会見の内容がわかりましたが、どうやら、参与としていろんな意見を述べても、全く伝わっていないと言う状況があった事と、福島の子どもに二十ミリシーベルト被曝させる事を専門家として容認したととられることが、自分の学者生命を終わらせる危険を感じて辞任したと言う事です。国際的な観点での助言をする立場のご自身としても、容認されないのだと言う説明です。勿論国際的には当たり前の話ですし、このブログで、再三再四主張していた事が、内部被曝の専門家から批判も強かった小佐古氏でさえ、官房参与辞任会見で、自ら言い出した事は大きな話だと思います。官邸と東京電力、官僚、政治家、いろんなパワーバランスの中で、おきていることではありますが、ゴールデンウィークにはいった初日からこれは、大きな変化として認識してください。何事かがはじまっています。官邸がこの原発問題の対応に機能していないと僕が書き続けていたことがまずあきらかになりました。むしろ、これまで推進側に近い立ち位置の人物からの話は重要です。
小佐古敏荘東京大大学院教授(61)が内閣官房参与を辞任した官邸内部より僕に直接連絡がありました。福島第一原発の対応について意見が異なり、辞任したという情報だと言う事ですが、詳細は不明です。確認を進めていますし、詳細が入れば、また、更新します。
小佐古氏は原子力が専門で、福島第1原発の放射性物質が漏出している問題で、放射線の防護などの観点で助言をしていた人物です。ただ、どちらかというと、内部被曝の専門家の皆さんからは、否定的な評価を聞くことが多かった人物ですが、そういう立場の小佐古氏でさえ、もし菅政権の福島第一原発に対しての対応を批判して辞任したら大きな事です。引き続き、情報は更新します。
つくづく、メディアの報道なども見ていて不思議なのは、福島第一原発について、おきている問題を直視する感覚が一体、どのくらいあるのだろうかという疑問です。いや、メディアというのは本質的な話ではなくて、一般の人々がどこまで現在おきている原発問題を直視しているのか、いつも疑問に想っています。よく、この話の中で、二極化というキーワードを聞きます。大半の人は、「大丈夫、たいしたことがない」とそれ以上に深く考えません。政府やマスコミの報道も、強烈ではありませんから、ある程度、安心感が強まります。そこでなんとなく「思考停止」。たぶん大丈夫→まず大丈夫→絶対大丈夫として頭の中にまわり始めれば、事柄はおさまっていくような気になります。原発の状況が現実にどうであるのかと言う事とそこからおきてくることについて、あまり考えないようにしていく状態です。水も野菜も、いろんな事について、放射性物質が出ているのも、「基準」があって、その「基準」を超えていないし、超えたものは流通しないから大丈夫と思い込む状態になります。大丈夫ということが、ある種の絶対的なワードになって、それ以上は考える事を進めない人々が多数である事は間違いない状態です。例えば、福島県内の子供たちの事象などは、いくらなんでも問題となりうる事象はたくさん考えられるのですが、特に首都圏から見た場合に、福島の話は福島の話と割り切ってしまい、こっちとは関係がないからと考える事もなく終わってしまうような状態ではないのかということです。ここであるのは、自分のところに影響さえしなければ、他の地域で何が起きても、思考しないというスタイルです。勿論、これも海外報道などで、悲惨な事が起きてもなかなかこちらは実感の持てないことがよくあるのと、近い構造ではないのかとも見えるかも知れません。ただ、海外の場合は、起きている事象が直接影響してくる可能性はほとんどありませんが、今回、福島第一原発の事故については、東京から二百キロ離れているぐらいの場所で始まっている話です。その距離感覚から思考していくと、関わりがないと考えるほうが難しいと想うのですが、距離があるのだから関係がない、もしくは大丈夫と思い込む構図になってきます。勿論、マスメディアが、どちらかというと、「大丈夫」に近いワードで報道していくスタイルをとり続けます。それを見て、「やはり大丈夫」と思うようになります。
