俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

善き意志

2010-03-12 16:06:25 | Weblog
 善き意志は迷惑だ。本人は良かれと思っている分、余計にタチが悪い。善き意志は必ずしも良い結果をもたらさない。善き意志は時には全く独り善がりなものでさえあり得る。
 オウム真理教の狂信者がその典型だ。彼らは決して社会を転覆させようとしてテロに及んだ訳ではない。ゴータマ・シッダールタやイエス・キリストあるいは孔子の弟子のように人類の救済と信じて彼らは行動した。大きな違いは彼らが信じた教祖・麻原彰晃が聖人ではなく狂人だったということだけだ。
 もし善き意志を評価するならオウムの信者を断罪できない。彼らの意志は人類の救済という崇高な善き意志だったからだ。結果に注目して初めて彼らを否定できる。
 因みに私はオウムによる地下鉄サリン事件の実行犯を死刑とする判決には全く賛成できない。これは戦場で敵兵を殺した兵士を死刑にするようなものだ。罪は実行者ではなくそれを命じた教祖にある。但しこの教祖は明らかに狂人なので死刑にはできない。そうすると地下鉄サリン事件で死刑囚が出ないという不合理なことになるが、冷静に考えればこう結論せざるを得ない。

同情

2010-03-12 15:53:21 | Weblog
 同情を賞賛する人は、実は同情心の乏しい人ではないだろうか。
 同情は非常に有害な感情だ。生きることを辛くさせる。自分一人が生きることでさえ辛い人が他人の不幸にまで同情すればこの世は不幸だらけと感じられ、「生きるに値しない」とさえ結論付けるのではないだろうか。
 同情心の強い人は深く傷付く。そんな現実を否定したくなる。現実から逃避して理念の世界に生きたくなってしまう。一方、同情心の乏しい人は傷付くことも無く、同情している自分を誇りに思う。私はこんなに優しいと感じて優越感を持つ。こんな人が同情を高尚な感情として褒め称えているのではないだろうか。
 高く評価されるべきなのは同情ではなく「共歓」だろう。「蛇でも相手が痛がると知っているから咬む」(ニーチェ)のに対して、他者の歓びを感じ取ることは高度な精神性を必要とする。少なくとも蛇にはできないことだ。単純に頻度を比較するなら、歓びよりも苦痛のほうが遥かに多く、人生は苦痛に満ちている。それだけに自分の歓びだけではなく他人の歓びまで共歓できれば人生はずっと歓びに満ちたものとなり得る。

本性

2010-03-12 15:36:55 | Weblog
 人間に普遍的に備わっている性質を「本性」と呼ぶのは根本的に間違っている。それは人間の最も原始的な性質に過ぎない。
 人間の脳は多層構造になっている。一番奥には原始動物の脳があり、その上に爬虫類の脳、更に上に哺乳類の脳、そして一番上には人類の脳が乗っかっている。一番高尚な層に注目せず、一番低劣な部分を「本性」と呼んで一体どんな意味があるのだろうか。低次な脳ではなく高次な脳の最も優れた働きこそ「本性」の名に相応しい。
 優れた特性に注目せず愚劣な属性を根拠にして「人間なんて所詮こんなものだ」などとしたり顔で話す人は人間一般ではなく彼本人の愚劣性を証明しているに過ぎない。
 低レベルなものは普遍的に共有され得るが、高レベルなものは決して多くの人には共有されない独自のものとなる。例えば私は自分の「徳」を他者と共有しようとは思わない。私自身が磨き上げた私独自の徳でありこれこそが私の「本性」だ。
 人類に普遍的に共有される性質とされるものは最も低レベルなものに過ぎず、決して本質的な特性ではない。人類の素晴らしさはその可能性を最大限に生かした卓越した少数者によって体現され得る。最低レベルを本質と考えるのは誤りだ。