「木下黄太のブログ」 ジャーナリストで著述家、木下黄太のブログ。

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マスコミは政府の共犯として福島の子どもたちを見殺しにするのか

2011-04-26 00:17:22 | 福島第一原発と放射能

福島県内の公園や学校で暫定的な利用基準すら超えて、使用に制限がでているところがあります。学校の土の表面を削ることで堆積している放射性物質を減らすということも検討しているそうです。一時間しか使えないとか。もはや、何の意味があるのかわかりません。

福島県 5公園の放射線量、利用制限基準超える(朝日新聞) - goo ニュース

 当たり前のことばかり、書き続けていて、本当に、嫌になりますが、こんな表面上のニュースばかり、国の発表、公的な機関の発表として、そのまま伝えているマスメディア各社は、本当にどうかしています。福島の大半のエリアで、放射性物質の影響で、子どもを置くべき環境にないことは、日々あきらかになるだけなのです。議論の余地無く、わかりきっている話です。僕は、学童疎開しか手段はないとさらに思っています。結果が「直ちに」分からないからと言って、放置すべき問題ではありません。こんなことを強要する政府を信じろと言うほうが無理です。根幹は子どものことです。子どもをどうするのかは、全ての親にとって、最も重要な問題なのにも関わらず、ハッキリ言って虚偽の説明で、子どもを放射能の被害に合わせる政策を、菅直人首相以下、現在の政府がとりはじめているのは、間違いありません。勿論、毎時3.8マイクロシーベルトと言うありえないくらい、緩い暫定基準すらも、守れないほど、福島は逼迫した状態にあります。こうした状況は、問題である、政府に再考を求めるといった当たり前のことさえ、今の新聞・テレビは伝えません。いったい、なんのために新聞やテレビは存在をしているのか、私もよく知る記者の一人一人は、人間としての良心が少しでもないのか、上司や会社の意向を伺うことや、日常のノルマに追われることしかなくて、最低限すべきことが何かさえ判断する気もないのかと、一人で怒り続けています。何のために長年、いろんな記者たちと話をしていたのだろうかなと自分が情けなくなります。闘うべきときに、闘えないものは記者ではありません。君たちは何のために仕事をしているのですか。こういう形で具体的に、政府が、国民の多数に対して、明確にひどいことをしている時に、声の上げられない人間など、僕は誰一人として信用しません。僕を直接知っている記者(少なくとも数百人くらいはいると思います)に言いたいです。ここで、政府がしていることを、何かとめる努力をしなければ、あなた達、一人一人が、福島の子どもたちを傷つける共犯になります。そういう報道を強いている経営幹部は、さらに「悪」です。人間としての良心の欠片も無い行為を平然とさせているのだと言うことを、必ず僕は糾弾し続けますし、追い込みますから、覚悟をして置いてください。子どもを危険にさらすことの共犯に自分がいることを自覚しなさいと言うことです。

  新聞もテレビも、本来政府のために存在している訳ではありません。読んでくれる読者、視聴者のために存在しています。それは、まぎれもなくそうです。今まで、普通に安穏としていた時代であるならば、多少の問題点を伝え、中身を伝えれば、報道はおしまい。緩くやっていればよかったのかもしれません。しかし、この震災後、福島第一原発がおきてからは、事態は完全に戦後以来、はじめての大有事の状態です。戦争よりも、ある意味では、はるかに厳しい緊張感に置かれています。こうした状況の中で、「客観報道」や「マスコミの中立」など、ごまかしの文言は全く意味を為しません。まずいことはまずいと言わなければなりませんし、それを伝えることしか非常時にはありません。ある意味での「戦場」ということは、そうであって、ぎりぎりの局面を突破するため、させるために、あらん限りのことをしていくしか方法はありません。従来のメディアが曖昧に伝えて、なんとなく伝われば済むという様な手法は、この状況ではほとんど意味を為しません。きちんと、起きている問題を伝えて、適正に処置を求めることを明確に打ち出さないと、マスメディアはその存在意義を根幹から見失います。子どもの命を危険にさらす政策を政府が平然と行おうとしているときに、なぜ正面から止めるべきであると言わないのか、マスメディアの中で議論して闘う人間の姿が全く見えてこないのか、僕は理解できなく思います。ここで、声をあげない記者は記者ではありませんし、ジャーナリストという存在には程遠いものです。君たちは何のために、報道機関に就職して仕事をしているのですか?そんなに会社名の肩書きがあなたの人生にとって大事なのですか?こういうときに行動をおこさなかった事は致命傷になります。本来、メディアと政府は緊張関係にあるべきなのにそれは、まるで失われています。