大丈夫だと思わないと、人間、なかなかやっていけないものなのはよくわかります。いろんな活動をしていく基盤が、身のまわりにあって、それは変わらない日常が続いていくのでなければ、本質的に人間は安定的な思考は難しいのではないのかと思います。しかも、放射能と言うのは、歩いていて目にする事ができません。そこに、どういうものがあるのか、肉眼で見えない以上、日常の世界の中で確認する術がありません。だから、大丈夫と考える思考を続けていくしかない形式がさらに強くなります。目に見えたものは、爆発事象が二回あるだけです。その爆発も、確かに大きな爆発に見える事象でしたが、本質的にそこが爆発している事が見る事ができるだけで、爆発事態の火災的な現象は、敷地周辺の事柄だろうと一見、思えるので、さらに思考は進まなくなります。大丈夫だと言う事の枠を出る事はありません。
ところが、もう片方には、危機を感じている人々がいます。こうした人々は、まず感覚的に顕著になっていく大きなきっかけはこの二回の爆発事象です。爆発を見たときに、普通の工場爆発ではなくて、原子力発電所の爆発であると言う事が分かります。原子力発電所の爆発が過去におきたことは、チェルノブイリしかありません。チェルノブイリの知識がある場合は勿論の事、ない人でも調べようと思えば調べられます。そうしたら、ものの数分で、被害半径が数百キロに及んでいる事が認識されます。高濃度の被曝地帯が、350キロ圏内ではかなり達している事も、すぐにわかります。インターネットという道具はこうした時にものすごく使えるツールです。このツールで確認できるおかげで、ある程度の情報は得られます。おきている爆発事象の意味を考える発想になると、高濃度の被曝エリアがどういうふうに、福島第一原発のまわりから広がってくるのか、実は皆目検討はつかない事もおおよそ推定がつきます。こうなると早く動く人々は、この段階から行動が始まります。退避すると言う選択です。ただし現在までのところ、こうしたスタイルの人は確実に少数です。少数であるがゆえに、「おかしい」と多数の人々より非難される構図になります。現実に起きていることをそのまま見ていて、起こり得る状況をいちはやく想定するだけで、その人間が「おかしい」とみなされる構図と言うのは、「大丈夫」と考える人々の中で、ある特定部分が特に主張する構図になります。それは、日常の仕組みを優先するほうが先決で、有事に起きている事象を直視しないというスタイルになります。ここはさらに排除の論理が貫徹されます。「危険など実態はない。あいつは過剰だ。」と。どこに核心があるのかというと、おきている事柄を直視して、通常とは異なる行動を取る人々をけん制して、そういう行動を取らせないようにすると言う思考スタイルです。これは、政府の感覚と近いものかもしれません。政府としては、危険を直視することで、行動を求める人々が増えた場合、いろんなことをしなければ、いけなくなります。官僚機構も菅総理個人も、何か判断して積極的に対応していく人ではありません。福島の子どもたちの問題を、文部科学大臣や文部科学省が、見て見ぬふりをするということに最も顕著にあらわれています。福島の子どもが危険だから、学童疎開をなどと言い出されるほうが、面倒くさいわけです。面倒くさいし、予算もないし、やったらやったで世間から「非難」されるリスクもありますから、背負い込みたくないという思考です。だったら、「大丈夫」と言い張ろうという構図です。その危険を指摘する人々が直視している現実を、直視させない方向に、事柄はどんどん進んでいきます。危機を感じて主張する人々との乖離はさらに広がります。
二極化の一方は、事態に直面して、危機を感じている人々ですが、危機を感じている事から、行動に移る人々よりも、行動に移らないが、内面で危機を感じている人々の方が実は多いだろうと思います。この人々の数が、いったいどのくらい増えているのかが、僕は気になっています。爆発事象をテレビで見ながらなんとなく「これはまずいことがおきているのかも」と、自問自答がスタートします。周りはあまりこの話題に触れなかったり、「大丈夫でしょ。テレビも言っていたし。」という感じで返されます。周りでこの話をできる人はほとんどいません。そのうち、水道水が基準値を超えた話が伝わります。少し調べれば、暫定的に高い基準を設けたものさえ、首都圏の水道で超えはじめている事が分かります。自衛策のため、ペットボトルの水を中心に飲むしか方法はありません。そうしているうちに、今度は関東の野菜に放射性物質が付着していて、これも基準値を超えたことが分かります。暫定的に高く設定した基準値をこえていくものです。この暫定基準も少し調べれば、かなり高いものであることもよく理解できます。こうすると、あの爆発事象が、飲み物や食べ物に影響が出ている事がよくわかります。でも、周りでそのことを口にする友人や近所の人はほとんどいません。自分で、悶々として調べ始めると、さらに危険な可能性が認識されます。そうすると不安が高まります。高まるけれども解消する方法はなかなかありません。そうすると、さらに不安は高まります。
