなさなくなる事を指摘だけはしておきたいと思います。僕の中で「思想としての反原子力」は、まだまだ煮詰めていかなければならない作業と感じています。引き続き、この点については考え続けたいと僕は思っています。