 すいません、なぜか少しメディアのことを考えすぎて、気持ちを抑えられませんでした。本日から、政府主導で、東京電力やら保安院の会見がとりまとめてやられるそうです。NHKは識者の話として「これで政府がちゃんとやってくれていると国民は思う」というような、ごますり報道をしていましたが、これも、いい加減にしろと言いたいです。会見と言うのはいろんな形で行われるのが理想的ですし、メディアの人間なら現場に近い、福島での会見が最も情報が的確に出ていたことなど、完全に常識です。政府主導の名の下に、会見を取りまとめて行うことになると、さらなる断片情報を細かくわけあって、さらに整合性を最大価値に置く政府の立場から、微妙な情報がオミットされる可能性は高まりますし、というか最も大切な中身をお互いに精査して、公表を遅らす可能性も否定できない構図です。会見が、恐らくは、儀式にどんどんなっていって、実質的な意味がさらに失われることになりかねません。政府は今まで、隠蔽していたと言うよりも、情報の判断を緩くして、分析を甘くして、危険を伝えるのを遅らせてきただけです。それが、組織的に系統だって行うことが楽にできる構図になったというのが、本質だと思います。しかも、各マスコミが中継対応しない中で、ネット中継をしていたグループを排除しようとしていたことも明らかになっています。情報を伝えるルートを閉ざすのではなく、広げなければならないのに、この政府はいったい何をしたいのかと疑念をいだかない訳にはいきません。事の本質は遠ざかります。こんな状況を放置すべきでない事はあきらかです。ここまで、おかしな感じになると懸念することがたくさん出てきます。

  最も懸念されることは、爆発事象がおきた場合に政府はすぐに言うのだろうかという疑念です。特に深夜です。深夜はマスコミのカメラも捉えられないかも知れませんから、事がおきたことは発表されなければわかりません。半日後や朝まで放置される可能性が本当に否定できないのか、不安は消えません。こうした根幹的なことを政府が対応するのかどうかさえも、疑念を深めています。福島第一原発は、同じレベル7の事故とはいえ、チェルノブイリと異なり、すでに状況がつづいています。未だに危険な状況は継続しています。コントロールが全く出来ていない訳ではないかもしれませんが、原子炉建屋に人が入れない状態は続いています。制御できる見通しは、まだたっていません。こうした中で、爆発事象が次におきれば、高濃度の放射性物質が大量に飛び交う危険は、そのままです。東京も、危険は継続したままです。にもかかわらず、そういう場合の退避の判断基準となる、爆発情報さえ、時間の差無く、伝わるのかどうかも、疑いをもっています。危険がおきないだろうという認識ばかり振りかざして、きちんと国民に伝えるべきことを伝えると言う作業を、果たしてこの政府が行おうとしているのかどうかさえ、確信はもてません。こうした事も、マスコミが強い姿勢を政府に示せば、国民も大丈夫だろうと安心をすると思いますが、政府発表の追認を続けるスタイルばかりを新聞やテレビで見せつけられると、不安は高まるだけなのです。

 東京のお母さん方と電話でお話をして、よくわかったのは、「東京の不安の構造」です。皆さん、情報を取る能力の高い方から、不安をおもちになることはよくわかります。今回の事象が厳しいのは、情報をとれば安心できる構図になかなかならないことです。事象が解決しないために不安を消すことは、情報だけでは難しくなります。マスコミの報道を見て、政府の発表を聞けば、その不安感はさらに高まる構造にあります。悪循環です。福島子どもたちの事が他人事でなく、東京の子どもたちも同じ立場になりうる危険もはらんでいる事も、気づかれている方は多いです。東京の不安はいろんなことに出てきています。また、いつか書くつもりです。