こうした人々が実は前よりも段々と多くなっているのではないのかと僕は思います。一向に事態解決のメドが見えないからです。原発のみならず地震も怖いけど、このまま東京にいても何か守られない気がする。このまま居続ける事が不安だから、できるなら離れたい、離れるのを許されないだろうから、会社を辞めようと思います、でも本当はどうしたらよいのかわからない。そうした相談も聞くことがあります。勿論、そう思うことが常に正しいとは言いませんが、原発問題を直視していくと、危険があるという実態は認識するしかないことはよくわかります。直視していくと、不安が強くなり、どう行動するのか迷いが生じている状態の人々、これは理解できる展開です。実はこういう感覚の人々が、どのくらいいらっしゃるのかということが、この原発問題が、発電所でおきている事柄そのものの解決ではなくて、社会的に解決できるのかどうかというメルクマールになるかもしれないと僕は思っています。行動に移す人々よりも、事態を直視して、内面に不安を抱える人が、サイレントマジョリティーになるくらいの状況であれば、社会的に今後展開してくる事が違ってくる可能性があります。どう違ってくるのかは分かりませんが、ある閾値を越えた瞬間から、こうした人々の想いというのは、実はいろんな形で吹き上げてくる可能性は、実は低くないと言う事です。
僕は、まずこの原発問題に直視してもらいたいという思いからのスタートです。僕がいくら危機的な状況を説明しても、全然聞き入れない事態が数日も続いた後で、僕はそれならば、自分の身で示す事で、まわりに、おきている事柄を分からせる気持ちもあって、退避しました。今、現在も同じ考えです。レベル7といい、実は危険だったという政府発言などからも、僕の認識は妥当であったと今も思っていますし、申し訳ないですが、現在でも妥当であると思います。今も危険は継続しています。ここの認識のレベルを直面しないで「大丈夫」を繰り返す人は、無責任としか私は思いませんし、今に至るまで、電話などで正面きってこのことを問いただしてきてきちんと僕に向き合ってきた人間は、残念ながら一人もいません(文句を直接言って僕に電話してくる人がいないのです、僕の電話を知っている人、知りえる人は数多くいますが、電話をかけてくる感覚さえないようです)。被爆と言う問題をきちんと思考して、僕に直接反駁してきた人間が現実に皆無の中で、何を批判したいのか僕にはさっぱり理解できません。感情論は、本質では全くありませんので、僕には関係ないですし、馬鹿馬鹿しいです。
このブログは原発問題に直面してほしいという僕の思いを、対外的にもきちんと表明する事が当初の目的でしたが、さらに思わぬくらい多くの人々が、このブログを読んで、今回の原発問題に直面していただくきっかけの一つになっていることは、僕にとっても大変にありがたい事です。というか、僕を超えて、ブログの読者の間でもいろんなことが始まっています。こういう作業が、次にどういうことにつながるのか、今、何か明確に見えているわけではないのですが、早晩、何か見えてくる事もあるのではないのかと僕は思って走っています。どういう列車かはわかりませんが、何か乗っている列車があって、きちんとしたどこかに着こうとして、ひたすら走っている気がしています。僕は、自分の意志で動いている感覚よりも、なにものかに突き動かされて進んでいるような感覚さえ覚えています。とにかく、当初の目的である、原発問題を多数の人に直視してもらえるのかどうかということへのトライアルが続くのだと思っています。
ところで、このブログを通して、具体的にいろんな事をしたいとおっしゃる方が、複数いらっしゃいます。今そういう方たちの間で、お互いに連絡を取りあおうという動きもあります。まだ、何ができるのか具体的なイメージはありませんが、つながっていく事で突破できる話もいろいろあるのかもしれません。そういうご希望のある方は、メールにお名前と電話番号をいれて伝えてください。
また、いろんな方の情報提供で、取材がうまくできるケースもあります。情報はどこから、何が突破するのかわかりません。いち早い情報が、皆さんの今後に役立つ可能性もあります。この福島第一原発に絡んで、少しでも情報がある方は是非メールしてください。よろしくお願いします。