俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

味覚の違い

2010-03-16 15:59:50 | Weblog
 色盲を異状者ではなく少数者と捕らえようとしたことがある。多数者とは違った色を感じるということは決して異状ではなく単なる「少数者」とも考え得る。しかし赤と緑という全く波長の異なる色を識別できないということはやはり異状なのだと考えざるを得ない。
 味盲ならばたたの少数者と捕らえ得る。フェニルチオカルバミドという物質を苦いと感じないだけであり機能障害とは思えない。
 舌で感じる味覚は「甘味、塩味、酸味、苦味、旨味」の5つとされている。辛味は味覚ではなく痛覚に近く、人間以外の動物はこの味を好まない。
 旨味の知覚に関しては人種によって差があるようだ。味の素はアジアでは必需品だが欧米では余り高く評価されていない。これは食文化の差ではなく味覚そのものが違っていると思われる。 
 日本人が思っている以上にアジア人は味の素が好きだ。タイのレストランでテーブルの上に見慣れぬ調味料があり何かと思って舐めてみたら味の素だった。インドネシアでは「味の素に豚が使われている」と騒動になったのはそれだけ万人に広く使われているからだろう。欧米でアジア人以外に味の素が普及しないのは旨味を感じる人が少ないからだろう。

ぶれ

2010-03-16 15:46:37 | Weblog
 鳩山首相や麻生前首相のような立場の人がぶれるのは困りものだが、一般人の場合はぶれたほうが良い。朝令暮改でも構わない。
 英国の詩人のウィリアム・グレイクは「意見を変えない人は溜まり水のようなものだ。心が腐る」と言ったが、聞く耳を持たない頑固者は本当に迷惑この上無い。
 なぜ彼らは意見を変えないのだろうか。間違った考えなど捨てて正しい考えを採用したほうがずっと良い人生を送れるのにみすみすそのチャンスを放棄している。勿体ないことだ。
 私は言い負かされることが大好きなのでディベートや理論武装などを全く評価しない。必要なのはコミュニケーション力だ。なぜそう考えるのかを腹蔵無く話し合うことが重要であり、議論を通じてお互いが賢くなれる。
 但し、政治家の場合は違う。有権者は政治家の公約を信じて投票するのだから、公約を破ることは背任行為であり詐偽に等しい。民主党がマニフェストに掲げた国家公務員の人件費の2割削減は困難な目標でありかつやるべきことではないと思っている。しかしこれを公約した以上は責任がある。間違いと認めるならはっきり撤回すべきであり、有耶無耶にして放置することは許されない。増してやまやかしの法人化による人件費削減などは絶対に認められない。

非常識

2010-03-16 15:34:27 | Weblog
 私は非・常識的に生きようと心掛けている。
 この「非・常識的」という言葉も常識的な言葉ではない。「非常識」という言葉が間違った意味で使われて定着してしまっているから造語をせざるを得ない。
 通常「非常識」は「常識が無いこと」の意味で使われるが、これは「無常識」あるいは「不常識」と言うべきだろう。「非常識」は本来「常識を備えていながら敢えてそれに背くこと」を指すべきだ。このことは非情と無情や非人情と不人情の関係と同じだ。
 常識に従うことは安楽な生活を約束する。常識的に行動するなら少なくとも非難されることは無い。常識は便利なツールであり、私は常識を無視しようなどとは思わない。しかし常識にはしばしば嘘が混じっている。
 祟りとか呪いを信じる人は今では少数派だが昔はこれは常識だった。1960年には子供でさえ「安保反対」と言っていたが今では議論さえされない。多数者が信じている誤った思い込みに呑み込まれないためには、常識とされていることが本当に正しいかを一々検証する必要がある。これは面倒なことだし多くは徒労に終わる。それでも誕生から死までをベルトコンベヤーの上で暮らさないためには欠かせないことだ。